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1章
1.1
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子供が泣いている――……。
「駄目よ!」
「直ぐに戻るんだ!」
両親が、自分を繰り返し呼んでいる。
――だけど、困っている人は助けなければならないって、父さんも母さんも、いつも言っているじゃないか。
あの泣いている子を、早く助けなければ。
「戻りなさい、トウリッ!」
遠き日の記憶は、思い出すたびに曖昧にぼやけて、色褪せていく。
けれど、あのとき幼い自分の胸を焦がした正義感を、今でも忘れられずにいる。
昨晩から続く雨が、微睡みに沈む街を絶え間なく濡らしていた。トウリ・ミカドはタクシーの後部座席で揺られながら、後ろに向かって流れていく街の景色を眺めている。
トウリは、やがて暗闇の中に二つの紅い光を見付けて、運転手に車を止めさせた。代金を支払い、脇に置いた刀を手に、レインコートのフードを被りながら降車する。大学入学とともに新調したばかりの革靴が、ぬかるんだ地面に沈んでいくのを感じていると、闇の中に浮かぶ二つの紅い光が揺らめいた。
「トウリ様ですね」
道端に立って傘を差している紅い瞳の青年は、トウリと同じくらいの年齢に見える。
トウリは青年に一言断りを入れ、コートの合間から刀を覗かせると、それを鞘から数センチほど抜いた。銀色の刀身を彼へ向け、映りを確かめると、それを拳銃と揃えて帯刀し、革製のライセンスケースを開いて青年へと差し向ける。
「ミカド家当主の代理で参上した」
ライセンスは、トウリがハンターであることを証明するものだった。青年はそれを確認すると、胸に手を当てて恭しく首を垂れる。
「ゼノン卿の遣いのクロエと申します。お見知りおきを」
あまりゆっくりしている時間はない。二人は挨拶もそこそこに歩き出した。
「急にお呼び立てして申し訳ありません。人間にとっては、随分遅い――いいえ、早い時間ですから……」
時刻は、深夜四時を過ぎたころ。クロエの言う通り、大抵の人間はまだ眠っている時間だ。当主から電話をもらうまで、トウリがそうであったように……。
しかし、ヴァンパイアにとっては、必ずしもそうではない。
――世界に人間とヴァンパイアが栄えて、数世紀が経つ。
人間とヴァンパイアは、これまで世界各地で諍いを繰り返してきたが、それはヨーロッパに位置する小国の連合国家、エクレシア共和国も例外ではない。
トウリはクロエと歩を合わせながら、彼に尋ねた。
「この国の頂点に立つ執政官――ゼノン卿ともあろう方が、なぜ今回の依頼をミカド家に?」
「そのことについては、後ほどゼノン卿がご説明になるはずです。先ずは現場へ急ぎましょう」
クロエの案内で狭い通りに入り、角を三回ほど曲がったところで、湿った空気に鉄を舐めるような匂いが混ざる。その錆びた匂いを辿ると、一人の男が鮮血を流しながら地に伏していた。
男の周りには、警官や医者たちが数人ほど立っていた。彼らはクロエに気付くと、道を開けるようにその場から下がる。
クロエに促されて、トウリは男の傍に膝を付いた。
「うぅっ……、……」
幸いにも、男には意識があった。
「以前起こった事件と、同様の手口に見えます」
クロエはそうトウリに耳打ちすると、医者に処置を行うよう指示を出す。
辺りの水溜まりを赤く濁らせている血液は、男の首筋に刻まれた傷から流れ出ていた。鋭利なものによって皮膚を破られたその痕跡は、紛れもなく噛み痕だ。
周囲にはスーツケースの中身が散乱しており、男の衣服のポケットは探られた痕跡がある。どうやら、野犬に襲われた訳ではなさそうだ。
トウリはクロエに視線を送った。
「ヴァンパイアの仕業だろう」
ヴァンパイアは、生きるために人間の血を欲する。それは、彼らにとって生理的で、本能的なことだ。
だが、これは単なる生命維持のための吸血行為という枠を超えた、悪意ある犯行に見えた。
クロエは緊張した様子で言った。
「犯人を追跡することは出来そうですか?」
「まだそう遠くへ行っていないはずだ」
その時、どこかで悲鳴が上がった。クロエや警官たちがハッと顔を上げる。
トウリは弾かれたように走り出した。ホルスターから銃を抜いてセーフティーを外しながら、やがて辿り着いた薄暗い通りで、地に伏せた女性と、それに覆い被さる人影を見付ける。
人影は、魔女が纏うそれのように厚いローブで全身を覆っていた。ただし、そのローブの色は、雪のように白い。ローブの合間から、闇の中でも妖しく光る、氷のように冷たいアイスブルーの瞳が覗く。
トウリは咄嗟に拳銃を構えた。
「――動くなっ!」
「駄目よ!」
「直ぐに戻るんだ!」
両親が、自分を繰り返し呼んでいる。
――だけど、困っている人は助けなければならないって、父さんも母さんも、いつも言っているじゃないか。
あの泣いている子を、早く助けなければ。
「戻りなさい、トウリッ!」
遠き日の記憶は、思い出すたびに曖昧にぼやけて、色褪せていく。
けれど、あのとき幼い自分の胸を焦がした正義感を、今でも忘れられずにいる。
昨晩から続く雨が、微睡みに沈む街を絶え間なく濡らしていた。トウリ・ミカドはタクシーの後部座席で揺られながら、後ろに向かって流れていく街の景色を眺めている。
トウリは、やがて暗闇の中に二つの紅い光を見付けて、運転手に車を止めさせた。代金を支払い、脇に置いた刀を手に、レインコートのフードを被りながら降車する。大学入学とともに新調したばかりの革靴が、ぬかるんだ地面に沈んでいくのを感じていると、闇の中に浮かぶ二つの紅い光が揺らめいた。
「トウリ様ですね」
道端に立って傘を差している紅い瞳の青年は、トウリと同じくらいの年齢に見える。
トウリは青年に一言断りを入れ、コートの合間から刀を覗かせると、それを鞘から数センチほど抜いた。銀色の刀身を彼へ向け、映りを確かめると、それを拳銃と揃えて帯刀し、革製のライセンスケースを開いて青年へと差し向ける。
「ミカド家当主の代理で参上した」
ライセンスは、トウリがハンターであることを証明するものだった。青年はそれを確認すると、胸に手を当てて恭しく首を垂れる。
「ゼノン卿の遣いのクロエと申します。お見知りおきを」
あまりゆっくりしている時間はない。二人は挨拶もそこそこに歩き出した。
「急にお呼び立てして申し訳ありません。人間にとっては、随分遅い――いいえ、早い時間ですから……」
時刻は、深夜四時を過ぎたころ。クロエの言う通り、大抵の人間はまだ眠っている時間だ。当主から電話をもらうまで、トウリがそうであったように……。
しかし、ヴァンパイアにとっては、必ずしもそうではない。
――世界に人間とヴァンパイアが栄えて、数世紀が経つ。
人間とヴァンパイアは、これまで世界各地で諍いを繰り返してきたが、それはヨーロッパに位置する小国の連合国家、エクレシア共和国も例外ではない。
トウリはクロエと歩を合わせながら、彼に尋ねた。
「この国の頂点に立つ執政官――ゼノン卿ともあろう方が、なぜ今回の依頼をミカド家に?」
「そのことについては、後ほどゼノン卿がご説明になるはずです。先ずは現場へ急ぎましょう」
クロエの案内で狭い通りに入り、角を三回ほど曲がったところで、湿った空気に鉄を舐めるような匂いが混ざる。その錆びた匂いを辿ると、一人の男が鮮血を流しながら地に伏していた。
男の周りには、警官や医者たちが数人ほど立っていた。彼らはクロエに気付くと、道を開けるようにその場から下がる。
クロエに促されて、トウリは男の傍に膝を付いた。
「うぅっ……、……」
幸いにも、男には意識があった。
「以前起こった事件と、同様の手口に見えます」
クロエはそうトウリに耳打ちすると、医者に処置を行うよう指示を出す。
辺りの水溜まりを赤く濁らせている血液は、男の首筋に刻まれた傷から流れ出ていた。鋭利なものによって皮膚を破られたその痕跡は、紛れもなく噛み痕だ。
周囲にはスーツケースの中身が散乱しており、男の衣服のポケットは探られた痕跡がある。どうやら、野犬に襲われた訳ではなさそうだ。
トウリはクロエに視線を送った。
「ヴァンパイアの仕業だろう」
ヴァンパイアは、生きるために人間の血を欲する。それは、彼らにとって生理的で、本能的なことだ。
だが、これは単なる生命維持のための吸血行為という枠を超えた、悪意ある犯行に見えた。
クロエは緊張した様子で言った。
「犯人を追跡することは出来そうですか?」
「まだそう遠くへ行っていないはずだ」
その時、どこかで悲鳴が上がった。クロエや警官たちがハッと顔を上げる。
トウリは弾かれたように走り出した。ホルスターから銃を抜いてセーフティーを外しながら、やがて辿り着いた薄暗い通りで、地に伏せた女性と、それに覆い被さる人影を見付ける。
人影は、魔女が纏うそれのように厚いローブで全身を覆っていた。ただし、そのローブの色は、雪のように白い。ローブの合間から、闇の中でも妖しく光る、氷のように冷たいアイスブルーの瞳が覗く。
トウリは咄嗟に拳銃を構えた。
「――動くなっ!」
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