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Episode〈7〉霹靂 ⑸
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軽自動車の後部座席で揺られながら、私はスモークのかかった窓から外を見ていた。
先刻、夕立はぴたりと止んだ。あかね色に染まった空には、うっすらと虹が浮かんでいる。
スピーカーから、ラジオDJの明るい声が車内に響き渡った。
〈え~、ラジオネーム:“恋するうさぎちゃん”さんからの投稿……〉
「……星子」
DJがはがきでリクエストされた曲を流し始めたタイミングで、隣から声をかけられた。
「本当に、ごめんね」
軽快なメロディーが流れる車内で、噛みしめるように投げられた謝罪に、私は視線を返すことも出来なかった。
都心から離れ、東の県境を越えた頃。車は、一棟のアパートの前で停車した。
自ら自動車のドアを開け、外に出る。時刻は午後7時にかかる頃だろうか。夏に入った空は、いまだ陽の明るさを保っていた。
運転席に座っていた男と、彼と。二人の男に連れられて、錆びた鉄の階段を上る。
元々なのか、色落ちたのか。淡い塗装の分厚い扉が開かれて、中へと通された。
がらんとした部屋の照明からぶら下がった紐を引いて、彼───風馬は、私の方を見た。
安っぽい蛍光灯の明かりの下で、風馬と視線が交わる。その顔は、病院で見たときよりもいくぶんか血の色が戻ったようだった。
彼に促され、古びた畳の上に腰を下ろす。
運転席にいた男性───カタナが『送迎係』として私に連絡先を与えた男性と同一人物の彼はアパートの玄関に立ったまま、靴を脱ぐ気配は無かった。
「……久しぶり、って言っても、そんなに経ってないか」
風馬は、八畳ほどの部屋の真ん中に据えられたちゃぶ台に肘をかけながら、軽い口調で私に会話を投げかけた。
「一ヶ月半、ぐらいかな」
そう、彼に返事をする私の声は、自分でも驚くほど冷静さを保ったものだった。
「星子、ちょっと髪が伸びたね」
「風馬もね。前髪で顔が隠れて、最初誰か分からなかったよ」
そうかな、と風馬がおもむろに自身の前髪を指でいじる。その姿を見て、「ああ、変わらないなあ」と郷愁に似た懐かしさが胸をよぎった。
「……あと、可愛くなった」
「どうしたの。そういうこと、いうタイプじゃなかったじゃん」
「本当だよ。星子、可愛くなった」
緩くウェーブした黒い前髪の隙間から、少し色素の薄い瞳がこちらを覗く。言葉もなく、しばらく見つめ合った後、私から沈黙を破った。
「……ありがとう」
かつて恋をしていた男性から、かつて恋をしていた頃の私だったらひどくときめいていたであろう言葉をかけられても、今の私の心はただ静かに凪いでいた。
そうして、そんな自分にかすかな安堵すらおぼえていた。
「……あの男、“カタナ”と、どんな関係?」
「前に話したとおり。“妻”、だよ。“今”は」
「そっか。“今”は、ね」
外から、宵の口を知らせる虫の鳴き声が聞こえ始めた。
風馬はボトムスのポケットからタバコの箱を取り出すと、その一本を口でくわえて火を付けた。一服深くそれを吸って、そうして長く煙を吐いた。
天井へと登っていく紫煙を眺めながら、風馬はどこか他人事のように言葉を吐いた。
「……どことなり、消えろってさ。星子と俺、二人揃って」
「……え?」
タバコの煙でぼんやりと霞んだ視界が、ぐにゃりと揺れる。
「“カタナ”から、星子と俺への指示だよ。このまま二人、空港に向かって国から出ろって」
風馬の声色は、心ここにあらず、といったものだった。そして、それは私も同様だった。
───ついに、“この日”が来てしまったのか。
部屋に二人、視線が交わることはなく。そのまま長い沈黙が走る。
いつか、いつか来ると思っていた。“この日”が、私がカタナにとって“用済み”となる日が。
───それでも。
心のどこかで、期待していたのだと思う。かつてカタナが私に向けていた冷たい眼差しが、今は柔らかな体温を帯びていたから。カタナと過ごす日々のなかで、彼との距離が確実に近づいていったから。彼が、心底嬉しそうに笑うようになったから。
だから、もしかしたら、と。このままずっと、カタナの傍に置いてもらえるのではないか、と。
“この日”が来ることに怯えながら、密かに抱いていたわずかな期待。それが今、胸の奥でがらがらと音を立てて崩れ去る。
「……全部、星子に話して構わないってさ」
虚空を見つめていた私に、風馬が話しかけた。互いに、失意の色が滲んだ視線が交わった。
「星子は、聞きたい?いったい、自分が何に巻き込まれていたのか」
どこか投げやりで、けれど奥底に強い後悔を含んだ彼の問いかけに、私は一瞬逡巡した。
『何に巻き込まれていたのか』───それが意味するのはきっと、“あの日”から今日に至るまで、私の身に起こっていたことの真相。カタナにとって、“私”にどんな価値があったのか、その真実。
体がこわばる。まるでパンドラの箱だ。蓋を開ければ、きっと私は傷つくだろう。
……ただ、それでも。それが、どんなに残酷な現実だったとしても。最後に、少しでも多くカタナのことを知りたくて、私は首を縦に振った。
それをみとめて、風馬はゆっくりと口を開いた。
「俺はね。藤埜組の、構成員だったんだ」
先刻、夕立はぴたりと止んだ。あかね色に染まった空には、うっすらと虹が浮かんでいる。
スピーカーから、ラジオDJの明るい声が車内に響き渡った。
〈え~、ラジオネーム:“恋するうさぎちゃん”さんからの投稿……〉
「……星子」
DJがはがきでリクエストされた曲を流し始めたタイミングで、隣から声をかけられた。
「本当に、ごめんね」
軽快なメロディーが流れる車内で、噛みしめるように投げられた謝罪に、私は視線を返すことも出来なかった。
都心から離れ、東の県境を越えた頃。車は、一棟のアパートの前で停車した。
自ら自動車のドアを開け、外に出る。時刻は午後7時にかかる頃だろうか。夏に入った空は、いまだ陽の明るさを保っていた。
運転席に座っていた男と、彼と。二人の男に連れられて、錆びた鉄の階段を上る。
元々なのか、色落ちたのか。淡い塗装の分厚い扉が開かれて、中へと通された。
がらんとした部屋の照明からぶら下がった紐を引いて、彼───風馬は、私の方を見た。
安っぽい蛍光灯の明かりの下で、風馬と視線が交わる。その顔は、病院で見たときよりもいくぶんか血の色が戻ったようだった。
彼に促され、古びた畳の上に腰を下ろす。
運転席にいた男性───カタナが『送迎係』として私に連絡先を与えた男性と同一人物の彼はアパートの玄関に立ったまま、靴を脱ぐ気配は無かった。
「……久しぶり、って言っても、そんなに経ってないか」
風馬は、八畳ほどの部屋の真ん中に据えられたちゃぶ台に肘をかけながら、軽い口調で私に会話を投げかけた。
「一ヶ月半、ぐらいかな」
そう、彼に返事をする私の声は、自分でも驚くほど冷静さを保ったものだった。
「星子、ちょっと髪が伸びたね」
「風馬もね。前髪で顔が隠れて、最初誰か分からなかったよ」
そうかな、と風馬がおもむろに自身の前髪を指でいじる。その姿を見て、「ああ、変わらないなあ」と郷愁に似た懐かしさが胸をよぎった。
「……あと、可愛くなった」
「どうしたの。そういうこと、いうタイプじゃなかったじゃん」
「本当だよ。星子、可愛くなった」
緩くウェーブした黒い前髪の隙間から、少し色素の薄い瞳がこちらを覗く。言葉もなく、しばらく見つめ合った後、私から沈黙を破った。
「……ありがとう」
かつて恋をしていた男性から、かつて恋をしていた頃の私だったらひどくときめいていたであろう言葉をかけられても、今の私の心はただ静かに凪いでいた。
そうして、そんな自分にかすかな安堵すらおぼえていた。
「……あの男、“カタナ”と、どんな関係?」
「前に話したとおり。“妻”、だよ。“今”は」
「そっか。“今”は、ね」
外から、宵の口を知らせる虫の鳴き声が聞こえ始めた。
風馬はボトムスのポケットからタバコの箱を取り出すと、その一本を口でくわえて火を付けた。一服深くそれを吸って、そうして長く煙を吐いた。
天井へと登っていく紫煙を眺めながら、風馬はどこか他人事のように言葉を吐いた。
「……どことなり、消えろってさ。星子と俺、二人揃って」
「……え?」
タバコの煙でぼんやりと霞んだ視界が、ぐにゃりと揺れる。
「“カタナ”から、星子と俺への指示だよ。このまま二人、空港に向かって国から出ろって」
風馬の声色は、心ここにあらず、といったものだった。そして、それは私も同様だった。
───ついに、“この日”が来てしまったのか。
部屋に二人、視線が交わることはなく。そのまま長い沈黙が走る。
いつか、いつか来ると思っていた。“この日”が、私がカタナにとって“用済み”となる日が。
───それでも。
心のどこかで、期待していたのだと思う。かつてカタナが私に向けていた冷たい眼差しが、今は柔らかな体温を帯びていたから。カタナと過ごす日々のなかで、彼との距離が確実に近づいていったから。彼が、心底嬉しそうに笑うようになったから。
だから、もしかしたら、と。このままずっと、カタナの傍に置いてもらえるのではないか、と。
“この日”が来ることに怯えながら、密かに抱いていたわずかな期待。それが今、胸の奥でがらがらと音を立てて崩れ去る。
「……全部、星子に話して構わないってさ」
虚空を見つめていた私に、風馬が話しかけた。互いに、失意の色が滲んだ視線が交わった。
「星子は、聞きたい?いったい、自分が何に巻き込まれていたのか」
どこか投げやりで、けれど奥底に強い後悔を含んだ彼の問いかけに、私は一瞬逡巡した。
『何に巻き込まれていたのか』───それが意味するのはきっと、“あの日”から今日に至るまで、私の身に起こっていたことの真相。カタナにとって、“私”にどんな価値があったのか、その真実。
体がこわばる。まるでパンドラの箱だ。蓋を開ければ、きっと私は傷つくだろう。
……ただ、それでも。それが、どんなに残酷な現実だったとしても。最後に、少しでも多くカタナのことを知りたくて、私は首を縦に振った。
それをみとめて、風馬はゆっくりと口を開いた。
「俺はね。藤埜組の、構成員だったんだ」
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