献身療養所物語

熊五郎

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四話

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 「メリッサが僕の許嫁? 彼女まだそんなことを言ってるのか。それは真っ赤な嘘だよ」
 療養には一号館と二号館かございます。一号館には比較的症状の軽い患者が集められ、二号館には症状が重くまだまだ体力作りの段階には進めない患者が入れられます。
 なので二号館の近くは私が言うのは本当にいけないことなのだけど暗い雰囲気が漂っています。私とクレーンさんはその二号館のさらに外れにある人があんまりやってこないちょっと草深い広場を二人で歩いてきました。
 クレーン様は本当に体を動かすのが億劫なようで体力つくりの一環であるお散歩の時間になるといつもなんのかんのと理由をつけて外に出たがりません。
 しかし、その日は自ら積極的になんなら私の手を引かんばかりに外へと繰り出し、私に「どこか人目のつかないところへ行きたい」と人に聞かれるのを憚ったようにその小さな唇を近づけて言いました。
 その形の良い唇から発せられる言葉の意味が最初は分からず、頭の中でその言葉を吟味して咀嚼してはっと気が付くとクレーンさんから一歩も二歩も距離を取り「いやらしい」と私はクレーンさんに言ってやりました。
 私の言葉を聞くとクレーンさんはみるみる顔を赤くして怒髪天を突かんばかりに怒りだし、「そのような発想をする方こそふしだらだ」とか「僕をバカにするな。なんでお前みたいなモップ女と逢い引きなんか」などまるで舌が三つも四つもあるように必死に口を動かします。
 その様子には思わず私も面食らってしまいました。なんだか年下の男の子が顔を赤くしてわぁわぁと言い募る姿は可愛らしくもありますがその何倍も滑稽で情けなくもあり、私はやっぱりどんなに美しい顔の造りをしていてもこうなるとちっともときめかないなぁとまだ頑張ってるクレーンさんを見てそう思います。
 そしてクレーンさんはせっかく神に与えられた輝かんばかりの容姿を持っているのにそれをちっとも活かせていないなぁと最近私はよく考えてしまいます。意地悪なことを言ったりワガママを言ったりなんでもないようなことで怒ったりしてその整ったお顔をしょっちゅう歪めています。クレーンさんが一番良いお顔になるのはおやすみになっているときだなと私は考えています。しかしそれはとっても残念なことなのです。なぜならおやすみになっているときはあの北海を思わす寂しげな碧の瞳が見れないからです。
 すっかり気分が冷めてしまった私は今や噛みつかんばかりの剣幕となっているクレーンさんに心当たりがありますのでご案内しますと言い腕を取り歩き出しました。
 腕を取ったことでまたぎゃあぎゃあと騒ぎ出すかなと、そのときはもう知らないと一人で放っておいてやろうと思っていましたが小声でぶつぶつとなにか聞き取れない言葉を発した後は大人しく私の歩に合わせてくれます。 
 クレーンさんは先程の大演説で疲労したのか少し歩くと「もう疲れた」や「まだなのか」と繰り返すようになり私が「あと少しです」とか「もうちょっとですので」となだめすかしていました。
 なんで頼まれた私がクレーンさんを宥めて歩いてもらっているかとちょっぴり腹立たしくもなり、もうここでいいかと思う度に折り悪く人とすれ違い、そうなるとクレーンさんの方がさっきの態度を忘れたかのように「ほら早く行くぞ」と歩を進め、人から離れたらまたぐちぐちと言い始めるという私にストレスをかけるのが目的なのかしらと思うような散歩でございました。
 そんなこんなでなんとか私が思いついた人目のないところというクレーンさんのご要望の目的地である二号館の近くの草深い広場に到着したのでございます。
 さて、なんのお話かなと思ってはいますとクレーンさんはそのくりくりとした碧の瞳を不安そうに揺らしてなんだかそわそわとし始めました。これはまさか本当に逢い引き目的で? と私が良からぬことを脳裏に浮かべたところでクレーンさんは意を決したように口を開きました。
 「あの昨日僕を訪ねてきた女が帰り際お前に会いに行ったはずだ。なにを話したかすべて僕に聞かせろ」とすごい剣幕で私に詰め寄ってきました。

──────────

 そして私はメリッサ・ガーランドさんからお聞きしたことをクレーンさんにお話しました。女二人のお話をクレーンさんに聞かせるのもどうかな、とは思いましたが結局私とガーランドさんがお話したことは名前とガーランドさんとクレーンさんの関係についてお聞きしたくらいで特別内緒のお話などなかったので、ありのまま正直似クレーンさんに申し上げましたところでクレーンさんの冒頭の言葉に繋がるというわけでございます。
 真っ赤な嘘だよと言ったクレーンさんは悲しげでもあり、悔しげでもあり怒っているようでもありました。
 これは複雑な事情がありそうだと好奇心を刺激される一方で上流階級の中でも最上位に位置するクレーン家とガーランド家の婚姻関係というデリケートな話を耳に入れたくないとも思いました。この話を聞いてしまったが故にどんな災難が降りかかるかわかったものではありません。
 逃げ出そうかしらと思っていますとそんなことにはまったく頓着していないクレーンさんは私が黙っているのにぽつりぽつりと話し始めます。
 「クレーン家とガーランド家は昔から親交があってね。何代か前にはクレーン家からガーランド家へ嫁を出してるいわば縁戚の関係であり、特に父上と現ガーランド当主セグリア・ガーランド卿は同い年でさらに同じ学寮に入り切磋琢磨した竹馬の友だったのさ」
 私に話すというより遠いどこかにいる人に話すようにクレーンさんは遠くを見て言葉を続けます。
 「大人になった二人はそれぞれ然るべきところから妻を娶り父上は二人の男児に恵まれた。しかしガーランド卿はなかなか子宝に恵まれなかった。昔、父上から聞いた話ではそのときガーランド卿は父上にこのままだとお前のところから一人貰わねばならんなと冗談を言っていたそうだが目は本気だったようだよ」
 少し話疲れたのクレーンさんはふぅと息をついた。それを見て「あちらで話しましょうか? 」と私はベンチを指し示す。そのベンチは二号館の方から丸見えのところに設置されているのでクレーンさんは嫌な様子だったが結局座りたいという欲求の方が勝ったようで私達はベンチへと移動した。
 「しかしガーランド卿も子を授かった。女の子ではあったがそのときのガーランド卿の舞い上がり方は凄かったようだよ。奥方は男児を産めなかったのを心苦しく思ったようだがなに一人できれば二人三人と子はできるとガーランド卿らしからぬ軽口を言ったそうな、それほど幸せの絶頂だったんだろうね。そして年クレーン家でも一人の男児が産まれた。つまりは僕さ」
 ベンチに深く腰を沈め、「そう。絶頂だったんだ」と悲しげにクレーンさんは呟いた。
 「メリッサを産んで一年後、ガーランド卿の奥方は亡くなった。黒煤コクバイ病だった」
 「えっ」と声を出す私を見もせずクレーンさんは話を続ける。
 「ガーランド卿のお嘆きは言葉では言い表せてないほどだったようだ。それはそうさ今からってときに奥方が身罷り、一時はかなり自暴自棄になっていたみたいで出仕すら疎かにするようになった。慌てたのは周りもそうで、なんせメリッサではガーランド家は相続できないからね。周りは縁談を取りまとめてガーランド卿へと薦めた。だがガーランド卿は頑として聞かなかった。亡くなった奥方を本当に愛していたんだろう。その想いはあるいは亡くしてからの方が強くなるのかもしれない」
 そこで私はクレーンさんの視線がじぃっとある一つのところへ定まっているのが分かりました。私もその視線を追ってみるとそこは二号館の三階、一番の重症者が集められる部屋でした。
 その窓辺で一人の痩せこけた青年が窓枠になんとかといったふうに肘をつき、外を見ています。その隣にはエマさんが居ました。エマさんは外ではなく患者さんを見ておりその表情は慈愛に満ちはっとするほど美しいのがここからでもよく分かります。まで聖母様のようでした。お二人はこちらには気付いていないようです。
 「父上は……」としばらくエマさんを見ていたクレーンさんは再び話し始めます。
 「父上はそんなガーランド卿を心配して何度かガーランド卿を訪ねたそうだが会うことはできなかったらしい。父上は本当に心配だったんだろうね、手紙を書いたり贈り物を送ったり最終的には陛下に慰問の使者を立たせて自らその使者になるつもりだったみたいだ。さすがに陛下の使者を門前払いはできないだろうという考えにしても友人のために陛下すら巻き込もうとするんだからスケールな大きな話だ」
 「しかし、そうはならなかった。ある日突然ガーランド卿はふたりとうちを訪ねてきた。外を駆け遊ぶ兄上たちや揺り籠で眠る僕を見て父上にお前が羨ましいと声を出さずに涙を流したそうだ。そして涙を流しながらこの子を、と僕を指してこの子を……メリッサの婿にくれと頭を下げた。昔言っていた冗談が本当になったのさ、子はメリッサしかいない、メリッサではガーランド家を継ぐことはできない。しかし男児を得るために新しい妻を娶る気はない。なら婿を取るしかない。どうせ取るなら親友のハワード・クレーンの子がいいと思い立ちその日クレーン家を訪ねてきたんだろう。父上その親友の涙ながらの言葉にいちもにもなく了承した。二人の友情はより深まった」
 「それから僕もメリッサも成長し、あと数年もすれば僕はガーランド家の婿になる予定だった」
 そこでクレーンさんは息を吐き、眩しそうに目を細めて空に浮かぶ太陽を見た。
 「しかしまた不幸がおそったのさ。次は僕が黒煤病にかかった。さっと顔色を変えてガーランド卿は僕の婿取りを辞め、父上はそんなガーランド卿に激怒した。二人は宮中であっても言葉を交わすことも視線を向けることもないって評判だ」
 自嘲気味にくくくと笑うと「僕が……僕が病気になったばっかりに長年の友好関係であったクレーン家とガーランド家はいまや険悪そのものだ。両家の仲を僕が壊したのさ」と言った。
 
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