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第八章 隠された記憶
1 後悔
しおりを挟む医療物資を運んでいた手をふと止めて、タチアナは窓辺に立ち止まった。
まあ、「立ち止まった」という表現は少し奇妙なのかもしれない。マレイアス号の中でも、この通路には重力システムが働いていないからだ。ここを通るとき、人は無重力の空間を浮かんで移動することになる。壁際の移動レバーに手を掛けてまっすぐ運んでもらうのが常だからだ。
つまりタチアナは今、その移動レバーから手を離し、荷物を脇に抱えて空間に浮かんだ状態なのである。今だけは上も下もない、無重力の世界。
マレイアス号のあちこちにあるこうした通路の壁は、ゆるやかな曲線で囲まれた大きな窓の連なりになっている。この壮大な、しかし無機質な星空の絨毯が、シルバー一色で統一された廊下を演出する、絵画の役割を果たしているわけだ。
だが、今のタチアナの目には、それら絵画の魅力はなにひとつ映じていない。
(ヴォルフさん……フランさん)
彼らは一体、どうなったのか。
あの時、突然の地殻変動に襲われて、マレイアス号の船体は今にもバランスを崩しそうになった。激しい振動とともに、全体がゆっくりと傾きはじめ、艦長であるフォレスト大佐は、まだ不完全だった外殻の修理を一旦中止させ、船を発進させることを決断した。
まず上空へと逃れ、そこで修理を再開させるつもりなのだろう。最初はタチアナもそう思った。
だが、違ったのだ。船の修理はヴォルフやタチアナが考えていた以上の突貫工事でおこなわれてきており、すでにかなりの時間短縮が果たせていたらしい。なんとその時点でも、宇宙を航行するのに差しつかえない程度までは直せていたようなのだ。
『お願いです。どうか、お願い……!』
タチアナとミリアは必死に抗議した。まだ、ヴォルフがこの惑星にいる。彼を取り残して逃げるわけにはいかない。
二人して入れかわり立ちかわり、言葉を尽くして説得をこころみたのだったが、結局それはムダに終わった。大佐の決心は固かった。彼ばかりではない。周囲の兵士らも科学者たちも、すっかりこの不気味な惑星に恐れをなし、あるいは嫌気が差していたのだ。
無理もない。不届きな輩だったとは言え、次々に乗務員の命が奪われ、船は謎の爆発を起こして大破した。そこへこの大地震だ。「泣きっ面に蜂」というにもあまりある急展開である。
人々の心身は、思う以上に疲弊していた。精神的に弱い者の中には自室に閉じこもり、体調を崩している者もいる。もはや限界だったのだ。
二人の孤軍奮闘もむなしく、フォレストが自身の決意を翻すことはなかった。マレイアス号は即座に宇宙空間への脱出をはかり、その後すみやかに故郷である彼方の宙域に向けて、異空間航行に入ってしまったのである。
(ごめんなさい、ヴォルフさん。フランさん……)
タチアナは唇をかみしめる。瞼の裏には、まるで魔法のような方法で生まれてきたというあの可愛らしい赤ん坊の姿や仕草が焼き付いて、けっして消えてくれない。
ほかの乗組員は知らないことだが、自分たちはヴォルフのみならず、あの美しい青年フランとその子である小さな赤子のことも見捨てて逃げてしまったのだ。
三人はどうなったのか。あの恐るべき「フランの兄」とかいう生き物に見つかったら、恐らくただでは済まないだろうに。
「先輩……。ここにいたんですか」
どうやら随分長い時間、このゆったりと動いていく星の海を見つめながらぼんやりしてしまっていたらしい。背後からミリアが近づいて来ていたことに、タチアナはしばらく気づかなかった。
「先輩の、重いでしょう。半分持ちますよ」
「あ……いえ。いいのよ、このぐらい。無重力スペースなんですし」
「なに言ってるんですか。それ、『重力スペースになったら重い』ってことじゃないですかあ。そこまで行ってから落っことされても困りますし~」
「あらいやだ。信用がないのね」
「今のうちに受け取っときますから。ほらほら、半分くださいよ~」
「もう。ミリアったら……」
口ではそう答えておきながら、力自慢で心優しい後輩のその言葉に、不覚にも鼻の奥がツンとする。気を抜くと自室でもつい、か弱い少女に戻ったみたいに泣きじゃくりたくなってしまうのだ。
タチアナもいい加減気づいてはいる。どうやらそれだけ、自分が弱っているのだということに。体の方ももちろんだけれども、精神面のほうでは特に。
「元気だしてくださいね、先輩……」
優しい後輩はそういうものをみんな見通したような、それでいて曇りのない瞳で悲しそうに微笑んだ。たくさんの兄や姉のいる末っ子として育ってきたためなのか、ミリアは人の顔色を読む力に非常に長けている。
「ありがとう、ミリア。……そうよね。無事だった私がこんなことじゃ、ヴォルフさんに申し訳──」
言いかけて、ぐっと言葉が続けられなくなる。タチアナは、ぱっと両手で顔を覆った。
大事な医療物資の入ったケースが手から離れて、ふわりと宙に浮く。必死で押し殺そうとする嗚咽が、どうしても漏れ出てしまいそうになる。
「先輩っ……!」
大柄なミリアの両腕がタチアナを抱きしめてくる。自分の荷物も、とっくに空中に放り出している。
「大丈夫。大丈夫ですよっ! あのヴォルフさんなんですからっ……!」
「…………」
「そんな簡単に、やられちゃうわけないじゃないですかあ! 先輩があきらめちゃってどうするんです!」
こみあげてくるものを必死に飲み下して見上げれば、ミリアはとっくにその目からぽろぽろときれいな雫をまき散らしていた。無重力の空間に、涙の粒がふわふわと舞い踊る。
タチアナはくすっと笑った。
「そうね。そうよね……」
「きっときっと、フランさんと赤ちゃんも守って、ちゃんと生きてらっしゃいますよ! 『ゴリラ』の異名は伊達じゃないはずなんですから!」
いや、べつにそれは異名でもなんでもないはずなのだが。
「だからあたしたち、きっときっと助けに行きましょう! もっともっと、すっごいセンサーとか搭載した船に乗って。ね? 先輩!」
「……ええ。そうね──」
豊かなミリアの胸にぎゅうぎゅうに押し付けられて苦笑しながら、タチアナはそれでも、少し冷えた脳裏で考えていた。
マレイアス号が離れた途端、あの惑星は姿を消した。メインコントロールシステムAI「マックス」は、「当該の惑星の反応が消失しました」と無機的な声で告げたのである。
以降はいっさい、あの星の位置も痕跡も見出すことがかなわなくなった。要するに、例の「惑星ステルス・システム」が発動したということだろう。
だから。
もう二度と、自分たちがあの惑星に辿りつくことはできない。
恐らく自分たちがあの惑星を見ることは二度とないのだ。
……もう、二度と。
(ヴォルフさん。フランさん──)
後輩の胸に顔をうずめたタチアナの小さな姿を、窓外の白い星々はひどく無関心げな顔のままじっと観察するようだった。
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