眠り王子の抱き枕

玉紀直

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1巻

1-3

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 それなのに、いつの間にか副社長のほうが必死になっているように思う。
 夢乃から手を離し真剣に見つめてくる顔を、彼女はジッと見返した。
 怜悧れいりさを感じさせる双眸そうぼうの下に、うっすらとくまが見える。
 それに気がついた瞬間、ギュッと胸が痛くなった。
 副社長は、本当に不眠症に悩まされているのだ。
 そんな彼が、夢乃という希望を見つけた。大げさかもしれないが、副社長がここまで必死になるのは、きっとそうした理由からなのだろう。

「俺は仕事がしたい。だが、今の状態ではベストな仕事ができない。眠れないのに睡魔は襲ってくるし、効率が落ちていく一方だ。これでは、来月のコンペもどうなるか……」

 夢乃はドキリとする。副社長が中心となっている来月のコンペといえば、今夢乃が必死になって詰めている企画が関係してくるものだ。それこそ、アパート取り壊しの通達を見落としてしまうほど熱中している案件ではないか。

(副社長も、必死なんだ……)

 自分と副社長は同じだ。ギリギリまで追い詰められ、必死に解決策を探している。
 だが、そんな二人が手を取り合えば、問題は一気に解決するのである。

「……わかりました」

 夢乃は意を決して副社長をまっすぐに見つめると、深く頭を下げた。

「しばらくお世話になります」

 こうして夢乃は、差し当たって住居問題を解決することができたのである。


 あの後、とりあえず昼食を取り、ひと息ついてから出社した夢乃だったが、落ち着いて考えるとすごいことになってしまったと思う。

(副社長と、一緒に暮らすとか……)

 とてもじゃないが普通では考えられないことだ。でもこれは夢ではないのである。

『そんなに硬くなるな。世話になるのはお互い様だ。そうだ、ルームシェアだと思えばいい』

 ルームシェアという言葉には、なんとなく対等な立場の人間が部屋を共有するイメージがある。
 だが副社長と夢乃は、明らかに対等ではない。実際に夢乃はただで部屋に住まわせてもらうのだから。しかも……

『ルームシェアといっても、抱き枕を了解してもらえたことは俺にとって大きな利益だ。家賃や光熱費といった生活費一切をもらわないのは、その利益に対する当然の対価だから気にするな』

 それはいけない。仮にも住ませてもらうのに、生活費をなにも支払わないのは申し訳ないと伝えたが、副社長はがんとして受け入れてくれなかった。
 それどころか、『むしろ、抱き枕になってくれるなら、一晩いくらで契約してもいい』とまで言い出す始末。
 ……それは、なにか違う商売のようだ……
 彼はいったい、どれだけ切羽詰せっぱつまっていたのだろう。
 あの冷静で堅実な仕事を常とする副社長にそこまで言わせるとは、生死にかかわるレベルといっても過言ではないような気がする。
 だけど、相手は自分の会社の副社長で男性だ。しかも、抱き枕……
 手は出さないとは言われたが、信用してもよいものなのだろうか。いや、あれだけ必死だったのだから、信用してあげなくてはかわいそうだ。
 しかし男女が同じ屋根の下にいて、「絶対に」というのは……どうだろう……
 今さらだが、早まったか……という気持ちが湧く。
 本当にこれでよかったのだろうか。
 とはいえ、副社長が必死なら夢乃だって切羽詰せっぱつまった状況だ。路頭に迷うか安息の地に落ち着けるか、その瀬戸際なのだ。
 今日からでも引っ越しの準備を始めなくてはならない。まさしく焦眉しょうびきゅうという事態なのだ。

(引っ越し……)

 そう考えて、引っ越しの荷物とは、どうまとめたらいいものかと考える。一人で準備をするなんて初めてのことだ。一日やそこらで終わるだろうか。
 そういえば、ルームシェアなるものが決まったのはいいが副社長の住所とはどこなのだろう……

(ちょっと待って! 不安しかないっ!)

 いろいろ考え泣きたい気分になっていると、課長がデスクから声をかけてきた。

「長谷川さん、副社長が呼んでるよ」
「はいぃっ!?」

 夢乃は思わず立ち上がってオフィスの出入口に顔を向ける。すると課長に笑われた。

「違う違う。副社長室に来てくれってさ」

 課長は手に持っている受話器を夢乃にかかげて見せる。

「副社長直々じきじきの呼び出しだ。すぐに行って来い」
「は、はい」

 一瞬、ルームシェアの件だろうかと思った夢乃は、慌てて考えを改める。
 今は仕事中だ。そんなときにプライベートなことで社員を呼び出すなど副社長がするはずがない。

「期待されてるだけあるじゃない。がんばってっ」

 うしろを通りかかった梓にもエールをもらい、夢乃は「はいっ」と張り切った返事をする。
 こうやって言われると、どんなに大変でもやる気がふくらんでくるものだ。
 軽い足取りでオフィスを出て、エレベーターホールへと向かう。
 夢乃が勤める本社ビルは十階建てだ。一階は店舗を兼ねた大きなショールームになっていて、すぐ上の二階は商品管理室になっている。そして、三階から八階が従業員フロアで、これから向かう副社長室は九階だ。最上階は社長室や重役用会議室、応接室などになっている。
 副社長室のある九階は、他に各重役室と秘書課が置かれていた。一般社員がそうそう用のあるフロアではないため、夢乃も過去に数回、秘書課へきたことがある程度だ。
 そう考えると、なんとなくドキドキする。たとえるなら、高級百貨店の貴金属フロアを、たった一人で歩いているときのような緊張感だ。
 副社長室など、もちろん初めて行く。
 エレベーターを降りると、まず他のフロアに感じる騒がしさが一切ないことに身体が固まる。
 足音を立てるのさえもはばかられる雰囲気だが、ありがたいことに床には絨毯じゅうたんが敷かれており、さほど足音は響かないだろう。
 副社長室の場所を知らなくても、エレベーターの横に、妙に小洒落こじゃれたアルミ製のフロア案内板がある。それを見て目的の場所を確認していると、うしろから声をかけられた。

「どこかお探し?」

 感じのいい綺麗な声だ。振り向くと、声をそのまま人の姿にしたような綺麗な女性が立っている。
 この階には秘書課もあるので、雰囲気的にも秘書課の女性社員だろう。

「はい。副社長室を……」
「副社長室?」

 笑顔の中で、眉がピクッと寄ったような気がする。

「副社長室に、なんのご用かしら?」

 わずかだが、さっきより声がきつくなった気がした。なんとなくイヤな予感をいだきながら、夢乃は笑顔を取りつくろう。

「あ、あの……、新商品の企画の件で呼ばれていて……。失礼します!」

 軽く頭を下げそそくさとその場を立ち去る。背後に鋭い視線を感じつつ、夢乃は足早に廊下を進んだ。
 副社長室を探していると言った途端に変わった女性の態度。なんの用だと言わんばかりに、煙たがっている様子があからさまに伝わってきた。

(副社長、イケメンだもんね……。モテて当たり前かぁ……)

 彼に憧れている女性は、社内にたくさんいる。もちろん秘書課の女性社員も例外ではないだろう。副社長室を訪ねてきた女性社員というだけであんな態度を取られるのだから。
 エレベーターホールから通路は三つに分かれている。フロア案内によると、副社長室は他の重役室や秘書課とは違う通路にあるらしく、静かなうえ他の社員とすれ違うこともなかった。

(静かだと、変に緊張するなぁ)

 左側全面が窓になっている廊下はとても明るい。右側にひとつドアを見つけるが、副社長室はこの廊下の一番奥にあるので、気にせず前を通り過ぎようとした。
 その瞬間、いきなりその部屋のドアが開く。
 驚く間もなく腕をつかまれた夢乃は、そのまま中へと引っ張り込まれた。
 あまりにも突然のことで声も出ない。
 引っ張り込んだ相手は、涼しい顔で人差し指を立てた。
 長くスラリとした指を笑みを浮かべた下唇につけ、「静かにして?」とばかりに小首をかしげる。
 そんなかわいらしい仕草も、男前がやればさまになるのだと、夢乃は初めて知った。

「驚いたか?」

 微笑んだ彼は、あまり申し訳なく思っているようには見えない。そんな副社長を見ながら、夢乃は強張こわばった身体から力を抜いてホッと息を吐いた。

「そりゃあ驚きますよ……。いきなりドアが開くから、何事かと思いました」

 そう言って、室内に視線をめぐらすと、ここが九階に設置された仮眠室であることがわかる。
 そんなに大きな部屋ではないが、見るからに自社の高級シリーズとわかる寝具が大きなベッドにしつらえてある。壁面のショーケースの中には、ナチュラルスリーパーで扱うオリジナルピローが各種並べられていた。
 他の階の仮眠室も似たような造りだが、置いてある寝具はけた違いの高級さだ。ここは、大切なお客様に商品を見せるためのショールームの役割も備えているように思えた。

「さすがに、下の仮眠室に置いてある寝具とは違いますね……。触ったことしかないシリーズのものばかり」
「試眠してみるか? つきあうぞ」
「けっ、結構ですっ。どうせ、抱き枕にするつもりでしょうしっ」

 夢乃が慌てて返すと、副社長は「それは残念」と言って微笑んだ。
 ――本当に彼は、夢乃を抱き枕としか思っていないようだ。

「こちらにいらっしゃるとは思いませんでした……。てっきり、副社長室に行けばいいものだと。企画の件で呼び出されたのだと思ったんですけど、違うんですか?」
「ああ、それもあるけど……」

 副社長はスーツのポケットを探ると、手をグーにして夢乃に差し出す。

「手を出せ」
「はい?」

 わけがわからず両手のひらを並べて出すと、そこに鍵と折りたたんだメモ用紙がのせられた。

「俺のマンションの鍵。それと住所。駅に近いし、わかりやすいと思う」
「え……あっ」

 そこでやっと、彼がルームシェアの件も込みで夢乃を呼び出したのだとわかる。
 手のひらで光る大きめの鍵を見つめ、本当に副社長と同じ部屋に住むのだという実感がじわじわと湧いてきた。

「それと、引っ越し業者の手配をしておいた。明日、君が出社しているあいだに荷物を運び出してくれる」
「明日……? え、あの、わざわざ手配してくださったんですか?」
「迷惑だったか?」
「い……いいえっ。そんなことは」

 夢乃は慌てて首と一緒に両手をぶんぶんと振る。

「すごく助かります。実は、今まで引っ越しの手配を自分でしたことがないので、どこに頼めばいいのかよくわからなかったし」
「今の部屋に入るときは? 自分で探したんじゃないのか?」
「手配は全部……兄がやってくれたんです。わたしに任せておくと、いつまでたっても悩んだままで決まらないから、って」

 説明の途中で副社長がぷっと噴き出す。なにに対して笑われたのかはわからないが、自分の年齢を考えればちょっと恥ずかしかったかもしれない。

「君のお兄さんとは気が合いそうだ。実は俺も、さっきの話を聞いていて、君に任せるとギリギリまで引っ越し業者も決まらなそうだと思ってね。悪いと思ったがこちらで決めさせてもらった」
「ふ……副社長っ、それはあんまりですっ……」

 兄ならともかく、副社長とは今までまともに話すらしたことがないのだ。こんなことがなければ、今でもきっと仕事以外で関わることなどなかっただろう。
 そんな相手にいきなり優柔不断を指摘されるのは、さすがに不本意だ。

「それはさておき」

 ポンッと、副社長の手が肩にのせられる。

「触られたくない私物は、今夜中にまとめておきなさい。大きなものはそのまま運び出してくれる。クローゼットの中や食器なんかも業者のほうでやってくれるから、それほど手間はかからないだろう」
「……助かります」

 視線をそらし返事をする。それが、なんとなく不快そうに映ったのだろう。彼はまるでなだめるように肩にのせた手をポンポンと動かす。
 あまりにも余裕な態度を見せられて、一瞬湧いた反発がしぼんでいった。
 なんだかんだいっても、副社長は夢乃のためを思ってやってくれたのだから、厚意には甘えよう。

「食器棚や冷蔵庫は俺の所に大きなものがあるが、どうする? そのまま処分を頼むこともできるが」
「え……、あ……」

 そこまで考えていなかった。自分が持っているのは一人暮らし用の小さなものばかり。だが、すでに大きなものがある場所にそれらを持っていくのも、おかしな気がする。
 しかし、ここで処分したとして、またすぐに一人暮らしを始めるのなら、すべて買い直さなくてはならない。

「――と、いう選択を、すぐにしろというのは無理だと思うので、不要な家財道具はひとまずガレージに保管しておこう」

 さすがは夢乃の優柔不断な部分を見抜いていただけのことはある。

「すみません。なにからなにまで手配してもらって……」
「さっきも言ったが、俺がやったほうが早い。なにより、こちらの都合でもある。とっとと引っ越してきてもらって安眠したい」

 ……それが目的か……
 そう言われると、申し訳ないと思う気持ちが少し薄れる。
 副社長は夢乃の肩から手を離し、笑顔で右手を差し出した。

「明日から、よろしく」

 にわかに心臓が早鐘を打つ。これは握手をしようということだろうか。夢乃は震えそうになる手を数回こすり合わせ、そっと差し出した。
 すると、素早くその手を取られ、しっかりと握られる。

「よろしくな」
「は……はい、こちらこそ、よろしくお願いします」

 ドキドキすると同時に、心がほわりと温かくなる。
 彼の手は、とても大きくて、力強い。
 そして、予想外に、温かかった……


 アパートに帰った夢乃は、ひとまず副社長に言われた通り、触られたくない物や貴重品など、自分でできる範囲で引っ越しの荷物をまとめ始めた。

「結構簡単に終わったなぁ」

 つぶやきながら段ボールのふたをガムテープで留める。それを部屋の隅へ移動させて、夢乃はふうっと息を吐きながら室内を見回した。
 引っ越しの準備をしているとは思えないほど、部屋の中はそのままだ。明日にはソファーもテレビもここからなくなるとは信じがたい。
 大きなものは業者がやってくれるらしく、大変助かる。夢乃が一人暮らしを始めるときも確かそんなパックがあった。だが、便利なものには必ずそれ相応の対価が発生するものだ。

(あのときは、節約のためせっせと自分で段ボールと戦ったっけ)

 今回はなんと、副社長がそうした費用も負担してくれるのだという。
 理由は、『これで眠れるようになるかと思えば、痛くもかゆくもない』ということらしい。
 何度も思うが、彼はどれだけ切羽詰せっぱつまっているのだろう……
 ここまで期待されると、本当に自分はその期待にこたえられるのだろうかと不安になってくる。
 たとえ仮眠室で二度眠れたからといって、偶然ということもある。もしくは、人間の抱き枕という珍しさに、たまたま身体が反応して眠れたという可能性だってあるのだ。
 正直なところ、夢乃にはどうなるかわからない。けれど、期待にこたえられず追い出されることになったら、そのときはそのときだ。
 今手掛けている企画の仕事が落ち着くまで、ありがたくルームシェアをさせてもらおう。
 相手が副社長であること、そして彼の抱き枕になるということに、女性として危機感を抱かないわけではないが、そこは、絶対に手を出さないと約束してくれた彼の言葉を信じるしかない……
 ――――そうして、その日のうちに簡単な荷造りを終えた夢乃は、翌日管理人に挨拶あいさつを済ませて、アパートの鍵を返した。その際に、今日引っ越し業者が来ること、来たら部屋の鍵をあけてもらうことを頼んで会社へ向かった。
 会社にいるあいだに、残りの荷物はすべて副社長のマンションへ運ばれる。今晩から夢乃の帰る場所は、いつものアパートではなく新しいマンションだ。
 昨日、副社長にもらった住所のメモを見ながら、夢乃はぼんやり考える。

(3LDKって言ってたっけ。一人暮らしなのに、広い部屋に住んでるんだなぁ)

 急ぎの引っ越しだったせいもあるが、事前に、借りる部屋の下見どころか、マンション自体の見学もしていない。
 駅に近く、周囲にデザイナーズマンションが建ち並ぶ一角なので、立派なマンションなのだろうと予想はついた。
 どんな所なのか気になる気持ちはもちろんあるが、ひとまず新居で最初にやるべきことは荷物の整理だ。共同生活をどうするかはこれから相談するにしても、キッチンやサニタリー関係の確認をしておかなくてはならない。
 仕事の合間にいろいろと手順を考えながら、なんとか定時に退社した夢乃は、新しい住居へと向かったのである。


 今夜は荷物の整理を優先させるため、夢乃はマンションへ到着する前に夕飯のサンドイッチを購入した。
 仕事や接待などいろいろあるから、副社長の夕食は考えなくていいと言われたが、本当にそれでいいのだろうか。副社長だって、いつも帰りが遅いわけではないだろう。自宅でゆっくり夕食を食べたい日もあるのではないか。
 そのあたりは、タイミングを見て再確認してみよう。そんなことを考えているうちに、目的のマンションに到着した。
 マンションは十五階建て。一階の外壁が煉瓦れんがかべふうで、前庭から出入口へは街燈がともるプロムナードが続いている。まるでホテルのようなお洒落しゃれな雰囲気に、一瞬足がすくんだ。
 エレベーターで十二階へあがり、目指すドアを見つける。品のいいベージュのドアの横にはガラスプレートの表札が取り付けられていて、副社長のフルネームが漢字で記されていた。
 今日からしばらく、ここが自分の住まいになるのだ。
 鍵を挿し込む手が緊張で冷たい。カチャリと開錠される音が妙に重く感じた。

「おじゃまします……」

 小さくつぶやいて、おそるおそる中へ入る。この場合は「ただいま」が正しいのだろうが、その言葉を使う勇気はまだなかった。
 とても広い玄関だ。そこから続く廊下も、横幅があって広い。
 ――のだが、……なぜかそう見えない……
 その原因となっているものを、夢乃は無言で見つめた。
 玄関を入ってすぐ右側に見えるドアはお手洗いだろう。廊下の突き当たりに見えるドアは、おそらくリビングへ続いているに違いない。
 それらのドアを避けるようにしながら、廊下のあちこちにものが積み上がっている。
 新聞であったり、雑誌であったり。はたまた宅配便の箱や封筒であったり。
 夢乃はしばらくそれらを凝視していたが、なんとなくイヤな予感をいだきつつ部屋へあがった。
 廊下の両端にものが積み上がっていても、廊下自体が広いので歩くのに不便はない。
 リビングだろうと予想をつけたドアを開け、目の前に広がる光景を見たとき、夢乃は自分の予想が的中したことを感じ始める。
 すぐに「やっぱり!」と思えないのは、これだ、という決定的なものが目立たないからだ。
 足を踏み入れたリビングダイニングは、とても広い。対面式キッチンもお洒落しゃれで綺麗だ。
 そう――綺麗、であるように……見える。
 夢乃は室内をゆっくりと歩き始めた。ソファーの周囲、窓辺、テレビの前、ダイニングテーブルの周り。さすがは副社長、と言いたくなるほどセンスのよい調度品でまとめられた部屋だ。
 室内もとても過ごしやすそうに思える。
 ただ……
 部屋の真ん中に立ち、夢乃はじっと足元を見つめた。
 そこには、十冊程度の雑誌が積み上がっている。
 同じような雑誌の山が、玄関にも、ソファーの脚元にも、窓辺にもあった。
 他にも、新聞を積み上げた山、封書などの束、空き缶や空き瓶の集まり、タオル類の山……
 それらの山は、ひとつやふたつではないのだ。
 部屋中に点在するこのかたまりの多さを、どう考えたらよいだろう。
 部屋自体は片づいているように見える。歩き回るにも不自由はない。ソファーにも座れるし、テーブルも使える。きちんと拭いてあるらしく、テーブルの天板はつやつやだ。
 しかし……、本来片づけておかなくてはならないものが、まとめるだけまとめられて、そのまま放置されている。
 それもズルイことに、散らかっていることを意識させない置きかたで。

「一ヶ所にさぁ……、まとめて置いておけばいいんじゃないかなぁ……」

 ここにいない相手への愚痴ぐちが、自然と口から出る。夢乃はショルダーバッグをソファーの隅に置くと、おもむろにその横にある雑誌類を持ち上げた。
 数にして十冊程度なので、それほど重くはない。
 それを持って廊下へ出ると、玄関に積み上がっていた雑誌と一緒にする。同じように他の雑誌の山も一ヶ所にまとめていった。
 雑誌の次は新聞のたぐいをまとめて、続けてDMなどの封書類。
 まとめたら今度は縛るひもがほしいところだが、どこにあるのか、そもそもそんなひもがこの家にあるのかどうかもわからない。
 ひとまず、まとめられるだけまとめた紙類は廊下に積み上げ、次に夢乃はキッチンの中をぐるりと見回す。目指すものをキッチンラックに見つけた。すぐに大きなビニール袋を広げて、空き缶や空き瓶を回収し始める。
 無言のまま一心に片づけていくものの、心の中ではどうしてこんなにいろいろなものが点在しているのかが不思議でならない。
 リビングがこうなのだから、きっと他の部屋も同じような状態だろう。
 とはいえ、他の部屋は副社長の私室だ。そんな場所に無断で足を踏み入れるわけにはいかない。
 そのとき、この部屋のあるじが戻って来る前に、勝手に片づけてよかったのだろうかと思い立った。しかし、すでに始めてしまっている。リビングや廊下などは夢乃も使わせてもらうことになるのだから構わないのではないか。

「よし、やっちゃお」

 そう結論づけた夢乃は、猛然と部屋の片づけを再開した。
 今までものが積まれていた場所のほこりを取り、隅々まで拭き掃除をしていく。
 ホッとしてソファーに腰を下ろしたとき、すでに二時間という時間が経過していた。
 ――やっと終わった……
 夢乃はソファーの背もたれに寄りかかり、片手でひたいを押さえる。
 予想外だ。こんなに時間がかかるとは思わなかった……
 まるで片づけが終わるのを待っていたかのように、玄関でドアが開閉する音が聞こえる。それからすぐに「長谷川さん、ここか!?」という、副社長のどこか慌てたような声とともにノックの音がした。
 しかし、ノックの音はリビングのドアからではない。おそらく廊下にあったドアのひとつを叩いたのだろう。どうやらそこが夢乃の部屋になるらしい。
 思えば、ここにきてからリビングと廊下の行き来ばかりしていたので、自分の部屋のことまで頭が回らなかった。

「長谷川さん!?」

 直後、リビングのドアが勢いよく開く。姿を現したのはこの部屋のあるじである、副社長。
 挨拶あいさつがてら部屋の片づけをしておきましたよと、ちょっとした皮肉を言っても許される気がする。夢乃は苦笑いを浮かべながらソファーから立ち上がった。

「副社……」

 開きかかった口はすぐに言葉を失った。夢乃を見つけるやいなや、まさしく突進といわんばかりの勢いで副社長が近づいてきたのだ。

(えっ、なにっ!?)

 逃げる間もなくガバっと抱きつかれ、そのまま夢乃は背後のソファーに押し倒された。

(なになになになに、なんなのーぉっ!!)

 一気に頭はパニック状態だ。
 帰ってきていきなり抱きついてくるとは何事か。
「ただいま」もなければ、片づいた部屋に対する感想もない。それどころか、帰ってくるなり、いきなり抱きついてあまつさえソファーに押し倒すなんて。

(やっぱりルームシェアするなんて早まった!? あああっ、副社長の切羽詰せっぱつまった態度にだまされたぁ!!)


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