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最終話

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 「そういえば兄上はどこの医者にかかっていたのですか?」
 食事中アンネは何食わぬ顔をして父に話しかける。父はなぜそんなこと? と聞いてくる。その声は平時とは変わらぬものでありどういった色も感じさせなかった。

 「剣の都の私の友人も実は肺を病んでましてね。その兄上を診ていた医者に話を聞きたいのです」
 
 アンネはよくもまぁそんな口からデマカセが出てくるものだと自分の口を誉めてやりたかった。

 「医者にはかかっておらん」
 「は? 肺を病んでいたのではないのですか?」
 「あれは誰にも自分の体の不調を言ってなかったようだ。医者にかかっておればこのようなことにはならなかっただろうに」
 「義姉上も知らなかったのですか?」
 「申し訳ありません。あまり体調が優れないことは察しておりましたがこのようなことになるとは……」

 気まずい雰囲気が流れる。
 
 「今更フレン殿を責めても仕方あるまい」
 「責めたわけではございません。しかし不躾なことを言いました。お許しください義姉上」
 「いえ、そんな、よろしいのです」
 
 そう言いつつもアンネは父やフレンに釈然としないものを感じた。死病に侵された者と暮らしていて気が付かないなんてことはあるのか? ゴンロウから聞いた話や葬儀のことも口にするかと思ったがやめた。決め手に欠けるしこちらがどこまで知っているかを晒すのは躊躇われた。
 食事を続けながらアンネは思う。私はどうするべきなのか、真実を暴いて訴え出るのか? 確かに兄の無念は晴らしてやりたいが、ではその後はどうする。父上とフレンが兄上を謀殺したという事件を表沙汰にすればリークス家の取り潰しは免れない。となると私の公爵家への剣術指南役もなくなるだろう。ウィリアムを王家の剣術指南役に推挙し御前試合を行わせるのも無理になる。
 ウィリアムとの未来を投げ打ち、兄のために、死者のために父上やフレン、私やウィリアムの未来の展望を粉砕する覚悟が私にはあるのか? それだけの情熱はあるのだろうか。

 「この鴨肉は美味いな」
 唐突に父がそんなことを言い始めてアンネは驚いた。父は料理の味のことなどこれまで一度も口にしたことはなかったからだ。
 「ほんとうに、美味しゅうございます」
 フレンもそう言い始める。アンネも鴨肉を口に運んでみるがそれほど美味いとは思わなかった。
 「確かにこれは美味いですね」
 だが気が付くとそんなことを口走っていた。美味くもない鴨肉を美味い美味いと食べる三人はひどく滑稽であった。

 アンネは部屋に戻り、着替えて寝具に横になる。
 妙なことになったと思わざるを得ない。本当であればさっさと家を後にして公爵家へ入り、王家の剣術指南役を決めるための周旋活動をするつもりであったのに今やっていることは兄の死の真相を嗅ぎ回ることだ。現実的に言えばなんの役にも立たないどころか、心情を抜きすればアンネの不利益にしかならない。
 だが真実を知りたいとも思っている。その真実を知り、どうするかは知った後の話だ。兄に直接話を聞きたいと思った。あちらこちらを犬のよう彷徨くのではなく兄に直接話を聞ければそれが一番手っ取り早い。
 
 そこでふと脳裏に閃くものがあった。
 兄は日記かなにか記してはいなかったのだろうか、兄なら日記の一つや二つありそうなものだと思った。
 フレンと兄の部屋の整理をしたことを思い出す。そのようなものは出てこなかった。整理はしなかったとは言え本棚にある書籍も目録は付けた。日記の類は確かになかった。
 そもそも、とアンネは思う。そもそもなぜフレンは私を兄の部屋の整理に誘ったのだ。それっぽいことは言っていたがあんなもの言い訳に過ぎないだろう。私がフレンなら兄の部屋の整理などは自分一人でやるか、父上とやる。何が出てくるかわからないのだ。事情を知らない第三者を介入させることなど沙汰の外だろ。
 
 待て待て、考えろ。アンネは寝具に仰向けになり天井を見つめながら考えを進める。
 フレンも兄上が日記を記している可能性に気が付いたのだ。当然探したに違いない、だが出てこなかった。そこに父上も居たかもしれない。
 探しに探してないも日記はない、だがないということに焦ったはずだ。あり得べきものがないということはどこかに隠してあるはずである。自分たちでは見つけられない。
 そうか、だから私を使うことにしたのだ。兄妹であればなにか隠し場所を知っているかもしれないと、もし私が見つければなんのかんのと言って取り上げれば良い。私もあのときは兄上の死に多少の違和感を覚えていただけだ。素直に渡しただろう。そうだこれに違いない。

 そこまで思い至ったときにこれでは振り出しだと気が付いた。なにも進展はない。
 こんなことならもっと兄と手紙のやり取りでもしておけば良かった。それならなにかできることがあったかもしれないのに。
 
 山歩き、山菜、椿……本棚、ふとアンネの頭の中でこの文字が踊った。おかしいな、と思ったがなにがおかしいかわからない。なぜこの四つの単語を思い出したのかもわからない、いやそれはすぐにわかった。手紙だ。兄の手紙に書いてあった近況報告だ。
 山歩きをしていて山菜が美味くて椿の花を見たい、そして本棚が壊れた。
 
 アンネは寝具の上から跳ね起きた。前半は分かる。山について書いているうちに筆が乗ったのであろう、だがいきなり本棚が壊れたに飛ぶのはどういったことだ。しかも兄上の本棚は壊れているような箇所はなかった。買い替えたのか、修理したのか当然そのどちらかだろう。だがわざわざ手紙に書くことか? なにか暗示めいたものを感じた。

 深夜遅く、寝衣から着替えて剣を佩く。
 アンネは忍ぶように部屋を出て兄の部屋を目指した。子供の頃から駆け回った屋敷である。例え明かりがなくとも行動するのに支障はなかった。
 夜の屋敷は静かであった。物音一つしない、まるで自分一人が屋敷にいるようなそんな感覚である。自らの心臓の音や呼吸の音がやけにうるさくも感じられる。努めてゆっくりと慎重に動き兄の部屋の前に着く。扉を開けて素早く体を滑り込ませる。

 持ってきた燭台に火を灯し、並んだ五つの本棚をよく見る。なにも変わったところは、ない。腰を据えてしっかりと調べてみるさとアンネは思い、本棚から本を抜き取り始めた。

 なにかあるとすれば本ではなく本棚だ。本棚自体になにかある。アンネはそう信じていた。
 三つめの本棚の一番下の棚に並べられている本を抜き取っていたときそれに気が付いた。よく見なければわからないが本棚の底板の一部が少しだけ浮いている。それを見つけた瞬間アンネの心臓は大きく高鳴った。
 見つけてしまった。本当にあった。なにか見つけたくないものを見てしまったように感じる。浮いている羽目板を指と爪を使ってもちあげる。
 そこには穴があり、思い切ってアンネが手を入れると一冊の本が出てきた。

 あった。興奮と自分の考えがあっていた満足感と達成がある。しかし、これを開いてしまえば本当にあとには引けない、立ち戻れないという直感が働く。だがアンネは思い切って開いた。

 最初はただの日記であった。とりとめもないことをつらつらと書いてある。アンネのことも書いてあった。誉めているのか貶しているのか定かでない文章だが自然と笑みがこぼれる。悪い気はしなかった。

 しかし読み進めていくと途中で毟り取ったのか、ごっそりと頁がなくなっており、最後の頁に長い文章が綴られていた。

 【私は気付いてしまった。どうすればいいのかわからない。私の妻であるフレンと父のあのおぞましい関係に気付いてしまった。
 はじめはなんとなく仲が良いと思った程度だった。舅と妻の関係が良いのは喜ばしいことであると思った。次にフレンの外出が増えた。華の稽古に行くと行って出る。フレンは華が好きだし、私も華が好きなのでこれも喜んだ。彼女が生ける華は美しかった。絵の稽古にも行きだした。そして父も政務で外に出ることが増えた。
 
 私はのんきな男なのであの決定的な出来事が訪れるまでなにも気が付いていなかった。フレンが妊娠したのである。
 私はその瞬間吐き気を催した。有り得べかざることであった。私に子などできるはずはないのだ。
 これは誰にも言っていないことだが私はフレンと婚約する前に一人の女を愛していた。心の底から愛していた。
 
 その娘は貧しい農民の子であったがとても美しかった。一緒になりたいと思った。だがそれは無理なことである。妾にすらできないだろうということは最初から分かっていた。だから子を為そうとおもった、子さえできれば二人で生きる道もできる。正室は無理でも、近くに置くことは認めさせることができる。そう思い私達は性の快楽を楽しむよりももっと切実で悲しく必死に抱き合った。それを数年試みたが無理だった。
 
 原因は私にあるとしか思えなかった。幼少期に発した高熱で私の生殖能力はきっと失われたのだろう。そうこうしてるうちにフレンと婚約が決まった。私はその娘と別れた。捨てたと言っていい。繰り返すが本当に愛していた。しかしその愛は実生活としがらみという高い壁は乗り越えれなかった。

 フレンにも悪いと思っていた。子を作れないのを秘して結婚したのだ。それ故せめて不自由のない暮らしをさせようと思った。しかし子ができた。

 信じられなかった。喜びよりむしろ不審があった。フレンが妊娠したのは私と結婚して八ヶ月後のことだった。私と農民の娘が数年かけてもできなかったことがわずか八ヶ月で為されたのだ。

 喜びより不審が勝るのは当然であった。そしてその不審は的中した。子は、ヨアヒムは私に似ていなかった。しかしこの顔を私はよく知っていた。父の顔だ。
 
 だが私は許そうと思う。実際には許せそうもないがせめてヨアヒムが十五歳になるまで私はこの家に居よう。そしてヨアヒムに家督を譲り。どこか小さな庵でももらい静かに暮らしたい。今、愚かな私が思うのはあのとき美しい農民の娘となぜ一緒に逃げなかったかということだ。私はなにも失わずに欲しいものを得ようとし、そしてすべてを失った。
 愛する者を得るためにはすべてを捨てなくてはいけない、それができるものだけが愛を勝ち得ることができるのだろう。残念ながら私にはそれは出来なかった】

 アンネは読み終えた。長く、そして痛ましい文章であった。これが真実なのか。フレンと父の不貞など許せるものではない。だがこれを持ち告発するのか? 私すらすべてを失うだろう。
 さらにこの文章では兄上の死因は結局わからない。やはりフレンが突き落としたのか、なぜだ。兄上はもはや見て見ぬ振りをするつもりだったらしい。わざわざ殺す必要はない。
 単純な事故だったのか。それならば何故隠匿する必要がある。実はゴンロウがオリバーを殺したのではないか、とすら思う。あるいは自ら身を投げたか。
 可能性はいくらでもあった。だが私はもうこの件からは手を引こうと決めた。誰もなにも得るものはない。本を元の場所に治めようとしたときアンネは背後から抱きすくめられた。  

 「やはりオリバー様は日記を隠していたんですね」
 フレンであった。アンネは不覚にもまったく気付くことができなかった。フレンの冷たい手がアンネの首と腰に巻き付いてくる。それはまるで愛する者にするような抱擁であった。

 「フレン……貴女は父上と」
 なんとかアンネは言葉を絞り出す。振り払うべきだった。押しのけるべきであった。だがアンネは動けない。

 「そんなことどうでもよろしいではないですか」
 「なんだと?」
 
 フレンが抱擁の力をさらに加え、自然アンネはフレンにもたれ掛かるような態勢になる。

 「わたくし、貴女が好きよ。アンネ・リークス。愛しているわ。初めて貴女を見たあのときから」
 「なにを言ってる……」
 「わからない? それはうそ。貴女小さい頃、わたくしがこの屋敷を訪ねると決まって庭に出て棒を振り回しながら駆け回ってたわね。あれは貴女、わたくしに会いたくなかったんでしょ? 会ってしまうと自分の感情が制御できなくなる気がして」
 「……そんなことはない」

 うそ、と言いながらフレンはアンネの首筋に唇を落とす。それだけでアンネは稲妻に打たれたような衝撃を感じ立っていられなくなる。それをフレンが後ろでしっかりと支える。

 「貴女はいつもわたくしを避けようとする。それでもずっと貴女は目でわたくしを追っている。小さい頃からなにも変わってない。庭を駆け回りながらオリバー様とわたくしが居るテラスをじぃっと物欲しそうな目で見てたわね。」
 「女って悲しいわ。家に入ってしまえばろくに人にも会えない。まるで家具の一つのよう。自分では動けない。愛する人にも会いに行けない」
 「まさか、貴女は……フレン……」
 「そうよ、貴女とずっと一緒に居たくてこの家に来たの。オリバー様はわたくしのことさほど愛してはなかったみたいですけど、あなた方の父上がわたくしに執心していましたからね。話は簡単にまとまりましたわ。貴女が剣の都に行ってしまったのは予想外ですたけど」
 「貴女は……なんという。なんという人なんだ」
 「あら、わたくしは普通の女ですわ。普通の愛する人の近くに居たい女。そのためにわたくしはすべてを捨ててこの屋敷にやってきた。家も家族も自分の体さえ捨てた。貴女の近くにいるためだけに。ねぇなんで女は女を愛してはいけないのかしら」

 アンネの頭は眩み、目の奥で火花が散る。体は震え、自由は効かない。
 すっとフレンのおそろしく冷たい手が服の隙間を抜けて中に入ってくる。唇が耳元に近づき囁く。

 「ねぇアンネ、貴女の父上を斬ってください。そしてこの屋敷をわたくしと貴女の物にして、みんな追い出して二人で永遠に楽しみましょう」
 「あっ……あっ……ぅえ……」

 言葉にならない言葉が口の隙間から漏れる。瞳から涙が溢れた。ダメだ、私はこの女に呑み込まれ支配される。そしてそれを望む自分が確かにいる。

 「楽しみましょう。アンネ……」

 瞼を強く瞑り。すべてを諦めようとした瞬間、奇妙な音が聞こえた。チリリと。

 チリリ、チリリ、チリリと音はどんどん鮮明になっていく。なんだこれは。フレンも動揺しているようだ。
 音は兄上の書机の方から聞こえる。あっと思った。
 この音は千鳥の香炉から聞こえてくる! あの千鳥の細工が鳴いてるのだ! 
 
 「千鳥の香炉が鳴いてる?」

 フレンが不思議そうな声をあげた。その瞬間アンネの体の呪縛が解けた。
 肘で強くフレンの胸を打ち、振り向きざまに抜刀し逆袈裟からフレンを斬った。
 「あっ……」とも「えっ……」ともつかない声をあげフレンは崩れ落ちた。自らに起こったことが理解できないといった不思議な顔で事切れていた。即死であった。

 アンネはもうそちらを見なかった。
 千鳥はもう鳴いてない。

 アンネは走り出す。窓から屋敷の外に出ると一心不乱に足を動かす。
 どこに行くか? そんなことは決まっていた。
 ウィリアムのもとに帰るのだ。今アンネ・リークスはすべてを捨てた。家も家族も財も身分も、あるのは心に一つ。愛だけだった。

 すべてを捨てて走る女の影は夜の闇の中に消えていった。
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