筆の森、黴男

当麻あい

文字の大きさ
3 / 8
筆の森

1-3

しおりを挟む
  

     三



 「たぶん、明るいところじゃないだろうね」
 しばらく沈黙したあと、なんでもないように言った。彼女は理知的な眉の下で、すっと眼を細め、微笑んだ。それなら、君はここに用はないはずだ。と言って、あとは黙っていた。意味がわからず、俺も黙った。壁にかけられている柱時計が、秒針にあわせてゆらゆら揺れていた。
 「着替えても良いかな」
 彼女は静かに立ち上がると、黒いティーシャツを脱いで、白いズボンを下げた。シャツを床に落とすと、長い黒髪が肩にかかった。脇腹の骨が、浮き上がるほどやせている。白い下着の中に隠された、二つの乳房が微かにゆれた。彼女が、かがむたびに、隙間から乳首がのぞく。そのまぶしいほどの白い肉体に、自然下くちびるを噛んだ。
彼女は恥じらいもなく、頓着することもなく、自然な動作で支度を済ませてゆく。引出の中から紺色の帯と、薄い紫の着物を引きずりだし、着つけをはじめた。堅固な過去と、恥らいのない現在が、一緒になっているような妙な光景だった。
 「これから客が来るんだ。君はどうする?」
 帯締めをしながら、こちらを一度ちら、と見下ろした。薄い電灯の下で見ると、その双眸は墨よりも濃い黒をしていた。
 「帰れ、とは言わないんだね」
 「君は自由だ。好きにしたらいい」
 「だけど、人を怒鳴って追い返したって聞いたぜ」
 「本当に?」と、彼女は眼をまんまるくして驚いていた。それを見て、ほんの少し気が抜けた。気が抜けたと同時にある欲望が頭をもたげて、俺の前頭葉に向かって、食らいついてきた。
 「人を呪うって言うのは、本当なのか?」
 欲望の向くままに言葉を使うのは、なにより気持のいいことだ。そして彼女になら、本当のことを聞いても良いと思った。しばらくの沈黙のあと、ふっ、と落したような笑いがもれる。長い黒髪をまとめて、漆塗りのかんざしをさしこんだ。
 「なるほど。外では、事実よりも奇なことになっているのか」
 「じゃあ、噂は噂なんだね」
 「噂は噂だし、本当は本当だよ」彼女は、こちらを向いて正座すると、まっすぐに、双眸を見つめてきた。「好奇心をもつのは、良いことだよ。橋本有也。だけど、ほんの少しのベクトルと、力加減を間違えると、怪我をする。死んでしまう。期待の先には必ず幻滅が、空想の先には現実が待っている。それを踏まえて、君はまだ問うか?それとも見るか?」
 「どうして名前を」
 「名前になんて、大した意味はないんだよ。見てみな、そこら中に書かれている。だけど、君らにはそれが見えない。見えないから、見ようとする。手に入らないから、手に入れようとする。人の欲望には際限がないのさ」
 俺は黙っていた。だけど、彼女の膝の上には、またゲージから逃げ出してきたのか、黄色い鼠が乗っかってきた。彼女は慣れた手つきで、鼠を廊下へ逃がし、その後ろ姿を見つめていた。
 「逃げてもいいのに、必ず帰ってくる。君と同じだ。帰る場所を知っている。だけど、私も逃がしてはまた捕まえて、檻に閉じ込める。そうすることでしか、手には入らないと、知っているからだ」
 それでも、黙っていた。彼女はようやくこちらを向いて、無表情になった。
 「知ることこそ、呪と言えばそうかもしれない」
 「殺すのか?」
 「それを決めるのは私じゃない。君らさ」
 「だから、化け物なんて」
 「そうだといいけどね」
 くちびるをうすく引き伸ばす、その笑みが怖い訳ではない。ただ、訥々と語る彼女の抑揚のない声が、空気を伝って触れてくるかすかな香の香りだとか、そうしたものが、意識を明滅させた。電灯がまぶしい。俺にはどうにも動かし難い、重厚なものであるにも関わらず、それを守りたいと想う。これを正しさだと、信じたい。だけど、本当の自由はその正しさを乗り越えるところにしか、見出すことができない。果てのない登頂なのだ。
 「私はね、私が化け物であったほうが、君たちにはよほど良かったろうと思う。だけど、事実はそうじゃない。愛と言う仮面をつけて、自己の欲望を満たそうと蠢くあらゆる偶像が、化け物の本当の姿なのさ」
 「よくわからないな」
 「直わかる」
 彼女が目をつむった瞬間、店の鈴が静かに鳴った。そうして、正座を崩し立ち上がろうとした彼女の腕をつかんで、「君をなんて呼んだらいい」と、場違いなことをハッキリと聞いた。
 しばし逡巡してから、「タチバナでいいよ」と、落したように笑った。そのさびしい微笑みが、美しい一枚の絵のように、やけにくっきりと目に焼きついている。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた

兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています

猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。 しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。 本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。 盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。

処理中です...