闇がしたたる ~三千世界に怪異は嗤う

日野

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8 どうしてここに

第44話

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 到着したときには両足がひどい倦怠感に包まれ、近くにあった岩にすわると、もう立ち上がりたくなくなった。

「普段から階段を使うようにしてたんですけど」

 そこは廃屋めいた寺だった。
 建物の体を取ったものがあると、急に気持ちが緩む。
 豊田はどこかから持ち出した器に水を汲んで来てくれたが、それを飲んでいいか紅緒は迷った。
 器は艶やかな朱で塗られ、この場にそぐわない美しいものだ。

 なみなみと汲まれた水は澄んでいる。

 一度口元に寄せたものの、畏れ多い気分になっていく。
 異界で美しい佇まいを保持した器だ、どれだけ大切に扱われていたのだろう。
 部外者の自分が勝手に使っていいものか。

「階段とか坂道とか使って暮らしてると長生きするって、どっかで聞いたことあります」
「長生きかぁ」
「なんだかんだで再就職できてるんですよね? 職場が最悪な感じのとこじゃなかったら、もったいないですし、なんとか帰りましょうよ」

 無言で紅緒はうなずいた。
 身分証明のできない立場では、住む場所や働く先の確保は難しいだろう。
 だが紅緒は確保できている。

「みんな出払ってるけど、そのうち戻ると思います」
「ここは……お寺ですよね?」

 前回こちらを訪れたときに聞いた祭り囃子は、ここの神仏のためのものだろうか。

「どうなんでしょう。寝るときはここで寝られますよ。ちょっと様子見てきます。休んでてください」

 疲れを感じた様子はなく、豊田は建物に駆けこんでいく。
 ここで休ませてもらえるとして、それからどうするか。

 豊田が世話になっている相手が墓守なら、言葉は通じないはずだ。
 墓守はこちらの言い分を理解していたようだが、紅緒には理解できなかった。
 豊田がここで暮らし続けている以上、墓守は帰り道を知らないのではないか。

 身体の倦怠感に引きずられてか、思考が前に進んでいかない。

「一日も、経ってないはず」

 紅緒は時間の感覚に自信が持てない。
 ――働きはじめたのは、いつだっただろう。
 一灯電社に勤めて、一年ちょっとが過ぎている。

 そんな気がする。

 それより前の記憶はぼやけ、どうやっていまの部屋を決めたのか、面接はどうだったのか、部屋にある物の買い出しはどうしていたのか――まったく思い出せない。
 戸籍もあり、紅緒は確かに六十二年前に生を受けた、と証明されていた。
 本籍は地獄に落ちる前、暮らしていた土地だ。

 頭にあるものは、嘘の記憶なのか。
 和菓子を食べ歩きしている場合ではなく、本籍地でも訪ねたらよかったのかもしれない。

 紅緒は知りたくなかった。
 いいも悪いも、なにもかも。

 如月なら、なにか知っていると思う。
 だが尋ねたくない。

 知ってどうなる。
 知ってどうする。

 いまの暮らしが崩壊するかもしれないのに、危ない橋を渡るのはごめんだ。
 怪異と邂逅するようになり、如月と行動することが増え、紅緒はすでに危ない橋を渡っている最中なのかもしれない。

「どうなっちゃうのかな」
「どうなると思いますか?」

 如月の声が真後ろから聞こえ、紅緒はゆっくり振り返る。

「如月さん」
「もうちょっと驚いてくださいよ、三嶋さん」

 頭から闇を被ったようになっている、見慣れた男が立っていた。如月はフードのついた上着とジーンズの気軽な格好だ。その気軽さが違和感になる。

「驚いてますよ。でも相手が如月さんだと、そんなに驚かないですね」
「しばらく迎えに来なかったら、もうちょっと驚いてくれましたか?」

 彼は笑い、紅緒のとなりに腰を下ろした。
 並んですわった彼の頭から、ぼたぼたと闇が落ちていく。
 帰り道を失っていたが、連れ帰ってくれるとすれば彼だ。

 いいかげん、向き合わなければいけないのかもしれない。
 なぜか地獄から出てきてしまっている自分と、如月を通して向き合うときかもしれない。

「あなた、誰なんですか?」
「如月瑞穗です」
「如月さんは、いったいなんなんですか?」
「こたえ、出そうですか?」
「……ふつうのひとは、闇を被っていたり燃えていたりしません」

 ふつうのひと。
 ふつうの、現世で生きているひと。

「あれぇ、増えてる! えっ、そちらの方って迷子ですか?」

 戻った豊田が、如月を見つけ裏返った声を上げる。

「なんというか、私を迎えに来てくれたというか……」
「迎え!? うわぁ、人口増加率やばいっすよこれ!」

 豊田にしてみれば、立て続けに人間に会って驚いたのだろう。慌てふためいた挙げ句に転んでいた。

「大丈夫ですか、豊田さん」

 紅緒が腰を上げようとすると、豊田は手を振りながら身を起こす。

「平気です、平気……あ、そちらの方って、確かきさらぎ駅の取材で見かけた気が」
「如月といいます。三嶋さんと上司と、あのときご一緒していたんです。あなたは?」

 豊田は手短に事情を説明しはじめた。
 その間にも紅緒は、ざわざわとした気配を周囲に感じはじめている。
 湿った風が肌の表面を撫でるのに似ている。見えないのに、そこに温度の違う風があるのだと知らされる。
 それは塵そのものの姿を取っていた。
 黒いものが舞い、漂う。

「おかえりなさい!」

 豊田が塵に向かって声をかけた。
 塵の濃度が増していく。周囲を浮遊していたそれは、やがて凝るとひとの形をつくりはじめた。

 以前出会った墓守――彼が現れ、紅緒と如月の顔を交互に見比べている。

「このひとたち迷子みたいで」

 説明しようとする豊田に、如月が割って入った。

「じつは俺、そちらの方と知り合いなんです」
「知り合い!?」

 豊田が驚くのも無理はない。
 知り合いだと聞かされて、たいていのひとは驚くのではないか。たいして驚かなかった自分は棚に上げておいた。

「ちょっと事情がありまして。俺も三嶋さんも、そちらと面識があります」
「そうなんですかぁ」

 紅緒が地獄にいただのと話したせいか、豊田はあっさり納得していた。
 闇濡れした如月の顔を紅緒は一瞥する。
 ここまでの道すがら、豊田と話していた間、彼はずっとそばにいた――そんな気がしている。

「俺は三嶋さんを連れて帰ります。あなたはどうしますか?」

 如月の静かな声は、善意に満ちて聞こえた。
 希望を提示するそれは、豊田をここに閉じこめた張本人とは思えない優しいものだ。

「お、俺は」

 返事に詰まった豊田は、視線を落としさまよわせる。

「戻っても、俺の居場所は……」

 墓守が気遣わしげに彼を見上げ、豊田の背を押しはじめた。

「あ、あの」

 なにをするのか、と豊田は戸惑った様子だった。

「帰りなさいって言ってるんだと思いますよ」

 たぶん。
 豊田が残るというなら、それはそれ、かもしれない。しかしそれでは、彼を閉じこめた如月の片棒を担ぐ気がする。

「資料管理室ってバイトいりませんかね。如月さん、なにかいってるの聞いてませんか?」
「いえ、とくには……まあ、訊いてみましょうか」

 マチマチャンネルの関係者だったと知れば、新人氏も聞いてくれるだろう。
 資料管理室の仕事はのんびりしたものだったが、新人氏がバイトなりを欲しがれば通るのではないか。

「いや……なんていうか、あんまり仕事の紹介は……人間関係でやらかしがちでなんで、紹介してくれるひとに悪いので……ありがたいのは、本当にありがたいんですけど」

 慎重な態度からは、過去に彼が通ってきた道のりが反映されていそうだ。

「そこの方が、マチマチャンネルを好きで見てるんですよ。同世代、かな。おそらく」

 新人氏も豊田も、二十代半ばかそのあたりだ。

「えっ、そうなんですか?」

 豊田の目の色が変わった。

「そうですよ。豊田さんが失踪したことを知ってたのも、その方です」
「へーえ……視聴者さんかぁ」

 引けていた腰が戻っている。
 職のことも心配だが、彼の暮らす部屋がまだあるかどうかも気がかりだ。
 戻った豊田の身の振り方は、彼自身が決めること――その土台が残っているか。

「じゃあ、戻って話してみましょう」

 今度は紅緒が彼の手を引いて歩く番かもしれない。
 横目にした如月からは、相も変わらず闇が滴っている。
 そのことに紅緒はなんだかほっとしていた。
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