献身療養所物語

熊五郎

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二話

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「おい、モップ女。もう食事はいらない。下げてくれ」
 スプーンを食器の上に放り投げるように置くとクレーンさんはこんなまずいものこれ以上食えるか、というふうに顔を歪めて私に言いつけてきます。
 「ダメですよ。きちんと食べないと元気になれませんよ。あと私のことはアン看護人と呼んでください」
 私がそう言ってもふいっと顔を逸してもう断固これ以上は絶対に食べませんという意思表示を見せます。背けた横顔の整い様にドキドキとしてしまいますがこのウィル・クレーンという私の四つ下の十五歳の少年はとてもわがままで私の言うことには絶対に大人しく従おうとしません。
 そう、私の言うことには、です。これが一番私が気に入らないことなんですが……「また残しているのですか? 食べなくちゃ元気になれませんよ」そう言いつつ顔を出したのは看護長のエマさんでした。
 エマさんが現れた途端、クレーンさんは少し頬を染めて「でも」とか「だって」と言いつつスプーンを手に取り渋々と言った感じに食事を口に運び始めます。それを見たエマさんは笑ってクレーンさんと同室のロウガさんやエビアンの様子を見て回ります。
 これです、これがクレーンさんの担当看護人としてこれが一番気に入らないことのです。私の言うことにはなんでも反発しないと気がすまないと言った風のクレーンさんですが不思議とエマさんの言うことは素直に聞くのです。いや、不思議というのは間違いでした。これはもう確信を持って言うんですがクレーンさんはエマさんのことが好きなのです。
 そのきっかけはきっと大部屋に入るときに散々駄々をこねたクレーンさんをエマさんが思いっきり叱りつけたことだと私は思います。今思いだしてもあのエマさんの剣幕は恐ろしいものでした。

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 それはウィル・クレーンさんをこの献身療養所にお迎えした日のことでありました。これから過ごす病室の案内をクレーンさんにしたところ個室を与えられると信じていたクレーンさんは大部屋に通されるとわかって怒り心頭に発し「この僕が大部屋だって! 信じられない! 父上はこのこと承知しているのか! ? 」とさもこの世の終わりだと言わんばかりの嘆きのポーズを取り私に詰め寄ります。
 「帰る。こんなとこにはいられない。父上がこんなこと認めると思えない」
 私は病室から出ようとするクレーンさんを押し留めようとしましたがクレーンさんは止まりません。
 「こんなどこの馬の骨ともわからない人間と寝食を共にするなんて……僕が襲われでもしたらどう責任を取るんだ! 」
 そして表玄関からこちらの病室に案内するまでに分かったことなんですがこのクレーンという少年は自分の容姿が他よりもずいぶん優れているということを完全に理解しており、それを意識した言動を取るのです。
 確かにクレーンさんの容姿は美しいものがあるのですがそんな態度をとっていてはあっという間に幻滅させられせっかくの美しい容姿もなんだか色褪せてしまうように感じます。とは言え美しいものは美しいのですからなんだか私は感情の置きどころをどこにやったら良いのかてんでわかりません。
 「うちには個室なんてありません。もちろんこのことはあなたのお父上様もご存知のはずです」
 もちろんクレーンさんのお父上様であるハワード・クレーン内務大臣とうちがどのような取り決めをしたのか私が知っているはずがありません。そもそもクレーンさんが来ることすら私は知らなかったのですから。
 助けを求めるようにご存知のはず、ですよね? とエマさんに目を向けるがエマさんはむっつりと黙り込んで目を閉じている。
 騒ぎが聞こえたのか「おいおい、その馬の骨ったぁ俺のことかい? 」と仕切っているカーテンを開きウェーブのかかった茶髪を手でしきりに撫でながらエビアンさんが顔を出しました。
 よく知らないけれどもエビアンさんは詩人らしく、なかなか有名な詩集も出しているそうなんですけども、だけども私はその軽薄でいやらしいエビアンさんの人となりが苦手で仕方ありませんでした。噂によれば気に入った看護人に恋の詩を送り、どこか人気のないところで逢い引きしているそうな、あぁいやらしいいやらしい。
 そんなエビアンさんがクレーンさんの顔を見て「ほうっ」と言い、にやにやし始める。
 どうせろくでもないことを言い始めるのだろうと思ったら案の定「これは確かに美しい、まるで伝説にある湖の妖精セーレのようだ。こんなセーレ顔負けの美しさなら男も女もない、どうして恋せずいられようか」と歌いだしました。
 そのにやにや顔は完全にクレーンさんをからかっているのです。
 生粋の女好きであるエビアンさんは今歌ったようなことはまったく思ってないに違いなく、ただ退屈しのぎにじゃれてみただけ、そんな軽い気持ちだったのでしょう。
 ただクレーンさんはエビアンさんがそんな人柄とはもちろん知らないし、自らの美しさを十分以上に自覚しているクレーンさんは顔を真っ青にして「帰る! 」と鋭く言い放ち私を押しのけようとしました。しかし悲しいかな病身の上に華奢な体つきのクレーンさんがいくら力をこめようとも私を押しのけるには至らりませんでした。
 それを見たエビアンさんは「あぁ行ってしまうのかい、湖の妖精よ。君と夜空の下星を数え夜を明かし朝日を共に眺めたいというのに」とまた歌いだしました。いい加減にしてと私が声をあげそうになるその前にまた別のベッドのカーテンが開いて「いい加減にしないか」と私が思っていたこととまったく同じことを言った人がいました。
 その人はロウガさんといいました。元々帝国軍人でかなり偉い人だったようですがこれもまた噂だけで実際はどうなのかは私はわかりません。
 ただロウガさんはそう思わせるなんだか威厳というか迫力のようなものをもっています。そんなロウガさんに一睨みされたエビアンさんはしどろもどろになり「いや俺はただ新人の歓迎を……」なんて言い繕っています。いい気味だとそんなこと思ってはいけないのに思ってしまいました。
 「だからそれを」とロウガさんが言いかけますがこちらを見るとぴしゃっと素早くカーテンを引いて身を隠しました。それを見たエビアンさんもやはりこちらに目を向けたあと「やべっ」と呟きロウガさんと同じようにしました。
 ただクレーンさんだけは帰る帰ると駄々をこね、私はそれを抑えることに夢中になっていました。
 「やかましい! 」
 雷が落ちてきたのかと思いました。びっくりして振り返るとエマさんが美しい髪を逆立て、目は爛々と光り、まるで神話に出てくる戦神のようにそこに立っていました。これが噂に聞く魔力の暴走かと思ったほどです。
 エマさんはクレーンさんの前に出ると「あなたはここになにをしに来たんだ! 」そうクレーンさんに詰め寄ります。
 クレーンさんは「僕は……」と他人に怒鳴られることなど経験したことがないのでしょうクレーンさんはごにょごにょとなにやら聞き取れないことを言っています。
 「あなたは、なにを、しに来たんだ!」
 クレーンさんはもう一度次は節をつけて顔を近づけて言いました。
 「体を治しにきました」と観念したようにクレーンさんが項垂れると「そうでしょう」とエマさんはクレーンさんの肩を抱きました。
 いきなり肩を抱かれて怯えたのか体をびくんとふるわせました。
 しかしエマさんはそのようなこと気にしません。
 「ここにいる人たちは同じ黒煤コクバイ病と戦う人たちです。絶対にあなたを襲ったりしません。もう既に黒煤病は不治の病ではなくなりました。必ず良くなる病です。しかしそれには医者や私達だけの力では完治はなし得ません、いえそもそも私達の力など微々たるものなのです。あなた自身の治そうとする意志と取り組みが絶対に必要なのです。私達はそれの手伝いに過ぎません。私達にそれを手伝わせてくださいお願いします」それは力強い言葉でした。しかし私の心にはよくない感情がふつふつと湧いてきます。
 しばらく打ちのめされたように呆然とクレーンさんは立ていたけどもはっと我にかえると自らベッドの方に歩いていき、ベッドの上に用意された患者服を手に取り「これに着替えればいいのか?」と聞いてきました。
 エマさんは私の方に向き直り、「あとはあなたにお任せします。メアリー・アン担当看護人」と言い病室を出ていきました。
 私はそこで今まで感じたことない感情を抱きました。つまりは敗北感です。こんなことは一度も感じたことがありませんでした。大ベテランのエマさんに比べて私が至らないのは当然だと思っていました。しかしこの場を収めたエマさんに私は激しく嫉妬をしました。
 「えぇそれに着替えてください」
 感情を抑えようとすると冷たい声が出ました。今私がどんな感情の嵐を中にいるのか当然知る由もないクレーンさんは「覗くなよ」と言い仕切りのカーテンを締めました。全然面白くありません。
 私はどうしてしまったのでしょう。なんて浅はかで厚顔無恥なんでしょう。こんな気持ちは忘れてしまいたい。
 かえろかえろ、かえろが鳴くからかえろと私は故郷の歌を心の中で歌いました。

──────────

 そんなことがあってからクレーンさんはエマさんに頭が上がりません。きっとクレーンさんは他人に叱られたことないんでしょう。そこで叱ってくれたエマさんに心を動かされたんです。
 叱られて恋心が芽生えるなんて変態です。幻滅です。ハレンチです。しかしクレーンさんの顔は美しいので見てる分には飽きません。
 今は散歩の時間です。体力がすっかりなくなってるクレーンさんは少し歩いただけでもう病室に帰ろうとします。
 「ダメですよ。あの木まで歩くんです」
 そう私が言い募ってもまた嫌だ嫌だと言って聞きません。その仕草は可愛らしくはあるですが私は担当看護人なので、心を鬼にしてクレーンさんの手を引きます。手汗をかいてないか気になりますがそんなこと気にしてないふうに顔は平坦冷静にクレーンさんと歩きます。
 するとぱっとクレーンさんが手を離しました。前からエマさんが洗濯物を持って現れたからです。
 「頑張ってるねー!」
 「まぁね……」
 とだけ言葉を交わしてすれ違いました。
 クレーンさんはエマさんの後ろ姿をなにか悲しいものでも見るようにじぃっと見ていました。
 
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