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15.「いつ鬼」

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「いつ鬼」

――いつ鬼。取りいた者の首をらせる妖怪。

 その正体を看破かんぱすると姿を表し、いまこの瞬間しゅんかん、月原と対峙たいじしている。
 恐ろしく不気味で、不吉な空気をかもし出している。
 いつ鬼を見ていると、首を吊りたいという強烈な思いにられた。今すぐにでもこの部屋から逃げ出したい。しかし、めぐみはそうするわけには行かなかった。
 目の前の母は、力ずくで拘束着こうそくぎを破ったのだろう、爪がはがれ血がしたたっている。自分とは比べ物にならないほど、苦しい思いをしている母を置いてはいけない。月原からもらったお守りをぎゅっとにぎめた。
 足は震え、冷や汗がとまらないが、泣き叫びたい気持ちを押し殺し、めぐみもまたいつ鬼を見据みすえた。

「――貴様が何者かは知らんが、なぜ我が名を呼ぶ」
 いつ鬼の言葉はおそろしく冷たい。めぐみは声を聞いただけでもう気を失いそうだった。
「私は憑き物払いを生業なりわいとする者」
 月原は物怖ものおじせず堂々と答える。
「――そうか。ならば、この女にしようとする事が分かっていて邪魔をしているのか」
「そうよ」
 月原はいつもの調子で答えていく。
「邪魔をするなら貴様の首も吊らせてやろうぞ」
「それは御免ごめんだわ」
 そういうと月原はさっとお札を取り出した。たしか魔除けの札だ。
「そんなもの、いつまでももつものか」
 いつ鬼がそういうと、札に書かれている文字が少しずつ消え始めた。どうにも長くはもたないことはめぐみにも理解できた。
「いつ鬼。私の話を聞いて。私はあなたの中、あなたを形作る『もの』と話がしたい」
「――話をして何とする」
「――想いを果たす。その手伝いをするわ。目的はあなたと同じよ」
 沈黙。重く苦しい。まるで夜の海でおぼれているような感覚に襲われる。
 しばらくしていつ鬼が口を開いた。
「この『もの』の想いは深く重い。晴らせるというのならやってみるがよい」
そう言うといつ鬼は黙って、宙に浮いている。どうやら一旦は傍観ぼうかんするようだ。
「話が分かって良かったわ」
 月原はいつ鬼からは視線を外さず、静かに礼を言った。
 月原は妖怪と交渉できたら、ここからは『しろ』と話をすると言っていた。
 しかし、月原は話を始めようとはしない。
「つ、月原さん――どうしたの」
 めぐみは思わず月原に声をかけるが返事が無い。そしていつもの無表情がくずけわしい顔をしている。
「どうした。何をしている。想いを果たしてやるのではないのか」
 いつ鬼も何も始めようとしない月原に苛立いらだっているようだ。
「――この気配は。だとしたらやはり――」
 そう言うと、月原は押し黙ってしまった。
 一体ここまで来て何を躊躇ちゅうちょしているのか。出た所勝負といったのは月原ではないか。こうしている間にも札の文字は薄くなっていく。
 月原が言わないなら――
「し、島岡桜さん! ですよね」
 月原が驚いたような表情をしているが、構わない。
「私は島岡めぐみ、あなたのめいです! 日記を見ました、お母さんの事をうらんでるって――」
 言い終わる前に、母と、そしてめぐみ自身から突如大量の霞が吹きだした。
 その霞は一つの大きなものでなく、小さな霞が集合していた。これは――
「「蝶化身ちょうけしん」」
 月原とめぐみの声が重なった。と同時におびただしい数の蝶化身は実態を表して部屋を埋め尽くし、一気に視界が奪われる。
「きゃあ! な、何これ――
 めぐみは思わず悲鳴をあげた。大量の蝶化身で前が見えず、それどころか息も出来ない。

 だれか――

 声無き叫びをあげた瞬間、蝶化身の大群から突如あらわれた腕がめぐみを捉えた。その腕はそのままめぐみを強く引っ張り、一緒に廊下へ転げ出た。
 転げたときに肩を打ちつけ、痛みが走る。
 めぐみはふと我に返ると、自分を抱えるように倒れる月原に気付いた。
「つ、月原さん――
「失敗ね――。動かないで! 今ならまだ間に合うわ
 そういうと、月原は制服の中に忍ばせた札をすばやくめぐみの胸に押し当てると、その札は透明になり体の中に入っていった。
 その光景に驚く間も無く、廊下の方から看護師が駆けつける姿が目に入った。
「どうしました! ――誰か来てー!

 駆けつけた看護師は大声で詰所に向かって叫びながら病室に飛び込んでいった。
 そのほうに視線をむけると、もう既に蝶化身といつ鬼の姿は無く、絶叫しながら暴れる母とそれを止めようとする看護師の姿だけがそこにあった。
「おかあさん!」
 めぐみはその姿をみて悲鳴を上げた。やめて――お母さんに酷い事をしないで。そう言いたいが声が出ない。
 肩の痛みを抑えながらも母の顔を見ると目が合った。
 母は一瞬止まるとめぐみにむかって口を開いた。

「この女と、家族を皆殺しにしてやる! いくら足掻あがこうが、どんな手を使っても!」

 その言葉を最後にもうほとんど何も覚えていない。
 めぐみは押さえつけられ半狂乱になる母を見つめながら気を失った。
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