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第四章・一夜の恋/3
しおりを挟む「……好き」
最初に呟いたのはわたしのほうだった。
まさかその言葉が飛び出すとは思っていなかったのかもしれない。葉山さんは驚いて腕の力を緩め、わずかに目を見開く。
わたしは彼と視線を合わせて、もう一度繰り返した。
「葉山さんが……、好きです」
これは、間違いのない気持ち。
そんな感情を知らなかったわたしは、不思議に思いながらも今まで気づけなかった……
満開の桜。
まるでその魔法にかかってしまったように、揺れ動いた気持ち。
あのとき、わたしは一目で葉山さんに惹かれ恋をした。
けれど、そのあとの印象があまりにも最悪で。だから、その気持ちを感じ続けることができなかった。
彼に関わるたび、何気ない優しさに触れるたび。心の中に舞い散った桜。
降り積もる花びらは、少しずつ積り続けた葉山さんへの想い。
あなたが好きだという想いを……
わたしは、桜の花びらを浴びるように感じ続けた。
舞い踊り、降り積もる……
――この、恋を……
「サキ……俺も……」
葉山さんはきっと、わたしと同じ言葉を口にしようとしてくれたのだと思う。
けれどわたしは、その言葉を止めた。
片手を伸ばし、指先で彼の唇に触れる。その意味に気づいたのか、開きかかっていた唇は閉じられた。
「言わないで、ください……」
わたしは情けない声を出してしまっていた。嗚咽の混じった、とても哀れな声だ。
「葉山さんは……、さくらお嬢さんを、お嫁さんにもらうんですから……」
聞きたくはなかった。
葉山さんが、“さくら”ではなく、“サキ”にかける『好きだ』という言葉なんて……
彼の目は徐々に細められ、やがてその双眸は切ない色を湛えてわたしを見つめる。
「サキ……」
そう、今、彼が見つめているのは“サキ”だ。
その素敵な声で呼ぶのは、サキの名前。
――さくらじゃない。
今、彼が好きなのは、サキなんだ。
葉山さんはもう一度わたしを抱きしめた。そして、全身が熱くなる、しっとりとした声が耳元で囁く。
「……抱いても、いいか……?」
彼の言葉の意味が分からないうちに、ゆっくりとソファに横たえられる。
抱きしめられたまま、身体の上に彼の存在を感じる。あの言葉が、“抱きしめてもいい”という意味ではないと、そのときやっと気づいた。
それに気づいても、……イヤじゃなかった。
わたしは今、自分でも抑えられないほど、驚いてしまうほど、葉山さんに愛しさを感じている。
好きな人に求められるというのは、こんなにも心と身体が昂ぶるものなのかと、驚くほどだ。
どうせ夫婦になるのだから……。そんな機会が少しくらい早くたって……
けれど……
今のわたしは、“さくら”じゃない……
“サキ”のまま、葉山さんに身を預けるのはイヤ。
葉山さんが“サキ”を求めるのは、イヤだ。
自分自身に嫉妬している。こんな気持ちを、わたしは自嘲する。
わたしは、なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。
他人を装い、葉山さんを騙すなんて。
わたしが返事をせずに身体を固めていたせいだろうか。葉山さんは苦笑をしながら顔を上げてわたしを見つめた。
「なんてな……。すまない。驚いたか?」
「……あの……」
「そんなことをしてはいけないな。……これから先、サキは、こんな衝動的にではなく、本当に心の底から好きになれる男に巡り会えるかもしれないのに」
葉山さんはわたしを見つめたまま、綺麗な双眸を切なげに細める。
「そのときに後悔したら大変だ。一夜の気の迷いで、行きずりの男に身を任せてしまったって……」
寂しげに笑う彼を見ていると、胸が苦しくてしようがない。わたしはまたもや涙が浮かんできた。
「葉山さん、わたし、後悔なんてそんなこと……」
否定しようとするわたしの頬を撫で、横の髪をひと房指に絡めて、彼はその髪に唇を付ける。
「……すまない、サキ……。俺がおまえを“匿う”なんて引き受けたせいで、おまえに、一生他人には言えないような経験をさせてしまったようだ。なにもないにしろ、会ったばかりの男と一夜をすごしたなんて、女としてのおまえに、傷を付けてしまったようなものだ。どんな理由があったにしろ、……俺は、大人として、男として、軽率だったのかもしれない……」
「そんなこと言わないで!!」
わたしは両腕を葉山さんの肩から回し、彼に抱きついた。
確かに、出会ったばかりの男の人に家出の手伝いをしてもらい、たとえなにもなくとも、その人と一夜をすごすなんて。もしもこれが葉山さんじゃなかったなら、わたしだって恥ずかしくて人には言えない。
けれど、それを望んだのは、わたし。
「わたしがお願いしたんです……。わたしが……。わたしが葉山さんと一緒に行きたかったの! わたしは、後悔なんてしません! ……葉山さんに優しい気持ちをもらって、葉山さんを好きになれたことは、わたしの、……思い出の宝物です!」
必死の想いを口にしながら、わたしの目尻からは幾筋も涙が流れ、髪の毛まで濡らしていった。
「葉山さんが……、好きです。……わたしは、一生この日を忘れません……。好きです……好き……」
感情の昂りのまま、わたしは何度もその言葉を繰り返す。
好きという言葉が、こんなにも心を熱くするものだなんて、知らなかった。
彼の禁句としておきながら、わたしだけが繰り返す、好きの言葉。わたしを抱きしめる葉山さんの腕は間違いなく震え、その力は増した。
そして彼は、信じられない名前を口にする。
「――さくら……」
ビクッと大きく身体が震えた。
まさか、わたしの正体に気づいて……。そう疑いかけたが、そんなはずはなく、すぐに葉山さんの辛そうな声が耳元で響いた。
「おまえが……“さくら”なら、良かったのに」
それは、葉山さんにとって、愚かな望みであったのかもしれない。
けれどわたしにとって、それは現実……
わたしはさくらだ。サキではない。
けれど、葉山さんにとって、今のわたしは“サキ”だ。だから、わたしはこのまま、サキでいなくてはならない。
わたしはさくらです、と、今、声に出して言ってどうなる?
この、一夜の恋を壊してしまうだけ。
葉山さんがくれる、サキに対する優しい気持ちを、傷つけてしまうだけ。
だからわたしは、まだ“サキ”でいるしかない。
心の中の桜は、相変わらず花びらを散らし続けていた。
ひらり……
はらり、と……
わたしの心の中に、葉山さんへの想いを、どんどんと降り積もらせていく。
脳裏に浮かぶのは、桜の群生の中に佇む葉山さんの姿。
桜の魔法。
満開の桜の中に佇んでいた人。
一目で、わたしの心を奪った人。
……たった一日で、わたしに恋を教えてくれた人。
一目惚れなんて言葉は、物語の中にしか存在しないものだと思っていた。
なのに……
葉山さんの温かい体温と心地良い重さを感じながら、わたしたちは一晩中、夜が明けるまで、ソファの上で身体を寄せ合っていた。
朝が来なければいい……
そう思ってしまった気持ちは、きっと葉山さんも同じ。
抱きしめる彼の腕の強さが、それを教えてくれていた。
辛くなるほど……
【続きます】
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