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プロローグ

藍鉄

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 何かが激しく壊れる音が、夕刻の離宮の静寂をやぶった。
 反射的にそちらに向かう。
 音などこそりとも立てぬが、誰より速い。
 自分がたまたま席を外しているほんのわずかな時間を狙ったように、あの方はこういったことをなさる。
 このところ、どうもそんな日が多くなっている。

 だが、自分はかの御方がどのようなご様子であれ、ただお傍についているしかできない。あの清げにお美しい御方おんかたのお手やお体が傷つくことのないようにと、細かく気を配るほどのことしかできないのだ。
 部屋に戻り、ぴたりと床に片膝をついたところで殿下の叫びが響き渡った。

「うるさい、うるさいっ……! 出てゆけ、みんなここから出てゆけっ!」

 飛んできた陶製の茶器が頬を掠める。女官たちが小さく悲鳴をあげて部屋の隅で身を寄せ合う。侍従もおろおろと目を忙しく動かすが、やっているのはそれだけだ。
 だが自分は微動だにせず、いつもどおり殿下に向かってこうべを垂れているばかり。
 と、新たな声が飛んできた。

藍鉄あいてつ、お前もだ。その鬱陶しい顔を私に見せるなと、何度言えばわかるんだッ!」

 男性にしてはやや高めの柔らかな声。普段は耳に心地よいばかりのその声が、今は哀れに引き裂かれている。
 飛んで行った茶器は背後の柱に当たり、派手な音を立てて砕け散った。
 殿下は優美な曲線をえがく寝椅子の前に仁王立ちになり、目を怒らせてこちらを睨みつけている。この場でそのお目にうっすらと浮かんでいるものに気付いているのは、自分を措いてほかはいるまい。

 藍鉄は、低く「は」とだけ言って音もなく身を隠した。腕に仕込まれているステルス化装置を素早く操作し、人の目に見えない状態へと変化へんげする。通常、滄海の忍びはこの形態で貴人の身をお守りするのだ。
 女官や侍従たちがそろそろと出口へといざっている。
 殿下は「はあっ」と聞こえるほど大きくため息を漏らすと、その身をどさりと寝椅子に投げられた。肩で激しく息をしながら片手で顔を覆っておられる。口もとは悔しげに噛みしめられている。
 それらはすべて、これが本意ではない証拠だ。だがご自身、この心中の嵐をどうにもおできにならないのだろう。

 やしきにいる侍従や女官らは、この方の身の回りのお世話をするために配置された者たちだ。みんなすでに外へ出て、ちらちらと遠巻きにこちらを窺う様子である。

(……やむなし、か)

 藍鉄は心中ひそかに吐息を洩らす。
 帝都青碧せいへきから数セクション離れた小都市、紺青こんじょう。その中央に位置するこの離宮には、この方をお諫めできる者などだれもいない。この方をしんからご叱責できるのは、この国広しといえどもお父君群青陛下と、兄君玻璃殿下を措いてほかにないからだ。
 藍鉄は一瞬だけ姿を見える状態に戻すと、外の者たちに目だけで伝えてやった。「ここはしばらくよい」と。かれらの表情があからさまにほっとしたものに変わり、するすると場を退いていく。

 海底皇国の第二皇子、瑠璃るり殿下。
 それが今、自分がお仕えする美しくも尊き御方おんかたである。

(……少し、気鬱がお戻りになったか)

 兄君とその配殿下とのご婚礼が終わり、宇宙から来たあの怪物による恐るべき事件も終息して数か月。しばらくは落ち着いておられるようだったのだが。
 最初この方は「あんな凡夫に兄上を盗まれるなんて」と激昂し、誰かれ構わず当たり散らしておられたものだ。あの頃よりかは幾分ましではあるものの、それでも斯様かようなご気性の激しさは、側付きの者らにとって迷惑なものでしかないであろう。

 本来であれば貴人たるもの、目下の者らに要らぬストレスを加えるべきではないものだ。それは結局、ゆくゆくは己が首を絞めることにもなりかねぬ。ゆえに殿下がたは幼少からそのように教育もされておられる。
 いやもちろん、かれらにはそれが許されている。どのようにわがままをいい、目下の者らを虐げようと。高貴すぎる彼らの立場がそれを許してしまうからだ。
 しかし許された立場であるからこそ、目下の者らに普通以上の気遣いを示すこともまた求められるもの。恐らく群青陛下や玻璃殿下であれば、間違いなくそのように仰せになるだろう。

(──しかし)

 と、藍鉄は思う。
 無礼を承知で申し上げれば、こうしてお荒れになるお気持ちはよくわかる。
 この御方は、単なる兄としてあの玻璃殿下を愛しておられたわけではないからだ。
 忍びたちは、貴人の多くの「秘密」を知っている。情報はときに警護のかなめでもあり、情報共有のために横のつながりも常に重要視されている。
 瑠璃殿下に関するこれらの話は、現在ユーリ殿下の警護を任されている黒鳶から聞いたものが多い。もちろんお互い、どんな拷問を受けたとしても決して口外することはないけれども。

 黒鳶は、今では配下を離れたものの、かつては自分の下にいて忍びとしての仕事を伝授した、いわば「後輩」に当たる男だ。無口だが非常に優秀な者であり、若くして玻璃殿下のご信頼を得た稀有の存在である。
 その黒鳶はと言えば、近頃は配殿下側付きの可愛らしい少年従者となにやらただならぬ雰囲気を漂わせている。

(いや。まずかろうよ)

 藍鉄は微動だにしないまま、大きな顎をほんのわずかに緩めた。
 あの恐るべき朴念仁が、遂にだれぞに心を奪われるなどとは。さても愉快なようでもあり、また情けないようでもあり。
 まあ、相手が警護対象者でないことだけは救いだが。
 そこまで考えて、藍鉄はふと目を細めた。長椅子に寝ころんだまま不貞腐れている美貌の御方をじっと見つめる。
 
 ……そうだ。
 黒鳶はともかく、こちらは許される話ではない。
 忍びが自分の警護対象たる貴人に、妙な懸想をいたすなど。
 
 長くうねった紺の髪。御名の由来でもある瑠璃色の瞳。
 陶器のように白くなめらかな肌。
 稀代の芸術家の手によったかと思えるほどに高貴な横顔。
 どんな傾城けいせいの女人も霞むであろう、卓抜したその美貌──。

 藍鉄はきり、と密かに奥歯を噛みしめた。

 そうだ。
 忍びには許されぬ。

 決して。
 どんなことがあろうとも──。
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