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第四章 皇帝と魔塔
15 涙
「勘違いしないでほしい。シディは素晴らしい。私がこれまで出会って来たどんな人よりも貴く、美しく、優しい人だと思っている。本当だ。そこは信じてほしい」
「……で、でも──」
でも、愛するのはイヤなんだ。そう言ったじゃないか。
たった今!
そう思ったらまた、どんどん視界が熱くぼやけはじめた。と、ぼんやりとした輪郭の殿下の影が、さっと立ち上がったのが見えた。すぐにこちらにやってきて隣に座る。優しい手が頭をそっと撫でてくださると、余計に涙が止まらなくなった。
「シディは素晴らしい。本当だ。心からそう思っている。……だが」
ああ、イヤだ。その先を聞きたくない。
シディは思わず自分の耳をぎゅっと手でおさえ、きつく目を閉じてぶるぶる顔を横に振った。
「ちがうんだっ。聞いて欲しい。お願いだ、シディ」
聞きたくないのに。こんな時ほど自分の耳の良さを恨みたくなることはない。こんなに強く耳をおさえていてすら、殿下の声は明瞭に聞こえてしまう。
「そなたに問題があるから愛したくない、と言っているわけじゃない。『これがお前の運命だ、だから愛するように』とだれかに命じられ、勝手に定められてそれにただ、唯々諾々と従うことが我慢ならないだけのことだ。そなたには何の問題もない」
「で、……でも」
「あの下衆な売春宿の親父に囚われて、自分の望まない仕事をさせられていたことなら、なにも気に病むことはない。私がもっと早く救いに行けたら、あんな苦労をする必要さえなかったのだし。いずれにしろ、そなたには何の責任もないことだ。あの場合、ああしなくてはそなたは生きていけなかったのだから」
「…………」
「そなたは何も悪くない。あのような形でそなたの尊厳を蹂躙した親方や、客どもが下衆であっただけのことだ。そなたにはなんの非もないのだから」
自分がしゃくりあげる声でよく聞き取れないが、殿下の声だけは優しく耳に届いてくる。
「……でも。オ、オレは……汚れて、るか、ら」
殿下には絶対にふさわしくないから。だからもし、殿下がオレに触れたくないと思うとしても、そんなのは当然のことなんだ。なにも悲しく思うようなことじゃない。それなのに──
「そんなことはないっ!」
殿下は忌々しそうに自分の髪を掻きむしった。
「言い方を完全に間違ってしまったようだ。本当に申し訳ない。私の不徳の致すところだ。……だが、そうじゃない。私はシディが好きだ」
「……!」
思わず目をあげた。
「ほ、ほんと……ですか」
「ああ、本当だ。私がどうして、そなたに嘘などつくだろう」
耳からそっと放した手を、今度は両手でぎゅっと握られる。
「そなたがどんな仕事をさせられていたかなど、どうだっていい。もしも……もしもシディが許してくれるというのであれば、触れたい……とも思っている。今よりもっと親密な触れあいを──。これは本心だ」
「インテス様──」
一瞬、優しい言葉にゆるっと緊張がほぐれそうになる。インテス様の手は温かくて、決して嘘をついている人のそれではなかった。
だがそれは本当に一瞬のことだった。
「だが、この『好き』という気持ちすら《半身》の運命ゆえに歪められた感情であったらと──そのことを恐れるのだ。それはきっと、そなたを不幸にしてしまうだろうから」
「わ、かんない、です……」
そんな難しいこと、自分にはわからない。
好きは、好きだ。自分は生まれてから今まで、この人ほど好ましいと思った人はいない。匂いが素敵だと思ったのが最初で、それから初めてお姿を見て。あの恐ろしい地獄から救い出してくださった。それから傷を癒し、ずっと心を慰め続けてくださった。
こんな素敵な人を、好きにならずにいられるだろうか?
……ムリだ。少なくとも自分には。
「オ、オレ……。オレ、は」
喉がつまってなかなかうまくしゃべれない。
「すっ……好き。インテス、さま──」
次の瞬間。
インテス様の目が見開かれた。
次にはもう、がばっと胸に抱きしめられる。力いっぱい。
ほとんど息もできなくなる。
「シディ──」
「うくっ」
ぎゅうう、と抱きしめてくる力があまりに強くて、背骨が軋るようだ。
「い、いたい……です」
「あっ。す、すまぬ」
慌てて手を緩めてくださる。「大丈夫か、大事ないか」と心配そうに尋ねてくださる。そんなところもやっぱり優しい。
シディの頬をまだ転がり落ちているものを、そっと指の背で拭ってくださる。
やっぱり大好きだ、と思ってしまう。
「好きだ……シディ。愛している」
「…………」
「許してくれるだろうか……? 私が、そなたを愛することを。これがたとえ、運命のいたずらであるとしても──」
シディはじっと殿下を見つめた。
紫色の、濁りのない殿下の瞳。そこにシディの泣き顔が映りこんでいる。
その顔が、ゆっくりと上下に振られるのが見えた。
「シディ──」
今度はゆっくりと優しく両腕が自分の体に回されてくるのを感じた。シディは自然に自分の体を殿下の胸にあずけた。
そっと抱きしめられ、次第にその力が強くなっていく。
「……愛している。シディ」
「オ、……オレ、も」
愛してる。この人を。
自分が、ほかの誰にこの心を捧げるというのだろう。
インテス様は少し体を離して、くしゃっと顔を歪めた。まるで少年のような、まぶしい笑顔だった。
「触れても、いいだろうか。……シディ。そなたに」
「…………」
顎に手がかかるのを感じる。
「ほんの少しだけで、いいのだ──」
シディは顎を少しだけ上下させ、目を閉じた。
唇に、ほんの軽くなにかが触れる。
それから、優しい声で囁かれた。
「シディの涙は、しょっぱいな」と。
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