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最終話
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「もういらない」
そう言ってスプーンを置いたクレーンさんを見て私はまたかとため息をつきたくなる気持ちになった。
最近になってクレーンさんはよく食事を残すようになっていた。散歩の時間にもベッドから動こうとしない。あの二号館の近くのベンチに座ってお話をしたときからみるみるクレーンさんは活力をなくし、気だるげな毎日を過ごしている。
拗ねているのだろうと私は思った。メリッサさんが訪ねてきて自分を取り巻く状況を認識してがっくりきていると想像した。
だからエマさんには相談しなかった。特に相談するべきことだとは思えなかったしエマさんは最近二号館のある患者さんにつきっきりになっていたので顔を合わせる回数も減っていた。
「そうですか」
私は無理強いするのもよくないと食器を下げる。クレーンさんは少し痩せた頬で「ごめんね」と遠慮がちにこちらを窺うように笑った。
なんだか最近のクレーンさんは卑屈になっているようで私はあんまり好きじゃない。もっと最初ここに来たときくらいワガママで意地悪な姿を見せてほしかった。
食器を片付けるために部屋を出ようとしたら後ろからこほっこほっとクレーンさんが咳をする音が聞こえた。
嫌な咳だった。
──────────
それから数日後、二号館の人が亡くなった。あの日私とクレーンさんが見たエマさんと外を眺めている人だった。
雨が降る深夜のことだった。その日私は二号館でエマさんと当直であり、その時クレーンさんの最近の様子をエマさんに話したかったのだけどなぜかエマさんはずっとむっつりした様子でとてもじゃないが話ができるような雰囲気ではなかった。
深夜、雨の音を聞きながらうとうとしていたらけたたましく当直室に備えられたベルがなった。それは患者さんが眠るベッドの一つ一つに備え付けれており、なにか異常が起きるとそれを使って看護人に知らせることができるのです。
そのベルがある一室から一斉に鳴ったのです。
ベルの音に一気に覚醒した私がすぐに立ち上がりどこの部屋から呼ばれているのか確認をしようとするときにはもうエマさんは当直室を飛び出し、走り出していました。
私もエマさんの後ろを追い、走り出しました。
病室からは重いなにかを吐き出すような咳の音がします。その音の主が居るベッドのカーテンを開くとそこには黒い煤のような塊を吐き出す患者さんが居ました。
「げふっげっふ」と苦しそうに咳をする度に黒いものが口から溢れ出てきます。
「先生を呼んできなさい! 」
「は、はい! 」
一瞬呆けたように棒立ちになった私は転げるようにして先生を呼びに行きます。私は相当に動揺していました。黒煤病は治る病気である。完治して当たり前。なぜならワクスマンの魔法があるんだから、と。こんな症状を見たのはこちらに来て初めてのことでした。
病室を出る瞬間ちらりと振り返るとエマさんが患者さんの口に自らの口を付けていました。黒い塊を吸い出しているのです。
私は今度こそ脇目も振らず走り出しました。
先生と一緒にまた病室に駆け戻るともう患者さんは息をしていませんでした。
なぜ、と思いました。黒煤病は残酷ですが長く苦しむ病です。こんな一気に容態が悪化し死亡してしまうなんて。
「なんということだ」と先生も愕然としていました。
エマさんもまた口元や服を黒く染めて厳しい目で天井を睨んでいました。
──────────
「あの人死んじゃったんだってね」
最近にしては珍しく散歩に出たクレーンさんはぽつりとそんなことを言いました。誰のことを言っているのかすぐ分かりました。
しかしあの急死は患者さんに動揺を与えるとして箝口令が敷かれているはずです。なぜクレーンさんが知っているんだと思っていたら、「なんで知ってるんだって顔をしてるね」と言って笑いました。
「案外僕ら患者側の繋がりもあるからね。看護人たちが隠せば隠そうとするほど話は回ってくるよ」
そういうものなのか、と私は思いました。確かに隠そう隠そうとすれば多くの人の興味を引いてその秘密を阿波港とするのかもしれない。
「あの人はどうなったの?」
死んじゃったといいつつクレーンさんはまだあのエマさんと外を眺めていた人が生きてるかのような言い方をしました。
「……故郷に戻られました。ご家族の方が迎えにきて」
「そう」
生暖かい風が吹きました。ぞっとするような気持ちが悪い風でした。
──────────
明らかに黒煤病になんらかの変化が起こっているとして思えない事態になってきました。あの急変した患者さんの後もう三人も亡くなっています。そのうちの一人は一号館の患者さんであり、つまり軽症と判断がされていた人であった。
「こんなのおかしいです! なにか良くないことが起きているんです! 」
私はエマさんにそう八つ当たり気味に食ってかかるもただエマさんは困ったかのように首を振るだけであった。
「どうしようもないの。先生方も色々対策を講じてはいるけど黒煤病に対する唯一の対処法はワクスマンの魔法しかないの」
ワクスマンの魔法さえあれば大丈夫だと思っていた。だから黒煤病がなにかすら私達はなにも知らなかったのだ。あれほど恐ろしいと思っていた病も特効薬ができると研究することをやめ、特効薬に頼り切りになっていた。
「おい! クレーンの坊っちゃんがやべぇぞ! 」
クレーンさんと同室でありエビアンさんが私達の元に走り込んできました。
その形相はとても尋常のものじゃなく、なにかとんでもないことが起こったんだと確信しました。
まさか、そう思いクレーンさんの病室に行こうとしますがまるで夢ので走っているかのように足がぐらぐらとしうまく地面を蹴ることができません。
なんだ、これと思わず膝をつきそうになりましたがエマさんに支えられ「しっかりしなさい! 」と一喝されました。
なんとかクレーンさんの病室に辿り着くと、「げふっげっふ」とあの雨の夜聞いた咳とまったく同じ咳をクレーンさんがしているではないですか。口元や病院服が真っ黒に汚れています。
「あぁああ! 」と私はたまらずクレーンさんに駆け寄りました。それを見たエマさんは私とクレーンさんを見比べた後「私は先生を呼んできます! 」と病室から走り出て行きました。
もう私はどうしていいか分かりません。苦しそうに美しい顔を歪めるクレーンさんになにもすることできません。自らの無力さを痛感します。
クレーンさん「げふっげっふ」と咳をして黒い塊を吐き出します。まだ喉に残っているのか苦しそうです。
私はクレーンさんの口を吸い、喉奥に残る黒い塊を吸い出します。一生懸命、吸い出します。だけど吸っても黒い塊は出てきます。クレーンさんに呼吸をさせて、また私が黒い塊を吸い出します。
生きて、生きてくださいクレーンさん。生きてガーランド卿を見返してやりましょう! 生きてクレーン家とガーランド家の仲を修復作業するんです! そしてなにより生きて幸せになるんです!
エマさんが先生を連れてきました。先生は私を跳ね除けるようにクレーンさんに取り付き、魔法をかけました。
──────────
遠くの丘へ大きな白馬の二頭立てのとても立派な馬車が走り去って行くのが見えます。
その馬車は悲しみを乗せてどこか遠くの私が見たこともない土地へあの人を運んでいくのでしょう。
ただ不思議なことにあの馬車が持ち去っていくはずの悲しみはまだ私の直ぐ側に漂っています。
私は丘の向こうへ馬車が消えてしまってもずぅっとそこに立ち尽くしていました。
そう言ってスプーンを置いたクレーンさんを見て私はまたかとため息をつきたくなる気持ちになった。
最近になってクレーンさんはよく食事を残すようになっていた。散歩の時間にもベッドから動こうとしない。あの二号館の近くのベンチに座ってお話をしたときからみるみるクレーンさんは活力をなくし、気だるげな毎日を過ごしている。
拗ねているのだろうと私は思った。メリッサさんが訪ねてきて自分を取り巻く状況を認識してがっくりきていると想像した。
だからエマさんには相談しなかった。特に相談するべきことだとは思えなかったしエマさんは最近二号館のある患者さんにつきっきりになっていたので顔を合わせる回数も減っていた。
「そうですか」
私は無理強いするのもよくないと食器を下げる。クレーンさんは少し痩せた頬で「ごめんね」と遠慮がちにこちらを窺うように笑った。
なんだか最近のクレーンさんは卑屈になっているようで私はあんまり好きじゃない。もっと最初ここに来たときくらいワガママで意地悪な姿を見せてほしかった。
食器を片付けるために部屋を出ようとしたら後ろからこほっこほっとクレーンさんが咳をする音が聞こえた。
嫌な咳だった。
──────────
それから数日後、二号館の人が亡くなった。あの日私とクレーンさんが見たエマさんと外を眺めている人だった。
雨が降る深夜のことだった。その日私は二号館でエマさんと当直であり、その時クレーンさんの最近の様子をエマさんに話したかったのだけどなぜかエマさんはずっとむっつりした様子でとてもじゃないが話ができるような雰囲気ではなかった。
深夜、雨の音を聞きながらうとうとしていたらけたたましく当直室に備えられたベルがなった。それは患者さんが眠るベッドの一つ一つに備え付けれており、なにか異常が起きるとそれを使って看護人に知らせることができるのです。
そのベルがある一室から一斉に鳴ったのです。
ベルの音に一気に覚醒した私がすぐに立ち上がりどこの部屋から呼ばれているのか確認をしようとするときにはもうエマさんは当直室を飛び出し、走り出していました。
私もエマさんの後ろを追い、走り出しました。
病室からは重いなにかを吐き出すような咳の音がします。その音の主が居るベッドのカーテンを開くとそこには黒い煤のような塊を吐き出す患者さんが居ました。
「げふっげっふ」と苦しそうに咳をする度に黒いものが口から溢れ出てきます。
「先生を呼んできなさい! 」
「は、はい! 」
一瞬呆けたように棒立ちになった私は転げるようにして先生を呼びに行きます。私は相当に動揺していました。黒煤病は治る病気である。完治して当たり前。なぜならワクスマンの魔法があるんだから、と。こんな症状を見たのはこちらに来て初めてのことでした。
病室を出る瞬間ちらりと振り返るとエマさんが患者さんの口に自らの口を付けていました。黒い塊を吸い出しているのです。
私は今度こそ脇目も振らず走り出しました。
先生と一緒にまた病室に駆け戻るともう患者さんは息をしていませんでした。
なぜ、と思いました。黒煤病は残酷ですが長く苦しむ病です。こんな一気に容態が悪化し死亡してしまうなんて。
「なんということだ」と先生も愕然としていました。
エマさんもまた口元や服を黒く染めて厳しい目で天井を睨んでいました。
──────────
「あの人死んじゃったんだってね」
最近にしては珍しく散歩に出たクレーンさんはぽつりとそんなことを言いました。誰のことを言っているのかすぐ分かりました。
しかしあの急死は患者さんに動揺を与えるとして箝口令が敷かれているはずです。なぜクレーンさんが知っているんだと思っていたら、「なんで知ってるんだって顔をしてるね」と言って笑いました。
「案外僕ら患者側の繋がりもあるからね。看護人たちが隠せば隠そうとするほど話は回ってくるよ」
そういうものなのか、と私は思いました。確かに隠そう隠そうとすれば多くの人の興味を引いてその秘密を阿波港とするのかもしれない。
「あの人はどうなったの?」
死んじゃったといいつつクレーンさんはまだあのエマさんと外を眺めていた人が生きてるかのような言い方をしました。
「……故郷に戻られました。ご家族の方が迎えにきて」
「そう」
生暖かい風が吹きました。ぞっとするような気持ちが悪い風でした。
──────────
明らかに黒煤病になんらかの変化が起こっているとして思えない事態になってきました。あの急変した患者さんの後もう三人も亡くなっています。そのうちの一人は一号館の患者さんであり、つまり軽症と判断がされていた人であった。
「こんなのおかしいです! なにか良くないことが起きているんです! 」
私はエマさんにそう八つ当たり気味に食ってかかるもただエマさんは困ったかのように首を振るだけであった。
「どうしようもないの。先生方も色々対策を講じてはいるけど黒煤病に対する唯一の対処法はワクスマンの魔法しかないの」
ワクスマンの魔法さえあれば大丈夫だと思っていた。だから黒煤病がなにかすら私達はなにも知らなかったのだ。あれほど恐ろしいと思っていた病も特効薬ができると研究することをやめ、特効薬に頼り切りになっていた。
「おい! クレーンの坊っちゃんがやべぇぞ! 」
クレーンさんと同室でありエビアンさんが私達の元に走り込んできました。
その形相はとても尋常のものじゃなく、なにかとんでもないことが起こったんだと確信しました。
まさか、そう思いクレーンさんの病室に行こうとしますがまるで夢ので走っているかのように足がぐらぐらとしうまく地面を蹴ることができません。
なんだ、これと思わず膝をつきそうになりましたがエマさんに支えられ「しっかりしなさい! 」と一喝されました。
なんとかクレーンさんの病室に辿り着くと、「げふっげっふ」とあの雨の夜聞いた咳とまったく同じ咳をクレーンさんがしているではないですか。口元や病院服が真っ黒に汚れています。
「あぁああ! 」と私はたまらずクレーンさんに駆け寄りました。それを見たエマさんは私とクレーンさんを見比べた後「私は先生を呼んできます! 」と病室から走り出て行きました。
もう私はどうしていいか分かりません。苦しそうに美しい顔を歪めるクレーンさんになにもすることできません。自らの無力さを痛感します。
クレーンさん「げふっげっふ」と咳をして黒い塊を吐き出します。まだ喉に残っているのか苦しそうです。
私はクレーンさんの口を吸い、喉奥に残る黒い塊を吸い出します。一生懸命、吸い出します。だけど吸っても黒い塊は出てきます。クレーンさんに呼吸をさせて、また私が黒い塊を吸い出します。
生きて、生きてくださいクレーンさん。生きてガーランド卿を見返してやりましょう! 生きてクレーン家とガーランド家の仲を修復作業するんです! そしてなにより生きて幸せになるんです!
エマさんが先生を連れてきました。先生は私を跳ね除けるようにクレーンさんに取り付き、魔法をかけました。
──────────
遠くの丘へ大きな白馬の二頭立てのとても立派な馬車が走り去って行くのが見えます。
その馬車は悲しみを乗せてどこか遠くの私が見たこともない土地へあの人を運んでいくのでしょう。
ただ不思議なことにあの馬車が持ち去っていくはずの悲しみはまだ私の直ぐ側に漂っています。
私は丘の向こうへ馬車が消えてしまってもずぅっとそこに立ち尽くしていました。
応援ありがとうございます!
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