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第三章
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しおりを挟む九
カラスが解剖してみた結果、どうやらそのネズミは、はじめから死んでいるものだとわかった。
「腹を開いたくらいでわかるものか」
ふん、と鼻を鳴らして茶々を入れてきたのは、八枯れだった。カラスの淹れた熱燗の中身を、舌先でぴちゃぴちゃ舐めながら、ういーっと酒気をおびた息を吐きだしている。僕は、猪口を傾けながら足を崩した。酔っ払った黒猫の無様な様をちら、と見て口元を歪めた。
「内臓が無かったんだよ。そんな状態で動ける生物なんか、アメーバくらいのものだろう」
「アメーバはもともと、内臓なんかないですよ」そう言って、座敷に上がったカラスは、血のついたマスクを外して笑う。それをゴミ箱に放って、座布団の上にしゃがみこんだ。「やあ、面倒な作業でくたびれた」
消毒液くさい手で、熱燗を持つと、とっとっと日本酒を注いでいった。注ぎ口からしたたる透明な液体からは、湯気がのぼる。いくらか雫を飛ばしながら、白い猪口の中を満たしていった。それを眺めながら、出汁のよく染みたかまぼこを箸でつまんだ。かり、と噛りつくと、じわじわと醤油の香りが、舌の上に染みていった。
「厄介だなあ」
咀嚼しながら、愚痴るようにつぶやいた声を拾うようにして、八枯れは豪快に笑いだした。
「だから、貴様はもの好きだと言ったんじゃ。阿呆め」
「お前、わかっていて今回も止めなかったのか?」
「貴様も大概、疑り深いやつじゃな」
尻尾を噛んだり、舐めたりしながらうんざりした声を上げた。
「仕事をサボってばかりだからだ」
「無理な時は、どうやっても無理じゃ。潔く喰われろ」
「それでも鬼か。このばか野郎」
「だまれ、貧弱人間」
いくらか言いあいをしたが、ついに馬鹿らしくなってやめてしまった。ため息をついて天井を見上げると、ううん、とうなる。飲みかけの酒をあおり、猪口をテーブルの上に置いた。
「死体か。まるで八枯れのようだ」
カラスは相の手を入れるように、酒臭い息を吐きだした。頬を上気させて、にやにやと笑いながら、目を細めた。
「依り代だって言ってたじゃないですか」
「ああ。でも死体を動かすことはできるが、器官の足りない体を動かすことはできない。なにより、八枯れには元の姿もあるんだからね」
「意味がないって言ってましたよ。本当にそうなのでしょう」
「そうなると、一定の形を持たないのか?冗談じゃないぞ」
「よくわからないものが、星の数ほどいることになりますね。こっちも本気でどうにかしなくちゃ、正体不明の有象無象に、四肢を引きちぎられて殺されかねませんよ」
「お前は平気で嫌なことを言うね」
「性分なもんで」
えへへ、と照れたように笑って頭をかいていたが、まったく笑えない。
「だいたい、僕のやるべきことだって明確じゃない。こんな不親切な依頼、仕事として成立しやしないぜ」
「そもそも、星は赤也さんを待っていた、と言いましたからね。ある天体の周期と、地球のなんらかの時間軸とが重なるのが、いまなのかもしれませんよ」
「それこそ専門外だよ。天文学者にでも聞いたほうが良いや」
酒もすすんできて、扱いがそんざいになってきた。こちとら、いきなり襲われて怪我はするわ、馬鹿な式神が二匹暴れるわ。家が壊れるわで、うんざりしているのだ。これ以上の面倒など見切れるものか。東堂の依頼は遂行しているのだから、僕のやることなどこれで終いじゃないのか。そう不機嫌に鼻息を荒くしながら、猪口の中に酒をそそいだ。
「この世の空とは限らんぞ」
むくり、と身を持ち上げた八枯れは、あやしく黄色い双眸を細めた。黒い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、うっすらと牙をのぞかせる。
「どういうことだ?」
「空は空さ。いつでもどことでもつながっておる。大陸と違って、果てなどないからな」
そら見ろ、こいつは何か知ってるんだ。にやけそうになった頬を引き締め、煙草盆を引き寄せる。努めて悠長に振舞い、煙草を一本取り出すと、それをくわえてマッチをこすった。ボオ、と一際明るく照らされた鼻先で、紫煙がゆるやかに立ちのぼってゆく。
「空に種類があるのか?お前の言う通り、空は空じゃないか」
「どこの空だか知るものか。だが、空はこの世にだけある訳じゃない」
「そんなもの知らないよ」
「知らなくとも、わかることはある」
「へえ、例えば?」
僕は紫煙を吐き出すと、にやにやとしながら黄色い双眸を見据えた。その眼光が鋭くなるのと同時に、八枯れは牙を見せてにや、と笑った。
「貴様は境界じゃ」
案外なことに一度言葉を失ったが、すぐに錦との会話の内容を思い出した。「巫女などは、あの世とこの世を行き来することができる。言わば、あの世とこの世の境界だ」僕はそれを八枯れ自身だと考えていた。しかし、目の前の不敵な黒猫は、それを肯定しない。
「もし、貴様にしか見ることのできない空があるとしたら」
「そんなもの」
「そうして、その空に還る最後のチャンスが、いまだとしたら。貴様はその得体の知れない空を、他の者にも見えるようにしなければならん」
「なぜ」
「それが貴様の仕事だからだ」
「やっぱり、無茶ばかりじゃないか」
ふん、と鼻を鳴らすと、煙草の火を揉み消した。ジリジリ、灰を焦がしてゆくにつれて、マルボロの濃厚な香りが座敷内を満たしていった。
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