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第七章 兄
5 挑発
しおりを挟む『ゴミが何か言ってるな。黙らせろ』
冷徹そのものの男の声がしたが、ヴォルフは引かなかった。「訳してくれ、フラン」と言いながら赤子を岩陰のくぼみにそっと寝かせ、改めて男の方を向く。
「俺がどうやら置いてけぼりになったっつうのは、理解した。どうしようもねえ。この状況じゃ、しょうがねえこったし。俺自身が『そうしてくれ』って頼んで出て来たわけだしな。……覚悟はしてた」
「ヴォルフ……!」
途端、フランがくしゃっと泣き顔になる。それに向かって「いいから、訳せ」と笑って見せ、ヴォルフは言葉を続けた。
「俺を殺してえならそうしな。けど、フランと赤んぼには手ぇ出すな。っつうか、ちゃんと育てて、幸せにしろ。そんで、めちゃくちゃ大事にしろ。その条件でいいなら、喜んで殺されてやる」
「ヴォルフったら……!」
フランが遂に絶叫した。ヴォルフは軽くため息をついて見せた。
「だから、『訳せ』っつってんだろ」
「やだっ!」
必死で首を横にふられる。その目はもう盛大に潤んでいる。
「なに言うの。やめて、ほんとに冗談じゃないんだから! アジュールにそんな冗談通じない。そんなの絶対、ダメだよっ……!」
「冗談で、んなことが言えるかよ」
言って、ヴォルフはぐいとフランに近づいた。
「ダメだって……!」
フランが慌てて、またヴォルフを庇うようにアジュールとの間に立ちはだかり、羽と腕を広げてくる。
その腰に、後ろから腕を回して抱きしめた。
「ヴォ、ヴォルフ……!」
フランが急いでその上から自分の手を添えて守るようにした。アジュールの目が怒気を強め、今にもヴォルフの腕を切り落としそうにしたからだ。
『……貴様』
色の薄い蒼い目が、もやもやと赤く変化しはじめている。
『その汚い手を離せ。せめて苦しみのない死を与えようという、俺の温情に水を差す気か』
「…………」
ヴォルフはフランの背後から、その兄の鬼面を見やった。色目が違うとはいえフランと瓜二つといっていい「兄弟」なのに、表情と雰囲気だけでここまで人が違って見えるのだから不思議なものだ。
『あまりいい趣味だとは思わんが、それがお望みだと言うなら極限まで責めさいなんでやらんこともないぞ。その果てに、じっくりと切り刻んでやろうじゃないか。貴様が涙とよだれまみれになって「いっそ殺してください」とブタのように鳴いて希うまで、嬲りつくしてやってもな』
『やめて、アジュール……!』
真っ青な顔ではさまれたフランの声など、もちろん男は無視してのけた。
『まずは、俺のフランに突っ込みやがった汚いモノから切り落としてやる。寸刻みで、先から少しずつ、少しずつな』
(……趣味が悪い)
いや、そんなことはあの夜以来、もう十二分にわかっていたが。こうしてあらためて言われると、ヴォルフとしてもどうしても半眼にならざるを得ない。そうしてむしろ、フランを抱く手に力をこめた。
男がさらに目を細めた。
『身の程を知れ。ゴミ虫風情がいきりたって、青臭い真似をするなよ』
「『青臭い真似』たあ畏れいったね。あんたに言われたかねえや。それやってんのはどっちだっつうのよ」
「ヴォルフ……!」
「こいつはあんたの『弟』なんだろ。そんなに大事だってえんなら、それ相応の扱いをしろ。今のまんまじゃ、玩具を取り上げられそうになったガキそのまんまだぜ、お兄ちゃん? とても『大人の態度』とは思えねえ」
「ヴォルフったら! ダメだよっ……!」
フランの声は完全に哀願する人のそれになった。抱きしめた体が恐怖のためにぶるぶると小刻みに震えている。
彼は翼を出して以来、ずっと上半身裸のままだ。滑らかな彼の素肌から、人としての体温が伝わってくる。ヴォルフは彼のきれいに分かれた腹筋の上をなぞるようにさらりと撫でた。
アジュールの周囲の空気が、さらに明らかに温度を下げた。
フランはもう泣きそうだ。
「ほんとにやめて。僕、僕は……君に何かあったら、僕はっ……!」
ヴォルフはぐっと彼の耳に顔を寄せた。
「俺に何かあったら? どう思ってくれるんだ」
「え、う……」
こんな時になに言ってるの、と小さな声が聞こえる。じわじわと耳たぶが赤く染まっていくのが見えた。
ヴォルフはこれ見よがしに、そこを唇でやわらかく食んだ。そのまま耳の中に舌を差し入れてやると、びくっと彼の体がはねた。
「ひゃうっ……!」
『貴様ッ……!』
途端、男の両眼が真っ赤に燃え上がった。
巨大な刃がびゅっとヴォルフの頬を掠める。フランが素早く身をよじっていなければ、刃は過たずヴォルフの脳天を貫いていたはずだった。
二人はそのままバランスを崩し、抱き合うようにして岩の上に転がった。
『やめて、アジュール! お願いっ……!』
見ればフランの片翼がばっさりと斬り落とされ、三角形になっている。刃に切り裂かれたのだろう。その切り口はすっぱりと鋭角の縁を見せ、嘘のようにまっすぐだった。頭上からぱらぱらと羽毛が降ってくる。
次にはもう、翼はぱっと光の粉になって消え去った……と、思った瞬間。
「ふわあああんっ!」
岩陰の向こうから、赤子の泣き声が響きわたった。
アジュールの視線がぎろっとそちらに向けられる。
赤子の声は明らかにフランとヴォルフを求めていた。向こう側からでは二人の顔が見えないのだ。不安に駆られているのだろう。
男は不快げに眉を顰めた。
『先に、そっちのゴミ掃除をしておくか。ん?』
言うなり、ザっと足を出す。
『やっ……、やめて!』
フランが絶叫して跳ね起きた。
しゅるしゅるっと男の腕が変形し、巨大な鎌のような形になって岩を迂回していく。それが岩陰へとのびていくのと、フランが飛び出すのとは同時だった。
「フランっ!」
そこから、ひどく時間の流れが緩慢になった。
フランが無我夢中で足を回転させ、のびてゆく刃の先へ手をのばす。
足が思うように動かない。いや、必死に走っているのだ。なのに、どうしても先へ進まない。
ヴォルフも絶叫した。
そのつもりだった。が、よくわからない。
すべての音が、遠い……遠い。
フランも何か叫びながらすぐ前を走っている。
男も何かを叫んでいる。
フランの背中が岩陰に倒れ込み、
赤子がいる場所にうつぶせになり──
ザシュッと鈍い音がして、一瞬、すべての時が止まった。
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