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ちょうどいい距離感

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「レバニラ、美味しそうですね」
「えっ……」
「食べないんですか?」

レバーが嫌いだと知っているくせに、愛美はなぜそんな事を聞くのだろうと、緒川支部長は怪訝な顔をした。

「……知ってるくせに……」

緒川支部長は小さな声でポツリと呟いた。

「いいなぁ、レバニラ。私のお弁当と交換してくれませんか?」
「……交換?」
「大したものは入ってないですけど、いいですか?」

愛美が自分の作ったお弁当のおかずを差し出すと、緒川支部長は黙ってうなずいた。
愛美は緒川支部長のお弁当の御飯を、自分のお弁当の御飯の上に少し足した。

「これで足りますか?」
「じゅうぶんです……」

緒川支部長は小さな声で返事をして、愛美の作ったお弁当を食べ始めた。
やっぱり中身は『政弘さん』だと、愛美は笑いを堪えながらレバニラを口に運んだ。

「あら?支部長、今日は手作り弁当ですか?珍しいですね」

いつの間にか戻って来た宮本さんが、ニヤニヤしながら緒川支部長に声を掛けた。

「いや、これは……」

緒川支部長の歯切れの悪い返事に、宮本さんはまたニヤニヤしている。

「もしかしてそのお弁当、菅谷さんに作ってもらったんですか?」
「作ってもらったわけじゃない」

宮本さんが怒鳴られる前に悪ノリを止めようと、愛美が助け船を出す。

「支部長のお弁当があんまり美味しそうに見えたんで、私が無理言って交換してもらったんですよ」
「そうなの?でも良かったですね。支部長にはオーナーのお弁当より、菅谷さんの手作り弁当の方がずっと美味しいでしょう」

下を向いて野菜炒めを口にしていた緒川支部長の眉がピクリと動いた。
愛美はそれに気付かないふりで、レバニラを口に運んだ。

   (あーあ、もう知ーらない)

緒川支部長は箸を動かす手を止めて、ゆっくりと顔を上げた。
口元に笑みを浮かべながら、目元はまったく笑っていない。

「宮本さん、目標は今日中に余裕で達成できそうだね。楽しみだな、慰安旅行」
「……さて、もう一件行ってきまーす」

宮本さんは慌ててその場を離れ、営業バッグをつかんで大急ぎで支部を出て行った。
他の職員たちも、怒鳴られないうちにと慌てて支部を出ていく。
あっという間に職員が出払い、支部には緒川支部長と愛美だけになった。
緒川支部長は大きくため息をついた。

「まったく……。ゆっくり飯も食えないよ……」
「……余計な事しちゃいましたか?」
「いや……助かった。ありがとう」

   (なんか支部長じゃなくて、政弘さんと二人でいるような気がしてきた……。さっきから、上司と部下にしてはちょっと近すぎるな)

二人きりとは言え、ここは職場だ。
いつもは緒川支部長とは必要以上に話さない。
本来の内勤職員の愛美なら、仲良く緒川支部長とお弁当の交換なんて絶対にしない。
誰が見ていなくても、職場での上司と部下という関係を保つには、近付き過ぎても遠ざけすぎてもいけない。
何事も距離感が大事だと愛美は思う。
小声で話していた愛美が、わざとらしく大きな声を出した。

「支部長が職員さんたちを脅すから、この後は私が一気に忙しくなりそうですね」
「ごめん、頼りにしてる」
「それが私の仕事ですから。できれば私が暇にならないようにして下さい」
「言ったな……?明日、覚悟してろよ」


お弁当を食べ終えた後、愛美は緒川支部長から綺麗に洗ったお弁当箱と一緒に、無糖のカフェオレを受け取った。

   (他の職員さんたちの目もあるし、支部長は支部長なりに、職場ではちゃんと上司と部下でいようって気を遣ってるのかも)

営業所内の倉庫で緒川支部長から告白された時には、強引にキスまでされて、大嫌いな上司と付き合うなんて冗談じゃないと思ったけれど、今は『政弘さん』を好きだからこそ、緒川支部長との距離感を保ちたいと愛美は思う。

   (職場であんまり仲良くしてるの、なんか違和感あるもんね。私たちの場合、ちょっと仲悪いくらいが自然と言うか……。これが今の私たちにとって、ちょうどいい距離感なのかな……)



その夜、愛美は『政弘さん』と電話で話した。
慰安旅行の自由行動の時間は二人で回ろうと約束していたけれど、職場を離れても会社の行事なのだから、やっぱり恋人として二人きりになるのはやめようと愛美が言った。
愛美と行きたい場所があった『政弘さん』はガッカリしていたけれど、人の目や噂話の怖さも身をもって知ったし、お互いのためにそうした方がいいかもと言った。

「でもね、政弘さん。いつかホントに、二人で旅行に行きたいです」
「うん……絶対行こう、二人だけで」


職場では少し距離を置く分、二人きりの時は目一杯愛美を甘やかして、1ミリの隙間もないほど思いきり抱きしめようと『政弘さん』は思った。



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