ひとりぼっちになった僕は新しい家族に愛と幸せを教えてもらいました

波木真帆

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第二部

みんなの癒しに

卓と直くんの関係を示す戸籍謄本を白河に渡し、口座開設の書類に直くんは丁寧な文字で、名前を書く。そして、その隣に押印した。住所やその他の場所は私が記載し、あっという間に書類が完成した。

黒崎くんはそれをしっかりと確認し、頷いた。

「問題ありませんね。あとは、担当のものに任せますのでしばらくお待ちください」

黒崎くんは内線で担当者を呼び、すぐにプライベートバンキング部の社員がやってきた。
秘書の片山くんが対応をして、社員を中に入れる。

彼は深々とお辞儀をして、直くんの書類を受け取り部屋を出て行った。

「それでは、通帳が出来上がるまでの時間。ゆっくりとお茶でもして待っていようか」

白河の言葉に、片山くんがすぐに動いた。

直くんの前にジュースが置かれる。
甘い香りにそれがりんごだとわかる。
おそらく、直くんがお気に入りのあのジュース。
卓があらかじめ、黒崎くんに話をしていたのだろう。

私たちの前にもコーヒーが置かれ、直くんは笑顔でジュースを手に取った。

「んー、美味しいです」

その可愛らしい声に、皆が頬を緩める。

すると、秘書の片山くんが静かに黒崎くんの元に向かい、そっと耳打ちをした。

もしかしたら書類に不備でもあったか?

そんな考えが頭をよぎったが、黒崎くんはふっと笑みを浮かべて直くんに声をかけた。

「直くんはピアノが上手だそうだね」

「え、あの……上手かどうかはわからないですけど、ピアノを弾くのは好きです」

「磯山……いや、君のお父さんが絶賛していたよ。だから、ぜひピアノを聴かせてもらいたくてね。どうだろう? 弾いてもらえないかな?」

黒崎くんの提案に直くんはもちろん、私たちと賢将さんも驚いた。
だが、直くんは笑顔でそれを受け入れた。

「ぜひ、弾かせてください」

その言葉に、黒崎くんの表情が一気に明るくなる。

「そうか、ありがとう。実は、隣の部屋にピアノがあってね。調律も済ませてある。準備は万端なんだ。早速行こう!」

よほど卓が自慢したのか、黒崎くんの用意周到さに驚かされる。

みんなで白河の部屋を出て、隣の黒崎くんの部屋に向かう。

向かいながら秘書の片山くんに声をかけた。

「ピアノは、このために用意したのかな?」

「はい。磯山先生のお話を伺って、黒崎がすぐに準備するように、と」

その言葉に、私はなんとなく彼の意図を察した。

もしかしたら……

その可能性は十分にある。
私は隣を歩く賢将さんに視線を向けると、彼もまた何かを察しているように見えた。

黒崎くんの部屋に入ると、部屋の中央に置かれたグランドピアノが目に入った。
通常より小さめのものだが、磨き上げられた艶やかな蓋が、外の光を静かに映している。

「わぁ……」

直くんが小さく息を呑む。
その反応に、黒崎くんが満足そうに微笑んだ。

「どうぞ。好きな曲を弾いてくれ」

直くんは私たちを一度見上げ、小さく頷いた。
そしてゆっくりと椅子に腰掛ける。
背筋を伸ばし、鍵盤にそっと指を置く。

一音目が、静かな室内に落ちた。
澄んだ音が、高い天井に柔らかく反響し、まるで水面に波紋が広がるように空気を纏わせる。

直くんの表情がふっと変わり、演奏が始まった途端、私は思わず息を止めた。

白河も、賢将さんも、黒崎くんも、誰一人言葉を発しない。
ただ、音に耳を傾けていた。

小さな指が鍵盤の上を滑るたび、旋律は軽やかに、しかし芯のある強さを持って広がっていく。

私が初めて直くんの演奏を聴いた日から、また一ヶ月ほどしか経っていないが明らかに最初の頃とは違う。
それだけ精神的に落ち着いたのか、子どもの演奏という言葉では収まらない。

ふと視線を横に向けると、白河も黒崎くんも表情を変えている。

名誉会長、そして頭取として何かを測っているような静かな目だ。

演奏が終わった瞬間、最後の音が静かに消えていく。余韻が完全に消えるまで、誰も拍手をしなかった。

やがて、ぱち、ぱち、と白河がゆっくりと手を打つ。

「これは、素晴らしいな……」

その一言に続くように私たちも拍手を送った。
直くんは少し頬を赤らめながら、立ち上がり小さくお辞儀をする。

「ありがとうございました」

その姿を見つめながら、黒崎くんが静かに口を開いた。

「磯山先生」

スッと仕事モードに切り替わった顔で、一歩踏み出した。

「もしよろしければ……お孫さまの演奏を当行のロビーで流させていただけないでしょうか?」

黒崎くんの提案に白河も真っ直ぐに私を見る。

「もちろん、正式な手続きを踏みます。対価もお支払いします。だから、ぜひお願いします。この音をここだけで終わらせるのは惜しいです」

彼が白河に目を向けると、白河も大きく頷いた。

「磯山。私も同意見だ。ぜひ正式に依頼したい」

白河が、仕事にプライベートの情を持ち出すことがないことは私が一番よくわかっている。
彼がそのようにいうのなら、心から思ってくれている証拠だ。

「白河と黒崎くんの気持ちはありがたい。だが、ここは本人の気持ちを最優先にしたい」

そう告げると二人は静かに頷いた。
それを見て、賢将さんが直くんに尋ねる。

「直くん。どうしたい?」

「あの、僕……」

一瞬の間を置いて、直くんはゆっくりと声を上げた。

「僕の演奏が気に入ってもらえたなら、ぜひお願いしたいです」

その言葉に、白河と黒崎くんが「よし!」と声を上げる。
二人の本音が漏れて、部屋には和やかな空気が流れた。

直くんのピアノ演奏が、大勢の人たちの癒しになる。
きっと卓も喜ぶことだろう。
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