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第二章 秘密の子

5 護衛の任

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 父と弟をいっぺんに喪って、藍鉄は天涯孤独になった。
 父と母には親戚らしいものがおらず、そのまま藍鉄は児童福祉施設へ身柄を預かられることになった。

 滄海の人々にはずっと長年巣食い続けている「血の病」がある。そのため、もっと幼い頃から父母を喪って預けられている子供たちも多い。だからこんな年齢で世話になることになった自分が、つらいだの悲しいだの、不幸だのと言うのは恥に思えた。
 施設の子供たちは親のない寂しさを纏いながらも、職員たちの手で大切に育てられ、明るく優しい子供も多かった。その環境は、ともすればささくれ立ちそうになる藍鉄の心を随分と救ってくれた。
 小さな子供たちは、やってきた新顔のガタイの大きな少年を最初は警戒していたものの、やがて打ち解け、家族のように親しく付き合うようになった。同じ心の傷をもつ者たちの多くは、変に無遠慮に彼の心に入ってくることをしなかった。
 もちろん無神経な子供もいたし、こそこそと弱い者いじめをやる卑劣な子供もいたけれども、数としては決して多くはなかった。

 もともとの志望はそちらではなかったが、児童福祉施設が公金をもとに運営されていることを知ってから、藍鉄は志望を変更させて、国に仕える道を選んだ。幸い、体力的にも学力的にも大きな問題はなかったからである。
 基礎訓練は厳しいものだったが、藍鉄は淡々とすべてをこなした。一般の兵士として働くことになるものと思っていたが、やがて藍鉄は軍属としてのエリートコースである「忍び」への任官を命じられた。
 「忍び」は能力的な条件はもとより、できれば肉親など近しい者が居ない者が望ましいのだそうだ。なるほど、藍鉄はうってつけだったのだろう。一応事前に希望は聞かれたが、藍鉄は打診をうけがった。特に断る理由はないと思ったからである。

 コード・ネームとして正式に「藍鉄」の名を頂き、忍びとしての訓練が始まると、それまでの訓練とは格段に違うプログラムを消化する日々が待っていた。はるかに厳しく、また素早い決断や行動、より強い忠誠心などを訓練するためのプログラムである。
 忍びは貴人の護衛のみならず、仮想敵国に潜り込んで密偵としての仕事も行う。少しのミスも許されない。わずかの躊躇が大きなミスにつながる世界だ。フィジカルのみならず、メンタルの強さも大いに求められる。
 だが藍鉄は、それらをつらいとは思わなかった。こうして厳しい訓練に堪え、多忙な日々を過ごす方が、余計なことを考えずに済んだのだ。

 滄海の第二皇子、瑠璃殿下の護衛に任じられたのは、藍鉄が二十八になった年のことだった。すでに諸外国への密偵任務や多くの訓練兵の指導教官などを歴任し、上層部の信頼を得て、十分「中堅」と言われる立場になっていた。
 その頃にはすっかり、あの小さな弟の夢も見ず、「声」も聞こえなくなっていた。

 瑠璃殿下に最初にお会いした時のことは忘れられない。
 それまで様々な媒体でお顔を拝見する機会はあったし、「恐ろしいほどの美貌」という噂は何度も聞かされていたけれども、直接お会いするのはその時が初めてだった。
 御所の応接の間で侍従の男に連れられてやってきた瑠璃殿下は、当時十四におなりになったばかりだった。床に膝と片手をついて頭を垂れて待っていると、さらさらと複数の衣擦れの音が聞こえてきた。
 視線の先に少年の穿いた指貫がちらりと見えるばかりだったが、やがて「頭を上げよ」との侍従の声が掛かり、藍鉄は言われた通り頭をあげた。
 もちろん決して顔を変えまいと覚悟を決めていたが、正直なところ、それは失敗したかもしれない。

(これは──)

 皇室に関連するネットニュースやなにかで何度も拝見したことがあるのだから、さほど驚くはずがない。そう思っていた。だがそれは、ひどすぎる自己過信だった。
 高座にお座りになった殿下は、濡れたような深い瑠璃色の瞳でじっとこちらを見つめておられた。空気の中であるにも関わらず、紺色のおぐしがゆらゆらと漂うようにお顔を彩っている。陶器のようにつややかな白いお顔に、桜貝のような色の頬と唇。
 誰に言っても信じてもらえぬだろうと思うが、文字通り全身から、光が溢れ出ているのだ。

(なんということだ──)

 この世のものとは思われぬほどの美貌でいらっしゃるとは聞いていた。それこそ、耳にタコができるほど。
 けれども、まさかこれほどだとは。

 思わず息を呑んだが、藍鉄はどうにかその驚きを飲み下し、無表情の下へ押し隠した。だが全身に震えるような痺れが走るのを、どうにも抑えることができなかった。
 言葉を発することを許されてから、自己紹介と今後の仕事の内容を簡単に申し上げたが、殿下は終始つまらなさそうなお顔でそっぽを向いておられるだけだった。どうやら前についてくれていた年配の忍びのことを心から信頼し、心を預けておられたようである。
 新しくやってきたこの巨躯をした忍びについては、なんとなく恐々とちらっと眼の端でご覧になっただけで、これといった感想も述べられなかった。

 前任の忍びの男からひととおり、注意点などのレクチャーは受けたけれども、藍鉄は護衛を始めてすぐ、この御方の難しさを痛感することになった。
 なにしろ、ご気性が非常に激しい。悲しいにしろ腹が立つにしろ、およそその感情を押し隠すということをなさらない。
 純粋すぎるところがおありなのか、非常に傷つきやすくてもいらっしゃる。ひとたびご気分を害されるようなことがあると、数日も鬱々とお顔の色が冴えない日が続く。

『お護りする身としては分かりやすくて良いのだが、多少、忍耐を求められよう。だが、そなたならば自分も安心している。どうか殿下のことをよろしく頼むぞ』

 前任の忍びは目尻にいかにも優しげな皺をつくってそう言ってくれたが、実際警護を始めてみれば、そんな可愛いものでは到底なかった。

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