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55話 握りしめた拳の行方は

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 ガンッ!

 狭いトイレの中に黒野の身体が叩きつけられた音が反響した。

「お、おいっ! やめろよ! なんだよ突然……!」

 黒野の取り巻きが狼狽したように声を上げる。
 だが、俺は取り合わず、真っ直ぐ黒野の顔を見据えた。
 生来の目つきの悪さも相まって、たぶん悪魔のような顔をしていたことだろう。

 だけど、黒野は慌てるでもなく、怯えるでもなく、口元に薄ら笑いを浮かべて、俺を見据え返していた。

「あー……今の話、聞かれちゃった感じ?」

 いつもどおりの調子で、これから世間話でもするように、そう尋ねてくる。

「お、俺――人呼んでくる!」

 取り巻きがバタバタと駆けていく足音を聞きながら、俺は黒野に向かって言った。

「……最初から終わりまで、全部聞いてた」
「そっかぁ」

 黒野は天井を仰ぎ見るようにしながら、大きなため息をつく。そして視線だけをこちらに向けると、再び薄ら笑いを浮かべて言った。

「まあ、落ち着けって。さっきの話は冗談半分で話盛はなしもっただけだよ」
「笑えない冗談だったよ」

 俺が言葉を返すと、黒野は更に口元の歪みを強めた。

「つーかさ。俺がどんな風に恋愛しようと。それは俺の自由だから。お前にあれこれ言われる筋合いはないと思わない?」
「……それがお前の本性だったんだな」
「本性っていうかー。んー、そうだな。お前みたいなには分からないだろうけど、俺みたいにゼンブ持ってる人生ってさ、案外退屈なんだよ」
「退屈――?」
「そ。だから恋愛はその暇つぶし。暇を潰すためには、色々と趣向を変えてみたいと思うのは当然じゃね?」

 こいつは何を言ってるんだろう? 一瞬、理解できなかった。

 だけどすぐに、ストンと胸に落ちるものがあった。
 ああ、なるほど。そういうことなのか――

 黒野にとって恋愛とは、ようはなのだ。

 俺が漫画やラノベを読むように、ゲームで遊ぶように。
 気軽に手を伸ばし、飽きたら途中でやめて。また別のものに手を出す。

 今日はFPSを遊んだ。明日はRPGで遊ぼう。
 この漫画は、アニメはつまらない。ここで切ろう。

 そんな感覚で、誰とでも付き合うことができる。飽きたら別れればいいだけのことだから。

 確かに、それは個人の価値観の範囲なのかもしれない。
 倫理的に褒められたものじゃないかもしれないが、別に法律に違反してるわけじゃない。
 その振る舞いをしたうえで、本人が人間関係をコントロール出来ているのであれば、少なくとも第三者からアレコレ言われる筋合いはない――黒野のその主張も一理ある。

 だけど、それでも、許し難い!
 お前のその価値観で、詠が傷つきかねないことが。

「――まあ、青井が怒る気持ちもわかるよ。だって、お前、詠ちゃんのこと好きなんだもんな? 自分の好きな娘が、陰キャが必死こいて仲良くなった娘が、俺みたいなヤツに取られたらイヤだよな?」

 黒野の言葉に、俺は思わず眉根を寄せた。
 俺の表情を見た黒野は、更に愉快そうになって言葉を続ける。

「なあ、答えろって。彼女のこと好きなんだろ?」

 黒野は挑みかかるような目で俺をまっすぐ見つめた。
 
 ああ、そうさ。俺は、詠が――
 言え。言うんだ!
 ハッキリと!

「――ッ」

 だけど、この期に及んで。
 俺は、その気持ちを言葉にして、黒野にぶつけることができなかった。
 
 なぜ。どうして。
 どうして俺は自分の想いを言葉にすることができないんだ?

 俺は――

 俺はその言葉を言う代わりに、黒野の胸ぐらをつかむ左手の力を弱めた。そのままダラリと腕を下ろす。さっきまで握り拳を作っていた右手も、だらしなく緩んでいった。
 
 そして絞り出すような声で言った。

「頼む……詠を……彼女を傷つけるようなマネだけはしないでくれ。お願いだ」

 蚊の鳴くような、弱々しい声だった。

「はあ?」

 黒野の顔から笑みが消える。
 代わりに心底軽蔑するような表情を浮かべた。

「なんだそれ? 気持ちワル……お前さぁ――」

 黒野が何かを言いかけたところで、勢いよくトイレのドアが開いた。
 俺も黒野もドアの方を向く。

「おい、黒野! 大丈夫か!?」

 取り巻きが、クラスメイト達を何人か連れて中に入ってきた。
 
 彼らの目に映った光景は、至近距離で向かい合う俺と黒野。
 そして、黒野の胸元は、今しがたまで俺に掴まれていたせいで、シャツが伸びて大きく乱れていた。

 この光景を見たクラスメイト達が――

 
「青井! お前何やってんだよッ!」

 駆けつけた大柄なクラスメイトが、俺と黒野の間に割って入った。それに続いて、取り巻きが黒野の元に駆け寄る。
 
「黒野、大丈夫か、ケガしてないか!?」
「ああ、ヘーキ」

「何? 何があったん?」
「ケンカ?」

 ザワつくその他のクラスメイトたち。
 
 この光景を見た彼らが、俺が一方的に黒野に暴力を振るったと状況を察するのは、無理からぬ話だ。

「俺と黒野がトイレで用を足してたら、いきなりコイツが出てきて――問答無用で黒野を壁に叩きつけたんだよ! マジで意味わかんねーし!」

 事情が分からぬクラスメイト達に、取り巻きが補足説明。コイツも嘘は一つもついていない。

「え、こわっ」
「なんでそんなことすんの?」

 動揺が、そして俺に対する不信感が、真っ白な半紙にこぼされた墨汁ぼくじゅうのように、じわりと広がっていく。

 何か反論しようと思った。
 だけど、なぜ自分がこんな行動をしたのか、上手く説明ができなかった。
 いや、説明するのが怖かった。

「ごめん――」

 俺は虚空こくうに向かってつぶやく。
 それは何に対する謝罪だったんだろうか。
 
 黒野に手荒なマネをしたことに対する?
 クラス会をぶち壊してしまったことに対する?
 それとも。

 とにかく俺は、一刻も早くこの場から離れたくて、逃げ去るようにトイレを後にする。

 トイレの外に出ると、廊下に女子生徒達も集まっていた。
 一様に困惑した顔を浮かべた中に、詠の姿もあった。

 彼女は心配そうな表情でこちらを見つめている。
 
 俺は彼女と視線を合わせることなく、うつむきながらその場を離れた。

 ごめん。

 心の中でもう一度謝る。
 それは、詠に対する謝罪の念だった。

 今日一緒に帰る約束を破ってごめん。
 
 詠も楽しんでいた、クラス会を台無しにしてごめん。

 黒野の問いに、何も言えなくてごめん。

 
 俺なんかが、こんな気持ちになってごめん。
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