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第三章
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しおりを挟む三
「頭がおかしいにも程があるぞ」
「なぜ」
「なぜだと?」
わしは吐き捨てるように言った。ぐっと、上体を起こして前傾になる。声が震えていた。
「妖怪が人間と契約を交わすなど、あってはならん。本来なら、奴らを惑わし、こちらが魂を喰う代償に、ほんの少し手助けをしてやるんだぞ。それをまさか、貴様から、人と契約を結んだと言うのか?」
タイマは、何だわかっているじゃないか、と言ってへらへらとしていた。その悠々とした様が、より一層わしを苛立たせた。
「その代償が、何かわかっているのか?」
「あたりまえだろう。何百年、化け物をやっていたと思ってるんだ」
「ふざけるな」
わしは激昂して立ち上がった。タイマはそれを見つめながら、しばらく黙るが、おだやかな表情は消えない。その透明な視線の先で、この男はいったい何を見つめているのか。おそろしく不安になる。
なぜ、こんなにも心臓を打つ脈の音が早いのか。焦燥感にあおられ、どうにかなってしまいそうだった。重要なことを、これまでずっと隠されていたことにか、タイマの変化に今まで気づくことができなかった自分自身に、なのか。おそらくそのどちらもだろう。
そうして、いま理解した。なぜあの時、タイマがわしにそばにいてくれと、切に願ったのか。なぜ由紀と結婚したのか。なぜわしに登紀子をあずけたのか。そうして、この瞬間までのうのうと一匹の犬として暮らしてきた、みずからに失望したのだ。
狼狽し、言葉を継げないでいたわしを見つめながら、タイマはいつものように快活に笑った。見ていたくなかった。今までの、あらゆることをその笑い顔の裏に、隠していたのか。そう思うと、その笑顔をまっすぐに見つめることができないでいた。
「聞いてくれ、八枯れ」
語りかけるタイマの声は、労わるようにやさしいものだった。
「俺は、そのうち天狗の力を失う。それは、同時に俺が天狗だったことを、忘れると、言うことでもある」
「だから、登紀子は伏せっているのか。だから、貴様は衰弱しているのか!あの赤ん坊は、」
途切れがちに息を吐きながら、声を震わせて吠えた。タイマは、落ち着かせるように、ゆっくりと語る。
「そうだ。俺は向こうで、そういう契約を交わしたんだ。力を差し出す代わりに、登紀子を人としてこちらに生まなければならなかった」
「ふざけるなよ、貴様」
「黙っていたことは謝る。心配させたくなかったんだ」
「黙れ」
牙をのぞかせ、飛び上がった。目を見開いたタイマが腕を出したが、それを押さえつけ、上にのしかかった。頭を強く打ったのか、ぐう、と小さく悲鳴を上げる。前足で腹を押さえつけ、首元に牙をあてた。よだれがしたたり、畳の上を汚した。
「由紀を、わしを、騙したのか。狡猾になったものだな、え?」
「それは、違う」
「うるさい。貴様の言葉など、いまさら聞く耳を持つものか」
「こうするしかなかったんだっ」
はち切れそうな声で、叫んだ。これまでタイマが怒る姿を何度か、見てきたつもりだったが、こんな風に抑え込んでいた感情を、すべて吐き出すようにして叫ぶのははじめて見た。額に汗を浮かべて、じっと見つめてくるタイマの双眸は、かつてのかがやきを失っていた。
それに一瞬ひるみ力を抜いた。その瞬間を見計らい、起き上がってわしの首根っこをつかむと、襖に向かって叩きつけた。背中がそりかえったかと思った。衝撃に背中を打ち、畳の上に横たわった。タイマは、投げた拍子に関節が痛んだのか、小さくうめいて、うずくまった。
「力を、失いかけているだと?よく言うな」
小さくつぶやいて苦笑を浮かべた。いまの痛みで、ようやく頭が冷えたようだ。タイマも同様に、苦笑をもらすと「存外、お前もガタがきているんじゃないのか」と、言って腹を押えていた。わしは、体を持ち上げて座り直すと、ため息をついた。まったく年より同士で、馬鹿げたことをやっているものだ。自嘲の笑みを浮かべた。
「いつまでだ?」
一度大きく目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべると「ありがとう、八枯れ」と、言って頭をかいた。わしは、鼻を鳴らして「いいから話せ。嘘はつくなよ。もう騙されんぞ」と、釘をさした。それに苦笑を浮かべて、小さくうなずくと、タイマは落ち着いた声で話しだした。
「いま、契約は履行されている。俺の力は、あの子が年を重ねるたびに移ってゆく。生命力になるんだ。そのたびに、あの子は熱を出すが、体になじまないせいだ。もう少し、成長すれば、なじむようになる。あの子が力を得てゆくたびに、俺は天狗の力を失い、それが尽きた時、すべてを忘れる。だから、お前が必要だった。すべてを理解していてなお、由紀と登紀子を守れる奴は、お前しかいないと思ったんだ」
「貴様の代わりになれと言うのか。大層な役だな」
皮肉な笑いを浮かべてつぶやくと、タイマは苦笑を浮かべ「それは丁重に断るよ」と言った。あたりまえだ。
「いいか八枯れ。重要なことは、他にもっとある。これから、次々とお前と登紀子を、悩ますことが起こる。だがその時、俺はもうお前と肩を並べて、戦うことは、おそらくできない」
ふん、と鼻を鳴らして、わしは牙をのぞかせ笑みを浮かべた。
「誰に言っているつもりじゃ」
タイマは「ああ、だから心配はしていない」と、快活な笑いを浮かべて、前髪をかきあげた。わしはふと思いだしたように、その名前を出した。
「由紀は知っているのか?」
「否、だが、もっと別の重大なことを、夢で見ている」
はっきりしない言い方に、わしは双眸を細めた。
「地球が真っ二つにでもなるのか?」
冗談で言ったつもりだったが、タイマは複雑な表情を浮かべて、ううん、とうなって、しばらく黙りこんだ。開いた障子の向こうで、風に吹かれた木々がゆれる。そのたびに、障子に映っていた影も、左右にゆれていた。舞いこんだ葉の一枚が、掛け布団の上に落ちる。タイマはそれを指先でいじりながら、ため息をついた。
「正確なことはわからない。何せ、抽象的なイメージだからね」
「ややこしいな」
「そう言っているだろう。いつかは、わからないんだが、炎だ。そうして、大風が起こる」
「異常気象か?」
「わからない。でも、おそらくたくさん、人が死ぬことになる。その時まで、俺が生きていられるかどうかも、はっきりしない。そもそも、記憶を失ったあとも、生きていられるのかどうかすら、わからないんだ」
深刻な表情をしているタイマに、呆れた声を上げた。
「なぜ、今まで黙っていたんだ」
「そうだな。でもあの頃は、お前だって余裕が無かったじゃないか。今のお前だから言えるんだ」
「貴様がさっさと話しとれば、ああも、ややこしくならんかったわ」と、眉間に皺をよせて、低くうなった。タイマはそれに苦笑を浮かべると、伐が悪そうに頬をかいた。
「俺だって、登紀子を見るまで、半分以上は信じられなかったんだ。許してくれよ。これまでの生活が、この先もずっと続くんだと思っていたんだ」
「続くだろう?」
殊勝な声を出したタイマに呆れてつぶやくと、驚いた顔をされた。タイマは目を見開いて、じっと、見つめてきた。それに首を傾げて、眉間に皺をよせる。
「違うのか?別に、いますぐ死ぬ訳じゃあるまい。それなら、まだ続くじゃないか。そもそも、寿命など、生あるすべてのものに、つきまとうものじゃ。貴様も人に生まれてきたからには、いずれ迎えるものじゃないのか」
それを聞いて、次は大きな声で笑い出した。腹を抱えて、うつむき、震える姿は、少々不気味だった。タイマは笑い過ぎて、浮かんだ涙をこすりながら「わかってはいたが、名残惜しいものだな。お前たちを置いて逝くというのは」と、微笑した。
歪んだ口元を見つめながら、牙をのぞかせ背を向けた。破れかけた襖の間を抜け、廊下に出ると、湯呑を乗せた盆を持った由紀とすれ違った。
「八枯れ」と名を呼ばれたが、それには応えず、まっすぐ登紀子の眠っている部屋へと向かった。
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