上 下
2 / 39

第二話

しおりを挟む
 伸也の住むマンションに着いた透は、中に入るなり綺麗に掃除されていた部屋を見て声を上げた。

「わぁ、さすがだね!」

 間取りは2LDK。将来のことを考えて、と一人暮らしにしては少し広めの部屋を借りていた伸也は、透に褒められてにこりと微笑む。

「透が来るからと思って、頑張ったよ」
「え? そんなのいいのに! これからオレもやるんだしさ。この床なんて、鏡みたいじゃん」

 リビングへと続く廊下を歩きながら、透ははしゃいだ。本当に、どこもかしこもピカピカで、汚したら申し訳なく思ってしまいそうだ。

「あ、リビング行く前に。この左側が透の部屋だよ」

 そう言って伸也はドアを開けてくれた。伸也の部屋よりは狭いらしいけれど、間借りさせてくれるだけ御の字だ。透は荷物をそこに置いて、再びリビングに向かう。

「でも良いの? ベッドも布団も無いけど……」
「いいのいいの。しんちゃん、オレがどこでも寝られるって知ってるだろ?」

 そう、いち早く家を出たかったので、大きな荷物の運搬はまだなのだ。布団はともかくベッドは車で運ぶのが必須なので、伸也に手伝ってもらおうと思っている。

 リビングに入ると、南側からの陽光で部屋はとても明るかった。しっかり整理整頓されて生活感は最低限だけれど、伸也の部屋らしいな、と透は思う。

「やっぱ落ち着く。しんちゃんの部屋」

 窓から外を覗くと、小高い丘の緑に囲まれて、透が通う大学が見えた。最上階の八階でそこそこの田舎なので見晴らしは最高だ。

「しんちゃん」

 透は伸也を振り返って両腕を広げる。

「アレやってよ」

 そう言うと、伸也は仕方がないな、と苦笑しながら透に近付いた。そしてその長い腕で、透をふんわりと包む。
 透ははあ、と息を吐くと、伸也の胸に額を寄せた。

 伸也の落ち着いた鼓動が聞こえて、透は自分の神経が落ち着いていくのが分かる。

 昔から、伸也に抱きしめられると不思議なほど落ち着くのだ。それはこの歳になっても変わらず、定期的にこうやって抱きしめてもらい、透は心を落ち着けている。

(やっぱりこれも、幼なじみの域を超えてる……んだろうな)

 それでも、これがなければ透は透のままでいられなかっただろうし、これからこれをいつでもやってもらえると思うと、嬉しい。

 透は先程伸也に抱きついた時のように、大きく息を吸って、伸也の服に付いた柔軟剤と、彼の匂いを嗅ぐ。

(うん。やっぱり落ち着く……)

 いい匂いと、温かな体温をひとしきり堪能すると、透はまた顔だけ上げて伸也を見る。

「……ん。ありがと、しんちゃん」

 伸也もまた、目を細めて透の頭をポンポンと撫でた。少しくすぐったくて温かい気持ちになり、透も笑う。

「……今日はこれからどうする?」

 伸也は透の髪をくように、頭を撫でてくれる。透は甘えるように腕に力を込めると、クスクスと伸也は笑った。

「どうしたの?」
「いや……久々だから」

 なかなか離れないことを言っているのだろう。けれど伸也からは動かず、透の気が済むまで待ってくれている。

「久々って……一ヶ月前もこうやってなかなか離れなかったよ?」
「あれは……一ヶ月会えないって分かってたから……」

 本当は、ずっとこうしていたいけれど、さすがにそれは色々とまずいのは、透だって分かる。けれど離れがたいのは確かだし、時間もあることだしと、ここぞとばかりに甘えてみた。

「こら透。せめて座ろう?」
「……ん」

 誰にも──親にさえ与えてもらえなかった安心感。それを埋めるように、透は伸也を求めているのは自分でも自覚している。そして伸也も、その事情は分かっているから拒まずにいてくれる。

 甘えているなぁ、とソファーに座り直して再び抱きしめてもらい、透は小さくため息をついた。

(いつか、しんちゃんに良い人が現れたら……オレはすぐにここを出るから)

 だからそれまではめいっぱい甘えさせて、と透は祈るように心の中で呟く。

「……何かあったの?」

 伸也は優しい手つきでまた透の髪を梳き、尋ねてきた。さすが伸也だ、透がなかなか離れないことで、何か嫌なことがあったのだと、見抜いていたらしい。
 透は顔を伸也の胸に預けながら、ボソリと呟く。

「『どうせすぐに戻って来るんだろ』って……」

 誰に言われたのかは言わない。言いたくない。

「ああ……」

 伸也は透を抱きしめる腕に力を込めた。温かい、しっかりした感触は、透の不安定な心をしっかりと掴んでいてくれる。

「大丈夫。現に説得に成功して、ここにいるじゃない。未来は誰にも分からないよ」
「……うん。ありがとう」

 透はもう、それ以上のことは言わなかった。思い出すのも嫌なので、また意識を変えるためにお願いをする。

「しんちゃん、ちゅーして」

 ボソボソと呟くと、伸也はクスクス笑いながら、しょうがないなぁ、と透の両頬を手で包んだ。やはり安心する感触にほう、と息を吐くと、額に柔らかなものが押し付けられる。

 軽く音を立てて離れた伸也は「涙が止まるおまじない」といつものように言って微笑んだ。

「泣いてないし」
「そう? なら良かった」

 さすがにこの歳だと恥ずかしさがあるけれど、これも幼い時からの習慣だ。むう、と口を尖らせるけれど、ようやく伸也から離れる気になったので、「ちゅー」の効果は絶大らしい。

「さぁ、荷解にほどきする? それとも何か冷たいものでも飲む?」

 伸也は透が離れる気になったことを悟ってか、そんなことを聞いてくる。本当に、この幼なじみは昔から透の心をコントロールするのが上手い。

「じゃあちょっと飲み物が欲しい。外暑かったんだ」

 透は笑ってそう言うと、伸也は透の頭を撫でて、こっちへおいで、とキッチンに案内した。
しおりを挟む

処理中です...