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第23話 森の奥の『黒い黄金』
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『帳簿記録:獣人の集落・翌朝。二日酔いの頭痛と、森の冷気。……だが、ここには宝の匂いがする』
◇
森の朝は、肌を刺すような冷気とともに始まった。
夜の魔力がまだ空気に残っているのか、乳白色の霧が地面のすぐ上をゆっくりと流れている。
宴の余韻が残る広場には、まだ焚き火の燻ぶる匂いと、獣人たちが食い散らかした骨の山が残っている。
俺は毛布をかぶり直し、ズキズキと痛むこめかみを押さえた。
昨晩、長老(ババ様)に注がれ続けた自家製果実酒――あれは酒というより、喉を焼く燃料だったに違いない。
「健二ー! 起きてー!」
ドスン、と腹の上に衝撃が走る。
呻き声を上げて目を開けると、朝露に濡れたビーグル犬の耳が目の前で揺れていた。
ミナだ。
昨夜あんなに肉を詰め込んでいたはずなのに、その瞳は朝日よりもギラギラと輝いている。
「……ミナ、頼むから静かにしてくれ。頭の中で鐘楼が鳴ってるんだ」
「何寝ぼけてるの! 約束したじゃん! 『森の奥のキラキラ』見に行くって!」
ミナが俺の腕を強引に引っ張り上げる。
隣で死体のように丸まっていたライルが、不機嫌そうに身じろぎした。
「……キラキラだぁ? どうせ綺麗な川原の石ころか何かだろ……。おいらはパスだ……」
「ダメ! ライルも行くの! ババ様が『商人の目利きが必要じゃ』って言ってたもん!」
結局、俺たちは眠い目をこすりながら、朝霧の立ち込める森の獣道を歩かされることになった。
足元の腐葉土は湿って柔らかく、歩くたびにカサカサと湿った音を立てる。
木々の隙間から差し込む光はまだ薄く、吐く息が白く染まった。
「……で、そのキラキラってのはどこにあるんだ?」
あくびを噛み殺しながら尋ねると、先頭を行くミナが鼻を空に向けた。
その鼻先が、ピクリと小さく動く。
(――あ、これは“本気の嗅ぎ方”だ)
付き合いが長くなって分かってきた。
彼女がこの動きをするときは、大抵ろくでもない、しかし確かな“宝物”が見つかる。
「もうすぐ! ほら、匂いがするでしょ? インクみたいな、ちょっとツンとする匂い!」
「インク?」
俺とライルは顔を見合わせる。
森の奥から漂ってくるのは、湿った土と苔の匂いだけだ。
だが、さらに進むと――確かに、鼻の奥を刺激する奇妙な金属臭が混じり始めた。
案内されたのは、集落からさらに奥に入った崖下の洞窟だった。
入り口は蔦に覆われ、そこだけ気温が何度か下がったように冷やりとしている。
ポタリ、ポタリ。
洞窟の奥から水滴が落ちる音が響き、硬質な反響を返してくる。
一歩踏み込むと、静寂と湿度が肌にまとわりつき、まるで森の心臓部に触れたような重圧を感じた。
長老のババ様が松明を掲げて待っていた。
「来たか。……ゴッズの奴らが、血眼になって欲しがっていたのがこれじゃ」
ババ様が松明を洞窟の壁に向ける。
揺らめく炎が照らし出したのは、壁一面に走る黒い鉱脈だった。
――いや、ただの黒ではない。
俺が松明に近づくと、黒い岩肌は光を反射するどころか、まるで飲み込むように揺らめいた。
逆に、散りばめられた銀色の粒子だけが、松明の火に呼応して『チリッ』と微かな静電気のような瞬きを返す。
触れる前から、指先がピリつくような魔力の奔流を感じる。
「……なんだこれ。ただの石炭じゃないな」
恐る恐る壁に触れると、指先がひんやりと濡れ、黒い粉がついた。
指先で擦り合わせると微かに発光し――同時に、皮膚がじん、と痺れるような感覚が走った。
「うおっ、静電気か!?」
俺が慌てて手を引っ込めると、横からライルが呆れたように言った。
「おいおい、素手で触るなよ。魔力酔いするぞ」
それまで気だるげだったライルの目が、一瞬で獲物を見つけた山猫のそれに変わった。
彼は懐から愛用のルーペと、鑑定用の厚手の革手袋を取り出し、手際よく装着する。
「……どれ、見せてみな」
手袋越しに慎重に鉱石に触れ、ルーペを覗き込む。
その手が、小刻みに震え始めた。
「嘘だろ……これ、『黒魔銀(くろまぎん)』だ! しかも、こんな純度が高いのは見たことがねぇ!」
「黒魔銀?」
「魔法触媒の最高級品だよ! 魔力の伝導率が異常に高いんだ。特に、これを粉末にして特殊な油で溶いたインクは……」
ライルがごくりと喉を鳴らし、興奮気味にまくし立てる。
「神聖文字の記述には、これがないと始まらねぇ。魔力の消費を半分に抑えて、術式の暴走を防ぐ……高位の魔術師にとっちゃ、命の次に大事な『安定剤』なんだよ!」
その言葉に、俺の頭の中でパズルのピースがカチリとハマった。
昨日の契約書。
『希少鉱石20キロ』という、不自然なノルマ。
そして、ゴッズが言っていた『策士』という言葉。
全ては、空飛ぶ巨大な研究機関――『アルカ浮遊魔導学院』への供給ルートを独占するためだったのか。
「ババ様……この石、ゴッズにはいくらで売っていたんですか?」
俺の問いに、長老は寂しげに笑い、指を三本立てた。
「一袋、銅貨三枚じゃ」
「はぁ!?」
ライルが叫び声を上げ、洞窟に反響した。
「銅貨三枚!? ふざけんな! 市場価格なら、一袋で金貨一枚は下らねぇぞ! 加工前の原石だとしてもだ!」
金貨一枚。
日本円にして約三十万円。
それを、数百円で買い叩いていたのか。
「……ワシらは、これの価値など知らんかった。ただの『よく燃える石』程度にしか……。ゴッズは『都会では珍しい庭石になる』と言っておったわ」
ババ様の声が震えた。
枯木のような手が、悔しさに握りしめられる。
「……価値があると知っておれば。あの厳しい冬に……『陽だまり草』の薬湯が一杯あれば、あの子の熱も下がったかもしれんのに……」
その具体的な悔恨が、俺の胸に鋭く突き刺さる。
たった一杯の薬湯。
それすら買えずに失われた命が、この黒い黄金の横にあったのだ。
――構造が同じだ。
“分からない者から利益を吸い上げるシステム”。
前の世界でさんざん見てきた、あの忌まわしい搾取の図式と。
俺は拳を強く握りしめた。
怒りで掌が熱くなる。
ゴッズは、いや、その後ろにいるグランツ商会は、無知につけ込み、不当な安値でこの宝の山を独占していた。
そして、それを『アルカ学院』に正規価格――あるいはそれ以上の高値で卸し、莫大な利益を得ていたに違いない。
許せない。
『知らないこと』が罪にされる世界が、俺は一番嫌いだ。
これが、奴らの錬金術の正体か。
なら、それを崩すのが俺の仕事だ。
「……長老。商談をしましょう」
俺は営業カバンを地面に置き、バチンと留め具を外した。
洞窟の冷気の中で、カバンの革の匂いが微かに香る。
中から帳簿と新しい羊皮紙を取り出し、即席の契約書を書き始める。
「ゴッズとの契約は昨日、神罰で燃え尽きました。ここはフリーな市場です」
俺はペンを走らせながら、ライルに目配せをする。
彼はニヤリと笑い、すぐに俺の意図を察して電卓(魔導算盤)を弾き始めた。
「これからは、俺たちがこの石を扱います。ただし、中抜きはしません」
俺は書き上げた書類を長老に差し出した。
「提案するのは『産地直送(ダイレクト・トレード)』です。俺たちは手数料として売値の二割だけを頂く。残りの八割は、すべて村の収入です」
「は、八割……!?」
ババ様の声が裏返った。
彼女は契約書を持つ手を震わせ、枯れ木のような指で何度も数字をなぞった。
その瞳が潤み、喉の奥から絞り出すような声が漏れる。
「……本当に、いいのか? 我らのような、森に隠れ住む者たちに……そんな価値があると、言うのか?」
周囲にいた獣人の護衛たちも息を呑み、沈黙が洞窟を支配する。
誰もが、自分たちの足元に眠っていたものが、これほどまでの宝だとは信じられないのだ。
「正当な対価です。価値があるのは俺たちじゃない、あなたたちが守ってきたこの森です。これがあれば、村は豊かになる。子供たちに腹いっぱい肉を食わせてやれるし、冬を越すための暖房や薬も買える」
ミナが「肉!」と反応して尻尾を激しく振った。
その風圧で、洞窟の埃が舞う。
その無邪気な音が、ババ様の迷いを断ち切ったようだった。
「それに、このルートを使えば……」
俺は黒く光る鉱脈を見上げ、不敵に笑った。
「グランツ商会が独占していた『神殿メンテナンス市場』の喉元に、直接刃を突きつけられます」
独占を崩すのに、剣も魔法もいらない。
必要なのは、適正な価格と、公正な流通ルートだけだ。
ババ様は震える手で契約書を受け取り、じっと文字を見つめた後、深く頷いた。
その目から、一筋の涙が零れ落ちる。
「……信じよう。ミナが連れてきた、お主たちを」
洞窟の奥で、黒い黄金が鈍く輝いた。
俺たちはその輝きを袋に詰め、森を後にした。
◇
洞窟での商談を終え、俺たちが荷車を整えて村の入り口まで戻ると、そこには意外な姿があった。
「……お父さん? お母さん?」
ミナが目を丸くして駆け寄る。
杖をつきながらも、そこには自分の足でしっかりと立つ両親の姿があった。
顔色はまだ蒼白だが、昨日までの死相のような影は消え、瞳には確かな光が宿っている。
俺たちが持ち込んだ岩塩と、栄養価の高い保存食のおかげだろう。
「……もう、起きても平気なのか?」
俺が声をかけると、父親が深く頭を下げた。
「ああ。身体の芯にあった『重り』が消えたようだ。……健二殿、あんたのおかげだ。村を、そしてミナを救ってくれて……本当にありがとう」
その言葉に、俺は首を横に振った。
「俺は商人として、当たり前の取引をしただけですよ。これから忙しくなりますよ? なんせ、特産品の出荷作業が山積みですからね」
父親はくしゃっと笑い、太い腕で俺の肩を叩いた。
「望むところだ。……働く場所があるというのは、生きるということだからな」
そして母親が、ミナの前に歩み寄った。
その手には、布で包まれた小さな包みがある。
「ミナ。……これを持っていきなさい」
手渡された包みからは、香ばしい煙の匂いと、獣人特有のスパイスの香りが漂っていた。
「……お母さんの、特製干し肉?」
ミナが鼻をひくつかせると、母親は優しく娘の頭を撫でた。
その手つきは、もう「追放された子」に向けるものではなく、「旅立つ我が子」への慈愛に満ちていた。
「昔、お前が肉庫を空にした時……怒ったのは、肉が惜しかったからじゃない。お前が『分け合うこと』を知らずに、独り占めしてしまったことが悲しかったんだよ」
母親はミナの垂れ耳をそっと持ち上げ、その目を見つめた。
「でも、今のお前は違う。仲間を連れて、村のために戻ってきてくれた。……お前はもう、立派な『群れ』の一員だよ」
「お母さん……」
ミナの瞳に涙が溜まる。
彼女はその涙を袖で乱暴に拭うと、包みを大事そうに抱きしめ、満面の笑みを見せた。
「うん! 行ってきます! ……健二とライルを守って、もっともっと美味しいお肉、いっぱい稼いでくるからね!」
その笑顔は、かつてないほど晴れやかだった。
ビーグル犬の尻尾が、ちぎれんばかりに空気を叩く。
「……ったく、湿っぽいのは似合わねぇな」
ライルが帽子を目深にかぶり直し、荷車の御者台に飛び乗った。
「行くぞ、健二、ミナ! ここから先は『物流戦争』だ。のんびりしてるとグランツに先を越されるぞ!」
「ああ、分かってる」
俺は両親に一礼し、カバンのベルトを握りしめた。
背中越しに、両親と長老、そして村人たちが手を振っている気配を感じる。
ミナが一度だけ振り返り、そして前を向いた。
その鼻先は、もう過去の匂いではなく、街道の先にある「新しい風」の匂いを追っていた。
「出発だ!」
荷車が軋み、俺たちは村を後にした。
荷台の『黒い黄金』と、ミナの胸の『母の干し肉』。
二つの宝を乗せて、俺たちは再び戦場(市場)へと戻っていく。
◇
その日の午後。
俺たちは森を抜け、ノワルマルシュへ戻る街道を歩いていた。
荷車には、契約の証として預かった『黒魔銀』のサンプルが積まれている。
ミナが急に鼻をひくつかせ、街道の先を指差した。
「向こうから、なんか困ってる匂いがする。……インクと、焦げた鉄の匂い」
視線の先、街道の路肩に、一人の若者が座り込んでいた。
上質なローブをまとっているが、その裾は泥で汚れ、手には煙を上げている奇妙な機械を持っている。
「……くそっ、またエンストかよ。学院支給のメンテナンスオイル、質が悪すぎるだろ……」
若者は煤けた顔で悪態をついていた。
胸元には、天秤とペンを模した銀のバッジ。
――『アルカ浮遊魔導学院』の校章だ。
「おい、大丈夫か?」
俺が声をかけると、若者はびくりと肩を震わせ、警戒心を露わにしてこちらを見た。
「……なんだ、行商人か? 悪いが、ポーションじゃ直らないぞ。こいつは精密機械なんだ」
彼が抱えているのは、方位磁針を複雑にしたような魔導具だった。
針が狂ったように回転し、軸の部分から嫌な熱を発している。
「『魔力測定器』か。……軸が焼き付いてるな」
ライルが横から覗き込み、即座に診断を下した。
「おっ、分かるのか? そうなんだよ。潤滑油に含まれる魔力伝導材が不純物だらけで、摩擦熱が暴走しちまって……」
若者は「理想派」と呼ばれる学生特有の、純粋だが少し世間知らずな口調で嘆いた。
「これじゃあ、地方の魔力濃度調査なんてできやしない。……本物の『黒魔銀』さえあれば、こんなガラクタすぐに直せるのに」
俺とライルは顔を見合わせた。
そして、俺は荷車の幌をめくった。
「……お兄さん。運がいいな」
俺はサンプルの中から、小指の先ほどの黒魔銀の欠片を取り出した。
それをハンカチに包み、石で細かく砕く。
キラキラと黒い粉末が舞う。
「ちょっと試させてくれ。……ミナ、水筒の水!」
「はい!」
ミナから受け取った水を数滴垂らし、即席のペーストを作る。
それを、若者の魔導具の焼き付いた軸に、そっと塗り込んだ。
ジュッ、と小さな音がして、黒いペーストが金属に吸い込まれていく。
その瞬間――。
キィィィン……。
暴走していた針がピタリと止まり、澄んだ駆動音と共に、魔導具が淡く青い光を放ち始めた。
熱は引き、回転は滑らかに、そして力強くなる。
「な……っ!?」
若者が目を見開いて叫んだ。
「う、嘘だろ!? 数値が……安定率100%!? 教科書でしか見たことのない『理論値』が出てる!?」
彼は震える手で魔導具を抱きしめ、それから俺の顔と、手元の黒い粉を交互に見た。
「あんた……何者だ? 今の学院の研究室ですら、こんな純度の素材は扱ってないぞ!?」
俺は営業カバンを肩にかけ直し、ニヤリと笑った。
「ただの通りすがりの商人ですよ。……ですが、商品は嘘をつかない」
若者の驚愕の表情。
それは、俺たちが手に入れた『黒い黄金』が、空に浮かぶ巨城の常識すら覆す可能性を秘めていることの、確かな証明だった。
ミナが得意げに鼻を鳴らす。
「えっへん! 私の鼻が見つけたんだからね!」
俺たちはまだ知らない。
この小さな出会いが、やがて空と地を繋ぐ巨大な架け橋となることを。
黒い黄金の輝きは、これから始まる『物流戦争』の、最初の弾丸だった。
◇
森の朝は、肌を刺すような冷気とともに始まった。
夜の魔力がまだ空気に残っているのか、乳白色の霧が地面のすぐ上をゆっくりと流れている。
宴の余韻が残る広場には、まだ焚き火の燻ぶる匂いと、獣人たちが食い散らかした骨の山が残っている。
俺は毛布をかぶり直し、ズキズキと痛むこめかみを押さえた。
昨晩、長老(ババ様)に注がれ続けた自家製果実酒――あれは酒というより、喉を焼く燃料だったに違いない。
「健二ー! 起きてー!」
ドスン、と腹の上に衝撃が走る。
呻き声を上げて目を開けると、朝露に濡れたビーグル犬の耳が目の前で揺れていた。
ミナだ。
昨夜あんなに肉を詰め込んでいたはずなのに、その瞳は朝日よりもギラギラと輝いている。
「……ミナ、頼むから静かにしてくれ。頭の中で鐘楼が鳴ってるんだ」
「何寝ぼけてるの! 約束したじゃん! 『森の奥のキラキラ』見に行くって!」
ミナが俺の腕を強引に引っ張り上げる。
隣で死体のように丸まっていたライルが、不機嫌そうに身じろぎした。
「……キラキラだぁ? どうせ綺麗な川原の石ころか何かだろ……。おいらはパスだ……」
「ダメ! ライルも行くの! ババ様が『商人の目利きが必要じゃ』って言ってたもん!」
結局、俺たちは眠い目をこすりながら、朝霧の立ち込める森の獣道を歩かされることになった。
足元の腐葉土は湿って柔らかく、歩くたびにカサカサと湿った音を立てる。
木々の隙間から差し込む光はまだ薄く、吐く息が白く染まった。
「……で、そのキラキラってのはどこにあるんだ?」
あくびを噛み殺しながら尋ねると、先頭を行くミナが鼻を空に向けた。
その鼻先が、ピクリと小さく動く。
(――あ、これは“本気の嗅ぎ方”だ)
付き合いが長くなって分かってきた。
彼女がこの動きをするときは、大抵ろくでもない、しかし確かな“宝物”が見つかる。
「もうすぐ! ほら、匂いがするでしょ? インクみたいな、ちょっとツンとする匂い!」
「インク?」
俺とライルは顔を見合わせる。
森の奥から漂ってくるのは、湿った土と苔の匂いだけだ。
だが、さらに進むと――確かに、鼻の奥を刺激する奇妙な金属臭が混じり始めた。
案内されたのは、集落からさらに奥に入った崖下の洞窟だった。
入り口は蔦に覆われ、そこだけ気温が何度か下がったように冷やりとしている。
ポタリ、ポタリ。
洞窟の奥から水滴が落ちる音が響き、硬質な反響を返してくる。
一歩踏み込むと、静寂と湿度が肌にまとわりつき、まるで森の心臓部に触れたような重圧を感じた。
長老のババ様が松明を掲げて待っていた。
「来たか。……ゴッズの奴らが、血眼になって欲しがっていたのがこれじゃ」
ババ様が松明を洞窟の壁に向ける。
揺らめく炎が照らし出したのは、壁一面に走る黒い鉱脈だった。
――いや、ただの黒ではない。
俺が松明に近づくと、黒い岩肌は光を反射するどころか、まるで飲み込むように揺らめいた。
逆に、散りばめられた銀色の粒子だけが、松明の火に呼応して『チリッ』と微かな静電気のような瞬きを返す。
触れる前から、指先がピリつくような魔力の奔流を感じる。
「……なんだこれ。ただの石炭じゃないな」
恐る恐る壁に触れると、指先がひんやりと濡れ、黒い粉がついた。
指先で擦り合わせると微かに発光し――同時に、皮膚がじん、と痺れるような感覚が走った。
「うおっ、静電気か!?」
俺が慌てて手を引っ込めると、横からライルが呆れたように言った。
「おいおい、素手で触るなよ。魔力酔いするぞ」
それまで気だるげだったライルの目が、一瞬で獲物を見つけた山猫のそれに変わった。
彼は懐から愛用のルーペと、鑑定用の厚手の革手袋を取り出し、手際よく装着する。
「……どれ、見せてみな」
手袋越しに慎重に鉱石に触れ、ルーペを覗き込む。
その手が、小刻みに震え始めた。
「嘘だろ……これ、『黒魔銀(くろまぎん)』だ! しかも、こんな純度が高いのは見たことがねぇ!」
「黒魔銀?」
「魔法触媒の最高級品だよ! 魔力の伝導率が異常に高いんだ。特に、これを粉末にして特殊な油で溶いたインクは……」
ライルがごくりと喉を鳴らし、興奮気味にまくし立てる。
「神聖文字の記述には、これがないと始まらねぇ。魔力の消費を半分に抑えて、術式の暴走を防ぐ……高位の魔術師にとっちゃ、命の次に大事な『安定剤』なんだよ!」
その言葉に、俺の頭の中でパズルのピースがカチリとハマった。
昨日の契約書。
『希少鉱石20キロ』という、不自然なノルマ。
そして、ゴッズが言っていた『策士』という言葉。
全ては、空飛ぶ巨大な研究機関――『アルカ浮遊魔導学院』への供給ルートを独占するためだったのか。
「ババ様……この石、ゴッズにはいくらで売っていたんですか?」
俺の問いに、長老は寂しげに笑い、指を三本立てた。
「一袋、銅貨三枚じゃ」
「はぁ!?」
ライルが叫び声を上げ、洞窟に反響した。
「銅貨三枚!? ふざけんな! 市場価格なら、一袋で金貨一枚は下らねぇぞ! 加工前の原石だとしてもだ!」
金貨一枚。
日本円にして約三十万円。
それを、数百円で買い叩いていたのか。
「……ワシらは、これの価値など知らんかった。ただの『よく燃える石』程度にしか……。ゴッズは『都会では珍しい庭石になる』と言っておったわ」
ババ様の声が震えた。
枯木のような手が、悔しさに握りしめられる。
「……価値があると知っておれば。あの厳しい冬に……『陽だまり草』の薬湯が一杯あれば、あの子の熱も下がったかもしれんのに……」
その具体的な悔恨が、俺の胸に鋭く突き刺さる。
たった一杯の薬湯。
それすら買えずに失われた命が、この黒い黄金の横にあったのだ。
――構造が同じだ。
“分からない者から利益を吸い上げるシステム”。
前の世界でさんざん見てきた、あの忌まわしい搾取の図式と。
俺は拳を強く握りしめた。
怒りで掌が熱くなる。
ゴッズは、いや、その後ろにいるグランツ商会は、無知につけ込み、不当な安値でこの宝の山を独占していた。
そして、それを『アルカ学院』に正規価格――あるいはそれ以上の高値で卸し、莫大な利益を得ていたに違いない。
許せない。
『知らないこと』が罪にされる世界が、俺は一番嫌いだ。
これが、奴らの錬金術の正体か。
なら、それを崩すのが俺の仕事だ。
「……長老。商談をしましょう」
俺は営業カバンを地面に置き、バチンと留め具を外した。
洞窟の冷気の中で、カバンの革の匂いが微かに香る。
中から帳簿と新しい羊皮紙を取り出し、即席の契約書を書き始める。
「ゴッズとの契約は昨日、神罰で燃え尽きました。ここはフリーな市場です」
俺はペンを走らせながら、ライルに目配せをする。
彼はニヤリと笑い、すぐに俺の意図を察して電卓(魔導算盤)を弾き始めた。
「これからは、俺たちがこの石を扱います。ただし、中抜きはしません」
俺は書き上げた書類を長老に差し出した。
「提案するのは『産地直送(ダイレクト・トレード)』です。俺たちは手数料として売値の二割だけを頂く。残りの八割は、すべて村の収入です」
「は、八割……!?」
ババ様の声が裏返った。
彼女は契約書を持つ手を震わせ、枯れ木のような指で何度も数字をなぞった。
その瞳が潤み、喉の奥から絞り出すような声が漏れる。
「……本当に、いいのか? 我らのような、森に隠れ住む者たちに……そんな価値があると、言うのか?」
周囲にいた獣人の護衛たちも息を呑み、沈黙が洞窟を支配する。
誰もが、自分たちの足元に眠っていたものが、これほどまでの宝だとは信じられないのだ。
「正当な対価です。価値があるのは俺たちじゃない、あなたたちが守ってきたこの森です。これがあれば、村は豊かになる。子供たちに腹いっぱい肉を食わせてやれるし、冬を越すための暖房や薬も買える」
ミナが「肉!」と反応して尻尾を激しく振った。
その風圧で、洞窟の埃が舞う。
その無邪気な音が、ババ様の迷いを断ち切ったようだった。
「それに、このルートを使えば……」
俺は黒く光る鉱脈を見上げ、不敵に笑った。
「グランツ商会が独占していた『神殿メンテナンス市場』の喉元に、直接刃を突きつけられます」
独占を崩すのに、剣も魔法もいらない。
必要なのは、適正な価格と、公正な流通ルートだけだ。
ババ様は震える手で契約書を受け取り、じっと文字を見つめた後、深く頷いた。
その目から、一筋の涙が零れ落ちる。
「……信じよう。ミナが連れてきた、お主たちを」
洞窟の奥で、黒い黄金が鈍く輝いた。
俺たちはその輝きを袋に詰め、森を後にした。
◇
洞窟での商談を終え、俺たちが荷車を整えて村の入り口まで戻ると、そこには意外な姿があった。
「……お父さん? お母さん?」
ミナが目を丸くして駆け寄る。
杖をつきながらも、そこには自分の足でしっかりと立つ両親の姿があった。
顔色はまだ蒼白だが、昨日までの死相のような影は消え、瞳には確かな光が宿っている。
俺たちが持ち込んだ岩塩と、栄養価の高い保存食のおかげだろう。
「……もう、起きても平気なのか?」
俺が声をかけると、父親が深く頭を下げた。
「ああ。身体の芯にあった『重り』が消えたようだ。……健二殿、あんたのおかげだ。村を、そしてミナを救ってくれて……本当にありがとう」
その言葉に、俺は首を横に振った。
「俺は商人として、当たり前の取引をしただけですよ。これから忙しくなりますよ? なんせ、特産品の出荷作業が山積みですからね」
父親はくしゃっと笑い、太い腕で俺の肩を叩いた。
「望むところだ。……働く場所があるというのは、生きるということだからな」
そして母親が、ミナの前に歩み寄った。
その手には、布で包まれた小さな包みがある。
「ミナ。……これを持っていきなさい」
手渡された包みからは、香ばしい煙の匂いと、獣人特有のスパイスの香りが漂っていた。
「……お母さんの、特製干し肉?」
ミナが鼻をひくつかせると、母親は優しく娘の頭を撫でた。
その手つきは、もう「追放された子」に向けるものではなく、「旅立つ我が子」への慈愛に満ちていた。
「昔、お前が肉庫を空にした時……怒ったのは、肉が惜しかったからじゃない。お前が『分け合うこと』を知らずに、独り占めしてしまったことが悲しかったんだよ」
母親はミナの垂れ耳をそっと持ち上げ、その目を見つめた。
「でも、今のお前は違う。仲間を連れて、村のために戻ってきてくれた。……お前はもう、立派な『群れ』の一員だよ」
「お母さん……」
ミナの瞳に涙が溜まる。
彼女はその涙を袖で乱暴に拭うと、包みを大事そうに抱きしめ、満面の笑みを見せた。
「うん! 行ってきます! ……健二とライルを守って、もっともっと美味しいお肉、いっぱい稼いでくるからね!」
その笑顔は、かつてないほど晴れやかだった。
ビーグル犬の尻尾が、ちぎれんばかりに空気を叩く。
「……ったく、湿っぽいのは似合わねぇな」
ライルが帽子を目深にかぶり直し、荷車の御者台に飛び乗った。
「行くぞ、健二、ミナ! ここから先は『物流戦争』だ。のんびりしてるとグランツに先を越されるぞ!」
「ああ、分かってる」
俺は両親に一礼し、カバンのベルトを握りしめた。
背中越しに、両親と長老、そして村人たちが手を振っている気配を感じる。
ミナが一度だけ振り返り、そして前を向いた。
その鼻先は、もう過去の匂いではなく、街道の先にある「新しい風」の匂いを追っていた。
「出発だ!」
荷車が軋み、俺たちは村を後にした。
荷台の『黒い黄金』と、ミナの胸の『母の干し肉』。
二つの宝を乗せて、俺たちは再び戦場(市場)へと戻っていく。
◇
その日の午後。
俺たちは森を抜け、ノワルマルシュへ戻る街道を歩いていた。
荷車には、契約の証として預かった『黒魔銀』のサンプルが積まれている。
ミナが急に鼻をひくつかせ、街道の先を指差した。
「向こうから、なんか困ってる匂いがする。……インクと、焦げた鉄の匂い」
視線の先、街道の路肩に、一人の若者が座り込んでいた。
上質なローブをまとっているが、その裾は泥で汚れ、手には煙を上げている奇妙な機械を持っている。
「……くそっ、またエンストかよ。学院支給のメンテナンスオイル、質が悪すぎるだろ……」
若者は煤けた顔で悪態をついていた。
胸元には、天秤とペンを模した銀のバッジ。
――『アルカ浮遊魔導学院』の校章だ。
「おい、大丈夫か?」
俺が声をかけると、若者はびくりと肩を震わせ、警戒心を露わにしてこちらを見た。
「……なんだ、行商人か? 悪いが、ポーションじゃ直らないぞ。こいつは精密機械なんだ」
彼が抱えているのは、方位磁針を複雑にしたような魔導具だった。
針が狂ったように回転し、軸の部分から嫌な熱を発している。
「『魔力測定器』か。……軸が焼き付いてるな」
ライルが横から覗き込み、即座に診断を下した。
「おっ、分かるのか? そうなんだよ。潤滑油に含まれる魔力伝導材が不純物だらけで、摩擦熱が暴走しちまって……」
若者は「理想派」と呼ばれる学生特有の、純粋だが少し世間知らずな口調で嘆いた。
「これじゃあ、地方の魔力濃度調査なんてできやしない。……本物の『黒魔銀』さえあれば、こんなガラクタすぐに直せるのに」
俺とライルは顔を見合わせた。
そして、俺は荷車の幌をめくった。
「……お兄さん。運がいいな」
俺はサンプルの中から、小指の先ほどの黒魔銀の欠片を取り出した。
それをハンカチに包み、石で細かく砕く。
キラキラと黒い粉末が舞う。
「ちょっと試させてくれ。……ミナ、水筒の水!」
「はい!」
ミナから受け取った水を数滴垂らし、即席のペーストを作る。
それを、若者の魔導具の焼き付いた軸に、そっと塗り込んだ。
ジュッ、と小さな音がして、黒いペーストが金属に吸い込まれていく。
その瞬間――。
キィィィン……。
暴走していた針がピタリと止まり、澄んだ駆動音と共に、魔導具が淡く青い光を放ち始めた。
熱は引き、回転は滑らかに、そして力強くなる。
「な……っ!?」
若者が目を見開いて叫んだ。
「う、嘘だろ!? 数値が……安定率100%!? 教科書でしか見たことのない『理論値』が出てる!?」
彼は震える手で魔導具を抱きしめ、それから俺の顔と、手元の黒い粉を交互に見た。
「あんた……何者だ? 今の学院の研究室ですら、こんな純度の素材は扱ってないぞ!?」
俺は営業カバンを肩にかけ直し、ニヤリと笑った。
「ただの通りすがりの商人ですよ。……ですが、商品は嘘をつかない」
若者の驚愕の表情。
それは、俺たちが手に入れた『黒い黄金』が、空に浮かぶ巨城の常識すら覆す可能性を秘めていることの、確かな証明だった。
ミナが得意げに鼻を鳴らす。
「えっへん! 私の鼻が見つけたんだからね!」
俺たちはまだ知らない。
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黒い黄金の輝きは、これから始まる『物流戦争』の、最初の弾丸だった。
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