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転生なんてありえない
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「やった! きっと異世界転生だ!」
17歳の少年は車道へ飛び込んだ。左右の確認などするはずもなく、一片の躊躇もなく飛び込んだ。
桜が舞う春。世間では新しい出会い、希望、未来、世界に前向きなイメージが蔓延する。
今ある現実を肯定して、これからを肯定して、明日が楽しみ。
それが普通の季節であるのに、彼は自殺を試みた。
トラックに轢かれる。
彼の企みは成った。衝突の瞬間、今まで彼に流れていた血が全て体の外へ飛び散るような衝撃があった。
下校途中の近くにいた女子高生が張り裂ける様な悲鳴をあげる。
すぐに地域の大人たちが駆けつけて17歳の少年の将来を救おうとして奮闘した。
飛び込んだ彼にはその時、随分と鬱陶しいと思ったに違いない。あるいはもう死んでいたかもしれない。
しかし彼はこれから来る新世界を想って笑顔だった。勝手な希望をもって笑って倒れた。
「転生だ! これから女神に会えるに違いない!」
意識が遠のくにつれて彼は確信を強めていった。
「恵まれなかった世界とはおさらばだ!」
少年はどうやら自分の今までも将来も肯定できていないようだった。それだから新しい世界に望みを託して死のうとしたらしい。
彼の意識がいったんプツリと途切れて消えた。それから一瞬の後、また意識が芽生えて恐怖を感じた。
「たぶん今、僕は死んだんだ。怖かった。でも、それでも僕は異世界に行きたい! もうこの世界にはうんざりだ!」
自分は死んだに違いない。そう思うと一層彼は自分が異世界への転生を望んでいることを自覚した。
倒れこんだ自分の姿と、フロントガラスの割れたトラックが見える。
自分の体から意識が剥離して独立していることに気が付いた。それに過去のどんなにリラックスした状況よりも体が軽かった。まさに憑き物が落ちた感覚だ。
彼の意識が事故現場を眺めて暫くたった。すると今度は空の方へ意識が引っ張られる。
まるで空に重力があるみたいだ。
落ちるように天へ昇っていくと徐々に加速していって周りの景色がぼやけていった。
ちょうど新幹線に乗りながら外を見たときのような景色に見える。
自分の体より背が高かった木を通り過ぎ、家々や高層ビル、遠くに見える山でさえも通り過ぎていった。周りは空の青で満たされて、それから薄暗くなる。きっと宇宙も超えて登っているのだと直感的に感じた。
「異世界転生は時間がかかるモノなのか。ちょっと退屈だな」
意識が上昇してからは未知の感覚に囚われていたけれど、慣れてしまうとそんな大それたことには感じなくなっていた。
退屈しのぎに彼は自分の今までを振り返り始めた。
「振り返って楽しいような人生じゃなかったけど、やることも無いし。それに門出の前に過去を清算して気持ちよく異世界に行こう。次の世界では絶対に失敗しないように」
自分自身で、自分の人生は失敗だらけだと思っているらしい。
「今思えば懐かしいなぁ」
つらつらと回想が始まった。
覚えている中で一番古い記憶は幼稚園入園。両親に付き添われて幼稚園の立て看板の隣で写真を撮った。
お父さんが順番をとってくれていたけど、他の家族に順番を譲るものだから僕たちが写真を撮るのが遅くなったんだ。
今思うとお父さんは僕よりも世間を気にしていたのかもしれない。
僕の人生はそんなことばっかりだ。
幼稚園に入って皆慣れてきたころ。僕は一人だった。
理由は簡単で、外で遊ばなかったから。
幼稚園児は普通、元気に外で遊ぶらしい。僕は嫌だった。一人で積み木をして遊んだほうが楽しかった。
僕はそれで十分だったけど、お母さんにはそれが気に入らなかったらしい。
幼稚園の先生にわざわざ連絡して僕を外で遊ばせようとした。
最初の頃は若い女の先生が僕の所へ来て声をかけてくれた。
「お外遊びも楽しいよ」
そう言われても僕は外で遊ばなかった。今思えば外で遊んで怪我をするのが怖かった。それに外で遊ぶのが好きな溌溂とした他の園児とも上手くやっていける気がしなかった。
小さい頃はそういう回避を無意識にやっていた。
僕がそう言う臆病な園児だと理解した先生は、他の園児を使って僕を外に出そうとした。先生も僕の母親が怖かったのだろう。
ある時、クラスの優しそうな園児たちが不自然に僕の所へ集まって一緒に遊ぼうなんて言って来たんだった。外に出て遊ぶのは嫌だったけど誘われたのが誇らしくって一緒に外で遊ぶようになった。
サッカーをしていた時を思い出す。あれが最初に人を厭になった瞬間だ。
僕がゴール目前でシュートを外した。
周りのみんなは慰めてくれるかと思った。他の園児がミスをしたときは僕が必ず慰めるようなことを言っていたから他の子たちもそうしてくれると思ってた。
なのにみんなは一斉に僕の方を向いて嫌な顔をした。それで初めてこれは先生の作戦だったってことに気が付いた。
だれも僕と一緒に遊びたいなんて思っていなかった。
人間は卑怯だ。
だから僕は異世界に行きたい。
きっとアニメやライトノベルで見たようにみんなが僕に優しい。僕もその優しさに応えられるようになる。ゴール目前でシュートを外すことは無くなるんだ。
そこまで振り返ったところで少年の視界が激しく揺れた。大地震でも起こりそうな揺れ方だ。
普通、人間の危機管理能力として怖がりそうなものであるが、彼は恐怖よりも興奮が先行した。未知の、希望にあふれた何かが自然発生的に起きるのではないかと期待したからだ。
少年の視線の先がぼやける。そうして声が聞こえる。
「待ちなさい」
声は直接、脳の中に聞こえた。そのうえ、声は男のモノとも女のモノとも判然としない。何か超常的なものを感じさせる声の聞こえ方だった。
「もしかして、女神さまですか!?」
半ば女神であることが分かっているかのような、喜色に満ちた聞き方だった。
そう聞くと彼の視線の先が何となく形をもって見え始めた。
抽象的な人の形に薄い橙色が見えてくる。ところどころ桃色で何となく血が通っているように見え始めた。
「メガミ。なるほど、なるほど」
さっきも聞いたぼんやりとした声で女神と呼ばれたソレは答えた。
答えを聞いた直後に強烈な光が少年を差す。思わず目を閉じるとずっと感じていた空からの重力を感じなくなった。もしかしたら重力がなくなってまた地上へ戻ってしまうのではないかと感じる。
戻りたくない。少年は生への恐怖を感じた。
「目を開けてください」
今度ははっきりと女性の声で聞こえる。
少年が目を開けると、まさに彼の言う女神が、はにかみながら立っていた。
ウェーブのかかった金髪。そして輝く青い瞳。
女神はほとんど裸でヴェールを使ってわずかに胸から股にかけて肌を隠しているだけだった。
白い膜のような布の上からハッキリと覗く豊満な胸、大腿、臀部が若い男を刺激する。
少年は否応なしに見とれた。
「まぁ、座ってください」
女神の薄桃色の唇が動く。チラッと見えた歯は輝くほど白い。
間をおいて少年は彼女の言葉を理解した。
いつからあったのか、すぐ後ろの堅苦しい縦長の椅子に座る。
気が付けば周りは薄暗く、自分の足も女神の足も水面に浮いているように見える。
この不思議な状況が彼をさらに興奮させた。
「女神さま! やっぱり居たんだ! 僕を異世界に転生させてください! 僕にスキルをください! 僕に最強の武器やなんでもできる魔法を与えてください!」
すぐに返事はなかった。彼の足が興奮で揺れて水面ができる。
「多いんですよね。最近。あなたみたいな人……」
口元だけが動いてそう言った。
少年は喜んだ。異世界転生を果たした人間が他にも居るんだ。
「僕ってどんな世界に行けるんですか? 異世界ってやっぱり魔物とかモンスターが居て、それを討伐するギルドなんかがあったりしますか!? ドワーフとかケモ耳とかもあったりします?」
早口に質問が飛ぶ。彼の人生のどんな時よりも嬉しそうだった。
女神は少年に近づいて言う。今度は口角を上げていた。
「まぁ落ち着いて。名前から聞いてもいいかな?」
少し前かがみになりながら言うものだから、少年はどぎまぎした。
目をそらしながら彼が答える。
「優って言います」
「ふぅん。ユーくんか。他にも訊きたいことがあるんだけどいいかな?」
優はすぐに頷いた。
「あなたが異世界に転生したい理由を知りたいの」
「理由ですか……」
頭の中で、世界を救いたいからだとか勇ましいことを言おうかとも考えてすぐに止めた。なんとなく考えを見透かされるような予感がしたからだ。
そして正直に答えた。
「現実がつまらないからです」
女神の瞼がぐっと広がって青い目を光らせた。
「とても興味深い。もっと聞かせてくれます?」
女神はどこからか自分用の椅子を作り出して少年の向かいに腰掛けた。そして左足が上になるように足を組んだ。
映画の『氷の微笑』みたいだ。内容は覚えてないけど、女優がこうしてセクシーに足を組むのだけは覚えてる。
「あなたがここに来るまでにしていた回想は知っています。もっと他に聞きたいのです。どのようにして現実がつまらないのですか?」
ハッとして少年は女神の足と足の間から目をそらした。
さっき感じた見透かされる感覚は当たっていたんだ。
そして誤魔化すように話し始めた。
「つまらないんですよ。僕の生きてる現実って。魔法も無いし、チートも無いし、話す相手もろくに居ない」
女神の笑顔は消えていたが返って真剣みが増していた。
「それでイセカイテンセイしようとトラックに轢かれたわけですね?」
優しく、理解があるように言った。
安心して優は頷いた。もう目線は自然と女神に合わせることができる。
「もっとユーの事を知りたいな。幼稚園児の頃は分かりましたからその先を教えて欲しいんです」
女神がそう言うと、にわかに辺りが色を持ち始めた。女神の背後は黒板の緑に、足元はフローリングのつるつるしたホワイトアッシュ。二人の前にそれぞれ机。座っているのは懐かしい木製の小さな椅子。
気が付けば女神はスーツ姿に変っていた。薄い灰色のジャケットに白のインナー。胸に押し上げられてできた皺が可愛らしい。
優は教師姿の女神に懐かしさとトキメキを感じながら小学生の頃の記憶を手繰り寄せた。
正直言って、小学生の頃が一番良かったのかもしれない。進路とか、就職とかそういう面倒ごとを考えずに済んだ。
それに僕は勉強ができた。この時は。
特に勉強しなくてもテストで90点くらいは取れた。周りの子が低い点数を取るのを見て不思議に思うくらい。
今にして思うと、たぶん家庭の影響だと思う。お父さんは仕事で家に居ないときの方が多かったけど、代わりにお母さんが勉強を見てくれる。
それで点数の低い子は家が可愛そうなんだと思ってた。親が優しくないとか、貧乏とか。
僕の方が偉い。密かにそう思ってた。
なのに授業中うるさい子とか、体育だけできるクラスメイトの方が楽しそうなんだ。
いつも友達に囲まれて笑ってる。
彼らは授業中友達と笑いあってて怒られることがあったけど正直恨めしかった。
授業が聞こえないのが嫌なんじゃない。僕に友達がいない事が暗黙のうちに知れ渡っていたのが嫌だったんだ。
一回くらい巻き込みで怒られることもありそうでしょ?
でも僕は一回も怒られなかった。
先生も僕に話し相手がいない事くらい分かっているから、注意しなかったんだと思う。
勉強もできたし、先生から怒られるような生徒でもなかった。言われたことはちゃんとした。
それなのに注目されるのはいつも他の子だった。
ある時、僕も普通に恋をした。勇気を出して告白してみたけど、ダメだった。その時のあの子の言葉が忘れられないんだ。
「優くんって、つまらないんだもん」
お母さんや先生の言う通り生活してきた。なのに女の子からモテるのは僕じゃない。僕が可愛そうだと思ってたうるさい他の男子たちだった。
「一番良かった。なんて言う割には随分、卑屈になってらっしゃるのね」
女神の一声で、優はじっと見ていた床から視線を上げる。
「こんな事ばかりです僕の人生! 言われたとおりにやってきたのに、評価されるのはいつも他のヤツ! いつも授業中うるさいヤツ、体育だけできる不良みたいなヤツ! 皆、そういう人ばかり見てる!」
堰き止めていた感情が一度にあふれ出る。彼には現世で愚痴を言う相手もいなかった。
それが今、やっと正面から話を聞いてくれるまさに女神が現れた。優にはそれが救いであるし、女神だけは自分を救ってくれると信じている。
「なるほど。なるほど。ぜひ、そのまま話し続けて欲しいな。今度は中学生の頃かな?」
少年は怒りのままに、言われた通りに中学時代を思い出す。
優が女神の方を見ながら思考を始めると、もう一度世界の色が塗り替えられた。
周りは白い壁に囲まれた。壁にランドルト環視力表が掛かる。スーツを着た女教師は消え、白衣を着た養護教諭がゆったりと灰色のオフィスチェアに腰掛ける。
シルバーのパンプスに赤い眼鏡の優しい先生。
優もいつの間にやら木製の小さな椅子ではなくて、柔らかで白いベットに腰掛けた。
「さぁ続きを話してください。私はここで聞いていますから」
女神の甘ったるい声が、耳の奥に侵入する。
「はい。僕は……」
3度目の回想が初まった。
進学するにつれてどんどん、状況は悪くなりました。
小学校では勉強なんてしなくてもテストで良い点数が取れていたのに、中学校ではそうもいかなくなってた。
僕は相変わらずしっかり授業は受けてた。他の連中も相変わらずうるさいままだった。
それなのにやっぱり彼らの方が認められてた。実際にテストの点数も良かった。だから授業態度の悪いヤツにも僕は通知表で勝てなくなった。
今になって思うとあいつらは塾に行ったり、家庭教師をつけてたんです。
なんで僕のお母さんも塾に行けとか、家庭教師をつけるとか言ってくれなかったんだろう。
偉い人やテレビに出る様な有名人は勉強で勝てなくても他の分野で勝てばいい。そう言うけど、僕には何もなかった。全部で勝てなかった。バレンタインデーもチョコを貰ったことが無いんです。
「もうやめませんか?」
回想を止めて女神に訴える。
「辛いですよ。惨めです」
「もう少しじゃありません?言ってしまえば良くなりますよ」
養護教諭が風邪を引いた生徒に言うように優しく促す。
「シたいんでしょ?イセカイテンセイ」
返事も聞かない間に養護教諭は女子高生に変化した。
優がこの前まで座っていた石みたいに硬い椅子。嫌になるくらい見てきた黒板。騒がしいクラスメイト。孤独な自分。
彼にとって救いは女子高生の姿になった女神だけのはずだ。
「もういいよ! 高校なんておかしいんだ! なんで今まで協調性を大事にしろって教えてきたヤツらが面接のために個性を出せって言うんだよ! 急に言われてもできないよ! なんでこんなに辛いんだ! 普通に生きてきただけなのに……」
優が叫び終えると女神に造られた高校生活は吹き飛んだ。もとの暗い世界に逆戻り。水面に浮く少年と女神の足。
女神もヴェールをまとっただけの姿に戻された。
「そうね。このあたりにしておきましょう」
全ての感情を失ったような表情で女神が言う。
「あっ……。でも異世界転生だけはお願いします。それで全部よくなるんです!」
「やっぱりしたいんですか? イセカイテンセイ」
「はい。異世界に行きたいんです。現実がつまらないから」
女神と呼ばれていた女の表情がやり過ぎるほどに笑顔になった。目じりには無数の皺ができ、口角はどんどん上がっていく。
「イセカイテンセイなんて、あるわけ無いじゃないですか」
口角は上りに上がって、ついには口が縦に裂けた。頭皮までめくれてあの美しい金髪が剥がれ落ちた。
露になった皮の下は無数の目。あの青い瞳でなく、すべてが黒。それが一斉に優の方を見る。少年は動けない。
どこから声を発しているのか、低音の男声と高音の女声を混ぜ合わせた笑い声が響く。
「あはははは」
女神と呼ばれた物体は自分でヴェールを剥ぎ取った。
剥ぎ取った勢いそのままに左乳房を鷲掴みにするとそのままブチブチともぎ取った。
優はその場に座り込み目を逸らすことも出来なくなった。
「イセカイなんてあるわけない」
「あなたは女神さまじゃなかったんですか……?」
「メガミ、メガミ。人間はよくもそんな都合の良いものを考え付いたものだ。特にキサマ。ろくな信仰心もないくせに」
女神が爪を自分の腹に突き立てた。無数の瞳がギョロギョロと蠢くく。
その内の一つの瞳と目が合った。
化け物は目で笑ってから、爪で左右に引き裂いた。
開けた腹から内臓がボトボトと水の中に落ちていく。
「どうして? なんで?」
「ナンデ? 僕が、私が、俺が、我が聞いてみたい。なぜ?」
「現実がつまらないから……」
「ちがう! なぜ考えなかった! なぜ死んだ!」
男女の判別はできなかったが明瞭な声が響いた。
ハッキリした声を聞いて優は少し正気に戻ることができた。
何とか意思の疎通ができそうだ。
それどころか、この化け物は自分と話したがっている。
何とかそう思考を巡らせて、息を落ち着かせた。
「トラックの運転手。どうなるか考えてみたか?」
化け物が落ち着いた声で詰問を始める。
「どうなるって?」
「人間のくせに想像しないんだな。キサマが死んだら運転手はヒトゴロシになるではないか。現世に居ない私でも、僕でも想像に難くない」
「あっ」
ようやく現世に意識が向いた。
自分が死ぬだけだ。そう考えていたのに実際は違った。
「なんて利己的な死を選んだんだ。君は。誰のためになるのでもない。ただ、現実から逃れようとしてわざと死んだのだ」
言われてやっと優の心が痛んだ。
しかし罪悪感で冷静になると返って反対したくもなった。彼には彼なりの思いがある。
「逃げて何が悪いんだ! どうしたって現世はつまらない! やっぱり異世界転生させてほしいよ!」
答える前に怪物の左乳房がシュルシュルと音を立てながら元に戻っていく。左胸が再生した。
「逃げるのは構わない。ただ、キミが勝手に妄想した、異世界という逃げ場は現実には存在しないのだ」
異様な怪物に正常な論理で言われると、呆気にとられてつい涙が流れる。
「じゃあ、僕は一体どうすればいいんだ。現実世界に居場所は無いし、異世界も無かった……」
途方に暮れて泣き顔でそう絞り出した。
「まァ待て。イセカイテンセイなぞありえないとは言ったが、逃げるなとは言ってない。現世では未だに誰しもが安息を求めている。つまり、世界の方が安らぎを提供できるほど成熟していないのだ。そういう社会では人々は自然、短期的な安らぎ、快楽、逃避を求める。逃げたいのはキミだけではないということだ」
水面が揺れる。
落ちていった臓器が水中から吹き上がる。
怪物の左右に割かれた腹に、臓器が還る。指の腹で裂け目をなぞると縫合の跡も無い綺麗な胴体が復活した。
それでも美しい女の体に張り付いた無数の目との会話は続く。
「上手くいかない自分を許せ」
「僕なんてダメだよ。生きていけないよ」
気力尽き、俯いて言った。
「大丈夫。少なくとも私相手に過去の自分と向き合ってたじゃない。それに化け物の私とよく話せたわ」
長い時間、聞いてなかった女神の声がした。
「アニメを観てライトノベルを読みながらで構いません、考えて生きなさい。人間として生きなさい。貰う事ばかり考えていてはいけません。化け物に立ち向かうように自分から現実に立ち向かうのです」
無数の目はもう無い。
最初に見た女神がそこに居る。
優の頬を柔らかい両手が包む。
「ね?」
優しい笑顔に少年はやっと首を縦に振ることができた。
現世に居た時の様に足の方に重力を感じる。自分が水面に沈んでいくことに気が付いた。
「最後に一つ。もし本当に辛かったらメガミでなく人に助けて貰いなさい。教科書に載らないような無名の英雄が現世にはたくさんいますよ」
地上に引き寄せられる。宇宙の黒が見えて、すぐ空の青に変わった。
建物の白い天井をすり抜けて、ベッドに眠る自分の体に意識が入っていく。
重たい体を横に向けると作業服を着た人間が目に入る。
「本当にすみませんでした!」
あの時のドライバーだ。
「違うんです……!」
桜が舞う春。
少年の人生が始まった。
17歳の少年は車道へ飛び込んだ。左右の確認などするはずもなく、一片の躊躇もなく飛び込んだ。
桜が舞う春。世間では新しい出会い、希望、未来、世界に前向きなイメージが蔓延する。
今ある現実を肯定して、これからを肯定して、明日が楽しみ。
それが普通の季節であるのに、彼は自殺を試みた。
トラックに轢かれる。
彼の企みは成った。衝突の瞬間、今まで彼に流れていた血が全て体の外へ飛び散るような衝撃があった。
下校途中の近くにいた女子高生が張り裂ける様な悲鳴をあげる。
すぐに地域の大人たちが駆けつけて17歳の少年の将来を救おうとして奮闘した。
飛び込んだ彼にはその時、随分と鬱陶しいと思ったに違いない。あるいはもう死んでいたかもしれない。
しかし彼はこれから来る新世界を想って笑顔だった。勝手な希望をもって笑って倒れた。
「転生だ! これから女神に会えるに違いない!」
意識が遠のくにつれて彼は確信を強めていった。
「恵まれなかった世界とはおさらばだ!」
少年はどうやら自分の今までも将来も肯定できていないようだった。それだから新しい世界に望みを託して死のうとしたらしい。
彼の意識がいったんプツリと途切れて消えた。それから一瞬の後、また意識が芽生えて恐怖を感じた。
「たぶん今、僕は死んだんだ。怖かった。でも、それでも僕は異世界に行きたい! もうこの世界にはうんざりだ!」
自分は死んだに違いない。そう思うと一層彼は自分が異世界への転生を望んでいることを自覚した。
倒れこんだ自分の姿と、フロントガラスの割れたトラックが見える。
自分の体から意識が剥離して独立していることに気が付いた。それに過去のどんなにリラックスした状況よりも体が軽かった。まさに憑き物が落ちた感覚だ。
彼の意識が事故現場を眺めて暫くたった。すると今度は空の方へ意識が引っ張られる。
まるで空に重力があるみたいだ。
落ちるように天へ昇っていくと徐々に加速していって周りの景色がぼやけていった。
ちょうど新幹線に乗りながら外を見たときのような景色に見える。
自分の体より背が高かった木を通り過ぎ、家々や高層ビル、遠くに見える山でさえも通り過ぎていった。周りは空の青で満たされて、それから薄暗くなる。きっと宇宙も超えて登っているのだと直感的に感じた。
「異世界転生は時間がかかるモノなのか。ちょっと退屈だな」
意識が上昇してからは未知の感覚に囚われていたけれど、慣れてしまうとそんな大それたことには感じなくなっていた。
退屈しのぎに彼は自分の今までを振り返り始めた。
「振り返って楽しいような人生じゃなかったけど、やることも無いし。それに門出の前に過去を清算して気持ちよく異世界に行こう。次の世界では絶対に失敗しないように」
自分自身で、自分の人生は失敗だらけだと思っているらしい。
「今思えば懐かしいなぁ」
つらつらと回想が始まった。
覚えている中で一番古い記憶は幼稚園入園。両親に付き添われて幼稚園の立て看板の隣で写真を撮った。
お父さんが順番をとってくれていたけど、他の家族に順番を譲るものだから僕たちが写真を撮るのが遅くなったんだ。
今思うとお父さんは僕よりも世間を気にしていたのかもしれない。
僕の人生はそんなことばっかりだ。
幼稚園に入って皆慣れてきたころ。僕は一人だった。
理由は簡単で、外で遊ばなかったから。
幼稚園児は普通、元気に外で遊ぶらしい。僕は嫌だった。一人で積み木をして遊んだほうが楽しかった。
僕はそれで十分だったけど、お母さんにはそれが気に入らなかったらしい。
幼稚園の先生にわざわざ連絡して僕を外で遊ばせようとした。
最初の頃は若い女の先生が僕の所へ来て声をかけてくれた。
「お外遊びも楽しいよ」
そう言われても僕は外で遊ばなかった。今思えば外で遊んで怪我をするのが怖かった。それに外で遊ぶのが好きな溌溂とした他の園児とも上手くやっていける気がしなかった。
小さい頃はそういう回避を無意識にやっていた。
僕がそう言う臆病な園児だと理解した先生は、他の園児を使って僕を外に出そうとした。先生も僕の母親が怖かったのだろう。
ある時、クラスの優しそうな園児たちが不自然に僕の所へ集まって一緒に遊ぼうなんて言って来たんだった。外に出て遊ぶのは嫌だったけど誘われたのが誇らしくって一緒に外で遊ぶようになった。
サッカーをしていた時を思い出す。あれが最初に人を厭になった瞬間だ。
僕がゴール目前でシュートを外した。
周りのみんなは慰めてくれるかと思った。他の園児がミスをしたときは僕が必ず慰めるようなことを言っていたから他の子たちもそうしてくれると思ってた。
なのにみんなは一斉に僕の方を向いて嫌な顔をした。それで初めてこれは先生の作戦だったってことに気が付いた。
だれも僕と一緒に遊びたいなんて思っていなかった。
人間は卑怯だ。
だから僕は異世界に行きたい。
きっとアニメやライトノベルで見たようにみんなが僕に優しい。僕もその優しさに応えられるようになる。ゴール目前でシュートを外すことは無くなるんだ。
そこまで振り返ったところで少年の視界が激しく揺れた。大地震でも起こりそうな揺れ方だ。
普通、人間の危機管理能力として怖がりそうなものであるが、彼は恐怖よりも興奮が先行した。未知の、希望にあふれた何かが自然発生的に起きるのではないかと期待したからだ。
少年の視線の先がぼやける。そうして声が聞こえる。
「待ちなさい」
声は直接、脳の中に聞こえた。そのうえ、声は男のモノとも女のモノとも判然としない。何か超常的なものを感じさせる声の聞こえ方だった。
「もしかして、女神さまですか!?」
半ば女神であることが分かっているかのような、喜色に満ちた聞き方だった。
そう聞くと彼の視線の先が何となく形をもって見え始めた。
抽象的な人の形に薄い橙色が見えてくる。ところどころ桃色で何となく血が通っているように見え始めた。
「メガミ。なるほど、なるほど」
さっきも聞いたぼんやりとした声で女神と呼ばれたソレは答えた。
答えを聞いた直後に強烈な光が少年を差す。思わず目を閉じるとずっと感じていた空からの重力を感じなくなった。もしかしたら重力がなくなってまた地上へ戻ってしまうのではないかと感じる。
戻りたくない。少年は生への恐怖を感じた。
「目を開けてください」
今度ははっきりと女性の声で聞こえる。
少年が目を開けると、まさに彼の言う女神が、はにかみながら立っていた。
ウェーブのかかった金髪。そして輝く青い瞳。
女神はほとんど裸でヴェールを使ってわずかに胸から股にかけて肌を隠しているだけだった。
白い膜のような布の上からハッキリと覗く豊満な胸、大腿、臀部が若い男を刺激する。
少年は否応なしに見とれた。
「まぁ、座ってください」
女神の薄桃色の唇が動く。チラッと見えた歯は輝くほど白い。
間をおいて少年は彼女の言葉を理解した。
いつからあったのか、すぐ後ろの堅苦しい縦長の椅子に座る。
気が付けば周りは薄暗く、自分の足も女神の足も水面に浮いているように見える。
この不思議な状況が彼をさらに興奮させた。
「女神さま! やっぱり居たんだ! 僕を異世界に転生させてください! 僕にスキルをください! 僕に最強の武器やなんでもできる魔法を与えてください!」
すぐに返事はなかった。彼の足が興奮で揺れて水面ができる。
「多いんですよね。最近。あなたみたいな人……」
口元だけが動いてそう言った。
少年は喜んだ。異世界転生を果たした人間が他にも居るんだ。
「僕ってどんな世界に行けるんですか? 異世界ってやっぱり魔物とかモンスターが居て、それを討伐するギルドなんかがあったりしますか!? ドワーフとかケモ耳とかもあったりします?」
早口に質問が飛ぶ。彼の人生のどんな時よりも嬉しそうだった。
女神は少年に近づいて言う。今度は口角を上げていた。
「まぁ落ち着いて。名前から聞いてもいいかな?」
少し前かがみになりながら言うものだから、少年はどぎまぎした。
目をそらしながら彼が答える。
「優って言います」
「ふぅん。ユーくんか。他にも訊きたいことがあるんだけどいいかな?」
優はすぐに頷いた。
「あなたが異世界に転生したい理由を知りたいの」
「理由ですか……」
頭の中で、世界を救いたいからだとか勇ましいことを言おうかとも考えてすぐに止めた。なんとなく考えを見透かされるような予感がしたからだ。
そして正直に答えた。
「現実がつまらないからです」
女神の瞼がぐっと広がって青い目を光らせた。
「とても興味深い。もっと聞かせてくれます?」
女神はどこからか自分用の椅子を作り出して少年の向かいに腰掛けた。そして左足が上になるように足を組んだ。
映画の『氷の微笑』みたいだ。内容は覚えてないけど、女優がこうしてセクシーに足を組むのだけは覚えてる。
「あなたがここに来るまでにしていた回想は知っています。もっと他に聞きたいのです。どのようにして現実がつまらないのですか?」
ハッとして少年は女神の足と足の間から目をそらした。
さっき感じた見透かされる感覚は当たっていたんだ。
そして誤魔化すように話し始めた。
「つまらないんですよ。僕の生きてる現実って。魔法も無いし、チートも無いし、話す相手もろくに居ない」
女神の笑顔は消えていたが返って真剣みが増していた。
「それでイセカイテンセイしようとトラックに轢かれたわけですね?」
優しく、理解があるように言った。
安心して優は頷いた。もう目線は自然と女神に合わせることができる。
「もっとユーの事を知りたいな。幼稚園児の頃は分かりましたからその先を教えて欲しいんです」
女神がそう言うと、にわかに辺りが色を持ち始めた。女神の背後は黒板の緑に、足元はフローリングのつるつるしたホワイトアッシュ。二人の前にそれぞれ机。座っているのは懐かしい木製の小さな椅子。
気が付けば女神はスーツ姿に変っていた。薄い灰色のジャケットに白のインナー。胸に押し上げられてできた皺が可愛らしい。
優は教師姿の女神に懐かしさとトキメキを感じながら小学生の頃の記憶を手繰り寄せた。
正直言って、小学生の頃が一番良かったのかもしれない。進路とか、就職とかそういう面倒ごとを考えずに済んだ。
それに僕は勉強ができた。この時は。
特に勉強しなくてもテストで90点くらいは取れた。周りの子が低い点数を取るのを見て不思議に思うくらい。
今にして思うと、たぶん家庭の影響だと思う。お父さんは仕事で家に居ないときの方が多かったけど、代わりにお母さんが勉強を見てくれる。
それで点数の低い子は家が可愛そうなんだと思ってた。親が優しくないとか、貧乏とか。
僕の方が偉い。密かにそう思ってた。
なのに授業中うるさい子とか、体育だけできるクラスメイトの方が楽しそうなんだ。
いつも友達に囲まれて笑ってる。
彼らは授業中友達と笑いあってて怒られることがあったけど正直恨めしかった。
授業が聞こえないのが嫌なんじゃない。僕に友達がいない事が暗黙のうちに知れ渡っていたのが嫌だったんだ。
一回くらい巻き込みで怒られることもありそうでしょ?
でも僕は一回も怒られなかった。
先生も僕に話し相手がいない事くらい分かっているから、注意しなかったんだと思う。
勉強もできたし、先生から怒られるような生徒でもなかった。言われたことはちゃんとした。
それなのに注目されるのはいつも他の子だった。
ある時、僕も普通に恋をした。勇気を出して告白してみたけど、ダメだった。その時のあの子の言葉が忘れられないんだ。
「優くんって、つまらないんだもん」
お母さんや先生の言う通り生活してきた。なのに女の子からモテるのは僕じゃない。僕が可愛そうだと思ってたうるさい他の男子たちだった。
「一番良かった。なんて言う割には随分、卑屈になってらっしゃるのね」
女神の一声で、優はじっと見ていた床から視線を上げる。
「こんな事ばかりです僕の人生! 言われたとおりにやってきたのに、評価されるのはいつも他のヤツ! いつも授業中うるさいヤツ、体育だけできる不良みたいなヤツ! 皆、そういう人ばかり見てる!」
堰き止めていた感情が一度にあふれ出る。彼には現世で愚痴を言う相手もいなかった。
それが今、やっと正面から話を聞いてくれるまさに女神が現れた。優にはそれが救いであるし、女神だけは自分を救ってくれると信じている。
「なるほど。なるほど。ぜひ、そのまま話し続けて欲しいな。今度は中学生の頃かな?」
少年は怒りのままに、言われた通りに中学時代を思い出す。
優が女神の方を見ながら思考を始めると、もう一度世界の色が塗り替えられた。
周りは白い壁に囲まれた。壁にランドルト環視力表が掛かる。スーツを着た女教師は消え、白衣を着た養護教諭がゆったりと灰色のオフィスチェアに腰掛ける。
シルバーのパンプスに赤い眼鏡の優しい先生。
優もいつの間にやら木製の小さな椅子ではなくて、柔らかで白いベットに腰掛けた。
「さぁ続きを話してください。私はここで聞いていますから」
女神の甘ったるい声が、耳の奥に侵入する。
「はい。僕は……」
3度目の回想が初まった。
進学するにつれてどんどん、状況は悪くなりました。
小学校では勉強なんてしなくてもテストで良い点数が取れていたのに、中学校ではそうもいかなくなってた。
僕は相変わらずしっかり授業は受けてた。他の連中も相変わらずうるさいままだった。
それなのにやっぱり彼らの方が認められてた。実際にテストの点数も良かった。だから授業態度の悪いヤツにも僕は通知表で勝てなくなった。
今になって思うとあいつらは塾に行ったり、家庭教師をつけてたんです。
なんで僕のお母さんも塾に行けとか、家庭教師をつけるとか言ってくれなかったんだろう。
偉い人やテレビに出る様な有名人は勉強で勝てなくても他の分野で勝てばいい。そう言うけど、僕には何もなかった。全部で勝てなかった。バレンタインデーもチョコを貰ったことが無いんです。
「もうやめませんか?」
回想を止めて女神に訴える。
「辛いですよ。惨めです」
「もう少しじゃありません?言ってしまえば良くなりますよ」
養護教諭が風邪を引いた生徒に言うように優しく促す。
「シたいんでしょ?イセカイテンセイ」
返事も聞かない間に養護教諭は女子高生に変化した。
優がこの前まで座っていた石みたいに硬い椅子。嫌になるくらい見てきた黒板。騒がしいクラスメイト。孤独な自分。
彼にとって救いは女子高生の姿になった女神だけのはずだ。
「もういいよ! 高校なんておかしいんだ! なんで今まで協調性を大事にしろって教えてきたヤツらが面接のために個性を出せって言うんだよ! 急に言われてもできないよ! なんでこんなに辛いんだ! 普通に生きてきただけなのに……」
優が叫び終えると女神に造られた高校生活は吹き飛んだ。もとの暗い世界に逆戻り。水面に浮く少年と女神の足。
女神もヴェールをまとっただけの姿に戻された。
「そうね。このあたりにしておきましょう」
全ての感情を失ったような表情で女神が言う。
「あっ……。でも異世界転生だけはお願いします。それで全部よくなるんです!」
「やっぱりしたいんですか? イセカイテンセイ」
「はい。異世界に行きたいんです。現実がつまらないから」
女神と呼ばれていた女の表情がやり過ぎるほどに笑顔になった。目じりには無数の皺ができ、口角はどんどん上がっていく。
「イセカイテンセイなんて、あるわけ無いじゃないですか」
口角は上りに上がって、ついには口が縦に裂けた。頭皮までめくれてあの美しい金髪が剥がれ落ちた。
露になった皮の下は無数の目。あの青い瞳でなく、すべてが黒。それが一斉に優の方を見る。少年は動けない。
どこから声を発しているのか、低音の男声と高音の女声を混ぜ合わせた笑い声が響く。
「あはははは」
女神と呼ばれた物体は自分でヴェールを剥ぎ取った。
剥ぎ取った勢いそのままに左乳房を鷲掴みにするとそのままブチブチともぎ取った。
優はその場に座り込み目を逸らすことも出来なくなった。
「イセカイなんてあるわけない」
「あなたは女神さまじゃなかったんですか……?」
「メガミ、メガミ。人間はよくもそんな都合の良いものを考え付いたものだ。特にキサマ。ろくな信仰心もないくせに」
女神が爪を自分の腹に突き立てた。無数の瞳がギョロギョロと蠢くく。
その内の一つの瞳と目が合った。
化け物は目で笑ってから、爪で左右に引き裂いた。
開けた腹から内臓がボトボトと水の中に落ちていく。
「どうして? なんで?」
「ナンデ? 僕が、私が、俺が、我が聞いてみたい。なぜ?」
「現実がつまらないから……」
「ちがう! なぜ考えなかった! なぜ死んだ!」
男女の判別はできなかったが明瞭な声が響いた。
ハッキリした声を聞いて優は少し正気に戻ることができた。
何とか意思の疎通ができそうだ。
それどころか、この化け物は自分と話したがっている。
何とかそう思考を巡らせて、息を落ち着かせた。
「トラックの運転手。どうなるか考えてみたか?」
化け物が落ち着いた声で詰問を始める。
「どうなるって?」
「人間のくせに想像しないんだな。キサマが死んだら運転手はヒトゴロシになるではないか。現世に居ない私でも、僕でも想像に難くない」
「あっ」
ようやく現世に意識が向いた。
自分が死ぬだけだ。そう考えていたのに実際は違った。
「なんて利己的な死を選んだんだ。君は。誰のためになるのでもない。ただ、現実から逃れようとしてわざと死んだのだ」
言われてやっと優の心が痛んだ。
しかし罪悪感で冷静になると返って反対したくもなった。彼には彼なりの思いがある。
「逃げて何が悪いんだ! どうしたって現世はつまらない! やっぱり異世界転生させてほしいよ!」
答える前に怪物の左乳房がシュルシュルと音を立てながら元に戻っていく。左胸が再生した。
「逃げるのは構わない。ただ、キミが勝手に妄想した、異世界という逃げ場は現実には存在しないのだ」
異様な怪物に正常な論理で言われると、呆気にとられてつい涙が流れる。
「じゃあ、僕は一体どうすればいいんだ。現実世界に居場所は無いし、異世界も無かった……」
途方に暮れて泣き顔でそう絞り出した。
「まァ待て。イセカイテンセイなぞありえないとは言ったが、逃げるなとは言ってない。現世では未だに誰しもが安息を求めている。つまり、世界の方が安らぎを提供できるほど成熟していないのだ。そういう社会では人々は自然、短期的な安らぎ、快楽、逃避を求める。逃げたいのはキミだけではないということだ」
水面が揺れる。
落ちていった臓器が水中から吹き上がる。
怪物の左右に割かれた腹に、臓器が還る。指の腹で裂け目をなぞると縫合の跡も無い綺麗な胴体が復活した。
それでも美しい女の体に張り付いた無数の目との会話は続く。
「上手くいかない自分を許せ」
「僕なんてダメだよ。生きていけないよ」
気力尽き、俯いて言った。
「大丈夫。少なくとも私相手に過去の自分と向き合ってたじゃない。それに化け物の私とよく話せたわ」
長い時間、聞いてなかった女神の声がした。
「アニメを観てライトノベルを読みながらで構いません、考えて生きなさい。人間として生きなさい。貰う事ばかり考えていてはいけません。化け物に立ち向かうように自分から現実に立ち向かうのです」
無数の目はもう無い。
最初に見た女神がそこに居る。
優の頬を柔らかい両手が包む。
「ね?」
優しい笑顔に少年はやっと首を縦に振ることができた。
現世に居た時の様に足の方に重力を感じる。自分が水面に沈んでいくことに気が付いた。
「最後に一つ。もし本当に辛かったらメガミでなく人に助けて貰いなさい。教科書に載らないような無名の英雄が現世にはたくさんいますよ」
地上に引き寄せられる。宇宙の黒が見えて、すぐ空の青に変わった。
建物の白い天井をすり抜けて、ベッドに眠る自分の体に意識が入っていく。
重たい体を横に向けると作業服を着た人間が目に入る。
「本当にすみませんでした!」
あの時のドライバーだ。
「違うんです……!」
桜が舞う春。
少年の人生が始まった。
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まさに感想の通りです。昨今、異世界ブームが起きています。それ自体はエンターテイメントとして楽しい、面白い。しかし、異世界を望むということは取りも直さず現世に対して悲観的ということなんですね。エンターテイメントが現世に悲観的な選択肢しか提供できないのは良くないな。そういう思いで執筆しました。
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