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第八章「三方ヶ原の戦い」
第三十八話「陣太鼓」
しおりを挟む元亀三年十二月二十二日宵(よい)の口 浜松城 二ノ丸
「行かせい!儂は、儂はぁ!」
日が沈み、篝火(かがりび)が焚かれる城内。
取り乱れる家康公を家臣たちが必死で取り抑えておりました。
「殿、落ち着いて下され」
「ええーい、この状況で落ち着いていられようか!」
家臣たちの諫言(かんげん)も空しく、家康公は尚も戦場へ行こうと抵抗を続ける。
そんな状況の中へ、一人の騎馬武者―酒井左衛門尉殿がやって参りました。
「左衛門殿」
家臣たちが安堵の表情で左衛門殿を迎え入れるが、左衛門殿はそんな家臣たちの眼差しを余所に、馬を下りるやいなやすぐに下知を下す。
「急ぎ殿を本丸へお連れしろ」
「は、ははっ」
家康公を囲んでおる家臣たちは、慌てた様子で左衛門殿の下知に従い家康公を抑えつけたまま本丸へと移動を始める。
「放せ!放さんかぁ!」
家康公の叫び声が城内に木霊(こだま)するが、左衛門殿はそんな家康公には目もくれず次の指示を下す。
「戻って来る兵たちのために城門を開けたままに致せ」
な!?
その場におる者たち全員が驚きの表情を浮かべる。
「そんな事をすれば武田軍が挙(こぞ)って城内に入って参りまするぞ」
「構わん」
左衛門殿は家臣の意見を冷たく一蹴するや、今度は周囲にいる家臣たち一人一人に細かい指示を出す。
「大久保七郎右、柴田七九郎は下垂口。戸田三郎右は山手口。松平甚太郎、小笠原与八郎は塩町口。石川伯耆守は鳴子口。そして・・・」
左衛門殿の視線が拙者の方に向けられる。
「鳥居彦右衛門、渡辺半蔵、半十郎。お主たちは玄黙口を守れ」
玄黙口・・・浜松城の北側。三方ヶ原の戦場に最も近い場所。
拙者は興奮のあまり武者震いする。
「以上。各々(おのおの)方、一人たりとも武田の者を城内に入れるな」
そう言って颯爽(さっそう)と振り返る左衛門殿に、大久保七郎右殿が質問する。
「さ、左衛門殿はどちらへ?」
左衛門殿は、首だけこちらの方に向けて答える。
「儂は、太鼓を叩く」
左衛門殿の返答に一同は首を傾げるが、左衛門殿はそんなことを気にもせず、すたすたと物見櫓の方へと向かって行く。
その後ろ姿を眺め、きょとんとする家臣たち。そんな中、七郎右殿が口を開く。
「さ、左衛門殿には、きっと何かお考えがあるのであろう・・・皆の衆、それぞれの持ち場へ移れ」
その言葉に一同は頷き、それぞれの持ち場へ向かい足を進める。
拙者も、同じく名前を呼ばれた二人と共に玄黙口へと向かう。
鳥居彦右衛門元忠殿。そして、拙者の弟・渡辺半十郎政綱。
隣を走る半十郎が前を向いたまま拙者に声をかける。
「兄者は下がっておれ。足手纏いじゃ」
拙者は呆れた表情を浮かべ半十郎に言い返す。
「相も変わらずつれないの~お主は」
拙者の弟・半十郎は、拙者が一向一揆の際に父・源五左衛門を見殺しにした事を今でもひどく恨んでおりました。
「此度の戦でも、多くの仲間たちを見捨て、のうのうと生き延びおって・・・」
半十郎のこの発言には、さすがの拙者もむっとする。
「何じゃと~」
拙者が半十郎に掴み掛かろうとしたところ、そのやり取りを聞いておった彦右衛門殿が両者の間に入り仲介する。
「兄弟なのだから少しは仲良うせんか」
苦笑いを浮かべながらそう言う彦右衛門殿に半十郎が反発する。
「そんなもの、この戦乱の世では関係ありませぬ」
「戦乱の世であるからこそ、血を分けた兄弟こそが最も信頼できるのじゃよ」
「血を分けた兄弟とて・・・」
その時、半十郎の言葉を遮るように城内から威勢のいい太鼓の音が聞こえてくる。拙者たちは足を動かしながらも、その音色に耳を傾ける。
「・・・左衛門殿か」
彦右衛門殿の呟きに、拙者が答える。
「おそらく・・・それにしてもこの陣太鼓、実に心が奮い立つ」
「うむ、左衛門殿の気概を感じるな」
拙者と彦右衛門殿が陣太鼓の音に聞き惚れておる一方で、話の腰を折られた半十郎は納得のいかない様子でございました。そんな半十郎の姿を横目で眺め、拙者は溜め息をつく。
我が弟ながら、あやつの捻くれた性格はどうしたものかの~。
拙者が弟の将来を案ずるのも束の間、拙者たちは玄黙口へと到着する。
玄黙口では、開け放たれた城門から続々と徳川の兵たちが城内へと入って来ておりました。
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