たわけ陛下と偽側室

熊五郎

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最終話

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 「朕の顔は醜いだろ」
 アンリがダーデンの口から溢れる涎を拭いているとき不意にダーデンがそんなことを言った。
 アンリはなにも言わなかった。なにも言わずダーデンの口の端を力強く擦ってやった。
 「この口を開いて涎を垂らすのは兄上が死んでから始めたものだ。この見ているのか見ていないのか分からない視線もそうだ。すべて兄上が死んでから始めた」
 もう気が付けばアンリがダーデンと夜を過ごすようになって三ヶ月が過ぎていた。
 ダーデンはこのように本当に稀に口を開く。しかもその内容はアンリが息を呑むほど重要なものであった。ダーデンが魔法を使えないことやその生い立ち、兄との関係性。ダーデンはおよそ世間話というものをしなかったが口を開けば大事な、ダーデンの内面に深く接するような事柄を喋った。しかしアンリはそのことについてほとんど関心を持たなかった。最初こそ驚き好奇心も持ったが元々庭師の娘にすぎないアンリには政治は難しすぎたし、ダーデンの屈折した心の内もイマイチ理解し難いものがあった。ただ夜のうち、このようにダーデンと過ごすことができれば良いと思っていた。
 その日もそういうダーデンが自らの内面を吐露する日だったのだろう。アンリはじっとダーデンの半眼に開いた目を見て彼の言葉を待つ。
 「兄上が死んだとき、朕はとても信じられなかった。兄上に試されているとすら思ったものだ。兄上が死んだという虚報を流して朕に野心があるやなしやを図っているものだと思った」
 ダーデンはアンリの肩を抱き、ベッドに座る。三ヶ月という期間の中でダーデンとアンリは重ねることこそなかったがお互いの体温を感じられるほど近づき、相手の鼓動や呼吸をじっと聞くこということを好んだ。特にアンリの方からそれをねだった。
 「だが事実、兄上は死んだ。しかも落馬して。ありうべからざることであった。あの兄上が落馬した? 頭を打った? もっとマシなシナリオを作れと思ったものだ」
 「あの、それはいったいどのような意味でございますか? 」
 アンリが思わずダーデンの語りに口を出す。さすがに話のもっていき方が不穏に過ぎた。
 「私は兄上は殺されたと思っている。いや、そうとしか考えられない」
 アンリはもはやなにも言わなかった。言うべきではないと思った。
 「誰に殺されたのか、どこの誰なのか個人は分からぬ。たが兄上を殺した集団は分かる。貴族どもに違いない」
 言葉を切るとダーデンはアンリの手を握った。彼の体温は熱く、興奮していることがわかった。
 「もちろん証拠などない。朕の直感、推測に過ぎない。だが朕がそうであると信じた以上行動することにした。そこでまず……」
 「そこでまず呆けの振りを始めたのですか?」
 この方はすべて作られたお方だと思った。初めは乳母に次は自らで自らを作った。なんというお方だ。なんと痛々しく、なんと哀れでかなしいお方。かなしくてかなしくて見ていられずダーデンから目を逸らす。
 「そうしなければ次殺されるのは朕だと考えた。貴族どもに都合が良い王にならねばと思った。すなわち愚かな王である。思えば兄上はやりすぎたのだ。確かに改革案は素晴らしいものだったのだろう。しかし変化は大抵多くの人に嫌われる」
 そこでアンリはダーデンの滴る涎をまた拭った。
 「私もまたやりすぎたのだろう。呆けの振りを始めた私はいつの間にか本物の呆けのようになった。元々頭も良くない私はあっという間に堕落した。自らを変えねばならないとは思ってはいたが宮殿には様々な目がある。下手なことはできない。そこでそなたが現れた」
 突然自分へと話が回ってきたのでアンリはびっくりして「私でございますか?」と言った。
 「そうだ」
 手を痛いくらいに握られ、はっとアンリはダーデンの目を見る。いつもはどろんと半眼になりどこを見ているか分からないといったダーデンの目が今大きく見開きしっかりと焦点を合わせてアンリの瞳を射抜いている。
 「そなたの、そなたの名前をおしえてくれないか?」

──────────

 アンリはとっさに自分が身代わりとなった貴族の娘の名前を口にしようとしたがやめた。それは自らの深いところを晒し、語ってくれたダーデンに対する裏切りだと思ったし、この方はすべて見抜いていると思った。
 「私の本当の名はアンリと申します。庭師の娘にございます」と床に突っ伏しそうになるアンリをダーデンは抱きとめ「よい」は言った。
 「よい、わかっておった。はじめから貴族の娘でないことは知っていた」
 アンリは言葉を失った。はじめからバレていた? なぜ? どうして? と頭がクラクラした。
 「なぜわかったと思っていることだろうな」
 「はい、私は行儀作法を目一杯練習致しました。しかしはじめからお分かりになられていたとは……それほど下手くそでありましたか?」情けなくてアンリの目には涙いっぱいに溜まってきた。
 「いや、そうではない。そうではないのだ」と慰めるようにダーデンは言った。
 「はじめからと申したであろう。会う前からわかっておったのだ」
 ますますアンリは混乱することになった。会う前からわかっていたとはどんな謎かけなのだろうそんなこと不可能だと思った瞬間はと気がついた。
 「そうだ。乳母殿だ。彼女はそなたの足の肉のつきかたがどうも貴族の娘のそれとはまったく違う。まず十中八九平民の娘だろうと言っておったわ」
 あぁ、あの老婆が。なるほどあの意地悪な目つきは既に私のことなどお見通しであったのかと肩を落とした。
 「しかしなぜ私にお会いになられたのですか?」
 ダーデンは貴族たちを警戒している。私のような明らかに怪しいものなど避けるのが当然ではないか。そのことをアンリはダーデンに告げると「怪しすぎたのだ」と言った。
 「そなたは怪しすぎた。もし貴族どもが本気で朕を謀り内偵する気であれば、そなたには悪いがもっとそれとは気が付けない者を送ってくるだろう。少なくとも乳母になどまったく分からないような者をな」
 たわけ、白痴、ノータリンと思われているダーデンは貴族たちが思っていたよりもずっと強かであった。アンリが貴族の娘ではないと見抜いてさらにどうにか利用し今の状況を変えるきっかけにしようとした。
 「そしてそなたに直に会い、朕は確信した。貴族の手の者ではないと。いや、貴族の手の者ではあるのだろうが朕の監視や、朕を害することを目的とした者ではないとわかった。なにか事情があるのだろうと思った」
 「はい、私はただ陛下の側室にあがることを厭うた貴族の娘の身代わりになったに過ぎません」
 アンリはもはやすべてを正直に話した。なにも隠すことはない、すべて陛下の思し召しにお任せしようと思った。
 「よい」とダーデンは言った。
 「そなたのおかげで朕は、この夜の時間を有意義に使うことができるようになった。そなたが送られてきたことで貴族共は朕の呆けを信じ切っておることもわかった。そなたが来てくれて朕は助かった」
 「ここから始めるのだ。兄上を殺したものを見つけ、貴族共の私曲をここから……この部屋から正していくのだ」
 アンリはダーデンが震えていることがわかった。そしてまたアンリ自身も震えていた。それは恐怖からくる震えではなかった。
 「なに、呆けを続けて本物の呆けになりかけてた朕だ少しずつ少しずつ始めていこう」
 この震えは喜びの震えであった。ようやくお互いの本当の姿が見えた二人がついに今日出会ったのだ。そしてここに来てずっと偽物だったアンリが今日ついに本物になるのだ。
 「よいな、アンリ」と遠慮がちにダーデンが言うとアンリは「はい」と頷いた。
 
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