血と渇望のルフラン

るなかふぇ

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終章

エピローグ

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 春の薫風くんぷうが頬をなでて吹きすぎてゆく。
 桜の季節はあっというまに過ぎ去って、少し山道を歩いただけで汗ばむ季節が到来している。

 男は大きめの花束を手に、一歩、また一歩と足を進める。
 目的の場所にそれを手向けると、一般的な人間たちがするように顔の前で手を合わすようなことはせず、片眉をひょいとあげて口許をほころばせた。

 彼らが逝って、三年になる。
 ヴァンピールの王と、やがて人狼の頭首を押し付けられることになる男。その両方から求愛されて困り果てていた彼の赤い顔を、今でもあざやかに思い出す。
 人間の中で、数千年に一度生まれるか否かと言われる稀な血をもって生まれた《彼》。
 人外であるふたつの存在から同時に求愛された《彼》は、結局さいごはひどく泣きながらも自分を選ぶことを拒んだ。

(けど、それで正解だったわな。……勇太)

 あれから三十年ほど経って、遂に人狼の長老は身罷みまかった。
 次期頭首と目されていた男は急ぎ故郷に戻り、すったもんだの末、最終的にその重責を受け継ぐ羽目になったのだ。
 もしも《彼》をわが手にしていたのなら、一体どうなっていたことか。
 人狼の頭首としての立場と、人間の、しかも男のつがいの存在は両立できない。人狼と人間の血を引く子どもは、たとえ生まれてきたとしても血が薄まりすぎ、頭首を引きつぐ資格をもたぬからだ。
 ましてや《彼》は男だった。
 だとすれば、恐らくいずれはなんらかの悲劇的な出来事が、《彼》と自分とを引き裂いたのに違いない。《彼》を泣かせずに済むことも、傷つけずに済むこともなかったはずだ。

 ……だから、よかったのだ。
 《彼》をかの男に任せて。

 《彼》はかのヴァンピールの王と番うことになり、成人してその王のもとで秘書としての仕事を得た。それは文字通り、《彼》が公私にわたって王のものになった瞬間だった。
 ふたりは幸せそうに見えた。
 もちろん、小さな喧嘩や意見のすれ違いは山ほどあった。実のところ、自分がそれに巻き込まれたこともしばしばだった。意に反することながら、仲裁に回る羽目になったことも一度や二度ではない。しかし、それでも幸せだったはずだと思う。
 悔しくなかったかと問われれば、やはり「応」とは言いにくい。言いにくいが、それを後悔したことはなかった。

 『お前が幸せであればいい』。
 あの時《彼》にそう言った、あの言葉にうそ偽りはなかったからだ。

 男は長年、人間として少しずつ歳をとっていく《彼》と、ヴァンピールでありながら《彼》とともに老いた容姿になっていく王を見ていた。常にそばにいたわけではなかったが、時折り顔を見にいけば、二人はいつも温かく迎えてくれた。まるで旧友を遇するように。
 幸いなことに、王と自分との交流をもとに、ヴァンピールと人狼の交流も次第に深まっていった。例の原初の血を持つヴァンピールの掃討作戦はその後も定期的に行われていたため、配下らの個別の交流も少しずつ広がり、深まっていったようである。
 それまでいがみ合うことの多かったふたつの異なる種族を引き合わせ、揺るがぬかすがいとなったのは、まちがいなく《彼》だった。ふたつの種族がいがみ合えば《彼》は間違いなく悲しんだはずだし、ヴァンピールの王はそれを望まなかった。

 王はすでに、腹心である榊とかいうもと秘書の男を子どもの姿に変貌させ、自分の子として「育てて」いた。戸籍上の妻はやはりヴァンピールの女が務め、子供を出産後、すぐに死亡したことにしたようだ。

『凌牙、さすがに歳をとらないなあ。やっと三十路ぐらいにしか見えないじゃないか』
『そりゃそうだ。ウェアウルフと人間を一緒にするんじゃねえよ』
『本当に、ずるいったらないよ』

 あははは、と、かつて交わした笑声が耳の奥にこだまする。

『凌牙。まだ大事なひとは作らないの』
『余計なお世話だっつってんだろうが』
『あの人は? 麗華さん……と言ったっけ』
『どアホ。お前までうちのジジイみてえなこと言うな』

 ついそんなことを言ってしまったら、《彼》は困ったように笑ったものだ。
 「そうは言うけど、もう十分ジジイなんだよなあ」などと言って。

『言ってなかったかもしんねえが、ありゃあ俺より百も年上なんだかんな。俺のガキの頃まで知ってやがるし。お前の命を救ってくれたことには感謝してるし、才能と忠誠心は認めるが、尻に敷かれんのはごめんだぜ』
『ふふ。わかったよ。凌牙らしいな』

 そう言って病院のベッドで笑った《彼》の顔が、自分が見た最後の姿になった。
 ヴァンピールの王は、これ以上ないほどに丁重に彼を葬った。まるでこの世に舞い降りた天使を葬るかのように。
 海の見える、見晴らしのよい小高い丘。霊園はそこにある。
 洋風の墓石には、今はふたりの名が刻まれている。もちろんそこに王の身体は存在しない。

 王は最愛の人を見送ったあと、十分に大人の姿に育った榊にあとを任せて、この場で消えた。
 太陽の光の影響を相殺する薬を敢えて飲まずに、夜通しここで愛する故人と語らったあとで。
 ここに差し込んだ最初の曙光が、王の肉体を塵に変えた。
 墓石の上に残されていたのは、かの人と交わした指輪がひとつだけだった。
 その指輪はいま、後継者の手によって故人とともにこの中で眠っている。

 あのキザな王のことだ。
 どうせ「少し待たせちゃったね。今からいくよ」なんて言って、にっこり笑ったのに違いない。最期の瞬間まで、どこまでも癪にさわる奴である。

「うーうっと……。ま、勝手にしろってなもんだよなあ」

 男はぐうっと伸びをして、若葉をすかしてちらちらと落ちてくる明るい春の木漏れ日を見上げた。
 そうしてひょいと振り返ると、ふたりの名が刻まれた墓石に最後の一瞥を投げた。

「んじゃ、また来るぜ。……お幸せにな、おふたりさん」

 背中を向けたままひらひらと顔の横で手を振り、そのまま坂をおりていく。

 こずえを揺らして一陣の風が吹き抜ける。

 あとにはただ春の陽射しと、
 明るいみどりのそよ風が残されているばかりである。


                       完
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