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第四章 御子誕生 

9 くちづけ

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 それから。藍鉄にとっては非常に困った事態に陥った。
 瑠璃殿下がぴたりと張り付いて、いっさい離れなくなってしまわれたのだ。
 殿下はベッドで藍鉄の隣に座り、その体に抱きついたままでも動かぬというご様子である。抱きつくのが暑くなってきて少し離れてくださっても、衣服のどこかを必ずつかんだまま放さないのだ。
 藍鉄は困り果てた。

「殿下。大変申し訳もございませぬが。水を取り替えに参りたいのですが」
「申し訳ありませぬ。ほんの少し、外へ出ることをお許しいただきたく」
「そろそろ夕餉の時刻にございます。こちらに運びますゆえ、どうかお手をお放しくださいませぬか」

 折々に懇願するのだったが、殿下は頑として手を放さない。そればかりか、さらに力をこめて抱きついてこられるだけだ。
 さすがに「かわやです。お許しを」と恥を忍んで申し上げたときだけは、渋々手を放してくださった。とはいえ手水ちょうずのドア前でずっと腕組みをし、仁王立ちで待ち構えておられたけれども。
 幸い、子どもらが学校や昼寝で不在の時間帯であり、廊下で行きあったりもしなくてまことによかった。

 戻って来るとすぐにまたベッドで藍鉄にしがみつき、肩のあたりに顔をうずめられる。そのかん、ひと言も発されない。ようやくすすり泣くような嗚咽は聞こえなくなってきたが、相変わらずときどき細かく肩を震わせておられる。
 藍鉄は自分の脇腹あたりでシャツをにぎりしめている殿下の手の上に自分の手をそっと重ねた。

「申し訳なきことにございました。勝手に殿下のお傍を離れるなどと」

 そこで初めて、殿下はゆるゆると顔を上げられた。目の周りは真っ赤に染まっており、すっかり泣きべそ顔になっている。まるっきり子どものようだ。藍鉄は胸に鋭い痛みを覚えた。

「お傍を離れぬと誓っておきながら……まこと、申し訳もなきことを」
 殿下はふと目を伏せられると、訥々と指先を画面に走らせた。
『嘘だからな』
「……は?」

 殿下はちらっと藍鉄を見てまた俯かれ、ちょっと逡巡された。

『命は、どうか……粗末にするな。すまぬ』

 こくん、と頭を下げられた。
「殿下──」
 あまりのことに、虚を衝かれた。
『さっきのことは、どうか忘れてくれ』
 ピピッ。殿下の指先が動く。
『感情に任せて、軽々なことを申した。本心ではなかった』
 ピピピッ。
『だから……頼む』

 文字列をじっと見つめて、殿下の瞳にまた目を戻す。殿下は藍鉄の表情を注意深く窺うようにしてから、また文字盤に指を走らせた。

『いつもいつも……すまぬ。子どものようなことばかり申して、お前を困らせてばかりいて』
「……そのような」

 藍鉄は首を横に振った。ここまでしおれきっている殿下に追い討ちをかけるような真似をするつもりは毛頭なかった。そもそも、殿下がここまで自分に謝罪なさること自体が奇跡のようなものなのだ。

『でも』

 殿下の指は一度とまった。
 長いこと逡巡し、再びふるえる指先がゆっくりと画面上をなぞっていく。

『ひとりに……しないでくれ』
『お前まで、わたしを』
『おねがいだから』──。

 ぱたぱたっと殿下の膝にまた雫が落ちた。
 殿下は両手で顔を覆って俯いておられる。藍鉄は両腕をゆっくりと殿下の背中に回して、また抱きしめた。背中をそっとおさすりする。

「ご案じ召されますな。自分こそ、軽々な言葉をろうして要らぬご不安を煽り申しました。まことに申し訳ありませぬ。いかような罰も受けまする。……どうか、お許しくださいませ」

 殿下は返事をする代わりに、さらに力を込めて藍鉄に抱きついてこられた。
 殿下の唇が、すぐそばにある。髪からもお体からも、なんともいえぬよい匂いがする。
 藍鉄は己が体のうちから湧きあがりそうになるなにかを気をいれて何度も飲み下さねばならなかった。

 殿下の長い睫毛が震えながらもちあがり、その下から濡れた瞳がじっとこちらを覗き込んでいる。

「殿下。なりま──」

 なりませぬ、と制止する藍鉄の言葉は、殿下の唇にふさがれた。

(殿下……?)

 さすがの藍鉄も固まった。
 殿下は藍鉄にしがみつき、ぎゅっと唇を押し付けてくるだけで、それ以上のことはなにもない。
 細い肩を押し戻してひきはがすのは、ごく簡単なことだった。
 ……それをやらなかったのは、やはり藍鉄の不徳の致すところだった。

 不埒ふらちな藍鉄の両手は、持ち主の言うことなど聞かずに殿下の細腰を抱きよせ、あまつさえしっかりと抱き込んでいた。殿下の細い肢体はそれだけで、藍鉄の両腕の中にすっぽりと収まってしまう。

「ん……っ」

 無理に押し付けられているだけの殿下の唇。
 何の技術も、作為もない。そこいらの十代の少女たちのほうが余程、これよりうまい接吻をするだろう。
 しかし。

 なんという甘さか。かぐわしさか。
 頭の芯がくらくらした。
 もどかしくて堪らない。だが、それを自分からどうこうすることはどうあってもはばかられた。
 やろうと思えば容易いことだ。殿下の唇を割り広げ、よく整った白い歯列や熱い舌の肉を味わうことなど。殿下の細い両腕など、藍鉄なら楽々と片手で抑えこめる。
 このままベッドに押し倒し、殿下の望まれる通り、思う存分最後まで殿下を味わい尽くすなど簡単なことなのだ。

 ……しかし、藍鉄は唇を引き結んだままあらゆる誘惑を耐え抜いた。
 結果的に、とてつもなく忍耐力を試されることになったけれども。

 やがて殿下の腕の力がじわじわと抜けていき、押し付けられていた唇が離れていく。
 おずおずとこちらを見上げる殿下の瞳には、涙とともに後悔の色がいっぱいに浮かんでいた。耳や首まで真っ赤になっておられる。
 藍鉄はすっと身を引いて床に片膝をつき、跪いた。

「……お気が済まれましたか」
「……!」

 殿下はパッと赤面されると、そのままこちらへ駆け寄ってこられた。

──バシッ。

 乾いた音とともに、頬に鋭い痛みが走った。
 殿下の平手打ちだった。殿下は赤面しながらも、怒り心頭でお顔を歪められている。
 
「少しお休みになられませ。なにか温かい物でも持ってまいりましょう」

 顔色も変えぬまま頭を下げると、そのまま音も立てずにドアを開け、藍鉄はするりと外へ出た。
 今頃になって左頬が痛みと熱を訴えはじめる。
 が、蚊に刺されたほどにも感じなかった。

 廊下の中ほどで一瞬だけ立ち止まり、藍鉄は己が唇にそっと指先で触れて立ち尽くした。
 ぐっと眉根を寄せる。
 言い知れぬ想いが湧きあがるのを、奥歯を噛みしめて必死に制する。

(いかん。今のあの方は、普通の状態ではあらせられぬ。妙な誤解をしてはならぬ──)

 そうだ。決して。
 そんなことは許されぬ。

 一度だけ強く目をつぶり、拳を握って、自分に何度か言い聞かせる。
 そのまま無人の廊下を抜け、厨房を目指して大股に歩き続けた。
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