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60話 ボーイズ・オン・ザ・ラン
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姉さんが部屋を出て行った後。
一人になった俺は、大きく息を吐いた。
ドクン、ドクン。
心臓の鼓動がうるさいくらいに高まっていた。
ジャージから外行きの服へ着替える。
それから部屋の壁にかけられた姿鏡の前に立った。
Tシャツにジーパン。
ぼさぼさに伸びた髪の毛。
目元には十日分の不摂生と寝不足を物語るクッキリとしたクマ。
顔色もなんだか青っちろい。
我ながらヒデー顔だ。
思わず笑ってしまう。
だけど、鏡に映る自分自身のその瞳。
瞳だけは、ギラギラと不敵な光が輝いていた。
――行け。
鏡の中のもう一人の俺が、そう告げた。
マンションの外に出る。
天気予報に反して、いつの間にか雨が上がっていた。
日はまだ高く、西空に浮かぶ茜色の夕陽が、分厚い雲間を割くように顔をのぞかせている。
ポケットからスマホを出した。
そして着信履歴から、その番号を見つけ出す。
日付は五月の終わり。初めてきみから電話があった日付。
LINKの登録も、メッセージ履歴も、スマホからきみの痕跡は大体全部消したけど、これだけは消せなかった。
かけようか。
通話ボタンをタップしようとして、やめた。
会いたかった。
スマホ越しじゃなくて、直接声を聞きたかった。
代わりに現在時刻を確認する。
午後五時を回っていた。
「行こう」
自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、俺は一歩踏み出した。
最初は一歩一歩、踏みしめるように。
段々ともどかしくなって。
歩幅が大きくなっていった。
腕の振り幅も大きくなる。
道路を踏みしめる足取りも弾むように、力強くなっていった。
気がつけば駆け出していた。
あちこちにできた水たまりを蹴り飛ばして走る。
雨上がりの湿気を孕む、生温い空気を真っ二つに切り裂くように、ただひたすら走る。
全速力だ。
汗が止め処なく流れ出て、呼吸は乱れている。心臓はドラムみたいに脈打ち、運動不足の身体が悲鳴を上げた。
「ハァッ――ハァッ――」
でも止まらない。止められない。
苦しい!
喉の奥からは、鉄のような味がしてくる。
それでも構わない。
ついさっきまでの心の痛みに比べたら。
もっと速く走るんだ。
真っ直ぐ前を見つめて走る。
遠くの空の向こう。
オレンジ色に染まる空。
そういえば、初めてきみにあった日もこんな夕焼けだった。
俺の胸の中にあった霧のようにモヤモヤしたもの。
それが一気に晴れていくような気持ちになる。
一秒でも早く、きみに逢いたい!
***
そんな思いで走り続けると、やがて詠の家が見えてきた。
洋風の小洒落た一軒家。
その玄関前のポーチに人影があった。
人影は二つ。
文ちゃんと加代子さんだ。
俺の姿に気づいた文ちゃんが、ぴょんぴょんと跳ねながら、こっちに向かって手を振っている。
「あー! お兄ちゃん! やっと来たー!」
「文ちゃん」
「遅いー。待ちくたびれたよぉ~!」
文ちゃんはまるで友達と遊ぶ約束をして待っていたみたいな口ぶりで言う。
俺は文ちゃんのもとまで走り寄って、少しだけ息を整えた。
「いらっしゃい、青井くん。あらあら、汗だくになっちゃって」
そんな俺に加代子さんが優しげな声をかけてくれた。
「あ、あの。こんばんは。その、加代子さん。文ちゃん。詠は――」
「お姉ちゃんは、出かけてるよっ」
「どこに?」
俺が尋ねると、文ちゃんはずいっと顔を近づける。
「約束っ!」
「へ? 約束?」
「お姉ちゃんとの約束! まさか忘れてないよね?」
文ちゃんの言う約束。
俺に思い当たることといえば。
「夏祭り……」
俺がつぶやくと、文ちゃんはニッコリ笑った。
「大正解! よくできましたー!」
そう言って、パチパチと拍手する。
「天川神社の境内前! そこでお姉ちゃん、待ってるから!」
「あ……」
「うふふ。お天気、心配だったけど。晴れてよかったわねえ」
そう言って、笑顔を向け合う文ちゃんと加代子さん。
ああ、きっと詠は。
姉さんだけじゃなくて。この二人にも、相談したんだ。
きっと、心配をかけてしまったに違いない。
「あの――、文ちゃん。加代子さん。俺ッ――」
口を開いて、そこで言葉が詰まる。
この先の言葉を紡ぐのは、勇気がいった。
だけど、踏み出す。
怖かったけど、一歩、踏み出せた。
「俺、詠のことを一方的に無視しました。俺の勝手な都合で。詠は俺の一番大切な人なのに。きっと……詠のことを傷つけたと思います」
頭を下げた。
「すいませんでしたッ!」
その一言だけ発した後、地面を見つめたまま、返事を待った。
「青井くん。頭を上げて」
加代子さんの優しい声に促されて、おずおずと顔を上げる。
そこには微笑みを浮かべる二人の姿があった。
「しょーがないよ! お兄ちゃんはこみゅしょーだからッ!」
文ちゃんは相変わらず無邪気な様子で言った。
「その気持ちを、詠に届けてくれれば、それで十分」
加代子さんは、穏やかな笑顔を浮かべる。
俺は深く息を吸って吐いた後、再び口を開いた。
「俺、詠に逢いにいきます。必ず伝えてきます!」
「うんッ!」
「頑張ってね、青井くん」
「はいッ!」
俺は駆け出した。
二人の優しさに背中を押されながら。
後ろから「いってらっしゃい」の声が聞こえた。
一人になった俺は、大きく息を吐いた。
ドクン、ドクン。
心臓の鼓動がうるさいくらいに高まっていた。
ジャージから外行きの服へ着替える。
それから部屋の壁にかけられた姿鏡の前に立った。
Tシャツにジーパン。
ぼさぼさに伸びた髪の毛。
目元には十日分の不摂生と寝不足を物語るクッキリとしたクマ。
顔色もなんだか青っちろい。
我ながらヒデー顔だ。
思わず笑ってしまう。
だけど、鏡に映る自分自身のその瞳。
瞳だけは、ギラギラと不敵な光が輝いていた。
――行け。
鏡の中のもう一人の俺が、そう告げた。
マンションの外に出る。
天気予報に反して、いつの間にか雨が上がっていた。
日はまだ高く、西空に浮かぶ茜色の夕陽が、分厚い雲間を割くように顔をのぞかせている。
ポケットからスマホを出した。
そして着信履歴から、その番号を見つけ出す。
日付は五月の終わり。初めてきみから電話があった日付。
LINKの登録も、メッセージ履歴も、スマホからきみの痕跡は大体全部消したけど、これだけは消せなかった。
かけようか。
通話ボタンをタップしようとして、やめた。
会いたかった。
スマホ越しじゃなくて、直接声を聞きたかった。
代わりに現在時刻を確認する。
午後五時を回っていた。
「行こう」
自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、俺は一歩踏み出した。
最初は一歩一歩、踏みしめるように。
段々ともどかしくなって。
歩幅が大きくなっていった。
腕の振り幅も大きくなる。
道路を踏みしめる足取りも弾むように、力強くなっていった。
気がつけば駆け出していた。
あちこちにできた水たまりを蹴り飛ばして走る。
雨上がりの湿気を孕む、生温い空気を真っ二つに切り裂くように、ただひたすら走る。
全速力だ。
汗が止め処なく流れ出て、呼吸は乱れている。心臓はドラムみたいに脈打ち、運動不足の身体が悲鳴を上げた。
「ハァッ――ハァッ――」
でも止まらない。止められない。
苦しい!
喉の奥からは、鉄のような味がしてくる。
それでも構わない。
ついさっきまでの心の痛みに比べたら。
もっと速く走るんだ。
真っ直ぐ前を見つめて走る。
遠くの空の向こう。
オレンジ色に染まる空。
そういえば、初めてきみにあった日もこんな夕焼けだった。
俺の胸の中にあった霧のようにモヤモヤしたもの。
それが一気に晴れていくような気持ちになる。
一秒でも早く、きみに逢いたい!
***
そんな思いで走り続けると、やがて詠の家が見えてきた。
洋風の小洒落た一軒家。
その玄関前のポーチに人影があった。
人影は二つ。
文ちゃんと加代子さんだ。
俺の姿に気づいた文ちゃんが、ぴょんぴょんと跳ねながら、こっちに向かって手を振っている。
「あー! お兄ちゃん! やっと来たー!」
「文ちゃん」
「遅いー。待ちくたびれたよぉ~!」
文ちゃんはまるで友達と遊ぶ約束をして待っていたみたいな口ぶりで言う。
俺は文ちゃんのもとまで走り寄って、少しだけ息を整えた。
「いらっしゃい、青井くん。あらあら、汗だくになっちゃって」
そんな俺に加代子さんが優しげな声をかけてくれた。
「あ、あの。こんばんは。その、加代子さん。文ちゃん。詠は――」
「お姉ちゃんは、出かけてるよっ」
「どこに?」
俺が尋ねると、文ちゃんはずいっと顔を近づける。
「約束っ!」
「へ? 約束?」
「お姉ちゃんとの約束! まさか忘れてないよね?」
文ちゃんの言う約束。
俺に思い当たることといえば。
「夏祭り……」
俺がつぶやくと、文ちゃんはニッコリ笑った。
「大正解! よくできましたー!」
そう言って、パチパチと拍手する。
「天川神社の境内前! そこでお姉ちゃん、待ってるから!」
「あ……」
「うふふ。お天気、心配だったけど。晴れてよかったわねえ」
そう言って、笑顔を向け合う文ちゃんと加代子さん。
ああ、きっと詠は。
姉さんだけじゃなくて。この二人にも、相談したんだ。
きっと、心配をかけてしまったに違いない。
「あの――、文ちゃん。加代子さん。俺ッ――」
口を開いて、そこで言葉が詰まる。
この先の言葉を紡ぐのは、勇気がいった。
だけど、踏み出す。
怖かったけど、一歩、踏み出せた。
「俺、詠のことを一方的に無視しました。俺の勝手な都合で。詠は俺の一番大切な人なのに。きっと……詠のことを傷つけたと思います」
頭を下げた。
「すいませんでしたッ!」
その一言だけ発した後、地面を見つめたまま、返事を待った。
「青井くん。頭を上げて」
加代子さんの優しい声に促されて、おずおずと顔を上げる。
そこには微笑みを浮かべる二人の姿があった。
「しょーがないよ! お兄ちゃんはこみゅしょーだからッ!」
文ちゃんは相変わらず無邪気な様子で言った。
「その気持ちを、詠に届けてくれれば、それで十分」
加代子さんは、穏やかな笑顔を浮かべる。
俺は深く息を吸って吐いた後、再び口を開いた。
「俺、詠に逢いにいきます。必ず伝えてきます!」
「うんッ!」
「頑張ってね、青井くん」
「はいッ!」
俺は駆け出した。
二人の優しさに背中を押されながら。
後ろから「いってらっしゃい」の声が聞こえた。
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