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筆の森
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「たぶん、明るいところじゃないだろうね」
しばらく沈黙したあと、なんでもないように言った。彼女は理知的な眉の下で、すっと眼を細め、微笑んだ。それなら、君はここに用はないはずだ。と言って、あとは黙っていた。意味がわからず、俺も黙った。壁にかけられている柱時計が、秒針にあわせてゆらゆら揺れていた。
「着替えても良いかな」
彼女は静かに立ち上がると、黒いティーシャツを脱いで、白いズボンを下げた。シャツを床に落とすと、長い黒髪が肩にかかった。脇腹の骨が、浮き上がるほどやせている。白い下着の中に隠された、二つの乳房が微かにゆれた。彼女が、かがむたびに、隙間から乳首がのぞく。そのまぶしいほどの白い肉体に、自然下くちびるを噛んだ。
彼女は恥じらいもなく、頓着することもなく、自然な動作で支度を済ませてゆく。引出の中から紺色の帯と、薄い紫の着物を引きずりだし、着つけをはじめた。堅固な過去と、恥らいのない現在が、一緒になっているような妙な光景だった。
「これから客が来るんだ。君はどうする?」
帯締めをしながら、こちらを一度ちら、と見下ろした。薄い電灯の下で見ると、その双眸は墨よりも濃い黒をしていた。
「帰れ、とは言わないんだね」
「君は自由だ。好きにしたらいい」
「だけど、人を怒鳴って追い返したって聞いたぜ」
「本当に?」と、彼女は眼をまんまるくして驚いていた。それを見て、ほんの少し気が抜けた。気が抜けたと同時にある欲望が頭をもたげて、俺の前頭葉に向かって、食らいついてきた。
「人を呪うって言うのは、本当なのか?」
欲望の向くままに言葉を使うのは、なにより気持のいいことだ。そして彼女になら、本当のことを聞いても良いと思った。しばらくの沈黙のあと、ふっ、と落したような笑いがもれる。長い黒髪をまとめて、漆塗りのかんざしをさしこんだ。
「なるほど。外では、事実よりも奇なことになっているのか」
「じゃあ、噂は噂なんだね」
「噂は噂だし、本当は本当だよ」彼女は、こちらを向いて正座すると、まっすぐに、双眸を見つめてきた。「好奇心をもつのは、良いことだよ。橋本有也。だけど、ほんの少しのベクトルと、力加減を間違えると、怪我をする。死んでしまう。期待の先には必ず幻滅が、空想の先には現実が待っている。それを踏まえて、君はまだ問うか?それとも見るか?」
「どうして名前を」
「名前になんて、大した意味はないんだよ。見てみな、そこら中に書かれている。だけど、君らにはそれが見えない。見えないから、見ようとする。手に入らないから、手に入れようとする。人の欲望には際限がないのさ」
俺は黙っていた。だけど、彼女の膝の上には、またゲージから逃げ出してきたのか、黄色い鼠が乗っかってきた。彼女は慣れた手つきで、鼠を廊下へ逃がし、その後ろ姿を見つめていた。
「逃げてもいいのに、必ず帰ってくる。君と同じだ。帰る場所を知っている。だけど、私も逃がしてはまた捕まえて、檻に閉じ込める。そうすることでしか、手には入らないと、知っているからだ」
それでも、黙っていた。彼女はようやくこちらを向いて、無表情になった。
「知ることこそ、呪と言えばそうかもしれない」
「殺すのか?」
「それを決めるのは私じゃない。君らさ」
「だから、化け物なんて」
「そうだといいけどね」
くちびるをうすく引き伸ばす、その笑みが怖い訳ではない。ただ、訥々と語る彼女の抑揚のない声が、空気を伝って触れてくるかすかな香の香りだとか、そうしたものが、意識を明滅させた。電灯がまぶしい。俺にはどうにも動かし難い、重厚なものであるにも関わらず、それを守りたいと想う。これを正しさだと、信じたい。だけど、本当の自由はその正しさを乗り越えるところにしか、見出すことができない。果てのない登頂なのだ。
「私はね、私が化け物であったほうが、君たちにはよほど良かったろうと思う。だけど、事実はそうじゃない。愛と言う仮面をつけて、自己の欲望を満たそうと蠢くあらゆる偶像が、化け物の本当の姿なのさ」
「よくわからないな」
「直わかる」
彼女が目をつむった瞬間、店の鈴が静かに鳴った。そうして、正座を崩し立ち上がろうとした彼女の腕をつかんで、「君をなんて呼んだらいい」と、場違いなことをハッキリと聞いた。
しばし逡巡してから、「タチバナでいいよ」と、落したように笑った。そのさびしい微笑みが、美しい一枚の絵のように、やけにくっきりと目に焼きついている。
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