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時代を生き、輝かせた女人 伝説となった姫 井伊直虎

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   伝説となった姫 井伊直虎
 
 男子として育った直虎は、武将が大好きで直虎の周りを彩る素晴らしい身内に強い関心があった。
 1479年、曾祖父、直平、誕生。1563年、84歳で無念の死。
 1492年、祖父、直宗、誕生。1542年、50歳で討ち死に。
 1495年、大叔父(祖父の弟)庶子、南渓瑞聞、誕生。1589年、94歳で亡くなる。
 1506年、父、直盛、誕生。1560年、54歳で討ち死に。
 1535年、直虎許嫁、直親、誕生。1563年、28歳で殺される。
 1500年、直親の父、直満(直宗の弟)誕生。1545年、45歳で無念の死。
自然の流れとはいいがたい生死に笑えてしまうが、井伊家では不可思議なことは当たり前。
10代半ばで父となった直平と直宗がおり、予期しない死を迎える当主が多い。
そんな不思議な縁もすべて受け入れた。

 直虎は、荒海に身を投じて、思う存分に生きて、散る、逞しい井伊家の血筋が脈々と流れているのを感じながら生きた。
楽天家で、危機管理の甘いところもあるが。
井伊家の血筋を受け継ぐ直虎は、想像を絶する状況下でも、あきらめることなく、見事に井伊家を再興させた。

 井伊家に迫る存亡の危機が来た時。
やむなく直虎は、井伊家を守る戦いに立ち上がる。
祖父の妹、直の方(家康の妻、瀬名姫の母)を心の支えとし、直政を守り家名・伝統を引き継がせ、井伊家の反転上昇の機運を創る。
そして、井伊家の飛躍を家康に賭ける。
揺るぎない信念を持ち続け、大きな実を結ばせる。

 井伊家、発祥の地は、遠江井伊谷(静岡県浜松市)。
だが、井伊家は、譜代大名筆頭、彦根藩35万石藩主として、幕末を迎える。
 井伊家を遠江井伊谷から彦根に移したのは、徳川家康。
豊臣秀吉が亡くなり、豊臣家の天下を守る為に豊臣家を軽んじる家康に対し、石田三成は毛利輝元・宇喜多秀家を大将に祭り上げ、天下分け目の戦いを引き起こす。
家康を相手に真っ向勝負を挑んだのだ。
だが、三成は、完璧に敗れ、殺された。
 
 家康は、実質大将として戦った三成の本拠、佐和山藩18万石を、井伊直政に与えた。
戦功への恩賞と豊臣家を乗り越え家康の世を築く為の期待を表している。
 三成は、名君として領内の信望熱く、領民は光秀・秀吉を慕い、三成を無残に殺した家康に強く反発していた。
直政は、家康への恨みが渦巻く難しい地を与えられ、試されたのでもある。
 家康に仕えて以来、直政は、通常では成しえない重い任務を次々命じられた。
それでも、驚異的な力でやり遂げ、井伊家を大成させる。
その直政を育てたのが、直虎。
 
   目次
 一 井伊家の始まり始まり??
 二 直虎曽祖父、直平と娘、直の方
 三 直虎、誕生
 四 直虎の父、直盛
 五 直虎と直親
 六 直虎出家する
 七 直親の裏切り
 八 直盛の決断
 九 直親、井伊家当主に
 一〇 直(虎、井伊家当主に
 一一 井伊谷城主、直虎の治世
 一二 直虎、井伊谷城を奪われる


一 井伊家の始まり始まり??
 井伊家の始まりは、おとぎ話だ。
井伊家の歴史は??が続くが、不可思議な面白さで周囲を魅了し、歴史に名を残す。

 まずは始まりから。
昔々、九九〇年頃、遠江(静岡県大井川以西)国司(祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り絶大な権限を持つ官吏)となったのが藤原北家の一族、藤原共資(ともすけ)。
藤原共資(ともすけ)は、都から遠江国に赴任し治める。
志津城(浜松市西区村櫛町)を築き、租税徴収等の役目を熱心に果たす。
役目は楽しく、任期を終えた。この地は居心地が良く、都に戻りたくなくなった。
そこで城に留まり、自らこの地を治めることにする。

 藤原北家は、天皇の外戚となり続け、都で絶大な権力を築き上げた。
摂関政治を世襲し政治の実権を握り、そして五摂家を作り、公家の頂点に立った。
 だが、共資(ともすけ)は嫡流ではなく都での栄達は望めなかった。
地道に力を蓄え、この地の最高の権力を持つことができれば十分だと考えた。
そのために、在地の有力者や、在庁官人とも友好な関係を結び、人脈を築きながら、恵まれた暮らしを謳歌した。
 
 こうして二〇年が過ぎ、藤原共資一族は、この地の暮らしに根付いた。
一〇一〇年正月、共資は、井伊谷の八幡宮に初もうでした。毎年のことだったが。
その時、御手洗(みたらい)の井(神前に行く前に身を清める井戸)の側で大きな泣き声をあげている赤児を発見する。
赤児なのに、すべてを見通す眼「虎の目」を持ち、共資(ともすけ)をじっと見つめた。
目鼻立ちの整った美しい顔に野性的な目が光っていた。
共資は吸い付けられるように、見詰め、思わず抱き上げると、すぐに泣き止んだ。

 この出会いは、神のお告げだと、全身を震えさせながら、大切に抱き、屋敷に連れて戻る。
以後、家族同様に育てる。
成長と共に並外れた才知を発揮し、第一印象に間違いはなかったと、出会えた幸運に感謝した。
共資には男子がなく、娘ばかりだったが、皆、実の兄妹のように仲よく育った。

「神の子だ。間違いない」と興奮し、家中に話す事が増える。
どんな事があっても離したくないほど大切になり、娘の婿養子とし、後を継がそうと考える。
家中に図ると皆、大賛成だった。
 こうして「虎の目」を持つ容姿端麗な赤児が、成長し、娘婿養子となり共保(ともやす)と名乗る。
捨て子がこの地の領主の娘に愛されて、後継者となったというお話が出来上がる。

 共資(ともすけ)は、田地の開発を積極的に進め広げ、収入を増やしていた。
現地赴任の国司(受領(ずりょう))が在地した時の典型的な成功例で、潤沢な資産を作った。
 すると、都からの赴任者、よそ者ではなく、領地に根ざし領民に愛されるこの地の土着の支配者になりたくなる。
そこで、その地の子を拾い上げ、後継とする領民第一の微笑ましい話が生まれたのだ。
同時に、共資(ともすけ)の郷土を愛する思いが広く伝わり、領民の心を打ち、名君として慕われることになる。

 共保が天からの授かりものになるには理由があった。
遠江には、共資(ともすけ)と同じく朝廷から与えられた役目が終わっても在地し新国司に従い治める在庁官人になった藤原一族やその前からの名家、三宅氏など有力な一族がいた。
共資(ともすけ)は、彼らと競いながら、通婚しながら勢力を伸ばした。
だが、一歩先んじた個性を出さなければ、この地の盟主にはなれない。
 そこで、共資は、共資の縁戚と三宅氏の娘の間に生まれた子、共保(ともやす)に井伊家を託したいと考えた。
二人は優秀で、生まれる子もきっと賢いと、確信していたからだ。
貰い受け、引き取った時点では、多少不安があったが、成長を見守り、納得した。
予想通り、神童と噂されるほどの優秀な子に育った。
 共資(ともすけ)は、綿密な計画を立て、生まれた共保(ともやす)に井伊家を託したのだ。
 
 国司が定められる以前、大和朝廷に属した地方豪族が国造(くにのみやつこ)に任命され、治めていた。
その前は、ヤマト王権の代理として地方豪族が県主(あがたぬし)に命じられ治めた。
その浜名県主が三宅氏だったのだ。
 時代を経て、浜名(はまな)惣社(そうじゃ)神明宮(しんめいぐう)(浜名市北区)の宮司を世襲する。
権力は、かってほどではなくなったが、この地の精神的支柱としての存在感は光っていた。
 そこで、共資は、三宅氏との縁を重視し、この地に根付こうとしたのだ。

 一〇三二年、家督を継いだ娘婿、共保は、神聖な井戸の側で拾われた縁を尊び、この思いを持ち続ける。
拾われた井戸の地、井伊谷から名を取り、井伊氏を名乗る。
井伊家の始まりの地とし、井伊谷城(浜松市北区引佐町井伊谷字城山)を築いて本拠とする。
 井伊谷は、遠江国の最北端にあり、西は三河、北は信濃、南は浜名湖に続く。
城は、井伊谷川に神宮寺川が合流する北側の尾根に築く。
南は三方からの敵の動きが見通せ、北は標高が高い山が連なり守りは固く、適地だった。
 
 井伊谷の由来は、八幡宮(渭伊(いい)神社)の南に冷泉が湧きだした事と伝わる。
それゆえ、八幡宮(渭伊(いい)神社)は万物の命の根源、ご神水を祀る為に建立された。
共保を生み出したゆえ、井伊氏の氏神となる。
 築城とともに、八幡宮は移され、井戸のあった地は共保の菩提寺となる。

 霊水が湧き出るように生まれた赤子が神童と崇められ、井伊家の創始者となるという不思議なおとぎ話が、井伊家の始まり始まりだ。
 
 こうして、平安時代から始まった井伊家。
時を経て、源氏に味方し鎌倉幕府の成立の為に戦い、勝利者となり、遠江国人としての地位を固め勢力を広げながら代々続く。
一族は分家し広がり、彼らを従え、また、周辺の国人衆(横地氏・勝間田氏ら)と血縁を結び、遠江の盟主的な位置につく。
 
 分家して井伊家を支える一門衆は。
まず、赤佐氏。
一一七〇年、六代目当主、盛直の次男が、遠江国麁玉郡赤狭(とおとうみこくあらたまぐんあかさ)郷を与えられ本拠とし、分家した。
その後、奥山城(浜松市北区引佐町奥山)を築き本拠としたため、奥山氏を名乗ることになる。
井伊家と共に、不可思議な伝説を創る井伊家第一の一門衆だ。
 
 一三三六年、鎌倉幕府が倒れ南北朝の戦いが始まった。
井伊家当主、井伊道政は、奥山氏当主、直朝・嫡男、朝藤父子らを従え、南朝に与する遠江衆の主力となり戦った。
 翌一三三七年、後醍醐天皇の皇子、宗良(むねよし)親王が征東将軍となり、井伊谷城に入る。
井伊氏の戦力を主力とし、北朝、今川勢らとの戦いを指揮するためだ。
宗良親王は、井伊道政の戦功を褒め、軍事力を頼りとした。

 出迎えた道政は、宗良親王の厚い信頼に答え、張り切って宗良親王の居館を建てる。
標高四六六mの三岳(みたけ)山に三岳城(浜松市北区引佐町三岳字城山)を築き、差し出し、宗良親王の居城となった。
この城は南朝の拠点となる。
 伊井氏は、井伊谷城を本拠とし、その麓に井伊城、本丸・二の丸・三の丸を築いている。
その二・六㎞北方に詰めの城、三岳(みたけ)城が築かれたのだ。
南朝方、井伊勢の布陣は、整った。

 以来戦い続けたが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が病に伏したとの知らせで宗良親王は吉野に戻る。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)崩御後の一三三九年、再び、井伊谷城に戻り、陣頭指揮を執る。
 宗良親王をもてなすのは、いつも、道政の娘、駿河姫だった。
始めての出会いから惹かれ合い、結ばれた。
 だが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)亡き南朝は弱く、翌年、井伊谷城は北朝勢に攻め込まれる。
井伊勢は、防戦するも詰めの城、三岳(みたけ)城)にまで追い詰められ、ついに、落城した。
やむなく、道政は宗良親王を守り、駿河へ落ち延び、さらに越後、信濃へと後退しながら戦いを続ける。
 
 駿河姫は残された。宗良親王と二度と会うことはない。
その時、愛の結晶、尹良親王を宿していた。
 道政は、宗良親王を擁して奥山勢を引き連れて戦い、井伊家の本拠を奥山朝藤の二男、定則に守ることを命じた。
そして、駿河姫の安全と親王の誕生を見守るよう命じた。
 定則は、父、朝藤を引き継ぎ宗家、井伊氏と共に南朝方として勇猛に戦い、駿河姫を託すにふさわしい猛将だった。
命令を受けて、駿河姫を守る為、北朝勢が踏み込まない奥地に高根城(久頭郷(くずごう)城)(浜松市天竜区水窪町地頭方)を築く。
駿河姫は、戦いのない高根城に入り、緊張せず安らかな思いで、尹良(ゆきよし)親王を生む。

 井伊道政は、歴戦を戦い抜くが、南朝の勝利は難しかった。
疲れ果て、宗良親王と別れ、井伊谷城に戻る。
宗良親王は信濃大河原(長野県大鹿村)の国人、香坂(こうさか)高宗(たかむね)に迎えられ、この地を南朝の拠点とし戦い続ける。
香坂(こうさか)高宗(たかむね)の娘を愛し、信濃を最後の地と定め、思う存分戦い、生涯を終える。
この地で幾人かの子が生まれている。

 高根城(久頭郷(くずごう)城)は、遠江最北端に位置する山城で、標高四二〇m・比高一五〇mの三角山の山頂を中心に築かれた。
水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろす位置にあり、信遠国境警備を目的として築かれたのでもある。
駿河姫と尹良(ゆきよし)親王を守るにふさわしい、難攻不落の堅城だった。
こうして、井伊氏は後醍醐天皇の孫の外祖父の家系となった。
 篤き志をもって南朝へ忠節を尽くし、後醍醐天皇の子を支え、孫を守った義士として名を残すことになったのが井伊直政。
不確かな部分もあるが、これもまた井伊家らしい壮大なロマンだ。
 
 駿河姫を守り、尹良(ゆきよし)親王の守役となった奥山朝藤の二男、定則。
宗良親王が戻らないことがはっきりすると、駿河姫は、尹良(ゆきよし)親王を一人で育てると覚悟を決め、この間、真摯に仕えた定則を伴侶に選ぶ。
定則は、駿河姫を心から愛し、二人の仲は睦まじく、添い遂げる。

 南朝を指揮する宗良親王(むねよししんのう)の妻となった駿河姫は、宗家を代表する存在であり、婿となった定則の地位は上がり、奥山氏次男の系統が嫡流を凌いで宗家、井伊氏との関係を強めていく。
 奥山氏本拠は高根城(久頭郷(くずごう)城)となり、奥山定則は、宗家と共にある宗家に次ぐ位置になった。
尹良親王(ゆきよししんのう)は成長すると井伊家を去り、父を引き継ぎ征東将軍となり戦い、戻ることはなかった。
 だが、嫡流には苦渋の、腹立たしい時となる。

 それから何十年もの日が流れ、奥山朝藤の嫡男、朝実(定則の兄)から朝実の嫡男、親朝が奥山氏嫡流を引き継ぐ。
奥山氏嫡流を引き継いだ奥山親朝は、嫡流としての誇りを持った野心家であり、井伊家一門筆頭の座を取り戻すと決意した。
志半ばで倒れるが、嫡男、朝利に夢を託す。
朝利が、奥山氏嫡流の意地を見せ、花を咲かせていく。

 貫名氏。
井伊盛直の三男が遠江国山名郡貫名郷(静岡県袋井市)を与えられ、分家して名乗る。
家を興して間もなくの一二二一年、鎌倉幕府と朝廷との戦い、承久の変が起きる。
貫名氏は、朝廷側に付き、反幕府側として戦った。
 鎌倉幕府は勝利し、貫名氏は、あえなく、敗れ、安房国(千葉県)への流罪となる。
こうして、遠江の貫名氏は絶える。
 
 だが、安房国で、一族は生き延び、愛を育み、子が生まれていた。
その子の一人が、日蓮宗 (法華宗) の宗祖、日蓮上人となる。
伝説的で有名な話だが、井伊家は優秀な名家だとの証明になった。

 井平(いだいら)氏。
八代、弥直(みつなお)の子、直時が井平、花平を与えられ殿村(浜松市北区引佐町伊平)に居館を構え井平を名乗る。
井伊谷北方にある井平は三河との境にあり井伊領を守る最も重要な地だった。
 時が過ぎ、井伊一門中、奥山氏の力が落ち、貫名氏は絶え、渋川氏が去った時、井平氏が一門筆頭の座に就く。
軍事力・政治力に秀でた井平氏の娘が、井伊家一六代当主、直平・一七代当主、直宗と結婚し、権勢を誇る。
 
 井平(いだいら)氏は、直虎の祖父、直宗の母の実家であり、その上、妻の実家となり、直宗と強い縁で結ばれた。
縁が強すぎ、常に、直宗とともにあり、戦った。
直宗が戦死すると、井平家、当主・嫡男がともに戦死し、急速に力をなくすことになる。

 渋川氏。
一一代当主、泰直の子、直助から始まる。
渋川村(浜松市北区引佐町渋川)を与えられ本拠とし、その地の名を名乗る。
宗良(むねよし)親王の守役となり、側近く仕え、信頼され、井伊家中での地位は高かった。
戦いも強く、井伊軍団を主導した。
 その後、遠江守護となった斯波氏と縁を結び、ますます勢力を広げた。
斯波氏が全盛の時、渋川氏は一門筆頭となる。

 だが、斯波氏の栄華は、短く、今川氏が台頭すると押され凋落していく。
井伊家は、斯波義達(しばよしたつ)に従い戦うが、今川氏親(うじちか)に敗北し、降伏し従う。
 渋川氏は、最後まで、斯波氏と共に戦い結局、負ける。
一五一五年、斯波義達(しばよしたつ)は捕虜となり尾張に送り返され、渋川氏は、行き場を失った。
氏親(うじちか)から激しい憎悪の目を向けられており存続は難しく、井伊谷を離れ甲斐国(山梨県)へ逃れ、断絶した。
 
 中野氏。
一四代当主、忠直の子、直房から始まる。
直房は、直平の叔父になる。直平のいとこが二代目、直村。三代目が直由。
 直虎の父、直盛は、年齢の近い直由に全幅の信頼を置き、一門筆頭の扱いをした。
そして、遺言で井伊谷城代とし、直虎の後見を託した。
直由は妻・娘・息子と共に、一家で直虎に仕えた。

 直盛は「直親を娘婿養子とし、家督を継がせる」とは言ったが、後継とは明言しないまま亡くなった。
中野直由(なおよし)の嫡男、直之を直虎の婿にし、家督を継がせたいと思う時もあったためだ。
中野家は井伊家・徳川家の為に働き、徳川系の重臣が質量とも圧倒的となる彦根藩でも一門筆頭家老として権勢を保ち続ける。井伊家安中藩でも、中野家から養子入りした松下一定が筆頭家老として続く。

 父を愛し継承しようとした直虎の信頼が厚い中野氏は、直虎が強力に推したゆえに、直政も重用し生き残った。
直由(なおよし)は、分を知り、控えめに、井伊宗家に尽くし、功績を上げ、なるべくしてなった一門筆頭の知恵者だった。

 一門衆は幾家も出来たが、井伊家宗家の栄枯盛衰と同じように浮き沈みがあった。
直虎が認めた中野家が一門筆頭として生き残り、直虎が嫌った奥山家は、影が薄くなる。


二 直虎の曽祖父、直平と娘、直の方
 井伊家は伊井谷を本拠として以来、この地を守り、遠江守護に従いつつも、独立性を保ち、綿々と続いた。
だが、南北朝の戦いでは、南朝方で戦い、北朝方の今川氏に敗れ、敗者となり、一三九二年、北朝に吸収される形で、南北朝は一つとなる。
すると、勝利者の今川家に従うことになった。
以来、今川氏への従属性が強くなり、今川勢の一角を占め危険の多い戦いに駆り出されていく。
独立心旺盛な井伊家には苦渋の時となる。

 だが、転機が訪れる。
一四〇五年、斯波氏(しばし)が今川氏に代わり遠江守護となったのだ。
斯波氏は、遠江守護としての統治体制を固める為に、まずは遠江衆を取り込む事が必要と、今川氏に比べ緩い従属関係で配下とした。井伊家は息を吹き返した。
 斯波氏は、室町将軍足利家の有力一門衆で、有力守護大名であり、越前・尾張守護だった。
今川氏は、室町将軍足利家、嫡流の流れになる。
将軍との血縁では今川氏が上だが、この時、斯波氏の勢力は強大だった。

 だが、奪われた今川氏も黙っていない、奪回の機会を狙い、一四〇七年、将軍を取り込み、守護の座を取り戻す。
再び争奪戦が始まる。
井伊氏は、斯波氏のもとで緩い主従関係を保っておりこの状態を守りたく、必死の戦いを繰り広げ今川氏に勝利した。
一四一九年、斯波氏は守護を取り戻す。
以来、井伊氏は、斯波氏を支える有力国人として重きをなし、独立性を守る。

 その後、一四六七年、室町幕府の基盤の弱さを露呈する将軍後継を巡る争い、応仁の乱が起きる。
斯波氏は西軍に属す。
今川氏当主、義忠(氏親(うじちか)の父)は、斯波氏追い落としの好機だと、東軍に属し戦う。
東軍勢を率いた義忠は、抜群の軍事力を見せ、強かった。
 狙い通り、斯波氏に勝利すると、今川氏が優勢となる。
以後、押せ押せとなり、遠江への侵攻を堂々と繰り返し、斯波勢は追い詰められていく。
斯波氏は凋落し、従う井伊氏も危うくなる。

 そんな時、運良く、義忠が殺された。
一四七六年、義忠は、戦いに勝利し意気揚々と、居城に戻る途中、放たれた矢により死んだのだ。
油断があった。

 勇猛な投手の急死で、今川家は混乱し、幼い氏親(うじちか)が後継となるも、家中をまとめるのに精一杯となる。
ここで、今川氏の遠江侵攻はなくなり、井伊家は平和になった。
だが、平和も一時だった。北条早雲が現れたのだ。
氏親が成長した一四九四年頃から、北条早雲が兵を率い、再々遠江に攻め込む。
井伊氏は、北条早雲にとても叶わず、次第に必死で防戦するだけとなる。

 そして、一五〇八年、氏親は室町将軍を取り込み、遠江守護の座を奪い返した。
それでも、あきらめられない井伊氏は斯波氏に従い、守護職を取り戻す戦いを続けるが、氏親も並外れた武将に成長し、斯波(しば)勢が対抗できる相手ではなかった。

 直虎の曾祖父、井伊家当主、直平は早くに、斯波氏見切りをつけ、今川氏に従うべきだったが、意地を見せすぎた。
義を重んじる井伊家の血筋が出た結果、全面降伏せざるを得なくなる。
一五一三年、詰めの城、三岳(みたけ)城を落とされ直平は力尽きた。
遠江守護奪還を目指した斯波(しば)義達は、尾張に逃げ去り、尾張でも追い詰められ消えていく。
今川氏親は、激しく刃向い降伏した井伊直平に、高圧的な内容での和議を結ぶ。

 従属的和議の条件は、
直平が隠居する事。
嫡男、直宗が家督を引き継ぐ事。
直宗の嫡男、直盛などを、人質に出す事。などなどだ。

 今川方の目付として三岳(みたけ)城(じょう)に三河の国人、奥平貞昌が軍勢を率い入る。
奥平貞昌勢の維持費として遠江国浜松荘が与えられ、井伊家の領地が削られた。
 奥平氏の本拠はあくまで三河であり、井伊谷城や居館、井伊城の占拠ではなく監視を命じられただけだが、井伊氏の上に位置する。
後に、奥平貞昌のひ孫が、家康の孫姫、亀姫の婿になる、知勇を備えた三河の有力国人だ。
 
 加えて、氏親は、井伊家に今川氏重臣、小野重正(政直の父)を家老として送り込んだ。
小野政直の父、重正は、遠江支配の為に、氏親から呼ばれ来ており、時を待っていた。
遠江赤狭郷小野村(静岡県浜松市浜北区尾野)を与えられ、遠江小野氏が始まった。

 小野氏は、古代日本、ヤマト王権の中央氏族として始まった。
遣隋使となった小野妹子など高級官僚や地方官僚を多数生み出し続いていた。
その一族が、平安の昔にこの地に遣わされ治め、田地を開発した。小野町と名付けられた。
この先祖に縁ある地を与えられ戻り、重正は、張り切って、今川氏の意向に沿って治めていく。
 井伊家は、軍事でも、内政でも氏親の監視体制の中に置かれてしまった。

 駿府での人質生活となった直盛は、元服すると今川一門、新野家の千賀(友椿尼(ゆうしゅんに))との結婚が決められた。
そして、結婚の詳細を決める今川家取次役に千賀の兄、新野親矩(にいのちかのり)がなる。
井伊家の取次ぎ役は、奥山朝利(ともよし)。
新野親矩(にいのちかのり)は井伊城に出向き、直宗・奥山朝利(ともよし)と度々対面し話し合う。
朝利は新野親矩(にいのちかのり)と意気投合し、朝利の妹と新野親矩(にいのちかのり)の結婚に繋がる。

 結婚の交渉を通じても、今川氏親は、井伊領に強力な支配体制を築こうとしたのだ。
今川氏の資金源として遠江(静岡県大井川以西)の重要性が増していたからだ。
 一四九八年、発生した明応大地震と同時に起きた大津波によって、外海と繋がっていなかった浜名湖の一部が決壊し、外海と繋がった。
すると、水運がはるかに便利になり、陸海を繋ぐ交通の要所となり、遠江は富を生み出す地となった。
今川氏がどうしても支配下に置きたい地となったのだ。

 氏親は、小野氏に命じて井伊領を検地し収入を把握、税を決め強力な支配体制を築く。
井伊氏は、厳しく税を徴収され武田勢・三河勢との戦いに出陣させられる事になる。
 だが、また幸運がやってくる。
一五二六年、今川氏親が亡くなったのだ。
一三歳の嫡男、氏輝(1513-1536)が引き継ぐ。
代替わりの不安定さに加え、幼き当主、氏輝では強権支配は出来なかった。
やむなく、後見する寿桂尼(じゅけいに)は内政重視の治世とした。
すると、今まで強権支配に苦しめられていた配下の国人衆は、独自の力を強めていく。
 井伊氏も、再び、一息つくことができた。
 
 時期到来と喜んだ直宗が、直盛と千賀の国元への帰還を、寿桂尼に、願い、了解された。
直宗が、結婚した直盛に家督を譲りたいと申し出て、認められたのだ。
代わりに直宗の妻(直盛の母)浄心院と直平の一人娘、直の方が人質として駿府に入る。
 直宗は、代替わりを実行する気はなかった。
今川家の状況を冷静に見て、急ぐことはないと判断していた。
ただ、次期当主、直盛を取り戻し、井伊領や家臣団との縁を深め、将来に備えようと考えただけだ。
 
 直平の娘、直の方は、直平の孫、直盛より年下だ。
不思議だが、直平・直宗は一〇代前半に子を儲けていたからだ。
 一四七九年生まれの直平。
 一四九二年生まれの直宗。直平一三歳のときに生まれた。
 一五〇六年生まれの直盛。直宗一四歳のときに生まれた。
 一五一〇年生まれの直の方。直平三一歳のときに生まれた。
あまりに早い出来すぎた誕生だが、井伊家ではよくあること。
 
 直盛・千賀の国元入りに伴って、奥山氏の娘と結婚した新野親矩も、目付となり井伊谷城下に屋敷を構える。
妹を通じ直宗と、妻を通じ奥山氏との連携を築きつつ、井伊家中に発言力を強めていく。
 あくまで、今川氏の意向に沿って働く。
今川一門、新野氏は、新野新城(舟ケ谷城)(御前崎市新野)を居城とし遠江城東郡(きとうぐん)新野郷を治めていた。
 
 今川家が、氏輝率いる穏健な治世になると、圧迫されていた三河国が蘇る。
一五二三年、三河の盟主、松平宗家(徳川家)を継いだ清康(家康の祖父)が、すい星のごとく現れ、抜群の力を見せる。
まだ一二歳の若さだったが、破竹の進撃で、今川領だった三河を平定していく。
次第に、清康は、三河を統一し、遠江に迫る勢いで攻め込んでくる。
 三岳(みたけ)城将、奥平氏も清康に従い戦い、今川配下から離れた。
だが、一五三五年一二月、清康は志半ばで殺され、反転、松平氏は今川氏の配下となる。

 一五二六年、人質となり駿府城入りした直の方は、一六歳だった。
若さに溢れたみずみずしい美しさを持っていた。
寿桂尼は、気に入り、側近くに置く。
 今川家一門となった直盛の叔母であり、賢く、人質としての分別もわきまえており、氏輝の側近くで仕えさせる。
病弱な氏輝は、繊細な神経の持ち主で偉大な父を継ぐ自信がなく情緒不安に陥っていたからだ。
 直の方は、三歳年下の氏輝を支え優しく見守った。
氏輝は、姉のように慕い結ばれる。
 
 氏輝は寿桂尼が何を言おうと、結婚しなかった。
直の方を愛したゆえであり、優しい性格で野望はなく、今ある領地を守り、直の方が側にいれば十分だった。
現状の今川家を率い、内政を重視することを続けた。
直の方は、実質、今川家当主、氏輝の妻となった。
 それは、井伊家にとって、素晴らしい幸運だった。
氏輝は、直の方を愛したゆえに、井伊氏を強権的に扱うことはなく、尊重した。
 直平・直宗は、直の方に支えられ、井伊家の存在価値を取り戻し、独立性を持つ、遠江衆の盟主に蘇った。
松平清康の動きを注視し、今川氏配下として、軍備を増強、軍事力を高めていく。
 
 そんな中で、遠江を統括する福島正成(くしままさなり)も力をつけていく。
氏親から遠江を任せられ、氏輝も引き続き任せたため、遠江衆すべてを統括していた。
 福島正成は、代々今川氏重臣として、今川氏を支えた。
そして、娘を氏親に仕えさせ、愛され、側室となり玄広恵探(げんこうえたん)(1517-1536)が生まれた。
寿桂尼の認める子ではなく、玄広恵探(げんこうえたん)は生まれてまもなく、出家させられる。
だが、成長するに連れ、今川氏後継となるにふさわしい才知が現れ、称賛されていく、

 福島正成は、怒涛のごとく押し寄せる清康と対峙した。
一歩もひるまない覚悟で、遠江衆をまとめ率い戦う。
そんな緊張の中、孫の成長を喜び、弱腰の氏輝では、清康に負ける。
玄広恵探(げんこうえたん)こそ、今川氏後継になるべきだと野望を抱く。
「清康に勝つために孫、玄広恵探が今川氏当主となり、遠江衆を率いる福島正成が、先頭に立って戦うしかない」と見極めた。
そこで、今川一門筆頭、瀬名氏(遠江今川氏)以下遠江国人衆を味方にし、関東を支配する北条氏を後ろ盾にし、着々と玄広恵探(げんこうえたん)を擁する勢力をまとめていく。
ついに、蜂起すべく条件が整う。
 
 一五三六年四月七日、氏輝は二三歳で亡くなる。
北条氏居城、小田原城で歌会を楽しんだ帰途、熱海で宿泊していた時の不可解な急死だった。
病弱だった氏輝だが、当主としての治世は安定していた、急死の様相はなかった。
わずか一〇年、今川氏当主として働いただけで、亡くなった。
 
 待っていたかのように福島正成は「今こそ時が来た」と勝利を確信して孫、玄広恵探(げんこうえたん)を後継にすべく挙兵する。
玄広恵探(げんこうえたん)は、一九歳の優秀な僧に育っており、還俗して今川家当主になりたいと、奮い立った。
 
 直の方は、氏輝の死を聞き震えた。
 父、直平に氏輝の健康状態や弟、義元を呼び寄せたことを知らせていたからだ。
 小田原行の日程も知らせていた。
父、直平から玄広恵探を推す勢力に伝わり、氏輝の急死に繋がったに違いないと。
 氏輝は、病弱であり、子は生まれず、いつまで今川家当主としての務めを果たせるか自信がなかった。
そこで、同母弟、義元を呼び戻し、後継にしようと考えた。
強固に反対し、後継に玄広恵探を推すのが、遠江衆を率いる福島正成だった。

 氏輝のすべてを知る直の方は、氏輝が亡くなり家督騒動が起きると、寿桂尼にひれ伏する。
知りうる限りのことを、すべて打ち明け、父が関係したかもしれない暴挙を謝る。
 直平も、直の方が今川家後継となる男子を産み、今川家当主となることを密かに願っていた。
福島正のようになりたいと夢見ていたが、子は生まれなかった。
 それどころか、軍事力で今川氏の重要な一角を占め、戦うことを強要されるのみで、今川家中の重臣となり、動かす力を持つことはありえない状況だ。
今川氏配下で従うしかない状況を打開し、福島氏のように力を持ちたかった。

 そんな時、福島正成から助力してくれれば、井伊氏の領地を返し、さらに優遇すると持ちかけられた。
井伊家の力で、福島正成が勝利すれば、井伊氏の領土は増え、権限は増し、繁栄の道が開くかもしれないのだ。
良い条件の提示に賛同した。

 こうして、氏輝のすぐ下の弟、庶子の玄広恵探(げんこうえたん)と、その下になる弟、正室、寿桂尼の子、義元との家督をめぐる熾烈な争い花倉(はなくら)の乱が勃発する。
 寿桂尼は直の方に「よくわかりました」と余裕で答え立ち上がる。
凄みのある顔をそれ以上にきりっとさせ、今川家を率い前面に立ち、嫡流の血筋を受け継ぐのが義元だとの大義を訴える。

 正当性を高々と掲げ、北条氏・武田氏に味方になるよう訴え、納得させ、味方に付けた。
親戚網が張り巡らされており、それぞれが動き、寿桂尼を支援した。
こうして、寿桂尼の掲げる大義に賛同するものが増え、家中の大勢をまとめた寿桂尼は強かった。
 福島(くしま)正成(まさなり)は、一度は味方すると確認した北条氏に裏切られ、遠江はまとめたが今川家中はまとめることができなかった。
玄広恵探(げんこうえたん)・福島(くしま)正成(まさなり)は敗北し、死んだ。

 直の方は、寿桂尼の意向に沿い動き、直平に義元・寿桂尼に従うよう何度も願った。
その姿を見ていた寿桂尼は、無事、義元に家督を継がせると、直の方を許し、義元に仕えるように命じる。
寿桂尼は、直の方を信頼できる女人と認めたのだ。
 遠江衆は玄広恵探(げんこうえたん)の死後、新当主、義元に従ったが、義元は謀反人を許さなかった。
寿桂尼は、義元に「今は、今川家をまとめ率いるのが第一。遠江衆筆頭、瀬名氏(遠江今川氏)を抑える為にも影響力の大きい井伊氏を取り込むように」と諭した。
 
 直の方には、義元に忠誠を尽くし、井伊氏を義元に忠誠を誓わせるよう、重要な役目を与えた。
義元は、一目で直の方に惹かれていた。
九歳も年上だったが、氏輝に愛された円熟した美しさに心奪われ、寿(じゅ)桂(けい)尼(に)の意に沿い直の方を側室にした。
 直の方は、井伊家の為、精一杯、義元に尽くす。
義元は、敵に回った井伊氏への恨みすべてを消し去る事はできなかったが、直平の娘への愛ゆえに追及しなかった。

 直の方は義元に尽くし仲睦まじかったが、翌一五三七年、武田信虎の娘(信玄の姉)定恵院と義元の婚儀が決まる。
今川氏と武田氏は戦い続けていたが、寿(じゅ)桂(けい)尼(に)は義元支持を頼み信虎と和解した。
義元が家督を継ぐと、和議の条件を煮詰め結婚が決まったのだ。
 武田氏の恩に報い、義元の治世を軌道に乗せる為に、寿(じゅ)桂(けい)尼(に)は、結婚を決めた。
ここで、武田氏と今川氏の同盟が正式に成立した。
 
 武田氏との同盟で今川家の平穏を保とうと考えたのは、北条氏を信頼できなくなったことも大きい。
北条氏綱は今川氏の内紛を喜び、影響力を強めようと福島(くしま)氏を支援したからだ。
寿桂尼は、同盟を結んでいる北条氏の裏切りに怒りながらも、氏綱に理路整然と義元支持を訴え了解させた。
氏綱の嫡男、氏康に嫁ぎ仲睦まじい愛娘、瑞渓院(ずいけいいん)の口添えも大きかった。
だが、状況次第でどちらにも動くのが、北条氏であり信用できない。
 逃げた福島(くしま)氏の子は氏綱に庇護され娘、大頂院(だいちょういん)の婿養子、北条綱成となり、北条家一門となっている。
福島(くしま)氏との強い結びつきがあった証だ。
 
 どうしても許せないのが、福島(くしま)氏に与した分家、遠江今川氏を受け継ぐ、堀越氏だ。
当主、貞基の妻が、北条氏綱の娘、埼姫であったため、裏切ったのだが、力を削ぐ。
代わりに、義元を支持した堀越氏の一門、瀬名氏嫡男、氏俊に、今川氏親の娘を嫁がせ、結びつきを強め、遠江今川氏を受け継がせる。
 瀬名氏を堀越氏に代わり遠江今川氏を率いる嫡流と見なし、義元への忠誠を誓わせたのだ。
こうして、今川家中を義元の元、まとめた。
一安心する。

 だが、寿桂尼の頭の中に、直の方の悲しげな顔が浮かび、悩ますことになる。
それでも、なんでもないことのように毅然として、義元に身辺をきれいにするよう命じた。
武田氏への誠意を示す為に、義元の周辺の女人は遠ざけられた。
 義元は、直の方の行く末をどうすべきか悩む。
側室とし側に置きたい思いはあったが、許されず、やむなく、信頼する側近、関口義広に下げ渡す。
寿桂尼も大賛成であり、直の方の忠節を誉め、養女(義元の姉)とし精一杯の支度をして嫁がせた。

 こうして、直の方は、関口義広に嫁ぐ。
直の方に野心はなく、氏輝との楽しい思い出を胸に秘めて、井伊氏の為、今川氏の為に当然の事と、結婚する。
直の方にとって八歳も年下の夫だった。
 義広は、主君の愛妾を預かるとの考えで迎え、あまりに美しい直の方を、まぶしそうに見つめる。
義元に忠誠を尽くすのと同じように、直の方を大切にすると誓う。
 
三 直虎、誕生
 氏輝が今川家を引き継いだどさくさに紛れて、井伊家に戻った直盛。
一つ年下の妻、千賀と井伊谷城での暮らしが始まり、仲よく過ごした。
 七歳で井伊谷を離れ、二〇歳で戻った大好きな故郷だ。
長く待ちわびた日々だった。

 長く故郷を離れ記憶が途切れていることも多かったが、懐かしく、戻れたことが正直うれしかった。
幼い頃を思い出しながら千賀に、井伊谷城のあれこれを語り掛ける。
すぐに家督を引き継ぐと思い、戻った。

 だが、父、直盛は、家督を譲らない。
弟のように仲よくした氏輝が家督を継いだのだ。
今川氏との縁を大切に、従いつつ、ある程度の独立性をもって井伊家を率いるはずだった。
構想を練っていたが、当主にはなれなかった。
早く、家督を継ぎたい思いが、こみ上げるが、我慢するしかなかった。

 もう一つの心配の種が、子が生まれないことだった。
家督を引き継ぐときに、嫡男が生まれていることが、今川家にも井伊家にも重要で価値あることであり、生まれないことは、たまらないほど不安になる。
父も祖父も若くして父親になっている。同じように早く嫡男の誕生を待ち焦がれた。

 父、直盛と、波風立てることはなく、穏健な氏輝と有効な関係を保ちつつ、井伊家は安泰だと確信しつつ、一〇年間、井伊家のか得と嫡男の誕生を待ちつつ、平穏に過ごす。

 そんな時、千賀に子が授かる。
狂喜し、生まれることを待ち望んだが、嫡男の誕生ではなかった。
一五三六年、生まれたのは姫、直虎。
この物語の主人公だ。
 直盛は三〇歳。千賀は二九歳だった。
難産であり、年齢の事もあり、次に子が生まれる可能性は低かった。
期待が大きすぎたため、嬉しさ半分の直虎の誕生だった。

 さらに、直虎の誕生の直前、四月七日、氏輝が亡くなるという大事件が起きていた。
直盛にも千賀にも信じられない急死だった。
二人は、今まで築き上げた今川家との良い関係が壊れていく予感に震える。
井伊家に暗雲が垂れこめると空恐ろしく感じた時、直虎が生まれたのだ。

 今川家の熾烈な家督相続の戦いが始まった。
二人は、氏輝が望んだ弟、義元が後継になることを祈るが、井伊家中は違った。
直盛は新野親矩(にいのちかのり)と兄弟のように付き合い、小野氏との関係も良く、後継、義元のもと、今まで通り配下でありたいと思う。

 だが、直平は、反義元の立場を貫き、玄広恵探(げんこうえたん)を擁し決起した。
だが、敗北し、義元に降伏、従うしかなかった。
義元は、直平・直宗の裏切りに激怒し、深く心に刻み、許さない。
直平・直宗も、降伏はしたが、いつ義元が攻め込んでくるかもしれないと、身構え、戦いの準備をした。

 ここで義元は、まず、当主として今川家中をまとめることが先決と、怒りを抑えた。
井伊家への処分を延ばし、降伏を受け入れた。
身内で争った家督引き継ぎの後遺症は大きく、家中の内紛を抑えることがより重要だった。
井伊家は、命拾いをした。
 
 こんな状況下での直虎の誕生だった。
しかも、義元は氏輝と違い、野心家で軍事力にも秀で、強い統率力を持っていく。
 直盛の父、直宗は、直虎の誕生を公表しない事が、井伊家にとって得策だと直盛に告げる。
直盛も、今直虎の誕生を公表すれば、駿府に連れて行かれるのは間違いなく、人質とするのは避けたいと賛成した。
 こうして、今川氏はもちろん、家中にも公表されずに生まれたのが直虎だった。
後の彦根藩三五万石の礎となった直虎だが、ほんの少人数に見守れただけで、隠された出生だった。
 直虎の生まれが謎に包まれる。

 義元が、井伊家に厳しい処分をしなかったのは、寿桂尼(じゅけいに)指示があったためだ。
寿桂尼は、義元が家督を引き継ぐために、獅子奮迅の働きをし、勝利した。
義元は、母に感謝するしかなく、家督を巡って起きた内紛での敵味方にこだわるよりは、まず、当主、義元として内政に取り組むよう命じられ、受け入れた。

 そんな寿桂尼が、許さなかったのが、北条氏綱。
愛娘、瑞渓院(ずいけいいん)を嫁がせ、固く同盟を結んだはずの北条氏が、家督騒動に付け込み、あおり、玄広恵探(げんこうえたん)を擁した裏切りを許せなかった。
それでも、北条氏綱に嫡流の義元が後継であるべきで、氏輝の遺言でもあるとの大義をかざして、迫り、玄広恵探(げんこうえたん)から切り離すことに成功した。

 その時、北条氏を頼れないと見限り、武田氏と結んだのだ。
当然の事だった。
そして、義元の家督引き継ぎが成功すると、武田信虎の娘、定恵院(1519-1550)と義元の結婚を決めた。
武田氏との縁が義元に必要と判断した。

 ところが、寿桂尼に迫られ、玄広恵探(げんこうえたん)から離れ、義元を支持した氏綱は、義元の結婚に怒った。
北条家の力で義元に家督を継がせたと自負し、末永く友好関係を結ぼうと、娘との結婚を考えていたからだ。
「(寿桂尼・義元は)北条氏の大恩を忘れ、激しく戦っていた敵、武田氏と結び裏切った」と怒り、許せない。
 今川氏との同盟は破棄され、敵となったと、今川領河東(富士川以東の地域)の占拠へと向かわせた。
北条勢が、今川領に侵攻し占拠した。一五三七年、河東(かとう)の乱だ。
 
 ここで、玄広恵探(げんこうえたん)に与し、敗れ、義元に従った、遠江衆が、義元から離反し、氏綱に従った。
今川一門、瀬名氏が氏綱の娘婿だったため、北条勢に与したのだ。
その時、福島(くしま)氏滅亡後、遠江衆の盟主的存在となり信望を得ている直平に与するよう働きかけた。
井伊氏が動かないと、瀬名氏も動けない。
直平は、瀬名氏の頼みを断れず加わった。
 直平・直宗は、かっての遠江守護につながる堀越氏との縁は深く、長く良好な関係を保っていた。
ここで、遠江衆はまとまり、義元に反旗を翻した。

 直の方は、必死で、義元を支持して動かないで欲しいと願ったが、直平は兵を動かした。
瀬名氏と共に、北条氏綱勢と図り、義元勢を、挟み撃ちにする戦いに、立ち上がったのだ。
 寿桂尼・義元は遠江の支配権を守ることがより重要と、北条氏の河東侵略に目をつぶり、主力の軍勢を遠江鎮圧に向ける。
遠江勢、堀越氏・井伊氏らは北条勢を支援しただけで、後ろから義元を脅かそうと背後を固めただけだ。
今川氏との全面対決は考えていなかった。
 高圧的に遠江を支配しようとする義元との関係を、ある程度の独立性を保ちながら優遇される事を目指す戦いだった。
遠江勢は、思いの外の展開に慌てる。
 
 その上、義元は、三河衆を味方にし、遠江衆の背後から三河勢に攻撃を命じることができた。
かって三河に侵攻していた今川氏だが、松平清康の勢力に押され三河から手を引かざるを得ない状況に陥っていた。
だが、一五三五年一二月、清康が暗殺された。
ここから、松平家中が混乱し内紛を起こし弱体化していく。
今川勢は息を吹き返し三河衆に対し反転攻勢に出た。
まだ若い清康嫡男、広忠への影響力を強めながら松平氏を配下にし、三河衆を従わせたのだ。
 
 その為、遠江衆は背後から三河衆の攻勢を受けることになった。
今川勢の主力を前にして、背後の脅威もあり、戦意をなくし、再び義元へ臣従する。
義元は、意気揚々と胸を張り、再び臣従した遠江衆を、粛清や冷遇しつつ受け入れる。
だが、ここでも、寿桂尼は、義元に内政に取り組むよう命じた。

 関口義広と直の方は、堀越氏・井伊氏らの離反を食い止める為に必死になって働き、井伊氏を躊躇させた。
戦いを止めることはできなかったが、井伊勢が総力を上げて戦うことはなかった。
 瀬名一族でもある関口義広だったが、瀬名氏と全面的に対決し、義元に尽くし戦い抜いた。
直の方を愛する故でもあるが、義元に高く評価される。
 全面対決を回避できた直の方は、井伊氏への穏便な制裁を願う。
義元は、堀越氏の所領の多くを取り上げたが、井伊氏はただ同調しただけだと制裁を抑えた。
 
 この間、小野氏・新野親矩(にいのちかのり)も、懸命に直平・直宗に義元に従うよう説き続けた。
目的を達するまでには至らなかったが、井伊勢総力を挙げての全面的対決を避けることはできた。
 ここで義元は、今川家重臣、小野・松井・松下氏。加えて今川氏に従う近藤・鈴木・菅沼氏、そして井伊氏一門、中野氏を、改めて今川氏からの陪臣、七人衆に任じ、井伊家中を仕切らせる。
皆、遠江近辺の国人衆であり井伊家と長く縁があったが、改めて今川家家臣として、井伊家に送り込み、政務に関わらせ、義元の意向に沿い家中を仕切らせる。

 その中で、義元が筆頭家老としたのが、小野政直だ。
先祖には遣隋使として有名な小野妹子や遣唐使がいる。
長く続いた最高級の官僚であり、教養に秀でた文人の家系だ。
 時を経て、井伊家に家老として送り込まれ、才を発揮した。
その後、井伊家が義元と敵対した時も留まり、戦いを未然に収めたいと努力を続けた。
井伊氏のもとで、行政官僚として優れた実績を上げており、功を認め、抜擢した。

 直盛は井伊家の独立性を重んじる気概を持っていたが、直の方と協力し今川勢の一翼を担い、義元に重んじられる良好な関係が、井伊氏にとって必要であり、井伊氏を守ることに通じると考えた。
妻やその兄、新野親矩(にいのちかのり)を信頼し、七人衆の能力を認め、合議制で、治めることを受け入れた。

 だが、直平は違った。直の方を奪われたとの思いが強い。
直宗も、直盛から無理やり引き離されたとの思いが強い。二人共、今川氏憎しの思いを持っている。
 今川勢の先兵となり戦い、義元の意を代弁する重臣が送り込まれ、思うように家中を操られていると、義元憎しの思いが増すばかりだった。
 この思いを共有しない直盛には家督を譲れなかった。
それでも、義元に一矢報いた後で、家督を譲るつもりだったが、実現できなかった。

 義元は、北条氏の更なる侵攻を防ぎつつ、武田氏との同盟を生かし内政を固める。
同時に、広忠(家康の父)の庇護を名目に、松平家内紛を終結させ三河を配下にした。
 一五四一年、義元に幸運が巡り来たかのように、北条氏綱が亡くなる。
この日を待っていた義元は、河東を占領した憎き北条氏への反攻を始めると決意。
まずは、配下の国人衆の掌握に乗り出し、軍事力を行使し、従う国人衆を増やすことにも成果を上げていく。
快進撃し「海道一の弓取り」と称賛されるまでになる。

 直盛は、義元が家督を引き継ぐ前から、臣従の姿勢を貫いていた。
家督引継ぎ前後の義元は、内紛と混乱の収拾に手一杯だった。
そのため、井伊家を臣従させることに強権を発動したが、直盛の子までは関心がなく、直虎には幸運だった。
 家中一同の祝福を受けたわけではなく、密やかに誕生を祝福されただけの直虎だが、大きな産声を上げ健やかに生まれた。両親はにこやかに、成長を見守り、直虎は自由に元気に育った。
 
 それでも、義元が秀でた統治能力を発揮し、今川氏の力が増してくると、伏せていた直虎の誕生を義元へどのように伝えるべきか悩む。
今川一門から迎えた妻であり、他に直盛の子が生まれたとしても、義元が了解するはずはなく、後継とすることは出来ない。直盛も、主君、今川氏を重んじ、側室を置くこともなかった。
 このままでは、直虎に義元の推す婿養子を迎えるしかなく、井伊家は乗っ取られてしまうと直平や直宗は恐れた。
長く続いた井伊氏に今川家縁の当主を迎えることは、井伊家の独自性をなくすことになると、義元へ忠誠を誓う直盛であっても、耐えられない。
 また、直虎は、駿府への人質となることを命じられるはずだ。
それは、直の方のような運命を辿ることになる可能性も大で、これも避けたい。

 悩む直盛と千賀は、義元の怒りが解ける日まで時間稼ぎするしかないと、姫ではなく男子が生まれた事とする。
直の方の二の舞はさせないと、姫に井伊家の惣領の幼名「次郎」をつけた。
井伊家に後継ありと義元に知らせたのだ。
 こうして、直虎は少数の腹心だけにしか姫であることを知らされず男子として育つことになる。
将来、直虎を名乗り井伊家当主となる姫の幼名は、井伊家の嫡男に付けられる「次郎」であり、嫡男として育てられる。
この時代、姫を男として育てるのは難しいはずだが、一族の結束は強く、難なくこなした。
井伊家には不可思議ばかりで、面白い。

 義元(よしもと)も、直平・直宗の忠誠心を疑い、直盛に家督を引き渡さないことも不満だった。
そこで一五四二年八月、当主、直宗に三河田原城攻めを命じる。
三河国人、戸田氏は、義元に従っているが、織田家に通じている疑いもあり、威嚇するためだ。
井伊勢には、利のない気乗りのしない戦いであり、当主が出陣するまでもないと考えたが、義元は厳しく直宗に命じた。
やむなく、義父、井平直郷と義弟を従え、井伊勢を率い出陣する。
 
 義元に従う田原城主、戸田康光に戦う意思はなかった。
そこで、直宗は、戸田康光の義元への忠誠心を確認し、国元へ戻ると決めた。
余裕の撤退を進め、大方の陣を引いた中で、親しい井平直郷と義弟と団らんしていた。
そんな時、直宗めがけて野武士が襲う。
直宗は、身代わりになろうとした直郷親子と共に殺された。
その報を知らされた井伊家中は、義元(よしもと)が命じ殺したと、悲しみに震えた。
 義元は満足そうに、直盛に「井伊家当主とする。今川一門として一層の忠誠を尽くすよう」と命じる。
信頼する直盛を早く当主とし、井伊家の実権を握ろうとしたのだ。
 
 直宗五〇歳の無残な死により、直盛は三六歳で後継となる。
直盛は、駿府で暮らした時が長く、今川家中に囲まれて育ち、氏輝が主君であり後継、義元を主君だと忠誠を誓っていた。
そのため、義元と対立する直平・直宗の動きに心を痛め、早く後を継ぎ良好な関係を築きたかった。
家督を譲らない父に怒りさえ持っていたが、このような最後を迎えるとは予期していなかった。

 自分の甘さ、義元の邪悪さも感じ将来への不安があるが「(直宗が討ち死にしたのは)父上の油断でもある。自分は用心深く対処し名君になる」と複雑な思いを秘めて、井伊家当主となる。
義元は、問題も多いが優れた主君だ。
共に進めば井伊家に益をもたらすと確信していた。


 直盛は、井伊谷城に戻って以来、隠居し時間の余裕のあった直平の教えを直接受け、焦らず、じっくりと情勢を見て、決断し、決めたなら迷うことなく一直線に進む当主としてのあるべき姿を学んだ。
直平の教えは的確であり、目を見張ることばかりだった。
ただ、義元憎しの思いがあちこちに出るのは、受け入れられない。
博識であり、戦いの経験も数多く、学ぶことが多かったが、意見を聞かれることは少なかった。
自分の思いを正直に言えない辛さがあった。
直盛自らの考えを述べる事は控え黙った。

 直平は井伊家では絶対的な存在だ。
直虎を男子として育てることに賛成したため、嫡男、直虎の存在を誰も疑わなかったのだ。
直平が病弱で公表できなかったが、男子が元気に育っていることを祝うと、家中は疑うことなく信じた。
有難いことだった。

 だが、直盛が当主となり、義元との関係は今まで以上に密になる。
直虎に関して義元の関心も高まるはずだ。
慎重に動かねばと自身を戒める。

 一五四五年、義元は、一五四一年、北条氏綱亡き後準備を進めてきた占領されたままの河東奪還に出陣する。
堀越氏・瀬名氏・井伊氏ら遠江衆を完全に配下としたうえで武田勢と共に北条勢を挟み討ちにし、侵攻された地を取り戻す。
ここで、武田信玄が仲介を申し出て、停戦し、和議を結ぶ。
今川氏・北条氏・武田氏が、敵ではなく味方同士となった。
この延長で三氏がより強く結ばれる「甲相駿三国同盟」が成立することになる。


四 直虎の父、直盛
 直宗の死に唇をかみしめる直平、家中に緊張感が漂う中で、直(なお)虎(とら)に代る嫡男が生まれないまま、直盛は井伊家当主となる。
それでも、直盛は、なぜか落ち着いていた。
直虎の成長に満足し、きっと良い道が開くと思えたからだ。
直虎のすべてがよく似て我が分身だと心の底から思え、直虎がいればそれで良かった。
知力体力申し分なく、井伊家を託すに足る姫だと溺愛した。

 直盛は持てるものすべてを直虎に受け継がせたいと、四歳から武芸・兵法を教えた。
直虎も嬉々として父の教えを受けた。
父が教えることは大好きなことばかりだった。
父の喜ぶ顔を見たくて、父に褒められたくて、武芸に励み、めきめき上達していた。
この頃は、誰が見ても所作は井伊家後継の嫡男だった。

 ただ大きな声は出さず寡黙な男の子として数少ない侍女・小姓・近習に囲まれていた。
直虎は、不可思議な育てられ方をしているとは思わず、細かく決められた日課を嬉々としてこなした。
毎日が充実しており、のびのびとたくましく育つ。
 直盛が直虎の小姓としたのが、同年齢の一門筆頭、中野直由(なおよし)の子、直之。
直由の妻や娘も共に家族ぐるみで仕えた。

 直盛が家督を継いで、家中を率いる体制ができると、四〇歳に近づいた。
次の後継者を家中にも義元にもはっきり示さなくてはならない時が来た。
 難題だが、乗り越えなくてはならないと気を確かにする。
千賀と相談、ついに結論をだす。
一五四三年、直虎七歳は姫であり婿養子を迎えて家督を引き継がせると家中に伝える。

 ここから、直虎は男子ではなく姫となる。
嫡男として、男の子として育っていたのが、急に姫となり、学ぶべきことも変わり驚く。
適応できないとすねて抵抗すると、父母は笑って今まで通りで良いと言う。
 側近く仕える直由一家に、直虎の望むことは何でも学べるよう手配することを命じる。
姫として学ぶべきことが増えたが、直虎の日々の暮らしは変わらなくなり、直虎に笑顔が戻る。
男であり女であることは、混乱するときもあるが、変化を楽しめ、面白い。
とても忙しい日々となるが、ニコニコとこなす。

 それでも、井伊家後継の姫となり、公の場にも出るようになる。
そして、注目を浴びると、家中に褒められ、認められたい思いが募る。
ここから、自らの責任を自覚し、一生懸命に勉学も武術も学ぶ。
父、直盛を引き継ごうとする責任感はますます強くなる。

 直由一家は献身的に仕え、直虎は与えられた課題を次々こなし、立ち居振る舞いは男女どちらでも使い分けができるほど、変幻自在に自分を操る姫となる。
直盛はその様子を喜び、引き続き自ら武芸を教えた。
直虎は姫となり、行動範囲が狭められたようなもどかしい思いもあるが、男でも女でもどちらも興味深い。
 井伊谷城の南東麓になる屋敷、井伊城で元気に育ち、時には井伊谷城の山頂部に登り、物見台から城下を見る。
井伊谷が大好きで、活発な武芸にも秀でた姫となっていく。
 
 ここで、直盛は、直(なお)親(ちか)を養子とし直(なお)虎(とら)の婿とすると公表し婚約させる。
義元に干渉される前に手を打ったのだ。
義元が今川家の家督を継ぐ以前に決まっていたこととした。
井伊家の血筋を守り、独立性を保つためだ。
直(なお)親(ちか)は、直盛の叔父(父の弟)直(なお)満(みつ)の嫡男であり、いとこになる。
 
 直盛が井伊谷に戻ると、変わって駿府に入った人質が、直盛の母、浄心院。
浄心院は井伊氏一門、井平直郷の娘であり、直平の妻も直郷の父、井平安直の娘だ。
この頃、井伊氏一門筆頭は、井平氏だった。
直宗・井平直郷は、実の親子のように仲が良く、浄心院の自慢だった。

 井平氏は、直平の幼い頃、強大な軍事力を持ち名実ともに一門筆頭となった。
直宗や浄心院は伊平氏を頼りにし、伊平氏は井伊家の政務を主導した。
 義元は、家督を直盛に譲ろうとしない直宗の今川氏への忠誠心を疑っていた。
そこには伊平氏の影響があると見抜き、伊平氏の力を削ぎ、直宗に家督を譲らそうと共に出陣するよう命じた。
義元の思い通り、直宗も直郷親子も戦死した。
 
 直宗の死後、直盛が継ぐと、人質として、叔父(直平の子)直元を駿府城に送り義元に仕えさせた。
浄心院は、井伊城に戻った。
父と弟、夫を亡くし憔悴しきって戻った。
 だが、最愛の息子、直盛は、形式的に迎えただけだった。
浄心院と直盛は、親子で接する時が少なかった。
直盛が幼い時、母と別れ駿府入りし、直盛と入れ違いに母、浄心院が駿府で人質となったためだ。

 直盛は、母、浄心院が井伊谷に戻っても特別な感情は起きなかった。
浄心院は、駿府での不自由な暮らしをねぎらわれると思い戻ったが、なかった。
待っていたのは、義父、直平や我が子の無関心な目だった。
余りに直平や直盛は冷たいと、新たな涙にくれた。
 
 人質となっても、今川家を嫌い、実家を頼り、井伊家の誇りを持ち続けた浄心院。
その態度を義元は嫌った。
そのため、井伊家と今川家を繋ぐ人質の役目を十分には果たせなかった。
それでも、井伊家の安泰を願い、人質の暮らしを耐えたのだ。
なのに、直盛の母を見る目に愛おしさがなく、寂しくつらかった。
 
 井伊城には、居り場がないと、寂しく決意した。
そこで、直盛に、出家し夫や父・弟の菩提を弔いたいと願い、如意院を建立させた。
直盛も止めることはなく、同意した。
 直平も、直宗への影響力があまりに強い井平氏に不満があった。
井平安直の娘を正室として重んじたが、仲睦まじい仲ではなかった。
次第に、華やかで美しい幾人もの女人との逢瀬を楽しむようになる。
南渓瑞聞や直種などの庶子が何人も生まれている。

 だが、井平氏の力は動かし難く、嫡男、直宗と井平直郷の娘との結婚を認めることになった。
直宗の死は無念だったが、伊平氏が凋落するのは悪くはなかった。
 直平は、伊平氏の軍事力を頼りつつも煙たく感じており、直郷親子の死でほっとした。
幼い井平直成を後継とする。
ここから、伊平氏は一門衆の一人となり、伊平家の軍事力をわが兵のごとく扱い、伊平氏は凋落する。
 伊平一族には、浄心院が宝だった。
浄心院の今までの功に対しての井伊宗家の仕打ちに不満が残る。

 一方、義元は、直元では満足せず「人質は当主、直盛の子とすべき」と、未婚の直虎を駿府に送るよう命じた。
直虎の将来は義元が決める考えだ。
そして、小野政直に結婚を成功させないよう画策させる。

 直平は、嫡男、直宗が殺され、井伊家を守るために何をすべきか悩む。
まずは、一族一丸となって、直宗嫡男、直盛を守らねばと心を決める。
直平には子として認めた七人が居た。
 一四九二年生まれの嫡男、直宗(1492-1542)。
 一五〇〇年生まれの次男、直満(1500-1545)。
 一五〇五年生まれの三男、直義(1505-1545)。
 一五一〇年生まれの長女、直の方(1510-1562)。 
 一四九五年生まれの四男、南渓瑞聞(1495-1589)。
 一五一二年生まれの五男、直元(1512-1546)。
 一五二〇年生まれの六男、井平直種。
この子たちとともに、井伊家を守ろうとするが、直宗の死に続き、次々危機が襲ってくる。

 次男、直満(なおみつ)は、直宗の死で、直盛を支える一門筆頭となった。
七人衆の一人、鈴木重勝の娘と結婚しており、今川家との関係も悪くはなかった。
 直満の子が、直親。
直親が、直虎の婿に決まり、家中で揺るぎない地位を築く。

 井伊宗家後継に直親(なおちか)が選ばれ、鈴木家と共に歓喜した。
直満は、義元にひれ伏すのを良しとはしない、反義元の立場だった。
家中が次期当主の父だと畏敬の念で見つめると、有頂天になる。
兄、直宗の臣下として育てられたが「対等になった」と信じられないほどの喜びで、幸運に感謝した。
 今川家と一定の距離を保ちたい思いと、井伊家の仕置を主導したいとの発言が目立ってくる。
小野政直は、脅威に感じる。

 三男、直義は、井伊城と行き来しつつ、駿府に詰め義元に仕えていた。
人質として駿府に常駐するのではなく、取次役として井伊城(井伊宗家の居館がある)と行き来する。
井伊家を代表する取次役だと、役目の重さを自覚していた。
 ところが、直満の子、直親が婿と決まって以来、井伊谷に戻るたびに、直満の変わりように驚く。
しかも、直義を家臣のように扱い始めた。

 直義は、直宗・直満・直元と同じく母は正室だ。井伊家嫡流の血が流れている誇りがあった。
兄、直宗を支えるようにと弟三人は、兄の家臣として差をつけられ育った。
三人とも同じ立場のはずだった。
ところが、同じように育った直満が、急に大きな顔をするようになり、腹立たしく面白くない。
次第に、兄、直満との間に緊張感が生まれてくる。
そのうち、直満の直義を見下した態度に耐えられなくなる。

 直平は、妻とは不仲になり、直満と直義に愛情を持たず、家臣としての扱いで競い合わせた。
直義は、才ある井伊家一門だと自信があり、分家したかったが、直満が我慢している以上やむを得ないと考えた。
だが、直満は次期当主の父として威張りだし、鬱積した思いを抑えられない。
 
 小野道高は、今川氏に忠実な直義と話が合い親しくしており、薄ら笑いを浮かべ、密かに支援し内紛をあおる。
そんな時、武田勢が、井伊氏の領地に侵攻してきたとの報が入る。
今川家と武田家は、義元が定恵院と結婚して以来、同盟関係にあったが、井伊家と武田家が同盟を結んでいるわけではない。
武田領と井伊領との国境が明確でないところもあり小規模な領地争いはあった。
直の方を追い出して武田信虎の娘、定恵院が嫁いでおり、多少のわだかまりもあった。

 義元への忠誠心に温度差がある直満・直義、それぞれが、力を見せると競い、領地を守る為、軍備を整え防備を固めた。
家中に緊張感が漂うのを確認すると、小野政直は、おもむろに「直満・直義に謀反の疑いあり」と義元に報告する。
直満・直義が武田家に通じ謀反を起こそうとしていると。
 今川家と武田家は同盟関係にあり、直ちに謀反に繋がるわけではないが。
直満・直義の領地争い、武田氏に侵攻されまいと自らの領地を守る為の防備、それが義元への謀反だとされたのだ。

 義元は、直盛を糾弾する。
義元からの糾弾を受けた直盛は、直満・直義との諍いが頭痛の種となっていた事もあり返答を延ばした。
 直満・直義は、当主、直盛の指示を仰ぎ、素直に従うべきはずが、万事、自分流の判断で動く。
腹立たしかったが黙認するしかない状況だった。
「これでは当主としての威厳が保てない」と腹立たしく想っていた時の騒動だ。
直満・直義を懲らしめたかった。

 小野政直は、義元の指示を井伊家中に伝えるのが役目だが、行政手腕もあった。
直盛は小野政直の行政能力を高く評価し、信頼していた。
政直から二人の行状の報告を受けると、了解した。
義元に告げた政直の報告は直盛の意志でもあった。

 一五四四年末、苛立つ義元は、自ら裁くと二人を駿府に呼び出す。
二人とも三河攻めなど義元の命で戦い、井伊勢を率いる武将として秀でた力を見せ、忠誠心に自信があった。
直義は何度も対面しており評価されている自負もあった。
そこで、身の潔白を証明し、義元の評価を高めようと張り切って駿府城に入る。

 だが、義元は問答無用で「謀反を起こそうとしたのは間違いない」と一五四五年二月四日、直(なお)満(みつ)と直義に自害を命じる。
「直盛を助ける」との名目で内紛に介入したのだ。
二人とも、反論の機会を与えられることなく、無念の思いで死んだ。
続いて、謀反人の子、直親殺害を命じる。
井伊家後継とされた直親を殺すことが本来の目的だったからだ。
 
 小野政直は、父、重正の功を評価され今川氏親(うじちか)が決めた今川一門の女人を妻に迎え、嫡男、政次らが生まれている。
直親殺害を命じられた時から、政次が直虎の婿となる可能性もあると、かすかな期待を持った。
 政次と新野親矩の娘との結婚を実現し、今川一門として後継者になってもおかしくない状況を作っていたからだ。
 次男、朝直は奥山氏の娘と結婚している。
 三男、正親は七人衆の一人、松下氏の娘と結婚した。
井伊家に根を張ろうとした小野政直は、家中の大勢を敵にするようなことをするはずがない。

 直虎も父が当主になって以来、小野政直・政次・朝直と再々顔を合わせ、身近にいる忠実な家臣と思っていた。
直満・直義の不和は聞いており、内紛は悲しかったが、父に従うべきだったが裏切ったのだ、と許せないと思う。
 直虎は、直盛の自慢の姫であり、直虎も直盛によく似た姫となったことが誇りだった。
以心伝心、直盛の考えが自然に直虎に乗り移っていく。
政争には、まだまだ無頓着だったが。
 
 四男、南渓瑞聞(1495-1589)は、庶子であり、井伊家菩提寺を守る僧となる。
非常に優秀で、直平が最も気に入っていた子だ。
直平の思いを引き継ぐ直盛も直虎も頼りにした。
井伊家の精神的支柱となり、直虎を見守る。

 五男、直元(1512-1546)は、兄たちと同じく、義元に仕えた。
僧、南渓瑞聞以外の兄すべてが亡くなり、井伊家を背負う一門筆頭になると張り切った。
だが、まもなく、人質のままで、駿府で亡くなる。
井伊家嫡流の血を引く直元は、義元にとって役に立つ人材ではなかった。

 六男、井平直種。
直平は、妻の実家、井平氏を受け継がせると決め、養子入りさせた。
ここから、伊平氏は、独立性を失い、宗家を支えるだけの井伊家一門となる。

 直平は、多くの優秀な子を持ち、井伊家を支え盤石とするはずだったが、四人の男子は皆亡くなった。
庶子の南渓瑞聞とともに、今川家に近い臣に囲まれた嫡孫、直盛を守り井伊家の安泰を図るしか道はないとため息をつく。


五 直虎と直親
 父、直盛の命令で、直虎七歳は、同い年の直親と婚約した。
いくつもの儀式をこなさざるを得ず、窮屈で嫌だったが、父母に見つめられ、やむなくこなした。
直親(なおちか)とは幼馴染であり、よく知っていたが、それ以上の想いはなく、近習が一人増えた程度のことだった。
 ただ、両親の思い、直虎を駿府への人質にしたくなく直の方のようになることを拒否した、結果での婚約。
と教えられ、父母とともに井伊城に暮らすためにやむを得ない決定だと受け入れた。

 直親は「次期、井伊家当主」と決まったが、きょとんとして我が事とは思えない。
それどころか一族の歓喜ぶりを見て、責任の重さが苦しくてその任はふさわしくないと、井伊家当主などなりたくないと思うほどだ。
静かな暮らしが一変し、周囲の状況は目まぐるしく変わっていく。

 井伊谷城山麓の井伊城本丸内に、直親の屋敷もあり直虎の屋敷と近いが、当主の屋敷とは格が違い煩雑に行き来することはなかった。
その為、今まで、直虎と親しく顔を合わせる機会は少なかった。
婚約の儀式を済ませると、直盛は再々、直親を呼び、直虎と会わせた。
 直虎の印象は「なんておとなしい人なのだろう」。
直親は、直盛・直虎の前ではひたすら頭を下げるばかりだ。
直虎の存在感に圧倒されていた。
 直虎には、井伊家を引き継ぐ自信とオーラがあふれていた。
主君の姫としか思えず気安く話すことさえ出来ず、うつむくしかなかった。

 直虎は、父を継ぐのは自分だと思っており、直親との結婚はまだしも婿養子として当主に迎える事には納得できない。
しかも、直親はぎこちなく直虎を見上げることが多く、物足りない。
その為、直親との対面は面白くなかった。
 
 婚約以後、直盛と弟、直満(なおみつ)と直義とは、ぎくしゃくとした関係となっていく。
直平の薫陶を受けた直盛は、井伊家御曹司として大切に扱われ、弟、直満と直義とは、育ちも待遇も一線を引いていた。
その様子を見ていた直虎も、直満と直義をただの一門衆に過ぎないと思う。
 
 直盛は、直親を婿とすると決めた時、引き取り直虎と共に育て、婿入りで始まった井伊家初代と同じ道を歩もうと決めた。
直満から引き離すつもりだった。
直満に、井伊宗家屋敷のある本丸内「井伊城」に直親を引き取ると話す。
 だが、直満は色々言い訳しつつ、直親を引き渡さない。
直親は、直盛の呼び出しに応じて出向くだけだ。
 
 直盛は、腹立たしく思うが、義元から再々呼び出され、井伊谷を離れることが増えていた。
義元の戦力の重要な一角を占め、出陣せざるを得ない。
義元の野望は尾張・相模へと広がり、戦いが続いた。
残念だったが「忙しすぎる」と直親を引き取ることを延ばす。

 そこで井伊谷城山麓の本丸北側に、二宮屋敷を建て、直親のための居館とする。
南東麓に位置する本丸井伊城の直虎の屋敷の近くだ。
直虎と親しく会い、将来に備えるためだ。

 この地には、かって宗良親王のために築かれた二宮御所があった。
その旧二宮御所を整備し直親に与えたのだ。
直親が、養子となる体面を保つに十分な屋敷だ。
父、直満や一族と共に、移り住んだ。

 直平も、直満と直義を家臣と見なしており、直盛の決断に賛成できず、迷っていた。
義元は力を付け、直宗を戦死に追い込むなど井伊家を翻弄する動きが続いていた。
その力を目の当たりにして、義元と敵対するのではなく、直虎が義元の子もしくは養子を婿に迎え、井伊家は今川家一門衆として力を奮うべきかもしれないと思うのだ。
 関口義広に嫁いだ直の方に、子が生まれ仲睦まじく、義広は義元側近の実力者となっている。
井伊家が、義元に従い勢力を伸ばしつつ、末永く安泰であればそれも良しと思うようになった。
六四歳の高齢となり、直盛ほど井伊家の独立性にこだわる気はない。

 だが、直盛は、直の方が幸せだったかどうか疑問に思っていた。
井伊家を直虎に託したく、直盛に忠実な婿を迎えるとの決意は揺るがない。
 直元は素直に今川家に入り、人質の役目を果たしている。
直元が駿府に常駐するようになると、それまで、常駐していた直義は、井伊谷と行き来する取次役となった。
井伊家を代表する顔となったのだ。
 直満は、次期当主の父として、思いのままの振る舞いが目立ってくる。
勇猛で優秀だと自任する二人は家臣ではなく筆頭家老を目指し、井伊家中を主導する力を持ちたいと考えた。
 直盛は、素直には従わない二人が許せない。
直平も、二人の勝手な振る舞いを許すことができない。

 そんな内外の思惑が高まる中で、直虎(と直親が、度々対面を繰り返しながら、二年が過ぎた。
直虎は、ますます、結婚が現実のこととは思えなくなっていた。
父を継ぐのは自分だと思っており直(なお)親(ちか)を婿養子として当主に迎え、直虎は一歩も二歩も引く立場となることを理解できない。
直虎の地位を直親が奪うのだと思え、腹が立ち、対面も面白くなくなる。
直親も訳が分からないまま、次期当主にされ戸惑うばかりで、会うのも気が重かった。
 そして、一五四五年二月、義元により直親の父は殺され、直親の命が狙われることになった。

 直盛は、直親まで義元の標的になるとは予期していなかった。
予想外の進展に驚きながらも、一〇歳の直親を守ろうとする。
 直宗・直満の粛清は予期したが、予想以上の仕打ちに義元の井伊家へ根強い不信感があることに血の気が引く思いだった。
心して、義元に忠誠を誓わなくてはならないと、自らを戒める。

 叔父(父の弟)南渓瑞聞(なんけいたんぶん)に直親を匿うよう頼み、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)が、弟子、東光院住職の能仲(のうちゅう)和尚(おしょう)に頼んだ。
直親は、守役の直満家老、今村正実や近習に守られて危機一髪で、屋敷を脱出し逃げ、渋川にある東光院(浜松市北区引佐町渋川)に行く。
 能仲和尚は、新野親矩(にいのちかのり)のいとこになる。
新野親矩も直親が生き延びることを望み、惜しみなく、直親の命を守るために働く。
 東光院に直親を届けた、直満家老、今村正実は「直親様は亡くなった」と公表する。信じたものは少ないが。
直親の命を守るために、少しでも時間稼ぎをしたかった。

 井伊家当主の母になる幸運に酔いしれていた直親の母も、奈落の底に落ちた。
夫は謀反人となり、子は亡くなり、婚家、直満家は断絶したのだから。
あまりの不幸に気が動転し正気を失うが、直親の無事を知らされると、父、鈴木重勝に促され、再起を誓い実家に戻る。
「このようなことは許されない。(直満の)無念を晴らし(直親の)命を守り井伊家当主とする」との思いが渦巻いた。
 今村正実にどのようなことがあっても直親の命を守るようにと、気を強くして命じる。
幸運に酔いしれて甘えがあったと我が身を責める。

 直親の母は、義元から井伊家七人衆の一人に任じられ、井伊領を治めるよう命じられた鈴木重勝の娘。
鈴木氏は、熊野本宮の神官を受け継ぐ家系になる。
神官として熊野神社の勧進や熊野を基地とする商取引などの役目を担い、太平洋側の海上交通を指揮し、各地を訪れた。
そして、鎌倉時代末頃、三河国加茂郡矢並郷(愛知県豊田市矢並町)に在地した一族がいた。
 室町時代に入ると、矢並を本拠として加茂郡一帯に勢力を広げて、三河西北部の有力国人となる。
それから、寺部(豊田市寺部町)、酒呑(豊田市幸海町)、足助(豊田市足助町)などの諸家に分かれた。

 鈴木重勝は、酒呑鈴木家を率い、今川氏に属し、井伊家に付けられ井伊家重臣となった。
直平は、鈴木重勝の能力を高く評価し、義元との取次が円滑に進むよう、娘を直(なお)満(みつ)の妻に迎えた。
井伊家一門とし、井伊家に取り込もうとしたのだ。

 逃亡した直親を見守る役目を担うのが、直平の庶子、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)。
直平の父、直氏は、京で臨済宗妙心寺派の文叔端郁(ぶんしゅくずいいく)禅師に出会い、深く寄与した
一五〇七年、文叔端郁禅師を井伊谷に招き、井伊家菩提寺を臨済宗とすると決め、開基を願った。
井伊家初代、共保が一〇九三年、葬られ菩提寺とした自浄寺(浜松市)を、改修修復拡大し、建立した。
壮大に堂宇を整え井伊家菩提寺、臨済宗龍泰寺(龍潭寺(りょうたんじ))となる。

 この間、直平は、文叔端郁禅師と出会い、父と同じように深く寄与する。
そんな時生まれた庶子、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)を、伊平氏をはばかり僧とすると決め、文叔端郁禅師に預けた。
 文叔端郁禅師が、妙心寺住職となり京に戻ると、弟子、黙宗瑞淵(もくじゅうずいえん)が、後を継ぎ龍泰寺(龍潭寺(りょうたんじ))二世となる。
直盛が葬られる時、その法名を取り以後、龍潭寺(りょうたんじ)となる。
 南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は非常に優秀で、井伊家菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ)を任せるのにふさわしい僧侶となった。
直平・直盛の信頼も篤く、高僧として慕われつつ、種々の人脈を築いていた。

 南渓瑞聞(なんけいたんぶん)と直親の間を行き来し取り次ぐ役目を、直親の母の願いで弟、鈴木重時が担う。
重時は、奥山朝利の長女(直親の妻の姉)と結婚したばかりだった。
また、奥山朝利の妹は、直虎の母、千賀の兄、新野親矩(にいのちかのり)と結婚している。
南渓瑞聞(なんけいたんぶん)・鈴木重時・奥山朝利・新野親矩(にいのちかのり)は、直親を中心として、深く結びついた。

 今川義元は、直親を殺すと決めており、命じられた小野氏は追及の手を緩めない。
東光院で直親を隠し通す事は難しくなる。
そこで、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)らは、直親の今後をどうするか、話し合う。

 直親の逃亡先に、
南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は、師、文叔端郁禅師が一五一二年、開基の松源寺(長野県下伊那郡高森町)を推す。
下伊那(長野県下伊那郡)の国人、松岡城主、松岡貞正の弟が文叔端郁禅師だった。
 
 鈴木重時も、妻の実家、奥山氏と親しい下伊那の有力国人、松岡氏の菩提寺、松源寺を推す。
奥山氏は、奥山郷に高根城(久頭郷(くずごう)城)を築いて以来、領地に近い独立性の強い下伊那の国人と親しい。
 
 直平・直盛も、賛成だ。
文叔端郁禅師が、井伊谷を去っても、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)を通じて、縁があった。
直平・直盛は、文叔端郁禅師を厚遇し、松岡氏との付き合いも長く続けていた。
 こうして皆の思いは一致し、直親を松源寺に逃がすことに決める。
 
 松岡氏は、平安時代中期、奥六郡(岩手県奥州市から盛岡市)を支配した安倍氏から始まる。
安倍貞任が一〇六二年に起きた「前九年の役」で国司と戦い敗れ、幼い次男は乳母に連れられ逃れ、市田郷牛牧に土着する。
ここで、武勇に秀でた武将に成長し、推されて地頭となり治め、松岡氏を名乗る。

 南北朝時代、北朝方の信濃守護、小笠原氏の配下となり戦う。
そこで、一三三九年、天竜川の西、高さ約一一〇mの間ヶ沢と銚子ヶ洞の深い谷に挟まれた東へ伸びる舌状台地に強固な松岡城を築城して本拠とした。
 信濃守護、小笠原氏に従い戦ったが、小笠原家が衰退すると、座光寺・宮崎・竜口氏など下伊那衆を支配下に置き、下伊那の有力国人に躍り出た。

 松岡貞正を引き継いだ嫡男、貞利は、井伊家から受けた厚遇を知っており、喜んで直親を受け入れた。
こうして、直親主従は、能仲和尚の先導で松源寺に逃げ、領主、松岡貞利に庇護され暮らす。

 直親との連絡を受け持つ鈴木重時。
だが、三河が本拠であり、この地は、織田勢と今川勢とのせめぎ合いが激しくなり義元の目が厳しく光っていた。
下伊那は地理的にも遠く、逃亡者、直親の元に再々行くことは難しくなる。

 やむなく、重時の妻、奥山氏長女が代わりに兄、朝宗を推し直親の母も納得する。
こうして、朝宗が直親を励まし必要なものを届け支える役目を懸命に努めることになる。
直親は、年齢も近い奥山朝宗と波長が合い頼りにする。
直虎の父、直盛は南渓瑞聞(なんけいたんぶん)から詳細な報告を受けつつ、仕送りを続け、直親が不自由なく暮らせるよう取り計らう。


六 直虎、出家する
 一五四三年、井伊家嫡流の一人娘、直虎は七歳で父のいとこ、同年齢の直親(なおちか)を婿養子とする婚約をした。
父、直盛は、直親を思うように育てたいと、まず養子とする。
その後、直虎の婿養子とするつもりだった。
 婚約後、二年も経たない一五四五年、直虎は、九歳で直親と離れ離れになってしまった。
直親の父、直満が一五四五年二月四日、謀反の罪で殺され、謀反人の嫡男、直親も同罪だと追手が迫ったからだ。

 父、直盛は、今川氏・小野氏の動きをすべて把握し、秘密裏に直親を逃がすよう命じた。
直虎には心配させないよう何も告げなかった。
直親の逃亡の成功を知ると今川義元に「直親の死」を報告する。
 直虎は、詳しい話を知らされることはなかったが、家中のざわめきと近くの直満の屋敷の動きから何かあったとは分かった。
その後、直満・直義の葬儀が行われたことを知り、事件の概要を徐々に理解していく。
そして、直親は生きていると確信した。

 直親と会うことがなくなっても、父、直盛は以前と変わらず武芸・兵法など武将として身に着けるべき事を教えてくれた。戦いに明け暮れ、駿府に居る時も多かったが、戻ると必ず、直虎を呼び、共に語り学び、武芸を競い合う。
とても楽しく、有意義な時間だ。
 父がいないときは、学問に励むようにと識者が招かれ、井伊家を受け継ぐ姫として備えるべき教養を厳しく学ぶ。
母からは、女人としてのたしなみも教えられ、花嫁としての心構えも教えられた。
 直親がいなくなっても変わらない暮らしが続く。

 直親は死んだことになっており、生きていると知っていても、口に出すものはいない。
死んだも同然の扱いをされた。
近親が密やかに直盛の指示で直親と連絡を取り動くだけだ。

 間もなく義元は、直虎を人質として駿府に送るように告げる。
かって井伊家は今川家と戦いを繰り返し、義元に対しても家督引継ぎの時・北条氏の河東侵攻の時・直満らの謀反と裏切ったと見られることがあった。
その為、父、直盛から直盛の母、浄心院へ、父の叔父たちへと代わりながら駿府に人質を出し忠誠を誓った。
ついに、直虎が望まれたのだ。
父、直盛は、祖父、直宗・曾祖父、直平と違い駿府での人質の暮らしが長く、義元の信頼を得ており高圧的ではなかったが。

 直虎は、中野氏・小野氏の女人を守役側近としている。
特に中野直由(なおよし)の妻や娘は身近で家族のようだ。
直虎が直親と婚約しても、皆、直虎側近として変わらず仕え、和気あいあいと良い雰囲気が続いている。
 武芸の大好きな直虎は、おとなしく気取ったように見えた直親とは違和感があり、話が合わなかった。
直親が居なくなっても特別な感情は起きない。
それでも、なぜいなくなったのか、詳しい様子を知りたくてたまらない。
父、直盛に直接聞きたいが、父が話題にすることはなく聞くべきでないと感じ、胸にしまっておいた。

 そこで、思いのままに話せる守役の中野直由の妻に直親への不可解な思いをぶつける。
直由の妻は、渋々ながら、話し始める。
何度も何度も聞いているうち、次第に全貌がわかっていく。
直満・直義らが殺されたこと、直親が隠れていることなどなどだ。
ここから、直虎は、室町幕府末期の政治情勢、井伊家の置かれている立場を学び理解していく。

 直虎なりに概要を掴むと、たまらなくなり、母、千賀に慌てて逃げた直親の真摯な思いを聞きたいと迫った。
だが、母は答えなかった。
母、千賀は、兄、新野親矩(にいのちかのり)との仲が良く、今川氏よりの考え方をしている。
直虎が、今川氏一門と結婚することを望んでおり、直親を好きではなかった。
そんなこともあり、詳しくは知らないようだった。
父、直盛も、母を悩ますようなことは伏しており、母は、相談相手にはならなかった。
 
 だが、直虎は、探求心が旺盛で納得できない。
直親に父、直満の死をどう受け止めているのか、井伊宗家に対する忠誠心はどうか、直虎に対する想いはどうか、などなど知りたくてたまらない。
 直親は、直盛の指示で逃げている。
直盛の養子であり、その指示に従って動くべきだと、分をわきまえた。
将来不安で、気がおかしくなりそうだったが、ひたすら指示を待った。

 井伊家中は義元の意向を重んじる七人衆が仕切っており、直盛は、死んだはずの直親の話はしない。
直親を安全に守るよう命じたが、その先はまだ見通せず、謀反人の子となった直親の処遇、井伊家の進むべき道をどうすべきか迷うばかりだ。
 それ以上に、直虎を人質に出さない方法に頭を悩ました。
今川勢の一翼を占め果敢に戦い井伊家の力を見せることで、のらりくらり逃げるしかない。

 こうして、直虎と直親は、意思の疎通がないまま、時が過ぎる。
直虎は、後継に悩む父を見かねて「父上の跡継ぎは私しかいない。任せてください」と笑って力づけ、文武の修行に励む。
父は嬉しそうに、にっこりとうなづくが、義元の考えは変わらない。
度々、直虎を人質に連れてくるよう、義元から言われ、身を固くするばかりだ。

 こうして日々が過ぎ、義元は躍進を続けた。
一五五〇年、直虎が直親と離れ離れになって五年が過ぎた。
一四歳の大人となった直虎。
井伊家を引き継ぎたいが難しく、姫では「次郎」として生きる事さえ出来ないと悟る。
成長と共に父母や今川家・小野家・奥山家の考えを理解できるようになったのだ。

 自分は女人であり、当主にはなれないことを、受け入れるしかなかった。
血縁の濃い男子、直親が継ぐべきだと、悔しいが納得した。
 父、直盛も、後継は、井伊家の血筋を受け継ぐ者を選びたい、強い思いを持っているのを知っている。
父の思いを実現させたいし、実現すべきだ。

 直親は今でも、義元から見れば謀反人、直満の子だ。
直虎は、直親の松源寺での暮らしの様子を密かに逐一知るようになっていたが、直親が戻れるかどうかはわからない。
直親から直接、近況を伝える便りもない。
 義元からの追及の手は、以前ほどではなく、たちまちの命の安全は保証されている。
直親は、忘れられた存在になっているのだ。
便りを出そうとすれば出せるはずなのに、届かない、許せないと、苛立つこともある。

 直盛の庇護で直親の暮らしが成り立って居るのだ。
直盛への感謝と、直虎への想いを便りにすべきで、きっと道はあるはずなのに、便りがない。
父母は、直親について何も話さないので直虎から聞くことも動くこともできない。
それでも、直親が動けば、どんなことをしても応えるつもりだった。
 
 そんな時、直親には伴侶同様の女人がいると知る。
直虎を大切に想っていないのだと、がっくり来る。
一途に結婚を決めていた直親には、その女人の存在は許せない。
しかも、直親は酒宴を催すのが大好きで、風雅の道を邁進していると聞き、違和感を感じてしまう。
直虎も、文芸の道を教養として学んでいるが、武将としての心構えを、修養の基本としている。
井伊家は義元とのせめぎあいを続けており、余裕がある状態ではない。
武家として生き残るために知恵を絞らざるを得ないのだ。
直親の生き様は受け入れられない。
 
 まだうら若き直虎には、男女の機敏な動きは理解できない。
ただ、直親とは結婚できなくなったと、悲しい。
なぜどうしてこんな事になったのか、思いめぐらすがわからない。
 直親との結婚を自明のこととし、愛情を育み、結婚となる日を夢見るはずだった。
だが、そんな意識を持つまでにはならないままに、別れてしまった。
 相手を理解し、井伊家の将来に果たすべき役割を話し合うには、幼すぎた。
今となっては、直親には直虎への愛情がなかったのだとしか思えず、寂しく諦める。

 相変わらず、今川義元は、直虎の駿府入りを迫っている。
父、直盛が義元の追及をかわす為に苦労しているのを肌で感じる。
何をすれば井伊家の為に、父母の為になるのか、悩む。
父母の力になりたい。

 そこで、亡き人の供養に行くとの名目で井伊家の菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ)に再々行く。
直親をよく知る南渓瑞聞(なんけいたんぶん)住職に会いたいためだ。
直親の近況を聞くのが楽しみだった。
南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は、要領よく話してくれ、よく分かる。
南渓瑞聞(なんけいたんぶん)から直親の近況を聞く日々が何年も続いていた。

 南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は、逃亡先から戻れない直親主従の厳しく苦しい近況を話す。
すると、直親が可愛そうでたまらなくなるが、日々の行状は何を聞いても理解できない。。
それでも、苦しい状況ゆえ、遊びで紛らわすのであり、直虎への愛情はあると南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は何度も話す。
ただその愛を伝えられないだけなのだと。
直虎も、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)が間違ったことを言うはずがないと自分に言い聞かす。

 だが、時が過ぎ、直虎の進退を決めなければならない時が来る。
そこで、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)に思いを込めて決意を言う。
「亡くなった直親の菩提を弔うとの名目で出家させてください。駿府には行きません。和尚様のもとで出家します」とはっきりと。これが、一番良いと決めたのだ。
「いずれ、直親殿が戻れる日が来るはずだし、直親殿が家督を継ぐのが一番良いのです。このままでは、駿府に行かなくてはならないし、義元様から婿を決められる。それだけはどうしても避けたいのです」と必死に覚悟を話す。

 南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は、何度も話し合ったうえで直虎が出した結論に、大きくうなずき喜んで受け入れる。
ただ出家名は「次郎法師」とした。
「いつでも還俗(げんぞく)出来る名です。このことを忘れられないように」と念を押した。
父、直盛と母、千賀のたっての願いを、さり気なく、言い含めた。
 直虎は、還俗(げんぞく)出来る男子名で僧となることを了承した。
 
 南渓瑞聞(なんけいたんぶん)に同意された直虎は、張り切って、父母に井伊家の家督争いから身を引く決意を話す。
はっきりと「仏門に入りたいのです」と願った。
父母も当面は仏門に入ることが良いと考えており、頷いた。
南渓瑞聞(なんけいたんぶん)と打ち合わせて、直虎の決意が固まるのを待っていたのだ。

 直虎は納得しないと、決して動かない頑固さがあり、一度決めれば、驚くほどの力を示して成し遂げる。
そんな性格を見抜いている父母は、直虎が自分で結論を出すことを望み待っていた。
 自分自身で考え抜いて決めた結論だと自信を持っている直虎は「誰とも結婚しません。家督を継ぐ意志はありません」と父母に固い覚悟を話した。
 
 出家を決めた大きな理由の一つが、直親が結婚したことだ。
近しい人のいない暮らしは直虎には、考えられないほどつらいことであり、結婚もやむを得ないと許せるようになったのだ。
時が来れば、結婚した女人とともに、井伊谷に戻り、直親が井伊家当主になるべきだと、踏ん切りをつけた。
「家督を継げないならば井伊家に居る必要はない。尼僧として(南渓瑞聞のような)名僧になる」と潔く決意した。
決めてしまうと、さばさばして、とてもいい気分だった。
人生最初の大きな選択を成し遂げた。

 がっくりしたのは、嫡男、政次と直虎の結婚を望んでいた義元の付家老、小野政直だ。
政直は義元から筆頭家老に抜擢され、今川家に絶対的忠誠を誓い井伊家のために懸命に働いた。
義元はその働きを評価し強力な後ろ盾となっていた。
 そんな義元を信じ、政次と直虎の結婚を願い出た。
だが、義元は、直虎と政次との結婚を後押しすることはなかった。

 ついに、小野政直は心を決め、筆頭家老の地位を捨てても良いと不退転の決意で、義元に願い出ると決意した。
その時、直虎は出家してしまった。

 それから二年が過ぎる。
政直は筆頭家老としての役目を果たしつつも、直虎は出家し、直親を殺すことも出来ないままの状態にイライラが募る。
「いくら努力しても井伊家を率いることはできない」とため息をつくことも多くなっていた。
それでも役目を果たしていたが、一五五四年、あっけなく亡くなる。無念の死だった。
 父の思いをよくよく知っていた二三歳の嫡男、政次が継ぐ。

 甲斐の虎、武田信玄が大きく飛躍する頃だった。
家督を継いだ信玄は、一五四二年から本格的に信濃侵攻を初めた。
そして、一五五四年、追い詰めていた信濃守護、小笠原氏を消滅させ、信濃の全域をほぼ統一した。
完全平定は間近だったが、上杉謙信との攻防戦が始まり、遠のくが。

 信濃守護、小笠原氏に従う松岡貞利は、小笠原氏とともに、信玄と戦うが、敗北し降伏した。
今川氏と武田氏は固い同盟で結ばれていた時だった。
武田氏に刃向かい負けて従わざるを得ない松岡貞利には、今川氏に追われている直親を匿うことは難しくなった。
 時期を同じくして、気力に溢れていた壮年の筆頭家老、小野政直が亡くなった。
直親から、井伊家に戻りたいとの必死の嘆願が届いていた。
 直虎は、直親を呼び戻す時が来たのだと感じた。
父、直盛に「呼び戻してほしい」と願う。
父、直盛は頷く。
 井伊家によくある出来すぎた不思議な話だ。
後に、直虎は父の企てだったのかもしれないと思う。

 直盛は、直虎と結婚させて直親を後継にする、と決めた。
それが、井伊家のために、一番良い選択だと。やり遂げなければならない。
政直が亡くなり悲しむそぶりを見せつつも、武者震いし、前方を見つめた。
義元との対決となるかもしれないが、将来への展望をなんとしても切り開くと、自身を鼓舞する。

 政直の行政力は認めたが、井伊家中への影響力を伸ばしていく様子を苦々しく感じていた。
また、直満・直義を殺したのは許せず、直親を殺そうと追い詰めたのには怒った。
 今川義元は直満・直義を謀反人とし罰し謀反人の子、直親の処罰は命じたが、今川勢を派遣してまで捕えることはなかった。
政直が、直親を捕え、殺そうとしたのだ。
政直の野望の表れだった。政直の先走った、行き過ぎた執念だった。
 
 だが、井伊家中のほとんどが従うのをためらった。
直親を捕らえ殺す理由が見つからないためだ。
そのため、直親は不安定な身分のままだったが、生き長らえた。
そして、時間が過ぎた。

 政直が亡くなった今、家中に、表立って直親の抹殺を願うものはいなくなった。
ここで、直盛は、当主としての地位を取り戻すべく、政直に従った家臣を排除し一掃していく。
そして、直親の連れ戻しを命じた。
 それでも、直親の日ごろの行状も知っており、腹立たしい思いもしており、直親が井伊家にふさわしいかどうか、じっくり確認するつもりだ。
 小野氏の影響力を排除し当主としての落ち着きと余裕を持ち、直親と直虎と結婚させ、井伊家らしい独立性のある治世を共に行い、引き継がせるとの意欲が湧いてきていた。
 幼馴染の直虎と直親だ。再び巡り合えば新たな愛が育まれるはずだ。
「直親は、まだ若い、やり直させる」と明るい希望が湧く。
一五五五年、直親は近従を伴い、松源寺を出立し一〇年ぶりに故郷に向けて旅立つ。

 直盛は、ひとまず、直親を井伊谷の北方、渋川の地にある東光院に入るよう命じた。
そこで、直親の人となりを確認した後、井伊城に迎えるつもりだ。
一門重臣たちと、直親の扱いを協議し、義元への言い訳の根回しをしていく。
そして、早く、直親に会いたい、出向いても良しと、戻ってくるのを待った。

 東光院に入った直親。
東光院に良い思い出はなく、まっすぐ井伊城内の屋敷に戻りたかった。
次期当主としての待遇がされるはずが、そうではなかった。
 父の死を聞かされ今村正美の言うままに逃げ込み、じっと隠れ、ただただ、恐怖と不安ばかりだった日々が蘇るばかりだ。
詳細は覚えていないが、楽しいところではなかった。

 いらいらしながら、井伊城に呼ばれるのを待つ。
すぐに、かって住んだ二宮屋敷に入り、後継として家中に紹介されると信じて疑わなかった直親には、あまりに侮辱だった。
 父、直満が、義元・直盛への謀反など絶対にするはずがないと確信していたこともある。
直盛から、父、直満の無実を、真相を聞きたかった。
 
 直虎も直親に期待し、戻ってくるのを待っていた。
いずれ還俗(げんぞく)することを考慮して、井伊城の住まいをそのまま移したような屋敷が龍潭寺内に建てられ、近習もそのまま従って直虎は暮らしていた。
境内には井伊家の息吹が満ちており身を置くだけで引き締まりまた安らぎを感じていた。
直虎は、出家してよかったと笑みがこぼれる日々だった。

 一万坪を超える広大な龍潭寺を美しく飾る四季折々の花木の手入れをしながら、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)の側近くで修養を重ねた。
将来、龍潭寺三世となっても良し、新たに井伊家菩提寺を建立し住職となっても良しと、将来像を描いた。
心は晴れやかだった。

 直親が、戻れなければ、父の思いはどうであっても、義元の意向に沿い、できるだけ早く幼い養子を迎え、井伊家当主にすべく、父が教えるしかないと思っていた。
長年今川家に従い、今川家の良し悪しを知り尽くし、義元の厚い信頼を得ている父だ。
きっと井伊家らしい義元への従い方が、あるはずだと。

 直親が義元に許されたら、それは素晴らしいことで、一番望むことだった。
直親が最良の後継者で、井伊家を継ぐべきだとの考えが変わることはなかった。
それでも、あまりに長く待って、諦めるようになっていた。
 そんな時、状況が大きく変わり、直親が戻ってくる事になった。
直親との結婚を望んでいると、父から聞かされ、期待は膨らんでいた。
 
 出家した直虎は自由だった。
警護は城内にいた頃より、はるかに減り、望むままに行動できた。
それは、自分の足で領内すべてを確認するようにとの教えだと感じ、くまなく回った。
 井伊谷の豊かな自然、収穫される稲穂・農産物の一つ一つを手に取って確かめた。
天候も地理的条件も、周辺国との関わりも、学び習熟していった。
 領内のあちこちで、お気に入りの場所が見つかる。
そこで、領民と心ゆくまで話せるのは素晴らしかった。
この地に生まれてよかったとしみじみ思う。

 
七、直親の裏切り
 直親は、腹立たしい思いで東光院に入り、今までの暮らしを振り返る。
一五四五年、一〇歳から松岡貞利に庇護され、松源寺に入り、成長した。
下伊奈の国人、松岡貞利は、信濃守護、小笠原氏に属したが、強い主従関係ではなく、独立性を保っていた。
下伊奈の国人衆をまとめ、小笠原氏に一目置かれる存在だった。
そのため、貞利は、自信にあふれており、領地も豊かで、直親を将来の井伊家当主と見なし、大歓迎で迎えた。

 当初、緊張し恐怖に震える直親だったが、松岡貞利の気づかいに触れ、落ち着いていく。
篤くもてなされ、心落ち着く暮らしが始まる。
恐れていた、今川方の追手が来ることはなく、生き延びたと気持ちが和らいだ。
 こうして、本来の気の小さい、繊細な優しい性格のままに、成長する。
今村正実が立てる計画に基づき学びながら、好きな芸事や武芸を磨く充実した日々だった。
それでも、父の夢を実現したい思いは忘れることなく強まるばかりだ。
 思い描くのは井伊家当主になった自分の姿だ。
井伊家当主になりたいし、なるべきだとの思いが募る。

 だが故郷を離れてしまった寂しさに耐えられないときもある。
将来に向けての井伊家の情報や重臣との繋がりを築けず、井伊家を率いる事が出来るかどうか不安に襲われ、落ち込む。
しかも、直虎からの便りはなく、直盛からも温かい励ましや学ぶべきこと、これから起こりうることを何も知らされない。
 直盛の眼鏡に叶っていない養子でしかなかったのだ。
見放され、追い出されたのかもしれないと、胸騒ぎもある。
 頼みとした鈴木家に居る母からも、便りはあっても具体的に当主への道筋を知らせてくることはない。
反対に、鈴木氏は、筆頭家老、小野氏の専横を防げず、追い込められているようだった。
 
 やるせない思いでいらだつ直親を慰めるのは「青葉の笛」。
芸術的素質があり、夢中で修練する直親の上達は早かった。
笛を奏でると、待つ事の恐怖心が薄れる。
 日々の暮らしが続き、時が過ぎ、真面目な直親は、文武両道を備えた武将に成長し、従う近習に安堵の表情が浮かぶ。
今村正実は「立派に成長されました。当主となることが約束されています。きっと名君になられるでしょう。もう少しの辛抱です」と励ます。
「時が解決する」と揺れ動きながらも信じ、生きるよりどころとする。

 それでも、松源寺内での閉じ込められた住まいに、首が絞められるような、苦しさを時には感じる。
広範囲には動けないが、自由はある暮らしであり、おおらかに待てばよかったが、繊細な神経が耐えられなくなる。
「囚われの身でしかない」と、自暴自棄に陥り、周囲に当たり散らす。
その様子に心痛めた今村正実は、心を癒す女人が必要だと考えた。
貞利に、直親には心を癒す女人が必要だと願う。

 ここで、松岡氏は、島田村(長野県飯田市松尾)代官、塩沢氏の娘、千代を推す。
千代は、井伊家当主の妻には、不釣り合いだが、隠棲の身の直親には似合いだった。
 直親は、それまでも仕える女人や酒宴の席で接待する女人とのかりそめの愛は、いくどかあった。
高貴な御曹司として、人気があったのだ。

 身分も教養もある千代だが、井伊家、次期当主、直親におとなしく控えめに仕えた。
正室としての待遇は期待していない。
両親からもそのように言われ嫁いだ。
 直親には、話が通じ、価値観を共有できる初めて理想的な女人だった。
とても愛しく、千代と過ごすことが増える。
ここから、気持ちが安定しやる気が出てくる。
吉道と高瀬姫の一男一女を儲ける。

 直親が、命が長らえたとホッとした頃から、松岡氏を取り巻く状況は刻々と変わっていった。
信玄は、一五四一年、家督を継いで以来、信濃侵攻を本格化した。
この頃、松岡貞利は、信玄の出現をそれほどの脅威とは感じなかった。
それより、信濃守護、小笠原長時が内紛もあり力をなくしており、出来うるなら長時に代わろうと画策しており、長時の脅威となる信玄の存在は、有利に働くとさえ感じた。
周辺の国人衆を配下に置き、下伊那の有力国人として小笠原氏に対峙するまでに勢力を広げていく。
そんな、得意絶頂の時、直親を引き取った。

 だが、信玄は、一五五〇年、信玄と同族の信濃守護、小笠原長時を追い払い、新たな支配者となってしまった。
貞利の軍事力は、信玄に比べようもなく、臣従を求められた下伊那の国人衆とともに戦わずして信玄に従う。
 それでも当初は、まだ信玄の支配は緩かった。
その後、信玄の武力が轟き、野望も広がり、敵が増えると、領地からの収益を強化しようとし、圧政を敷く。
 耐えられなくなった伊那衆が、一五五四年、信玄に反抗し、決起した。
貞利も共に戦うも、信玄勢に完敗し降伏した。
この後は、貞利は、独立性をなくし、より厳しく信玄の監視下に置かれることになった。
 同時期、一五五四年、信玄は武田氏、今川氏、北条氏の間で平和協定、三国同盟を結んだ。
ここで、武田氏と今川氏は、固く結ばれた。
以来、今川氏に属する井伊氏の謀反人の子、直親を庇護するのは、信玄への忠誠心を疑われることになった。

 一五五五年、直親は、一九歳。
松岡氏の変遷をよく見ている。貞利が置かれた状況がよくわかった。
義元から追われる直親は歓迎されない客人だ。
松岡氏には大恩があり、迷惑をかけたくなく早く自立したいと焦り始める。
 そんな時、父の仇、井伊家筆頭家老、小野政直が亡くなったと伝わる。
執拗に直親を捉えようと苦しめた小野政直の死は、明るい光となって、直親を笑顔とする。
追われる身ではなくなったのだ、きっと、井伊家を継げると、希望が出た。

 そして、直盛による直親を井伊谷に戻す計画が進んでいる、とのうれしい知らせが届く。
直親は、忘れられてはいなかったのだ。
信じられない展開だった。
 期待と不安で、居ても立っても居られない、浮足立った状態になる。
こんな時、頼りになるのが何でも気楽に話せる奥山朝宗だった。
朝宗は「必ず当主になれます」と励まし「まもなく井伊家に戻れます。今しばらく辛抱されるように」と言い続けた。
朝宗の言葉は、暖かく響き、胸にしみた。
「井伊家に戻りたい。必ず戻る」と自身に言い聞かせ、騒ぐ心を押さえる。
ついに、直盛の許可を得て松源寺を出る日が来た。一〇年の逃避行は終わった。

 まず、向かったのは、直盛が待つようにと言った東光院。
二宮屋敷に入ると思っていた直親は、不安に思いながら東光院に入る。
そこで、待っていたのは朝宗の末の妹、ひよだった。
 塩沢氏の娘、千代とは時期が来たら井伊谷に呼ぶと伝えて別れた。
その言葉は、偽りで二度と会うことはないとよくわかっていたが、千代は頷いた。
 ひよは、千代とよく似た清楚な美しさがあり、じっと静かに控えていた。

 朝宗は、直盛が直親を娘婿養子にすると公にしたのは、養子にする表明だと考えた。
直虎は、義元の人質となることを嫌い、仏門に入っている。
それは、還俗(げんぞく)前の現段階では井伊家の家督相続から外れ、独身を貫く事を意味している。
臨済宗僧は、結婚しないと決められていた。
つまり、直親は直虎と許嫁だが今現在は、結婚は不可能であり兄妹という関係だ。
それは、直親は、直盛の養子であり直虎の兄でもあるということなのだ。
とすれば、妹、ひよと結婚しても、後継になる可能性に変わりはないということになる。

 朝宗の父、朝利は、新野親矩が井伊家の目付として井伊谷城入りをした時、積極的に近づき、共に井伊家を支えようと持ち掛け、妹との結婚を実現した。
続いて、娘たちを縦横無尽に縁付かせ、井伊家中最大の力を持つ。
小野氏のライバルだ。

 長女(朝宗の姉)は、直親の母の弟、鈴木重時に嫁いだ。
当時、鈴木家は小野家に匹敵する井伊家家老だった。
 
 次女は、中野直由、嫡男の直之に嫁いだ。
中野氏は井伊家一門筆頭。
直虎が最も信頼した一族だ。

 三女は、小野政直次男、朝直に嫁いだ。
小野家は、義元が命じた井伊氏筆頭家老。
きっちりと縁をつないだ。

 四女は、橋本四方助に嫁ぐ。
井伊氏と縁ある国人だ。

 五女は、菅沼忠久に嫁ぐ。
井伊谷七人衆の一人で、家康に臣従していくが、奥山氏も家康に従うも良しと考えていた。

 六女、於徳は、平田森重に嫁ぐ。
奥山氏家老だ。

 こうして、朝利は、縁戚網を広げ井伊家の中枢を押さえた。
後は、直親と娘、ひよが結婚すれば完璧だった。
 ひよは、塩沢氏の娘、千代と直親の関係をよく知っている。
千代こそ直親と結婚すべきだと考えた。

 だが、父は、千代は故郷を離れることは出来ないと説いた。
千代は、井伊谷に来ることはないのだ。
そして、ひよこそ奥山家の宝だと告げる。
出会った人すべてに爽やかな印象を与えるひよこそ、井伊家当主の妻にふさわしいと。
朝利の自慢の娘、ひよは、周囲を明るく照らし、皆の心に温かい心を降り注ぐ娘だった。

 東光院に落ち着いた直親に、朝宗の父である奥山家当主、朝利は自信にあふれた口調で「しばらくの辛抱。必ず時が来ます」と長期間の留守を埋めるように井伊家の置かれている状況を話す。
 それから、当主として知っておくべき種々の情報を教えていく。
朝宗は「直虎様は仏門に入り井伊家を継ぐ意志はない。とはっきり言われた」と告げる。

 直親は、隠棲中の直盛・直虎の対応を思い出し、朝宗の言葉を噛みしめる。
苦しい逃避行だったが、父や妻になる人からの励ましはなかった。
家臣も少なく力を奮う機会も与えられず悶々と過ごすしかなく、直盛・直虎に見捨てられたのだと寂しく思い続けた。
ようやく戻ったが、井伊城本丸屋敷に迎えられることはなく、東光院で待たされ、次の指示はない。

 直親は、ひよを見つめ、新しい道に踏み出そうと決める。
ひよを抱き深い契りを結ぶ。
ひよは、東光院での居候の身の心細さを癒し、井伊谷で生きる希望を与える大切な女人となる。

 この報は、すぐに、直盛にもたらされた。
怒った直盛は、直親にひよとの離縁、直虎との結婚を命じる。
 だが、直親は断わる。
「長年井伊家を離れていた私には当主の任は重すぎます。(直虎に)良き婿をお迎え下さい」と断わる。
直虎の婿に選ばれた為に義元が怒り父、直満が殺されたのだ。
そこには、直盛の影があると感じており精一杯の抵抗だった。

 直親は井伊谷城に入ることは、叶わなくなる。
井伊谷の南、山一つ向こうの祝田(ほうだ)(浜松市北区細江町)の屋敷に住まうことを命じられた。
しかも、直盛から松下清景を取次役家老として付けられ、監視される。
 苦労を重ねて耐えて、ようやく戻った故郷でのこの仕打ちはひどすぎると、情けない。
必ず当主になる、直盛の思うがままにはならないと、意固地になる。
 奥山朝利・朝宗(ともむね)に励まされ、精一杯の威厳をもって屋敷に入り、ひよとの結婚式を挙げた。
三万石とも言われる井伊家宗家を引き継ぐはずが、千石取りの井伊家一門家臣となり暮らす事になる。
 
 直虎一九歳にも、直親の裏切りの報が届く。
父は直虎との結婚は主君の命令であり、必ず直親に守らせると話すが。
気色ばむ父をなだめるように、にこやかにうなずく直虎だが、心中、義元・小野氏親子・奥山氏父子を思い、井伊家は難しい局面に入ったのだと覚悟する。
何があろうと父と共に生きる決意に変わりはないが。
 主君が命じた結婚を承諾しながら別の女人と結婚するなど、ありえない不思議があるのが、井伊家だ。
 
 直親は、奥山氏の言葉を信じ身の安全に気を配りつつ将来に希望を持ち、新婚生活を楽しもうとするが、心中は複雑で不安が募るばかりだ。
 権謀(けんぼう)術数(じゅつすう)は苦手で花鳥(かちょう)風月(ふうげつ)を愛(め)で笛など吹いて過ごすときが一番和む性格だ。
そして、文人として教養を積み、自分を活かした井伊家当主としてのあるべき姿を描いていた。
井伊家の現状にそぐわない当主像だが、それでも、早く当主になりたかった。
 
 千代・ひよとの関係は、主君、直盛を裏切ったことに通じ、許されないことをしたとの後悔の念を消すことはできない。
心の奥底に直虎への申し訳なさも持ち続ける。
ただ、こういう生き方をさせたのは、直盛であり、直虎だと許しがたい思いも持ち続ける。
 
八 直盛の決断
 直盛は、直親を井伊谷に戻らせ「ようやく取り戻した」と心弾んでいた。
井伊家の為に、今川勢の一角を担い戦い続け、多くの資金と兵力を投じ、義元の信頼を得ている。
義元はこの頃、快進撃を続けており、井伊家の力を高く評価しており、井伊氏への強い干渉はなかった。

 そんな時の直親の井伊谷入りであり、義元は多少の難色を示すかもしれないが、直盛の願い、直虎と直親の結婚・直親への家督継承を許すだろうと思う。
義元に「井伊家は今まで通り忠誠を誓います。(直虎と直親の)結婚と家督の引き継ぎを認めて欲しい」と懇願するつもりだ。

 小野政直死後、小野氏に近い家臣を一掃し家中の再編を終え、一息ついており、義元への井伊家の忠誠心・貢献度に自信があり、直の方の推挙もある。
 直親を義元に引き合わせ許しを得て、直虎との結婚が実現する手はずを整え、万全の体制が出来たと確信していた。
こうして、余裕で、直親に会うつもりだった。

 ところが、肝心の直親が裏切った。
命令に背き、別の女人と結婚してしまったのだ。
直親を、即刻、追放処分にすると怒りに震えたが、後継に一番ふさわしい人物であるのは確かでどうすることもできない。
 思えば、直親と歯車がかみ合わないことばかりだった。
直親と井伊家の為に良かれと考えたことが全く通じず、いつも予想外の結果となるのだ。
直親は、直盛を信じ待つことができないのだ、どこかに不信感があったのだと、事態の変遷に愕然とする。

 当初、直親はどうにでもなると強がりを言っていた直盛だった。
ところが、どんどん予想に反してしまった。
直(なお)親(ちか)は、井伊家宗家ではなく、分家の奥山家との縁を大切に、結婚し、後ろ盾とした。
明らかに宗家に対する謀反だったが、直盛は事前に止めることが出来なかった。

 直虎にこれまでの経緯を説明し、運命の皮肉を呪いながら「直親はもう駄目だ。後継は姫しかいない」とため息をつくことが増えていく。
直虎も父の期待に応えたいとのこみ上げる思いがあるが口には出せない。
 出家しても自由を束縛されることはなく、再々井伊谷城に戻って父母との時間を過ごし、家中の様子、重臣のそれぞれをよく見ている。
当主としての任を果たせる自信がある。
それでも、今は静かに、父、直盛の決断に従うと決めている。

 直親が戻る前のことだが、父は、松源寺での直親の行状を聞き「直親はあきらめた。義兄(新野親矩(にいのちかのり))の嫡男を後継にする」と話したことがあった。
今川氏に縁のある直虎のいとこであり、義元が納得できる婿になるはずだった。
だが新野親矩(にいのちかのり)には姫ばかり生まれ、嫡男はなかなか生まれなかった。
ようやく生まれた嫡男、甚五郎は直虎より一〇歳も年下で、婿養子には不適だった。

 そこで、父は、新野親矩(にいのちかのり)に「相応の養子を迎えて欲しい。(直虎の)婿にする」と打ち明けていた。
主君筋の養子であれば、実子を差し置いて嫡男とすることはよくある事であり、直虎の婿となるにふさわしく、義元も納得するはずだ。
新野親矩(にいのちかのり)も喜んで合意し義元に養子を願ってくれたが、義元は動かなかった。
 
 義元は「(直虎を)早く、駿府に連れてくるように」言うのみだった。
自分の目で「どのような姫か」と確認したく何度も催促した。
だが、義元の動きに先手を打って直虎は、仏門に入り動かなかった。
 義元は、直虎の出家を強く追及しなかった。
直盛と新野親矩(にいのちかのり)は力を合わせ義元に忠誠を尽くしており、義元に当面の不満はなく、井伊家後継を急ぐ必要はなかったからだ。
万が一、直盛が亡くなっても城代を派遣し治めればいいのだ。
それから当主を決めても遅くはない。
井伊家を直轄領にしたい思いが強まっており、当主を決める必要がなかった。

 直盛は、新野親矩(にいのちかのり)の縁から直虎の婿を迎えたかったが、暗礁に乗り上げた。
やむなく、問題のある直親だが、直親と直虎との結婚で後継とすることが、井伊家中の皆が望むことだと、振り出しに戻す。
その思いを推しはかったように、義元は、後継者の決定を先延ばしとした。
 慎重に練った直親の井伊谷入りであり、予想通りに進んでいたが、直親は裏切った。
許せず後継から外そうとする。

 かって、一門、中野直由の嫡男、直之と直虎を結婚させたいと思った時もあった。
あの時、義元に願っていれば、実現できたかもしれない。
直親にこだわりすぎたのが、大きな失敗だったと、情けなくなる。
中野直之は、すでに結婚していた。

 直親の離縁が、難しいことを確認すると、再び、新野親矩(にいのちかのり)に養子を迎えさせて、その子と直虎の結婚で後継とするしかない。
今度は、直盛が直々に義元に井伊家の内情を話し「直親を離縁し、(還俗した直虎)娘と新野親矩(にいのちかのり)の子との結婚」を願った。
義元は、直親を隠していた不満はあったが自明のことであり、直親が後継から外れることには納得した。
だが、また、井伊家後継を急いで決める必要がないと、答えはなかった。

 直盛は、義元が動かないことにいらいらしつつ、時間がたつ。
直虎は次第に結婚適齢期を過ぎ、子を産むには遅い年になっていく。
どうしても直虎に婿養子を迎えさせたくて、新野親矩(にいのちかのり)に養子を急ぐように強く言う。
 家中には直親を後継とするとは言わず、直親を直虎の婿養子とすると表明したままの状態が続く。
直親の結婚は公にはなっていない。
直盛が認めていないからだ。

 直虎は、無関心で余裕だった。
直親が直虎を裏切ったのは、侮辱であり、許せないが、直親との結婚が井伊家に必要とは思えなくなっていた。
直親とは結ばれないと、どこかでいつも思っていたような気がする。
これで良いのだ。
僧として生きるもよし、還俗して義元の推める結婚をするのもよしだった。
 南渓瑞聞(なんけいたんぶん)のすべてを学びつくすと、悠々と修行を続けた。
中野直由の妻や娘らが常に側におり、父母との連絡は絶やさず、再々会いに行く暮らしは変わらない。

 直盛と直親に緊張感が続いたまま、五年が過ぎる。
義元は動かなかった。
直虎に井伊家を継がそうとはしなかったのだ。
直盛は苛立ちながらも、義元の信頼の厚さを感じており、必ず、事態は好転する、直虎が認められると信じた。

 そんな中、一五六〇年、桶狭間の戦いが起きた。
直盛は、今川義元に従い、先鋒の大将となり出陣した。
義元は直盛を信頼し、重要な役割を任せた、井伊勢の強さゆえだ。
だが、義元は織田信長勢により殺される。
今川勢はちりじりになり一目散に逃げた。

 その時、直盛は生きていた。
従う家臣は「逃げ切れる可能性に賭けるべきです。すぐに、国元に戻りましよう」と口々に進言した。
だが、義元の信頼を得て今川勢の重要な一翼を担っての戦いであり、義元が討ち死にしたからと見捨てることは出来ない。
逃げるのは恥だと覚悟を決めた。
 織田勢に囲まれており、与えられた役目を全うする責務を捨てきれなかった。
信長勢に戦いを挑み戦死だ。
その前、中野直由に井伊谷城を守るように言い残した。

 小野政次の弟、朝直も奥山朝利の嫡男、朝宗(ともむね)も共に討ち死にした。
兵力が少なく勝てる見込みがなかった信長勢が、大軍を擁した今川勢を討ち破った画期的な戦いが、桶狭間の戦いだ。
信長が、天下人への道を歩むきっかけとなった戦いでもある。
 だが、井伊家は、当主以下、重臣一六名が直盛と共に戦死し屋台骨が崩れた。
以後、井伊氏は弱体化していく。
 直盛が亡くなり、直虎と新野親矩(にいのちかのり)の養子との結婚は、消えた。


九 直親、井伊家当主に
 直虎は、父、直盛五四歳を失った。
なぜ必死で逃げなかったのか、わからない。
義元との親密な関係をよく知っていたが、何よりも直虎のために生きなければならなかったはずだ。
武将の生き様を直虎に教えていると思うが、許せない。

 この時、直親は、二四歳、当主を引き継いでもおかしくない年齢だった。
だが、直盛は、直親を支えるようにとは遺命せず、井伊谷城を中野直由に託した。
中野直由は、主君の遺命だと井伊谷城代となり、井伊家を率いる。
直盛は後継を指名せずに亡くなっており、後継当主を誰とするか紛糾する。

 それまで、出家した直虎のいる龍潭寺(りょうたんじ)に、中野直之・小野朝直がよく来ていた。
一族が直虎に仕えているからだが、世の情勢・義元の近況を話し、井伊家の戦いぶりを自慢した。
彼らとの話は面白く、直虎も楽しみにしていた。
ときには剣術の立ち会いも行い、幼いときのままの主従関係が続いていた。
 小野朝直の死は辛い。
ただ小野氏との関係が薄れていくのは間違いないと思え、何かの暗示だとも思う。

 彼らの義兄でもある奥山朝宗(ともむね)も直虎に会いに来ていた。
朝宗(ともむね)は「(直盛が)直親を正式に養子にするように口添えして欲しい」と再々頼むが、直虎は何も答えなかった。
父、直盛は、直虎に婿を迎える気持ちが変わっていないことをよく知っていたからだ。
中野直之・小野朝直は、直虎を裏切った直親に許せない思いを持っており、知らん顔だ。

 直親は、早く、直盛の養子になり井伊城屋敷に入り、後継として力を奮いたかった。
家中に後継だと表明し、家中を率いるべく準備を始めたかった。
だが、直盛からの連絡はない。
 時が経ち焦り、朝宗(ともむね)ではらちが明かないと自ら龍潭寺(りょうたんじ)にいる直虎を訪ねるようになっていく。
直虎には直親を当主に推す気はなく世間話しかしない。
静かに父の決定を待つだけだ。
 直親に「思いがあれば、父、直盛にまっすぐに、素直に願えばいい」と答えた。
直親は、直盛に素直に接することはできず、不安定な身のまま、いらいらと時を過ごす。

 そんなときの直盛の死だった。
直虎には、父の死は受け入れられないほどつらく、悲しかった。
「私を一人残して、あんまりだ」と胸が張り裂けるようで、父に恨み言を言った。
だが、悲しんでばかりはいられない。
 父は、直親ではなく、直虎に井伊家を託したのだ。
中野直由に後見人となることを命じたことがその証だと。
父の遺命、井伊家を守らなければならない責任の重さを、辛いが、受け止めるしかない。

 直盛の偉大さがよく分かるその後の家中の紛糾ぶりだった。
直虎の存在が大きく比重を占めており、直虎の決断を皆が待っている。
今川家も混乱しており、今なら、還俗し、婿養子を迎える事ができるかもしれない。
だが、そんな悠長なことでは、井伊家は立ち直れない。
今、求められるのは、井伊家をまとめられる大義のある後継者だ。
残念ながら、直虎ではない。

 父の思いではなく、家中の大勢を冷静に見つめる。
そして、井伊家当主への道を断ち、けじめをつけるべく、発言する。
直(なお)親(ちか)が当主になるべきだと強く推した。
 二四歳で人生最大の別れを経験し、世の無常を知り、信仰への思いを深くする。
出家していてよかったと思う。

 ここで、直盛の意向がどうであれ後継は、直親だと家中は一致した。
直親は「ついに天は味方した」と興奮、涙をにじませた。
井伊谷に戻っても、直盛の養子と認められることはなく不安定なまま捨て置かれた。
ひよがいればこそ耐えたが、あまりにつらすぎた。
ようやく、長い忍従の暮らしが終わった。
 奥山氏・鈴木氏・新野親矩(にいのちかのり)らが、すでに二四歳になっている直(なお)親(ちか)を早く当主とし、井伊城屋敷に迎えるべきだと言い、すぐに迎え入れられた。

 こうして、直親は井伊家当主となり、井伊城屋敷入りをする。
いつかこの日が来ると信じてはいたが、あまりに急な展開で信じられない思いだった。
一番信頼していた朝宗(ともむね)を亡くしたことはつらかったが、朝宗(ともむね)が死と引き換えに直親を当主としたのだと心する。
こうして、今川家中が混乱している最中、直親が井伊家当主となり既成事実を作った。

 直虎は、父が悩んだこの五年間を不思議な思いで見つめる。
直親がなぜひよと結婚したのか、今もはっきりとはわからない。
直虎との結婚に息苦しさを感じ、結婚しなくても当主になれると確信したのだろうが、井伊家の為に父の意向を大切にすべきだった。
直盛の意向に沿い家中の総意を得て当主となることが、目指す名君の第一歩のはずなのに、直虎の推挙でようやく当主になったのが、現実だ。
マイナスからの出発になったことを肝に銘じて欲しい。

 そして、奥山朝利の底知れない野心があちこちに垣間見えて、戦慄を覚える。
朝利は縦横無尽に見事な結婚を実現し、井伊家中の大半に影響力を及ぼす力を持っていた。
 井伊家中で今、重要な位置にいる叔父(母の兄)新野親矩(にいのちかのり)の妻は朝利の妹。
 筆頭家老の弟、小野朝直の妻は娘。
 父が婿養子としたいと考えた中野直之の妻も娘。
彼らの結婚は、直虎が出家してからだが、父、直盛は、事後承認しただけだ。
この頃、直盛は直虎を直親と結婚させようと考えており、朝利のあまりの手回しの良さに驚くことはあっても、別段、井伊家に不利益はないと結婚を認めた。
いずれ、直虎・直親の家老となる二人であり、井伊家一門として結束を強めることになると疑いを持たなかった。

 ところが、直親は直虎と結婚せず、朝利の娘、ひよと結婚した。
直盛は怒り直親に別れるよう命じたが応じなかった。
その時、父は、朝利の野心を見た。
朝利が、直親を取り込み、勝利の笑顔を振りまいているのが、腹立たしく、無念だと悔いた。
そんなこともあり、直親に家督を譲らなかったが、父、直盛は討ち死にした。

 直親も悩み苦しみながら日を過ごした。
ひよと結婚し落ち着きは得たが、結婚すべきでなかったとの思いを捨て去ることはなかったのだ。
直虎と結婚すべきだったとの思いが消えない。
 日が経ち、直盛からの音沙汰がなくなると、誠意を尽くして直盛の指示に従うしかないとの思いが、増していた。
結局、直盛に思いの丈を訴えることがないまま、別れてしまった。

 そんなこともあり、直親とひよとの間に冷たい風が吹くときも多かった。
直親は早熟で精力は旺盛だった。
松源寺で謹慎中も、一時の女人との逢瀬は盛んで、貴人として風雅を楽しんだ。
見かねて、守役、今村正実が、塩沢氏の娘、千代を迎えた。
千代が仕えるようになると、すぐに二人の子が生まれ、我が子と認めた。
他にも子が生まれた可能性も高いが、謹慎の身であり認めていない。
 つまり、直親には、子種が多いのだ。
だが、祝田の屋敷ではストレスがたまるばかりで、ひよといつも褥を共にするまでにはならず、共に暮らしていても、なかなか、子は生まれなかった。

 二人は、不仲ではなく、ただ不安定な心情の中におり、仲睦まじく過ごすことが少なく子が授からなかった。
子の出産を期待していた奥山朝利は、二人の仲を心配し、龍潭寺(りょうたんじ)に参るように言う。
龍潭寺(りょうたんじ)に参ると二人共、心落ち着き、未来に希望が持てるようになっていく。
そして、子が授かるように祈願する。

 次いで、直虎に面会を願い、二人の結婚と直親の家督受け継ぎを、直盛に推して欲しいと直虎に話す事が増えた。
直虎は、対面を拒否することはないが、通り一遍のよもやま話で終始した。
それでも、直虎の野心のなさを確認し、二人の心は落ち着いた。

 こうして、一五六〇年の正月、直親は、新年の挨拶に龍潭寺(りょうたんじ)を訪れ、ひよとともに子が授かるよう祈願した。
そしてまもなく、二人に幸運が訪れ、直政が授かったという話が残る。
井伊家の始まりと共通する微笑ましい夫婦愛を物語る奇跡のお話だ。

 直政が生まれたのは一五六一年三月四日。
義元と共に直盛が亡くなったのは一五六〇年六月一二日。
子の受胎期間は二八〇日。
ちょうど、直盛の死を聞き感動し、思わず抱き合っての受胎としても、可能な妊娠出産だ。
 しかも、結局、結婚生活七年で直政だけしか生まれていない。
精力絶倫の直親にしては、あまりに少なく、家督を継ぐ前も、継いでも不安定な精神状態が続いた証でもある。
夫婦仲は悪くなくても、緊張と不信感があった。

 直親は、直盛から井伊家後継となり家中に公表されること。
     直盛に従い共に井伊勢を率いて戦うこと。をずっと願っていた。
そして、家中の賛同を得て、井伊家を継ぐ夢を描き続けた。
だが、直盛の急死で、すべてを通り越して、当主になってしまった。
嬉しいが家中の総意とはなっていないことが身にしみている。

 待ちくたびれた当主の座が転がり込んできた直親。
家中の総意ではなくても、描き続けた名君の姿があった。
そこで、時が来たと震えながら、矢継ぎ早に政策の実行を命じた。
だが、思いを汲んで指示に従う優秀な腹心はいなかった。

 奥山氏や母の実家、鈴木家・直盛に付けられた松下清景などを中核に強力な家臣団を作り上げようとしたが、できなかった。
直虎の婿養子でなく、長年井伊家を離れており、重臣たちと緊密な主従関係を築けなかったのだ。
結果、命令を声高に叫んでも統率力は発揮できない。
とくに、義元・氏真から送られてきた今川系家臣が冷ややかだった。

 直親は、嫡流ではない出自であり周囲の顔色を窺い、和を重んじる性格が身についていた。
どこか引け目があり、積極的に主導権を発揮できなかった。
それでも、井伊家のあるべき姿を模索し、思いは膨らむが、力強く、率いる事はできない。
 中野直由は支えてくれず、義父、奥山朝利を頼りとするしかないが、朝利は、直親の指示には従わない。
結局、小野政次が政務を取り仕切っていくのを、どうすることもできない。
自力で道を切り開けないもどかしさを引きずる井伊家当主としての毎日だった。

 義元は、小野政直の死後、嫡男、政次を井伊家筆頭家老とし強力に支えた。
だが、直盛は政直の死に乗じて、小野氏に従う側近を除いた。
その為、若き政次を支える人材が不足し、直盛に太刀打ちする政治力を持ちえなかった。
直盛は、政次を適当にあしらいながら当主としての力を奮い、しかも、義元の意に叶う働きをした。

 義元の死で今川家は嫡男、氏真が継ぎ井伊家は直親が当主となり、新しい世代となる。
すると、小野政次が息を吹き返した。
かっての側近を戻し、今川氏に近い家臣をまとめて率いた。
 氏真は、承諾を得ることなく直親を当主にした井伊家中を責め、政次の強力な後ろ盾となり、干渉を強めていく。
直親と比べると、直盛とせめぎ合い力をつけた政次の政治的力量ははるか上だった。
政次は強力な指導力を発揮し、井伊家を率い、直親に対抗するすべはない。

 氏真は、その様子を知り、直親を思うままに動かせると安堵する。
当主の交代よりも、このまま井伊氏の戦力を有効に使い、今川家を守るのが得策と頭を切り替える。
義元亡き今川家は凋落していくが、桶狭間の戦いの後しばらくは、まだ健在だった。
 だが今川氏と決別した家康が一五六二年、織田信長と正式に同盟を結ぶと事態は変わる。
信長・家康連合軍は、飛躍的に力を増し氏真は追い詰められていく。

 直親は、氏真に従いつつも、家中をまとめられず、政次の専横を防げずストレスが溜まるばかりだ。
その時、家康から臣従するようにとの申し出を受ける。
鈴木氏・松下氏は家康に従おうとしており、直親にも薦める。
次第に、直親も氏真と離れ家康に従うことは井伊家の安泰に通じ、当主としての権威を見せることになると考え始める。

 こうして、家康方との接触が始まる。
だが、直親の動きは、慎重さが足りなかった。
隠密裏に進めた交渉のはずが、入り組んだ親戚関係があり、情報が漏れ、すぐに、小野政次が感づく。
政次から氏真の耳に入り、氏真は、直親の行状を詳しく調べるように命じる。
筆頭家老として井伊家中をまとめる政次は、詳細に調べ自信をもって「直親殿は家康に内通している」と報告する。

 家康への内通を確信した氏真は、直親に「駿府城で身の潔白を示すよう」命じる。
より一層の覇権を狙う政次は、直親に氏真との対面の必要性を説き、駿府に行くべきだと進言する。
新野親矩も氏真の命令を受け、直親に井伊家当主としての対面は必要と勧めた。

 人質としての駿府入を何度も迫られた直虎は、父、直盛の苦悩の表情を見ており、戻れなくなるかもしれないと「行くべきではない」と引き留める。
だが、直親は「いまだ氏真殿に目通りしていない。井伊家当主として会う必要がある」と対面を決めた。
直虎は、今川家の凋落ぶりをよく知っており、尋常でない氏真の猜疑心を恐れたが、直親は、井伊家の存在が今川氏の大きな支えになっているとの自信があり、聞き入れなかった。

 家康の申し出を聞いただけであり、氏真を裏切ったわけでなく、家康の動きを氏真に知らせるのは、井伊家にとっても益があると楽観視していた。
氏真に対し誠意を持って答えれば、釈明が受け入れられると信じていた。
 父の死が思い浮かぶが、氏真にとって重要な戦力、井伊氏の当主である直親を敵にしたくなく、信頼したいはずだと思う。
また、当主が氏真に殺されるようなことがあれば、井伊家中は黙っていない。
氏真がそんな危険を冒すはずはない、と決めたのだ。

 次はどのような陣立てで駿府入りするかだった。
今川勢の主力となる井伊家当主としての威容を見せるため、多くの兵を引き連れるか、今川家に従う忠誠心を見せ少人数で、駿府入りするか、悩むところだった。
気の弱い直親は、忠誠心を見せつつ氏真と信頼関係を築くべきだと決め、主従一九人の少人数で出立した。

 ところが、配下の国人衆の離反に、頭を悩まし苛立っていた氏真は、ここで駿府の支配者、今川家を率いる当主として、存在感を見せつけようとする。
今川勢の結束と締め付けを図るためだ。
 直親に高圧的に釈明を求めつつ、友好な関係を続けたいと意思表示していた。
つまり、身軽に来るようにとの思いからだった。
直(なお)親(ちか)勢の少なさを確認すると、策が成功したと会心の笑みを浮かべた。

 そして、今川家重臣、朝比奈泰朝に「直親一行を駿府城に入れる必要はない。直ちに討つよう」と命令する。
直親の裏切りを確信し、怒り心頭だった朝比奈泰朝は、直親一行の動きを確認すると、兵を率い領地の掛川城下で取り囲んだ。
ここで「直親を殺せ」との氏真の命令を実行した。
ほとんど無防備の直親は一五六三年一月八日、満足に戦うことも出来ず無様(ぶざま)に殺された。

 井伊家中は動揺したが、朝比奈泰朝・氏真を討てとの声は湧きあがらなかった。
井伊家当主、直親の死は、軽かったのだ。
氏真の恐怖政策が、行き渡っていたこともあるが、直親は、家中の尊厳をそれほど得ていなかった。
 家中の話題は次の当主がどうなるか、井伊家の行く末はどうなるのかで持ちきりになる。

 この報を聞いた直虎は冷静だった。
直親は、追い詰められると安易な道を選び、筋を通し先頭立って道を切り開くことなく、黙ってしまうのだ。
逃亡中、十分な教養を積み、天賦(てんぷ)の才にも恵まれ文人として誇りを持ち、名君になる自信を持っていたが、直盛の死から始まった井伊家存亡の危機に対峙する気概はなかった。
 父、直盛は、義元に忠誠を誓い戦いながらも、井伊家の意地を見せつけた。
それゆえ、直虎を人質に出すことなく守ったのだ。

 比べて、直親は、家康との同盟を望み、緊張感なく家康の使者と会った。
それゆえ、秘していたつもりだったが、政次に筒抜けとなった。
家康方と接触するだけでも裏切り行為と見なされるのだとの緊迫感と責任がなかった。
 義元の死後、井伊谷をめぐる状況は刻々と激しく動いており、いつ何が起きるかわからない状況だ。
直虎は、危機意識の少ない直親に注意を促したが、直親は奥山朝利を信頼し、直虎の言葉を軽く聞き、状況認識が甘かった。
そして、のこのこ出向き殺された。

 氏真は、直親の殺害だけでなく、謀反人の遺児、直政も同罪であり、殺せと小野政次に命じた。
直親の駿府行きを心配し行方を見守っていた城代、中野直由は、直親の死の知らせを受けるとすぐに、祝田に居るひよ・直政母子をひよの実家、奥山氏の屋敷(浜松市北区引佐町奥山)へ逃れさせた。
危機一髪だったが、逃げおおせた。

 小野政次は、直親の屋敷を、監視していた。
だが、軍勢で囲む前に逃げられた。
それでも行く先は、奥山氏屋敷だと確かめた。
すぐに追手を奥山氏屋敷に向かわせ、奥山朝利に直政を引き渡すよう命じた。

 当主、奥山朝利は、娘婿、直親が当主になり、嫡男、直政が生まれ、井伊家当主になるはずだと、得意絶頂だった。
そんな中で知った直親の死。
氏真が直親を殺すとまでは考えていなかったため、衝撃だった。
すべきことは直政を助けることと迎えを出し、中野直由と打ち合わせの後、すぐに、屋敷に引き取った。

 ところが、戦いの準備が十分にできないうちに、小野政次の軍勢が来た。
追及は予想外に厳しかった。
しかも絶対に渡してならない大事な宝の子、直政の引き渡しの命令を、高飛車に伝え、迫った。
 朝利は、覚悟を決め、絶対に渡さないと決意し、直政を逃がす。
そして、自ら奥山勢を率い先陣となり戦う。
だが、準備を整え、朝利に成り代わろうと必死な小野政次の軍勢は強く、戦いぶりも見事だった。
準備不足の朝利は、討たれて亡くなる。

 井伊家を率いる中枢の武将と婚姻網を築き上げ井伊家中に怖いものなしと、豪語した奥山朝利だが、あっけなく、一月一八日、直親の後を追うように殺された。
小野政次には、直親と共にどうしても排除したい井伊一門衆であり、一歩進んだと安堵した。
だが、直政を逃してしまった。
夢見る直虎との結婚、井伊家を率いる道はまだまだ遠い。
 
 直親の死で井伊氏宗家は揺れる。
直虎は、父の死では責任を果たすべく、発言したが、その後は、僧としての修行に励んでいた。
 直虎が動かないと、宗家を率いるに足る人物は、八四歳になる直平しかいない。
直親の曽祖父だが、驚異的な知力・体力があり、衰えていない。
それでも、直親に対し不安に思っていたことが、現実のこととなり、慌てた。
じっと井伊家の将来を思い考え込む。

 家中をまとめられるのは直虎しかいないと見定め、共に直政の成長を見守り、井伊家再編を始めようと直虎に申し出る。
直虎も、真摯に願われると断れない。

一〇 直虎、井伊家当主に
 直虎は、中野直由からの知らせ「謀反人の遺児とされた直政殿を捕らえようと追手が来るので、奥山屋敷に母子とも逃がしました」に驚き、事態の広がりに恐怖した。
直(なお)親(ちか)の後継は、嫡男、直政しかいない。
まだ二歳にならない幼子だが、唯一の後継だ。

 一五五五年、結婚したひよ。
すぐにでも嫡男が生まれると思われたが、子は授からなかった。
直盛の死後、ようやく、授かったのが直政。
ひよは歓喜したが、井伊城屋敷は落ち着かないと、慣れ親しんだ祝田屋敷に戻って、一五六一年三月、直政を生んだ。
直虎や家中の反感を買っていることが痛いほど分かっており、井伊城を避けた。
 
 そんなこともあり、直政の誕生を、家中を上げて祝福することはなかった。
密やかに生まれたのが、直政だった。
 以後、ひよは、井伊城屋敷には行事のある時しか行かず、直政を祝田屋敷で手ずから育てていた。
直虎の元には、折々の行事に連れて来て、顔を見せている。
直政が、直親の後継であることを直虎に知らせることは必要なことだったからだ。
 直虎が、直政を直親の後継だと認めてくれれば、直親を引き継ぐ事ができると考えていた。
井伊家中では、直虎は絶対的存在であり、二人ともおろそかにしなかった。

 直虎は、本来自分が生むべき子だったかもしれないと思うと複雑だが、当主の子が生まれたことを認めることで家中がまとまると考えた。
だが、直親は慎重で、井伊城屋敷に直政・ひよを迎え入れることはまだ先だとした。
当主として家中の総意を得ている自信は最後までなかったのだ。

 ひよは、自分のことを押しかけ、強引に結ばれた妻でしかないとよく知っている。
懸命に直親を支えたが思いはどこまで届いたか、常に二人の意思が一致していたかどうかわからない。
宗家当主の妻と嫡男として、宗家屋敷に入りたかったが、まだ入らないうちに直親は亡くなってしまった。
もっと堂々と、ひよと直政を公にしてほしかった。
危険な目に会わせたくないとの心遣いかもしれないが、直親は、殺された。

 直虎も、直親が駿府に出向くと決めた時、もっときつく止めるべきだったと悔やんでも悔やみきれない。
義父、直満と同じ運命が待っていると感じていたのだ。
 直親は、当主、直親と父、直満とは立場が違い、氏真がおろそかにするはずがないと笑って出たが、心配でたまらなかった。
やはり、不安が的中した。

 ひよも心配していた。
そして直親死亡の知らせが、中野直由から祝田屋敷に入った。
信じられなく呆然としたが、直政にも危険が迫っていると言われ、我に返る。
やむなく、取るものも取りあえず実家に戻ることにした。

 直虎は、小野政次の軍勢が押し寄せる奥山屋敷では直政を守り切れないと、直政の命を守るために、すぐに動く。
そこで、政次が襲う直前、朝利と仲が良い新野親矩(にいのちかのり)と母の名を使い、ひよと直政を引き取ったのだ。
朝利も、軍勢が来ることを知り、新野親矩(にいのちかのり)に母子を託した。
直政母子は、奥山屋敷から逃げ、直虎の母、祐椿尼の住む庵、松岳院(龍潭寺(りょうたんじ)内にある塔頭)に駆け込み匿われる。
 政次が、直虎の住まう龍潭寺(りょうたんじ)に攻め込むことはないからだ。
直虎は、井伊家中では、特別の存在で、侵してはならない井伊家守りの神だった。

 それでも、奥山勢をなぎ倒し、朝利を討ち取り奥山屋敷を占拠した政次は勢いづいた。
龍潭寺(りょうたんじ)の門前まで来て、謀反人の子、直政の引き渡しを求める。
だが、武力で、龍潭寺(りょうたんじ)に攻め込むことはなかった。
占拠することはなく、強固に引き渡しを求めただけだった。

 直虎は、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)らと直政を守るすべを話し合う。
直政を捕えようとしているのは政次だ。
命令を出した氏真は、直接手を下す気はなく、戦力の余裕もなく、すべて政次に任せている。
 氏真は直(なお)親(ちか)を殺し満足し、後継を直政とする考えはなく、関心は薄かった。
井伊谷を直接支配すると決めており、特に焦ってはいない。

 直虎は種々の角度から状況分析し、氏真の祖母、寿桂尼(じゅけいに)に嘆願すれば道はあると考える。
今川一族である母、祐椿尼(ゆうちんに)は、寿桂尼をよく知っている。
母、祐椿尼の兄、井伊家への監視役、新野親矩(にいのちかのり)は、井伊家重臣の一角を占めており、直虎の思いを理解し、積極的に動く。
 母、祐椿尼が、直政の命を守って欲しいと寿桂尼に直訴する。
そして、新野親矩(にいのちかのり)が、今川一門として氏真に忠節を尽くすが直政の命は守りたいと願う。
あらゆる伝手を動員し「直政の助命」を寿桂尼に働きかけた。

 寿桂尼は、井伊家の戦力・政治力・家格などなどで今川勢の中で重要な位置を占めていることをよく知っている。
直政を殺せば、家康方に傾いている配下の遠江衆・国人衆が雪崩を打って取り込まれるはずだ。
それより味方に留める事がより有効だと、申し出を了解した。
 義元がいた時の今川家ではないことを、寿桂尼は、厳しく受け止めていた。
今は、今川家の家名を守り、存続させる道を模索するしかなく、敵を多く作らないよう氏真に命じる。

 氏真も祖母の命令には逆らえず、渋々了解したが、直政は氏真の一存でどうにもできる謀反人の子であり、井伊家当主とはしないと言い渡した。
 新野親矩(にいのちかのり)は、遠江城東郡新野村(静岡県御前崎市新野地区)から井伊谷の屋敷に本拠を移しており、その屋敷に直政母子を引き取り、監視しつつ育てることが認められた。
以後、直政母子と共に暮らす。
 直政を身近に見るようになると、直政の優秀さに驚く。
直政を養子としたいと思い始める。
直政の養父として井伊家を率いるのも悪くない。そんな日が来るかもしれないと夢が膨らむ。
直政を可愛がりよく面倒を見て、直政もなついた。

 小野政次は、氏真から直政を追うことは止めるようにとの命令を受け、直政を追うのを断念する。
まず直親亡き、井伊家中をまとめ、筆頭家老として井伊家を主導することが急務だと。
 そのため、形式的な井伊家当主が必要だった。どうするか考える。
嫡流の血筋を継ぐ者は直平と直虎のみで当面、二人を当主と見なすことにする。
直虎との結婚で、当主になる道を頭に描きながら、直政の動向は静観することにした。
 政次は、死別したが、新野親矩(にいのちかのり)の娘と結婚し、新野家とは親しい関係だ。
直政はどうにでも出来ると思え、了解した。
 
 直平は「当主は直虎」と決めていた。
井伊家をまとめられるのは、直虎しかいないと、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)ら一門衆に図ると、皆、文句なく大賛成だった。
直虎は、いずれこんな日が来ると予感していた。父も見守っていてくれると思えた。
きっと唇を結び重々しく直平に「御指導お願いします」と承諾した。
直政が成長し引き継ぐまで井伊家を守ると心に誓う。

 こうして、直虎が、皆の思いに応え当主となり、中野(なかの)直由(なおよし)が直親と同じように後見する。
続いて、直虎は、直親の意を尊重し、氏真派の小野氏ら重臣を慎重に排除し、氏真に敵意を持つ重臣と協議し、家康に従い、井伊家を守ると決める。
 ここで、直虎が当主になることが一門衆の意思だと政次に賛成を求める。
一五六四年、政次も直虎なら扱いやすいと賛成した。

 家中には、直親を無残に殺した氏真への憎しみが残っている。
直虎も、直親の無念さを思うと耐えがたく、家康に忠誠を誓う決意を固めていたが、直政の助命嘆願を受け入れた氏真を直ちに裏切ることは出来ず、今川氏忠臣の風を装う。
 また、直親が無防備に家康に近づいていた事実もしっかり受け止める。
政次を許すことはできないが、事実を氏真に告げただけであり、直親の謀反の動きは間違いなかった。

 直虎を支える一門衆は、直親の死でかなり変わった。
直虎が脅威に感じ、井伊家中で圧倒的存在感を誇った奥山朝宗(ともむね)・朝利が亡くなり、奥山氏は脅威ではなくなった。
朝利の後継、朝忠はまだ幼い。
 朝宗(ともむね)の叔母は、叔父、新野親矩と結婚していた。
朝宗(ともむね)の姉は、井伊氏家老、鈴木重時と。
朝宗(ともむね)の妹は、直虎と気の合った小野政次の弟、朝直と。
同じく朝宗(ともむね)の妹は、父、直盛が後を託そうとした中野直由の嫡男、直之と。
同じく朝宗(ともむね)の妹、ひよは、直親と。
他にも、奥山家に価値ある結婚をした娘たちが居る。

 奥山氏は、井伊家を支える主力武将と縁続きとなり覇権を確立した。
直虎は、どうしてこのようなことが実現したのか、朝利・朝宗(ともむね)の手腕と野心の大きさに驚いていたが、二人とも志半ばで直虎の前から消えた。
直親も小野朝直も逝った。
こうして、井伊家一門に直虎に敵対する者はいなくなり、直虎が当主になった。父との冗談が現実となったのだ。
父の愛に包まれながら進むしかない。
一門衆、新野親矩・南渓瑞聞・中野直由に支えられ直平と共に小野政次・氏真との敵対を避けつつ井伊家を守る。

 小野政次は氏真に了解を求め、直虎が井伊家当主になる事に了解を得た。
その時、氏真は、直虎と井伊家の忠誠心を試したいと、条件を出す。
直平に、氏真を裏切り家康に従った今川家重臣、天野氏を討つように命じたのだ。
直虎は直平の体調を気遣い「出陣すべきではない」と止めるが、直平は笑いながら「大丈夫だ」と答えた。
そして、井伊勢を率い天野氏居城、犬居城(浜松市天竜区)攻めに出陣する。

 天野氏は、藤原南家工藤氏の一族。
藤原不比等の子たちから始まる藤原四家の一つで、長男の系統になる。
朝廷内では藤原式家が圧倒的力を持ったが、藤原南家は武家となり栄える。
 頼朝の側近となり平家討伐で功を上げ、鎌倉時代以降、遠江国、三河国、安芸国などに分家し、勢力を伸ばす一族がいた。伊豆国田方郡天野郷(伊豆の国市天野)に在し、天野と称した。
 南北朝時代、遠江守護、今川氏と結び、有力遠江国人となり犬居城を築き、今川氏重臣となったのが、天野氏宗家。
義元亡き後、天野景泰.元景親子は家康に近づき、氏真を裏切る。

 直平率いる井伊勢は、途中、曳馬(ひくま)城(浜松城)(浜松市中区)で休憩する。
天野氏は古くから付き合いのある国人だ。
井伊家も家康に通じており、味方なのだが、氏真の命令で戦うことになった。
戦う意志はなく、降伏和議を勧めるための出陣だった。
高齢の直平をもてなしたのが、曳馬城(浜松城)主、飯尾連竜(いいおつらたつ)の妻、椿姫(お田鶴の方)。

 飯尾家にも、井伊家にも家康からの調略の使者が、次々来ていた。
直平は、飯尾連竜が家康に臣従するべく内々に打ち合わせをしているのを知っている。
そこで「井伊家も氏真殿と合い入れないものを感じている。両家の思いは同じだ」と暗に氏真を裏切る思いを示しながら、天野氏を討つことに力が入らないと話し、くつろいだ。

 直平の晩年の妻は、飯尾一族、貞重の娘だ。
妻を愛する直平は、飯尾家と親しくしており、気を許した。
 お田鶴の方は今川家を裏切るつもりはない。
そのため「直平殿は今川家を裏切る」と直感し許せず、直平の油断に乗じて毒を盛る。
 一五六三年一〇月五日、直平は、八四歳で急死した。
直親が殺されてからわずか九か月後のことだった。

 直平の妻は、直平の死後、自殺した。
お田鶴の方は氏真から飯尾家と今川家とを繋ぐ役目を命じられ嫁ぎ、今川家のために働くことが誇りだった。
夫、飯尾連竜が家康に傾いていくのを必死で引き留めており、家康に従う武将はすべて敵だった。
直平は、飯尾家が一枚岩でないことを理解しきれていなかった。
 犬居城攻めは、天野一族の景貫(かげつら)が宗家の城主、天野景泰を攻め追放し、代わって城主となり氏真に忠誠を誓い終わった。

 直虎は、支えとしていた直平のあまりに急な死に動揺する。
井伊家の生き字引として尊敬し、亡くなることはないとまで思うほど長命で元気だった。
父の遺志に従い、直平と共であれば、当主の道を進んでいけると考えた自分の甘さを思い知る。
どこにも敵はいるのだ。
慎重に動かなければならないと改めて肝に銘じる。

 直虎は人をあざむく策略が張り巡らされているのが戦国の世だと、実感する。
尼僧として思い通りに修養を積む日々からのあまりの変わりように、当主としての責任を果たせるか、確信が持てなくなる。
将来不安で、落ち込んだ。
すると、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)が父に成り代わったように暖かく「大丈夫。大丈夫。当主になるべき素晴らしい能力を持っておられます。今のままで良いのです」と励ます。
長年側で暮らした南渓瑞聞(なんけいたんぶん)の心のこもった言葉に肩を押され「自分らしくあればいい、おたおたするのでない。気を確かに」と前を見る。
父の背中が見えるように思えた。
 
 そこに、直政の元気な様子が伝えられる。
守るべき幼子が居ることが励みになり、自分のなすべき役目が見えてくる。
直平亡き井伊家を立て直し、いずれ直虎の子となる直政に井伊家を引き継がせるのが、父の望みのはずだ。
直虎が責任持ってなさなければならないことだ。

 だが、氏真は、直平の死だけでは満足しなかった。
次の戦いを命じた。
新野親矩(ちかのり)に家康に与した曳馬城(浜松城)主、飯尾連竜攻めを命じたのだ。
氏真は、井伊勢を信用せず、父であり兄だと慕う三浦正俊に兵を預け監視役とする。

 翌一五六四年、新野親矩(ちかのり)は、井伊勢と共に出陣した。
今川勢・井伊勢が力を合わせ、城を包囲し攻め滅ぼすはずだった。
 だが、直政を育て井伊氏を背負う意欲を持つ親矩(ちかのり)は、氏真への忠誠心は失せており、和議を結び円満に事を収めようとする。
直平を殺された恨みはあるが、首謀者は氏真だ。
今川氏配下だった国人衆は、家康や信玄に傾いており、今川氏からの離反が続いている。
 飯尾連竜と思いは同じであり、戦っても得るものはないと思い込み、戦いも様子見の状態だった。
 
 氏真を裏切り家康に与する決意はまだ出来ない飯尾連竜も、たちまちは、良い条件での和議がしたかった。
井伊勢の弱気を見て、勝てると確信し、城から討って出て猛反撃を始めた。
 戦う意欲のない井伊勢は翻弄され、井伊勢の大将、中野直由ら井伊家重臣と三浦正俊・新野親矩(ちかのり)は戦死する。
死を恐れず突撃する飯尾連竜は強く、戦う体制を整えられないまま中野直由らは討ち死にしてしまった。

 三浦正俊は監視役のはずだったが戦死した。
氏真は、思惑通り、井伊勢の主力を失わさせることに成功したが、それ以上に、頼りにしていた三浦正俊を失い大きな衝撃を受けた。
戦いを継続する意欲はなくなり、兵を引くように命じた。

 喜んだのが筆頭家老、小野政次。
直虎の後見人ともいうべき中野直由・新野親矩が亡くなり、井伊家中に怖いものはなくなった。
予期しない形で、政次が、井伊家を取り仕切る覇権が出来上がった。
 
 直虎は、頼るべきものをすべてなくした。
それでも、もう一歩も引かないと、悲壮な決意で立ち上がる。
もはや信念が揺るぐことはない。

 曾祖父、直平・祖父、直宗・父、直盛・許嫁、直(なお)親(ちか)・叔父、新野親矩(ちかのり)らを失った恨みを身体中に刻み込み、今川氏・小野氏からの決別を誓う。
もう失敗は絶対に許されない。
 時期が来るまで慎重に政次との対決を避け良好な関係を保ち続けていく。
二五年来の長い付き合いの政次だ。気心は知れている。

 政次にさりげなく氏真から正式に井伊家当主に認められたいと、丁寧に取次ぎを頼む。
氏真は、次々起きる謀反の動きに対応するのが精いっぱいであり、今川家を守ることしか頭にない。
「井伊家が離反しない為なら」と了解する。
小野政次を支えることで、井伊家を支配できると確信していたのだ。
こうして、直虎は一五六五年、還俗(げんぞく)し正式に井伊家当主となったのだ。
名乗りを直虎とし、再び、対外的には男子となった。

 まずすべき事は、親矩(ちかのり)が戦死し、安全な住まいをなくした直政を守ることだ。
親矩(ちかのり)の死が伝えられると、直政を預かっていた親矩(ちかのり)の妻はひよと話し「直政殿の命が危ない。すぐに逃げるように」と急いで親矩(ちかのり)の叔父、珠源和尚が住職の曹洞宗浄土寺(浜松市中区広沢)に直政母子を移らせる。
直虎は、直政の行方を案じていたが、無事逃げたことを確認するとホッとする。
それでも「浄土寺に直政を置くのは、あまりにも危険すぎる」とより安全な地を探すよう松下清景に命じる。

 松下清景は、直盛から直親の筆頭家老に命じられ、直親亡き後、直虎が直政の筆頭家老に任じていた。
以来、緊密に連絡を取り合った。
氏真も直政の動きを知ってはいたが「珠源和尚は今川一門であり、直政はどうにでもなる。後は、政次に任せればいい」と、厳しく直政の命を狙うことはなかった。

 義元が、井伊家の重臣として送り込んだ井伊谷七人衆。
井伊谷七人衆は、筆頭家老、小野氏。続いて井伊家一門の中野氏・鈴木氏。そして松井氏・松下氏・近藤氏・菅沼氏と続く。
このうち、鈴木氏・近藤氏・菅沼氏がいち早く家康に従い井伊谷三人衆と呼ばれることになる。
直虎は、皆と良好な関係を保っていた。

 松下氏は三河碧海(へきかい)郡松下郷(愛知県豊田市)から始まり、嫡流が今川家重臣の之綱だ。
遠江頭陀寺(ずだじ)城(浜松市南区)を居城とした。
松下清景は分家だが、妹が之綱に嫁ぎ義兄弟であり強く結ばれている。
義元から井伊家に付けられ、直盛から直親との取次ぎの家老を命じられ、直親が当主になると家老として勢力を強めた。
また、弟、松下常慶は優秀な修験者であり、家康の側近くで秘密裏の役目を果たしていた。
家康との縁をつなぐ役目もこなす。

 義元は、松下之綱を飯尾連竜(いいおつらたつ)に付けた。
その後、之綱は飯尾連竜に従い今川勢の主要な一翼を占め歴戦を戦い、戦果を挙げた。
だが、義元死後、飯尾連竜は家康の調略に乗り裏切ったと、確信した氏真は一五六四年、攻め込ませた。
 その時、之綱も飯尾連竜と同じように裏切ったとみなされた。
そして、攻めた。
居城、頭陀寺城(ずだじじょう)は今川勢に襲われ、放火され、城は燃え落ちる。
松下之綱は、やむなく城を捨てて、松下家に縁のある三河鳳来寺(愛知県新城市)に逃げた。

 この地は家康の勢力下にあり、帰る城をなくした松下之綱は、家康に従うしかなかった。
松下一族、松下清景は、井伊家重臣であり妹婿とは同心せず氏真に反旗を翻さなかった。
だが、氏真の信頼を失ない、今川家重臣ではなくなった。
以後、今川家に戻ることは考えず井伊家家臣として、直政の守役に徹し、側近くを離れず守る。
 心は、之綱とともにあり、家康に従うと決めていたが。

 井伊谷七人衆・井伊氏一門衆から推され、氏真の了解を得た直虎は、家中を集め「私、次郎法師直(なお)虎(とら)が井伊家当主となる」と宣言。
家中皆、待ち望んでいたことが正式に実現し、口々に喜びを表した。
家中の支持を得て、当主になったことを実感し、感慨深いものがあった。
自信を持って胸を張って井伊家当主になり、後継を養子、直政とする道を創っていく。


一一 井伊谷城主、直虎の治世
 直虎は、心中、今川氏との決別を固く誓っていた。
今川一門に通じる寺、浄土寺にいては、いずれ直政の命が危険にさらされる。
直政を早く安全な地に移らせなければならない。
松下清景に直政が安全に過ごせる地を探すよう命じた。

 松下清景は珠源和尚・南渓瑞聞(なんけいたんぶん)らと協議し、避難先には山深い真言宗三河鳳来寺(愛知県新城市)が良いと進言する。
兄、松下之綱の勧めでもあった。
 標高七〇〇m近い霊山と仰がれる鳳来山の中腹にある鳳来寺。
七〇二年、厳しい修行を積んでいた利修仙人が、文武天皇の病気平癒祈願を命じられた。
そこで、霊鳥、鳳凰に乗って参内し一七日間加持祈祷した。
すると、天皇の病は全快。
喜ばれた天皇により、利修仙人の修行の地に建立されたのが、鳳来寺だ。

 その後、一一六〇年、平治の乱が起き、源義朝は敗れ逃走した。その時、嫡男、頼朝も逃げ、身を隠したのが、鳳来寺。
父は、討たれたが、鳳来寺に入った頼朝は、守られ命を長らえた。
そのご加護に感謝し、鎌倉時代、伽藍を再興した。

 時を経て、家康の母、お大の方が、本尊、薬師如来を拝むために、夫、松平広忠とともに鳳来寺に参る。
お大の方は、病気を治しやすらぎを与えてくれる薬師如来を深く信仰していた。
そして、まもなく家康を授かった。
ご加護に深く感謝した。

 このように三河鳳来寺は、霊山ならではの数々の言い伝えが残る、霊験あらたかな寺だ。
氏真の支配下ではなく、家康の支配下になる。
直虎は、三河鳳来寺の説明を受け、氏真の勢力範囲でなく安全だと納得し、賛同した。
だが、無断で直政を移したことが知られると氏真の仕返しが怖い。
三河鳳来寺に移す時期を、慎重に見定めなければならない。

 直(なお)親(ちか)は家康に傾き殺された。
 天野氏・堀越氏(遠江今川氏)・飯尾氏という遠江の有力国人衆は、氏真を裏切り攻められた。
氏真は追い詰められ、遠江で今も氏真に従っている国人衆の多くは氏真に見切りをつけていた。
だが、駿府に人質を出しており人質に危害が及ぶことを恐れ、やむなく従い、人質を取り戻し離反する時をうかがっていた。
 氏真は、政治手腕もなく、人望もなく、義元に勝利した信長の勢いにあがなうすべはなくない。
信長・家康連合の思うがままになっていく。

 直虎は、直政の為・井伊家の為に慎重に、本心を見せることなく氏真に従い、劣勢になった今川勢の一翼を担い戦い続ける。
氏真に逆らわず意に沿った施策をとりつつ、井伊領の内政に政治手腕を発揮していくと決めていた。
 生まれ育った高台にある井伊谷城から毎日見た井伊谷は豊かで美しく、特色も知り尽くしている。
本来、領民は豊富な農作物を収穫し、豊かに暮らせるはずだった。
だが、戦いが続き、井伊家の財政は底をついていた。
領民の犠牲も大きく、農地は荒れ、収穫は減り、暮らしが生き詰まり、借金でしのぐ農民も増えていた。

 領民の暮らしを立て直し、井伊家再建の道を進むための施策を行おうのが、第一だった。
直盛の積極的な経済政策を見て育ち、その政策を引き継ぐ。
だが、父の代からの借財は、軍備・兵力・領内の土木事業、開発に使われ、莫大となっていた。
直平や中野直由と共に財政再建の道を模索したが、道は遠い。
頼りにすべき人を失い、南渓和尚の支えで父を継承し自分らしい財政再建を目指すしかない。

 ところが、小野政次は井伊家の借財はあまりに多く、返済は出来ないと、徳政令を出し、出直すべきだと言う。
徳政令とは債権放棄の命令であり、井伊家などが今まで商人などから借りていたお金を一方的に返済しないという命令だ。
その時は借金がなくなり助かるが、次に策がなければ貸した方は立ち直れない。
すると、井伊家は借金が出来なくなり、今以上に首が絞まる。
直虎は、徳政令は出すべきでないと、政次が勝手な仕置を進めていることを叱った。

 だが経済は疲弊しており、徳政令はやむを得ない状況だ。
対策が急務であり知恵を絞るしかない。
財政再建の道を進めつつ、先手を打って一五六五年一〇月、南渓和尚に寺領を認める黒院状(当主発行文書)を出し、徳政令免除とし保護した。
他にも、徳政令を免除する方法を、商人らに実行した。
徳政令の影響を最小限で抑えるためだ。
 直虎が次郎法師としての宗教的権威を持ちつつ、井伊家当主としての権威を内外に示した。

 焦った政次は、急いで氏真の了解を得て一五六六年、徳政令を発令、強行した。
直虎の政治力が発揮されて行く姿に恐れをなし、氏真に願い徳政令を出したのだ。
 だが、井伊家当主、直虎は、断固として拒否し、徳政令を凍結する。
主君、氏真が出した徳政令だが、井伊領地内の事であり直虎の承諾が必要で、体制が整うまで延期すると押し切った。
氏真に反対するのではなく、時間稼ぎし、引き伸ばし、影響力を少なくする方策を実行するのだ。

 この時、直虎のためによく働いたのが、今川家重臣、孕石(はらみいし)元泰。
氏真から直虎との取次役を命じられていた。
孕石元泰は、直虎の思い描く政策を理解し、氏真の徳政令の凍結に賛成し、猶予期間を置く必要があることを氏真に伝えた。
 人質として駿府にいた家康に意地悪くつらく当たり、家康が恨んだことで有名な孕石元泰だが、新野親矩と縁があったこともあり、直虎の味方となった。

 また河手城(愛知県豊田市川手町)主、井伊主水祐(山田景隆)も直虎の政策の実行を支えた。
三河の国人、山田氏は、清和源氏満政を始めとする名門だ。
尾張国山田郡山田荘を領し山田氏を名乗った。
一三三五年、尾張から三河に移り、川手城を居城とし、松平氏に仕えた。
松平宗家(徳川家)が義元に従うと、山田氏も従う。
当主、山田景隆は義元に高く評価され、家康が人質となり駿府に入ると、変わって家康の居城、岡崎城の城代となり仕切った。

 桶狭間の戦いで義元が戦士すると、家康が岡崎城への帰還しようとした。
その時、山田景隆は、岡崎城の引き渡しを拒否し戦うべきだったが、家康のために、城から離れた。
 家康は、城を明け渡した山田景隆に感謝し、印象は良い。
氏真の印象は悪かったが、以後、氏真に従い戦い、主従関係を続けた。

 氏真が追い詰められると一五六三年、新野親矩に呼ばれ、井伊家に仕えるようになる。
氏真の了解を得ている。
新野親矩に従い、直虎に仕え、直虎の信頼を得た。
だが、新野親矩は、一五六四年、戦死した。
 以来、新野親矩に成り代わり、直虎の側近となる。
ここから、山田景隆は、井伊主水祐と呼ばれる。直虎の厚い信頼の証だ。

 徳政令の阻止を、直虎とともに、氏真に願い、延期させる。
だが、徳政令が実行されると、居り場がなくなり、家康に従う。
 その後、井伊家が家康に従うと、家康は、山田景隆の嫡男、川手良則を直政に付ける。
その時、直政筆頭家老とするべく、信濃国伊那郡から引き取られていた直政の姉、高瀬姫との結婚を決めた。
川手良則は再婚だが、直政の義兄となり、家康から付けられた井伊家筆頭家老級の重臣となる。

 一方、政次は、井伊領内の政治を取り仕切り、代々続く商人や祝田禰宜(ほうだねぎ)(峰前神社神主)ら本百姓との結び付きが強かった。
彼らは、多くの借金を抱えており、徳政令を願った。
直盛は、新興の商人から、多くの借り入れを行っており、旧来の商人は借金する側だった。
彼らの願いを受けて、政次が徳政令を発布したのだが、凍結され面目をつぶされた。
 ここで、今川家重臣、匂坂(さぎさか)直興を取り込み「一刻も早く徳政令を出し、領民の苦境を救い、井伊家の経済再生を図るべきだ」と再三、直虎に進言させ、実行を迫る。
 
 直虎は、政次を許せず、表立って激しく対立していく。
直虎は、父が引き立てた新興の商人を引き継いでいる。
彼らや彼らと近い寺や武家や名主など銭主方と呼ばれる直盛に縁ある資産家からの借金をなくそうと図ったのが徳政令だ。
 主君、氏真の命令であり、いずれは実行せざるを得ないが、できうる限り先延ばしし領内の活性化を図り、徳政令の影響を少なくしなければならない。
瀬戸方久(ほうきゅう)ら井伊領内の経済立て直しに、ともに取り組み、重用した商人に、今後の策を出すように言う。

 瀬戸方久は、井伊谷七人衆の一人、松井助近の一族だ。
松井家は、今川家屈指の重臣。
山城国の幕府御家人、松井宗次(兵庫亮)・助宗(八郎)父子が足利尊氏に味方し、足利一門、今川範国に属して戦功を揚げ、その恩賞として駿河国葉梨荘(静岡県藤枝市)を得て、移住し、始まった。
 その後、一五一三年、今川氏親から遠江国鎌田御厨領家分を得て、城東郡平川郷(菊川市下平川字堤)に居城を築いたのが松井宗能。
その孫、信薫(のぶしげ)(-1528)が、義元から遠江支配の拠点、二股城(浜松市天竜区二俣町二俣)を与えられ移る。
遠江支配を統括するためだ。

 だが、信薫の死後、弟、松井宗信が継ぎ、続いて、信薫の子、松井宗親が継ぐが、義元が戦死後の一五六六年、飯尾連龍の裏切りに関わっているとみなされ殺される。
 その前、義元が井伊氏に付けたのは、宗信の弟、松井助近。
松井助近は、直盛に仕え、疲弊した井伊家の経済政策を打ち出した。
その策を採用し、直盛は重く用いた。
 助近の経済政策の後ろ盾となったのが、松井氏一族の商人、瀬戸方久。
方久の資金で、業績を伸ばし、井伊家に重きをなした。

 瀬戸方久は、瀬戸村(浜松市北区細江町中川)で生まれた。
浜名湖が海に繋がった恩恵を受けてこの地の経済活動が盛んになった頃だった。
浜松での商取引が急拡大する時、商人となり急成長し、遠江引佐郡気賀の豪商として名を成した。
そして、遠江松井氏の財力を支えつつ、井伊氏への経済的影響力を高めていった。

 小野政直・政次は旧来の本百姓・商人との取引を重視し続けていた。
瀬戸方久(ほうきゅう)がまとめる新興勢力は、商品調達力・資金調達力が優れ、武具・兵糧から家中の土木事業などまで広く請け負い、直盛に尽くした。
井伊家の戦力を保持することに役立つが、借金も増やすことになった。

 直虎が当主となった頃、瀬戸方久は、井伊家の経済を左右する力を持っていた。
だが、井伊勢は、氏真に命令を受けて、不毛な戦いに駆り出され、奮闘すれば奮闘するほど、直盛から引き継いだ井伊家の経済はますます悪くなり、破たん状態となった。
年貢を上げるしかなかった。

 本百姓は、年貢の引き上げに反対し、徳政令の実施を願った。
直虎は、方久らの進言を聞き、井伊領の経済再生の対策を練る。
方久の浜松に経済再生の道があると熱心に説く姿に賛同した。

 まず、これからの再生事業で井伊領が安泰となることを祈願し、方久の資金で、直虎の名で、渋川村の福満寺(浜松北区引佐町川名)に梵鐘を建立した。
福満寺は、奈良時代、行基が創った薬師如来を本尊とし、多くの塔頭を持つ堂々とした大寺院だ。
直虎がこの地の領主であることを高らかに宣言したのだ。
 こうして、一五六八年、方久に、浜松再生の後ろ盾になることを了解し、氏真との直接交渉で実現するよう命じる。
方久は、松井宗家を通して「堀川城普請を自らの資金で行いたい」と、氏真に申し出る。
資金提供の見返りに「徳政令免除」を願った。

 一四九八年、明応地震が起き、浜名湖が海に繋がった。
すると、海への入口となる堀川は、交通の要所となり遠江支配の重要地点となった。
その権益を守り今川氏支配の威光を見せる堀川城(浜松市北区細江町気賀)築城の申し出は、氏真が喜び賛同する提案だった。
氏真は、堀川の支配権を確立し、交易の利益を得るため有効な案だと、方久(ほうきゅう)の堀川城築城を許した。

 方久は、周辺の農民を総動員し自己資金で築城を完成させた。
源氏の血を受け継ぐ新田氏を祖に持つことから、新田喜斎と名乗り城主となる。
堀川城は、故郷を愛する方久や大沢氏・竹田氏・山村氏・尾藤氏などの豪族や農民らの希望と汗の結晶であり、氏真に利益をもたらす。
 まもなく、家康の怒涛の遠江侵攻が始まる。
皆、堀川城への愛着が深く、高圧的な侵攻を嫌い、血と汗の結晶、堀川城を引き渡すことは出来なかった。
 方久は、家康への降伏、開城を訴えたが叶わなかった。やむなく城を去り、隠棲する。
家康は、力で抑えようとしたため、やむなく籠城し戦うも、力の差は明らかで、敗北し虐殺された。

 その後、徳川の世が始まり、気賀を挙げて代官所に訴状を出す。
皆に頼まれた方久は、代表する形で訴状を書いた。
訴状を受け取った代官は、方久を首謀者と見なし処刑した。八二歳だった。

 氏真は、新野親矩の死後、重臣、孕石元泰や関口氏一門、関口氏経(瀬名姫の父、関口義広の一族)や井伊主水祐(山田景隆)を直虎の目付とし、井伊家への監視役とした。
彼らは、井伊家の縁者でもあり、直虎の治世を助ける。
 関口氏経は、井伊谷城に来た当初から、氏真を代弁し厳しい言葉を使うが、直虎にやさしい視線を向けその施策を支持した。
それは、関口義広の妻となり氏真によって自害させられた直虎の大叔母、直の方の存在があったからだ。
直の方は、関口宗家の束ねとなり、瀬名姫を育てた。
その姿は、氏経のあこがれだった。

 また、祖母、浄心院も直虎の施政を助ける。
直宗の妻、浄心院は、直盛が結婚して井伊谷に戻ると、代わって今川氏の人質となり駿府城下の屋敷に住まう。
そこで、義妹、直の方と力を合わせ、井伊家と今川家を繋ぐ役目を果たしたが、直宗の妻であり伊平氏の娘としての自負があり、今川氏に心底臣従できなかった。
直宗が亡くなると、直宗の弟らが人質となり浄心院は井伊谷城に戻る。

 だが、井伊城に戻った浄心院には、城内に落ち着く場はなかった。
やむなく、出家を決意する。
一時は井伊家を主導する力を持った、実家、伊平氏が凋落していたためだった。

 そこで、我が子である直盛に、菩提寺建立の費用と隠居領を願い、得た。
隠居領は、伊平氏領に近い引佐町東久留女木(浜松市北区引佐町東久留女木)だ。
この地に如意院を建立し、直宗や自身の菩提寺とし、側近、仲井氏を従え出家し住まう。
一五五〇年亡くなるまで、井伊氏・伊平氏の行く末を見守りつつ、この地の人たちと共に暮らした。

 浄心院を迎えた農民は心を込めて世話をする。
浄心院は、伊平氏の隆盛を支えた、高名な女人だった。
駿府で暮らし、洗練された知性にあふれ、皆の自慢の藩主の母だった。
かっての威光を少しも見せることなく、慎ましく、穏やかなほほ笑みを浮かべて住まう。
そして、この地の人たちに読み書きを教えたり、昔語りをし喜ばれる。

 その上「老いの身を生きるだけです。食べるだけあればいい。年貢は必要ない。自由に田地を使うがよい」と隠居領から年貢を取らず、収穫した農産物も分け与える。
領民が持ち寄る自慢の作物を嬉しそうに受け取り、出来栄えを褒めるだけだった。
駿府での贅沢な暮らしとは程遠い質素倹約の暮らしを、嬉々として続けた。
 喜んだ領民は浄心院の篤い心に応えようと、農作業に励む。
そして、それぞれ自由な発想で幾つもの棚田を創り田地の開発をしていく。
稲穂を始め種々の農作物に覆われる大地が広がっていき、浄心院を喜ばせた。

 直虎も、祖母、浄心院の生き様を聞き、尊敬していた。
そして、財政再建の一環として田地の開発を命じた時、祖母の隠居地の開発方法を学ぶよう命じる。
その旨知らされた領民は、今こそ恩に報いる時だと培った開発力を駆使して直虎に尽くし、経済再生の見本となる。
 直虎は綿々と受け継がれてきた祖母の偉大さを改めて知る。
井伊家の長い歴史の流れを実感し、先人の苦労で今があることに感謝するのだった。
自分も務めを果たすと家康との交渉に力を入れる。

 直虎は三二歳。
ようやく城主としての実行力に自信が出てくる。
徳政令の影響を最小限に抑える施策を思いつく限り実行した。
領民の耕作地を守り、作物収穫を手助けする為のきめ細かな施策を行い、産業振興の政策も次々編み出し、領民にやる気を起こさせた。
こうして、棚田が縦横に作られ米や農産物の収穫は増え、豊富な材木を活用し利益を生みだし、画期的な衣料素材となり需要が急拡大していた綿花栽培にも力を入れ成功する。
直虎の誇る故郷がよみがえっていく。

 故郷の素晴らしさを再確認しながら、氏真の徳政令を二年以上引き延ばし、財政好転のめどを立てた。
これ以上の引き伸ばしは難しいと判断する時が来た。
一五六八年一一月九日、関口氏経と連署で氏真との約束「徳政令」を出す。


一二 直虎、井伊谷城を奪われる
 この日を一番待っていたのは、後がない小野政次だった。
氏真は風前の灯だったが自覚はなく、駿河・遠江守護の権威を振りかざしまだ命令書を出し続けている。
実質守られることは少ないと、皆が知るようになっていたが。

 政次は、直虎が徳政令を出すと、直虎の当主の役目は終わったとばかりに、すぐに、氏真に願い、直虎から領主権を取り上げ、政次を井伊領代官に任命する命令を得る。
直轄を望む氏真は、喜んで命令を出した。
こうして、井伊領は、中身のない今川氏の直轄領となった。

 幼い頃、直虎は、政次と仲が良かった。
ともに、武芸を磨いたり、勉学に励むこともあったほどだ。
 だが、直政を敵視し滅びゆく今川氏に寄り添う姿を見せつけられると、許せず敵対していく。
政次は直虎と協調しつつ、井伊家を主導したかったが、直虎を押さえきれないことを悟る。
ついに、井伊領を氏真の直轄支配領とし自らが代官になるしかないと決めざるを得なくなった。

 徳政令は、領民の信奉する直虎の名で出すことで、実行力を持たさざるを得なかったが、もう役目はなくなった。
政次は、井伊家を率いる抱負を述べ、直虎の了解を得ようとする。
当然、直虎は拒否した。
やむなく、氏真の命令を振りかざし、井伊谷城からの退去を求める。
追放の命令を出したのだ。

 直虎は、この時を予期し万全の備えをしていた。
祖父、直宗は、一五四二年、義元の謀略で戦死させられた。
父、直盛は、一五六〇年、義元に従い戦死した。
許嫁、直親は、一五六三年、氏真の謀略によるだまし討ちで殺された。
井伊家の大切な当主が、今川家によって殺されることが続いたのだ。
同時に、例えようがない大切な重臣を次々、戦死させてしまった。
 この耐え難い苦しみを忘れることはない。
今川家に従うことは、絶対に拒否する決意を固めていた。

 政次が氏真の命令書をかざすと「氏真から離れる好機だ」と自然体で受けた。
それでも、拒否し抵抗の構えを見せ、我が身を守りつつも戦うことなく、準備を整えた。
そして、一一月末には主従揃って井伊谷城から逃げる。
 かねてからの申し合わせ通り、家康に「極悪非道の小野政次」の成敗を頼む。
すでに、井伊谷三人衆(七人衆の三家)菅谷忠久・近藤秀用・鈴木重時(直政の父方の祖母の実家)は家康に寝返っていた。彼らの仲介で、直虎は家康に従う話を進め基本的な合意をし、小野氏排斥の体制を作っていた。
すぐに小野氏追討が始まる。

 家康は、すでに、氏真打倒へ準備万端だった。
事態が急展開したきっかけは、一五六八年四月一一日、寿桂尼(義元の母)が亡くなったことだ。
家中を率いる力は、氏真と並ぶほどの女傑だった。
その死で、雪崩を打ったように、今川家重臣らの離反が進む。
 政次も今川氏の将来はないと、焦ったほどだ。

 寿桂尼と親交の深かった武田信玄は、重しが取れ、より一層攻撃的になった。
以前から「今川氏は凋落した。我が領地とする」と今川領に侵攻していたが、寿桂尼には遠慮があり、真正面からの侵攻は避けていた。
氏真に「手切れ」を宣告し、堂々と駿河侵攻を始める。

 同じように、家康も駿府への侵攻を進めようとする。
武田信玄と思いは同じで、正室、瀬名姫を我が子同様に可愛がった寿桂尼に遠慮があり、今川領内の侵攻で抑えていたが、吹っ切れた。駿府を占領すると燃えた。
信玄との同盟の協議を始め、今川領の取り分を決め、駿府占領は諦めざるを得なかったが同盟を結び、怒涛の侵攻を開始した。
 武田勢・徳川勢に攻め込まれ氏真は絶望的だったが、氏真の頭の中には、名門今川氏が滅びるはずがないとの信念があった。
配下の国人衆は今川氏を裏切るはずがない、良い条件で和議を結べるという狂信的な思いがあった。

 政次は氏真に見切りをつけた。
そして、身を守るため、窮余の一策に出て井伊谷の支配者となったのだ。
 直虎は、形式的に、氏真に従いつつ情勢を見ながら信玄・家康の申し出に耳を傾け、家康への臣従を進めていた。
冷静に心中を見せることなく政次と協調する風を装いつつも、時には一歩も譲らない覚悟も示し、井伊領を治めた。
 政次は、氏真の後ろ盾で権力を握っている。
氏真の力がなくなると、存在基盤が揺るぐことになる。
まだ氏真が形式的だけにしても力を持っているときに、立ちはだかる当主、直虎を排除すれば、城代として、井伊家を取り仕切ることが出来るはずで、どうしてもやらなければならない事だった。
 こうして、直虎に城の退去を求め、成し遂げた。
行く手には困難が待ち受けていることはわかるが、前に踏み出した満足感はあった。

 直虎は井伊谷城を離れ、寂しさがこみ上げる。
それでも、政次と別離した喜びと、新しい道に踏み出すことに自信があった。
 その前、直政を安全な地に移し、万全の体制としていたからでもある。
寿桂尼の死が契機となった。
混乱する今川家を見て「今が好機」と七歳の直政を浄土寺から龍潭寺(りょうたんじ)に呼び寄せた。
直政の暮らしぶりは知らされていたが、成長を目の当たりにして、その姿に目を潤ませる。
浄土寺に入って以来三年の月日が経っており、久しぶりの再会だった。

 側には、直政を守り続け学びの師でもある珠源がいた。
守り続けてくれた礼を言い、今後とも直政の師であって欲しいと頼む。
そして、用意し待っている鳳来寺に連れて逃げるよう頼む。
氏真・政次と対峙する時が迫っており、今しかないと決めたのだ。

 そして、おもむろに、直政家老、松下清景に強く申し付ける。
「(直政を)鳳来寺に移す時が来ました。直政の父となり守るように頼みます」と。
清景とひよの再婚を決めたのだ。
 直政を清景の養子とし井伊家との縁を切ることで、氏真の不信感をかわす大義名分とする。
清景とひよは、手を携え、直政を育てており、二人の仲は良い。同意した。
 
 この後、予期した通り政次が謀反を起こした。
そして、直虎は、逃げ、まず、長年住まいした龍潭寺(りょうたんじ)に入り、身を潜ませた。
家康の井伊谷城攻めの詳細を聞き、すべての望みをかけ、待つ。
家康は間髪入れず一二月初め、井伊谷城奪還の兵を送る。

 井伊谷三人衆が先陣となり、家康勢が井伊谷城に突撃した。
政次は、あまりに早い直虎の反撃に驚くが、共に戦う家臣団は少なく戦える相手ではなかった。
やむなく、応戦せず城を明け渡し、謹慎する。
こうして、城を出てわずか一か月で直虎は井伊谷城を取り戻し、井伊谷三人衆と共に、城主の座に返り咲く。

 井伊谷城を取り戻した井伊勢は、家康勢の一翼を占め積もり積もった怨念を氏真にぶつけた。
氏真は、追い詰められた。
直虎が城を明け渡して二か月も経たない一五六九年一月終わり、信玄に攻め込まれた氏真は駿府城を放棄し掛川城に逃げる。
あっけない氏真の駿府落ちだった。
 
 家康は遠江を制圧し、政次と対峙する。
政次は、進退窮まり逃げることもできず、ひたすら許されることを願い謹慎していた。
だが、直虎は、直政の将来を思い許さず、捕えた。
 直虎の意を汲んで、一五六九年四月、家康は、小野政次の処刑を命じた。
その一か月後、政次の長男と次男も獄門はりつけにする。

 政次は重正・政直・政次と親子三代にわたって井伊家に仕え、役目を果たし実績を残した結果がこれかと思うと無念だった。
今までの功に免じて謹慎処分で済まされるはずだった。
子たちまでが、処刑されるとは想像もしていなかった。
 父、小野政直は、政次と直虎の結婚を夢見たが望みを絶たれ、政次と新野親矩(にいのちかのり)の娘との結婚を決め、今川家一門に繋げた。
まもなく、妻は病死ししてしまう。
 そこで、井伊家の祖、共保の母の実家、二宮神社(浜松市北区引佐町)の神主、三宅氏の娘と再婚させた。
 
 二宮神社は三宅氏の始祖、多道間守(たじまもり)(記紀伝説上のお菓子の神)を祀る神社だった。
一三八五年、宗良親王が亡くなられ、葬送の御儀を執行し合祀(ごうし)したため、宗良親王と多道間(たじま)守(もり)の二つの祭神を祀る。
そこで、二宮神社と名を改めた。
 政次は、井伊家一族に繋がる再婚をし、井伊家に忠誠を誓った。
筆頭家老としての重責を果たし、直虎の婿になるための要件を満たしたつもりだった。

 そして、氏真により、井伊領の代官となり、井伊家を掌握したはずだったが、失敗した。
それでも、直虎や直政に危害を加えたわけではない。
なぜ殺されなければならないのか、わからない。
井伊家へ多大な功績を上げたと自負していただけに、無念だった。

 直虎は、戦国の世のむごさと家康の冷酷さに涙する。
小野政次親子を処刑したが、空しさが残る。
 それでもじっと前を見据え「井伊家は新しい道を踏み出した」と前に進む。
父祖の地を治め続け、井伊家を守る為に、まだまだすべきことは多い。

 家康の力で井伊谷城主に返り咲いたが、井伊谷三人衆が城代として仕切っている。
家康の考え次第で城主が決まる不安定な身なのだ。
 大きく息をし、井伊谷城主として、家康に一歩も引かない覚悟を決める。
この頃には、身体中から井伊家当主としての威厳がかもし出されていた。
 
 すぐに、直政を呼び寄せる。
直政の力量により今後の井伊家が決まるのであり、当主としてふさわしく育てなければならない。
 直政の教育のための環境を整え、自らの手で育てる覚悟をしている。
まず、直政の近習に同年代の小野朝之・中野三孝・奥山朝忠を加える。
皆優秀であり、学問・武芸を共に学ばせ競わせていく。
そして、直虎自ら直政に井伊家の歴史すべてを教え引き継がせることを急ぐ。
近習三人には、主君の為に死をも辞さず、身代わりとなる覚悟を持つことを厳しく命じる。

 政次親子を処刑した後の小野家を政次の弟、朝直の遺児、朝之に引き継がせた。
奥山家を朝宗の子、朝忠に引き継がせた。
直虎を苦しめた小野氏・奥山氏は、完ぺきに配下になった。
 直虎は、両家への許しがたい思いを引きずることなく、直政の腹心とすべく再生させた。
幼い彼らを見守りつつ育てることは、やりがいがあり、皆可愛くて仕方がない。
直政も小野朝之も中野三孝も奥山朝忠も、元気に武芸に励む。
彼らを見つめ、胸を熱くすることも度々となる。
皆に母のように慕われほおが緩むが、心して我が子のように厳しく教える。

 彼らは、ひよにとっても甥たちだ。
奥山氏の凋落に心を痛めていたが、甥、朝忠が直政の近習となり、ほっとした。
直虎に「直政も奥山家も託します」と吹っ切れたように願い、笑顔が戻った。

 直虎は、井伊谷の空のかなたにいるはずの父に向かい「井伊家は必ず甦ります。待っていてください」と話しかける。
父もうなづいているはずだ。
井伊領は減ってしまったが、井伊家は続いている。
井伊勢も少なくなったが、直虎や直政の為に家康勢の一角を担い戦い続けており、強い。
直虎の自信は揺るがない。




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