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第六章 新たな命
5 砂漠の樹
しおりを挟む「じゃ、始めるよ。ちょっと離れていてね、ヴォルフ」
バギーに乗ったヴォルフに向かってフランがそう言ったのは、マレイアス号からかれこれ五十マエル(約八十キロメートル)も離れた地点だった。周囲は相変わらずの、砂ばかりが波うつ景色である。赤子は、ヴォルフが片腕に抱いている。
ヴォルフはバギーを回頭させ、フランのいる場所から百ヤルド(約百メートル)ほど距離を取った。
いま、フランは上半身裸になっている。「僕の服なら大丈夫なつくりなんだけど、ヴォルフの服を破きたくないからね」というのがその理由だった。
見ていると、フランは胸のあたりで何かを祈るように両手を組み合わせ、しばらく集中する様子だった。
と、ぼうっと彼の体が光りはじめ、背中からぶわっと真っ白に輝く巨大な翼が生えでてきた。
「わう! だあっ、ぷわあ……!」
赤ん坊がそちらを凝視して興奮している。目をきらきらさせ、しきりに手足をばたつかせて、そっちへ行きたがっている様子だ。ヴォルフは苦笑して、片腕に抱いた赤子の背中をぽすぽすたたいた。
「ああ。きれいだよな、お前のママは」
「たった。ぱっぱ……!」
思わず頬ずりしかけたが、そうすると赤ん坊はいつも鼻の頭にしわを寄せ、ぐいぐいと小さな手で顎を押しやってくる。どうやらヴォルフの無精髭が苦手のようだ。
そうするうちに、フランがゆっくりと翼をはばたかせ、ふわりと浮き上がった。その場から十ヤルドほども飛びあがり、今度はゆったりと両手をひろげて上空を見あげるようにしている。
彼の羽から、ちょうど一枚の羽毛の形をした光の粉のようなものが舞い落ちてくる。それがくるくると夢のように舞いながら地上に到達すると、そこから不思議なものが顔をだした。
(あれは……)
非常な光度で輝いているために、まぶしくてしっかりと目を開けていられない。が、それはたしかに植物の芽のようだった。最初は小さな緑の芽であり、垂れていた頭がゆっくりと持ち上がると、それが双葉に分かれていく。やがてにょきにょきと枝を伸ばして上へ上へとのびはじめた。
すべてが、あっという間の出来事だった。
伸びゆく植物の先頭が上空のフランを目指し、見る間に大きな樹へと成長していく。気がつけばもう、こんな砂漠にだしぬけに一本の大樹が出現していた。
あの地下世界で見た樹よりはずいぶんと小さいが、それでも十分に大きな樹だ。見たところ、高さは三十ヤルドほど。一見して「メタセコイア」と呼ばれる樹によく似ていた。
フランは空中を滑るようにすうっとこちらに飛んでくると、翼を光の粒に霧散させてバギーのそばに降り立った。
「すげえな、フラン。こんなことまでできんのか」
素直に賞賛したら、フランが「まあね」と困ったように苦笑した。
あの地下世界で子供たちをある程度まで育てたら、以降は地上でこんな風に彼らをサポートするのも、彼らの役目であるらしい。
「でも、今こんな所に生えさせてあげたって、ただ可哀想なだけなんだけどね。太陽の光はいっぱいあるけど、水源が遠すぎるから。上手に水だって吸えないだろうし。なにより、一本だけじゃなんの意味もない。せっかく種を落としても、ここじゃあただ枯れていくのを待つだけなんだから──」
申し訳ないことしちゃってるよ、と言う声は大いに自嘲を含んでいた。
「でも、これが一番アジュールの気を引けると思うから」
「……そうか」
「さ、次いこう、次」
フランは意識的に明るい声と表情を作り、そそくさと助手席に乗り込んで、ヴォルフから赤子を受け取った。
◆
「まったく。こんなの無謀に過ぎますわ……」
「はい。ほんと、そうですよね……」
「あ。ごめんなさい」
隣のミリアが心配そうな目でこちらを見下ろし、小さく頷いたことで、タチアナは初めて心の声を外に出していたことに気が付いた。
差し出されたコーヒーのカップを礼を言って受け取る。
マレイアス号の修理はいまだ続行中だ。あと十時間はかかるだろう、というのがフォレスト大佐の見解である。大気圏内を飛ぶだけなら今でもすでに可能だが、宇宙空間に出るとなると話は全く変わってくる。まして、異空間航行までするとなればなおさらだ。
ミリアはともかく、タチアナはごつい男連中ほど体力仕事には役に立てない。そのため、基本的には補助的な作業に回っている。作業に当たっている人員の食事や健康管理がおもな仕事だ。タチアナがそうしているので、ミリアもこちらを手伝ってくれている。いまは食品管理部で、皆の食事の準備作業中だった。
「ちゃんと、戻ってきてくれますよね? ヴォルフさん……」
ミリアはまた涙ぐんでいる。
「あんな可愛い赤ちゃん、置いていけるわけないですよね? ヴォルフさん、顔だけじゃあんまりわかんないですけど、ほんとはとっても優しい人ですし」
何やらさらっと失礼な見解が挟まっている。もしも本人が聞いていたら、かなり微妙な顔になりそうだ。が、彼女には一抹の悪気もない。それがいつも明白なので、これで意外にも誰も気分を害することがないのだ。なかなか得な性格をした後輩である。
「ほんと、可愛い赤ちゃんでしたよねっ。あたしでさえ、ずーっとキスしててあげたいぐらい、食べちゃいたいぐらいでしたもん!」
「……そうね」
「ヴォルフさん、もともと子供好きっていうのもあるけど、あの子のことほんとに大切にしてました。もちろん、フランさんのことだってすっごく──」
言いながら、またぐすっと洟をすすりあげる。
「ええ。私もそう思うわ」
大人数の兄姉のいる家庭の末っ子であるミリアは、ちょっと甘えん坊なところはあるがとても心の優しい子だ。明るくおおらかでまっすぐな子。だから、この子といるとタチアナはホッとするのだ。
小さなことにこせこせと、つい拘りたくなる自分とは大違い。正直、羨ましく思うこともある。面と向かっては言わないが、後輩とはいえそういう部分は尊敬すらしているし、感謝もしている。
昨夜。
ヴォルフはタチアナたちにこう頼んできた。
『二十時間たっても俺が戻らなかったら。または、マレイアス号のみんなに何かの危険が迫ったら。俺らのことには構わず、即座に船を発進させてくれ』と。『絶対に俺らを待つな』と。
そう、フォレスト大佐に頼んでくれと。
「そんなことできるわけがない」と、どんなに二人が食い下がっても無駄だった。彼はもう、とっくに覚悟を決めていたのだ。
フランも半泣きの顔で、「そんなのやめてよ。ダメだよ」とずっと彼に嘆願していたが、ヴォルフは決して首を縦には振らなかった。むしろ「泣くんじゃねえよ。つられて赤んぼが泣くだろうが」とにかっと笑って、彼の頭を子供にするみたいにしてぽすぽす叩いた。それでまた、余計にフランが顔をくしゃくしゃにしてしまった。
あの二人の間に生まれた感情がなんであるか。
タチアナにもミリアにも、もう十分にわかっている。
わかっているが、それは第三者がずかずかと踏み込んで、勝手に口を挟むことではないのだ。
(ただ……祈るしか、できないのね)
彼らがどうか、みな無事で戻ってくれますようにと。
いずれあの赤ん坊も一緒に、幸せに生きられるようになりますようにと。
タチアナは軽くため息をつくと、赤い砂の舞う窓外を黙って見つめた。
──と。
ズズズズズ──
ゴゴゴゴゴゴ──
静かな地鳴りが聞こえたかと思ったら、がくっと足もとの床が跳ね上がった。
「ひゃっ!?」
ミリアが頓狂な声を上げた途端、タチアナの手からカップが滑り落ち、床から壁へと跳ねていく。
(なんですの……!?)
いや、何かを考える暇もなかった。
次の瞬間にはもう、タチアナとミリアの体は床に投げ出されていた。背中をしたたかに打ち付けて、一瞬息が止まる。
部屋全体が、いやマレイアス号全体が、凄まじい揺れに襲われていた。
けたたましく緊急警報が鳴り響く。
機械的なマックスの声が、淡々と流れだす。
《地震発生。地震発生》
《当機はただいまより緊急離陸シークエンスに移行します》
《総員、安全確保をお願いします。頭部を守ってください》
《可能なかたは体の固定と、宇宙服装着をお願いします》──
(ヴォルフさんっ……!)
ミリアと抱き合うようにして床に転がり、衝撃にそなえて頭を抱えながら、タチアナは必死に次の行動を考えていた。
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