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第二話 逃走
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(ったく……面倒かけやがって)
リュースが睨んだのはスキンヘッドではなく、隣にいるエリシアだった。全く悪びれた様子もなく、飄々とした顔でスキンヘッドの様子を覗き込もうとしているのを、リュースは蹴って押し退ける。
とまれ、この程度で収まる幸運に、感謝はすべきだろう。スキンヘッドの戦意が、徐々に薄れていくのを感じながら、リュースはそっと胸を撫で下ろした。
観客も、これで白けるはずだ。そうなれば、この場はお開きだ。元来、酔っぱらいの喧嘩とは、たかだかその程度のものだ。
だが。
「アニキを放せ!」
収束しかけたその場を乱したのは、スキンヘッドの連れだった。と言っても、スキンヘッドのように、見るからに柄が悪いわけでもない。むしろ顔にやや幼さが残るいわゆる童顔で、額に巻いたオレンジ色のバンダナが、唯一目立つ特徴なくらいだ。しかしその手がつかんでいるのは、先程絡まれていた女の腕だった。
男は広いわけでもない肩を精一杯いからせ、ぐいっと女を引き寄せる。バランスを崩した女はそのまま倒れ込むようにして、男の足下にひざまずいた。黒髪が灯りに反射し、緑がかって煌めく。
「あんた、ディソルダーっスよねぇ……一匹狼で、金になることならなんでもやるっていう、あの」
「あの、っつーのがどこらへんを指してんだかは知らねぇが、まぁそうだ」
リュースが頷くと、男は顔を引きつらせ、もう一度「アニキを放せっ」と怒鳴った。
「アニキは確かに酒を飲まなきゃ女の人にも声かけられないようなシャイなあんちくしょうっスけど! 前にキレて暴れたのだって、声かけた相手が実はつつもたせで、純情を弄ばれた上にふっかけられたからであって、巻き添えくった店長さんには申し訳なかったってあとでちゃんと菓子折り持ってお詫びしたしっ! 普段は、重い荷物を持つばあちゃんを手伝ったり、雨に濡れる捨て犬を保護したりするようなナイスガイなんスっ!」
「……へー」
特に感嘆を込めずに呟き、リュースはちらりと足下を見た。顔は見えないが、スキンヘッドの赤さは増しているような気がする。
「アニキは人相こそ悪くても、泣く子からも金を巻き上げるって噂のクソ野郎に、そんなふうに足蹴にされて良い人じゃないっス!」
「るせぇ! 黙って聞いてりゃベタなことばかり言いやがって。腹も膨れねぇ優しさなんかよりも、世の中は金と腕力がものを言うんだよ。今みてぇになぁ」
「どう聞いても、リュースの方が悪人ぽいねぇ」
のんびりとした言葉が聞こえ、見ればアーティエが野次馬の最前列に、素知らぬ顔で立っていた。
「てめぇ、今ごろ」
「今ごろもなにも、君が説明もせずに一人で席を離れたんじゃないか」
悪びれた様子もなく言われれば、確かにそうだと納得するしかない。リュースは言い返すことなく、代わりにスキンヘッドの関節を極める手に力を込めた。みしりという音と、くぐもった悲鳴とが耳に届く。
リュースはちらりと周囲を見た。これ以上、ここで騒ぐのは得策ではないだろう。もし野次馬を巻き込めば、そのまま乱闘にもつれ込むのは目に見えている。そうなれば、エリシアも危険だ。
正直、リュースは捕まっている女になど興味はなかった。金にならないのであれば、わざわざナンパから助けてやる義理もない。
だが――半分諦めを含めて、思う。そうなれば、エリシアが黙っていない。彼女か暴走すれば、面倒ごとは倍面倒になる。
「今からで許すから、なんとかしろ」
「随分と買ってくれたものだね」
皮肉げに応酬しながらも、アーティエは微笑みを浮かべていた。やり取りを聞いていたバンダナがぎくりと身動ぎする。
「おかしなことしたら、この女だって……えぇっと、危ないっスよっ!」
脅し文句なのだろうが、今一つはっきりしないその言葉に、アーティエがくすりとした。
「ご心配なく。危ないことなどしないから」
答えるなり、アーティエの口が小さく動き始めた。
(呪法か)
呪法――もしくは精霊術とも言う。文字通り、呪により精霊の力を借り、本来人間が行使できる以上の力を奮うための術法だ。精霊と契約した者のみが使用できる、極めて有用な能力と言える。
「そは百の貌を持ちて、万変す。極めて粒々たるは、白き闇となりて彼の眼を虜にせよ――舞うはそなた。惑うは彼奴也!」
口早に唱えられるそれを、リュースが全て聞き取れたわけではないが、なにをしようとしているかは分かった。アーティエを中心に白い濃霧が発生し、狭い店内にいる全ての者の視界を塞ぐ。
「なんだっ!?」
バンダナを含め、店内にいる多くがざわめく。落ち着き払っている者もいるようだが、おそらくそれは場数を踏んだ冒険者なのだろう。こちらの邪魔をしてこなければ、特に問題はない。
リュースはまず足元にいるスキンヘッドの後頭部を強く引く打ち、力が抜けたのを確認すると、閉ざされた視界の中で迷いなく足を踏み出した。大きく二歩――そして手を伸ばし、床に伏していた女の手を取る。
「あっ」
声がしたがそれは無視し、代わりに反対の腕を握っている手めがけて、手刀をくわえた。
「いだっ」
不意討ちをくらったバンダナの悲鳴と同時に、女の腕を強く引く。自由の身となった彼女を連れたまま、元いた方向へとまた二歩進み、「エリシア」と鋭く囁く。
「リュース」
近くから、思いのほか落ち着いた声が返ってきた。声の方に手を伸ばし、手応えを覚える。
(ん……?)
少々の違和感。だが、躊躇している時間はない。そのまま、霧がかる前に確認しておいた出口へと走る。
店を出ると、視界が一気に晴れた。清々しい夜の空気に呼吸を整え周囲を確認すると、先に脱出していたらしいアーティエが手招きしているのが見えた。
「こっちへ」
アーティエがいたのは、二軒先にある宿屋の軒先だった。二人の腕をつかんだままリュースが向かうと、アーティエは「取り敢えず、中へ」とそそくさと入っていく。
連れてきた二人を先に行かせるため、リュースようやくそこで振り返った。――ほんの少々の、疑惑を胸に。
そこにいたのは、間違いなくエリシアと、例の女だった。店内で座っているときには気がつかなかったものの、女は立つとやけに背が高かった。平均程度の身長はあるリュースでさえ、見上げるほどに。エリシアとは、頭一つ分も違う。
女はリュースに見られていることに気がつくと、恥じらうように布で顔を覆った。
リュースは二人の手を放し、二人に中に入るよう促した。その間に、アーティエは部屋をとっていたらしい。受付から鍵を二つ借り受け、「上の階だって」と三人を先導する。
宿はいたって平均的な作りをしていた。木造の二階建てで、中央の階段を昇ると左右に三つずつ部屋がある。アーティエがとった部屋は、階段を上がってすぐ右側にある部屋と、右側最奥の部屋の二室だった。
作りは、奥の部屋が少し広めになっているらしい。先ずはそこに入ると、全員ようやく力が抜けたように各々荷物を置いて腰を落ち着かせだした。
「まぁ、なんとかなったが……そんで、あんたは?」
二人掛けソファーの中央に陣取ったリュースが、クッションの固さに眉をしかめつつ、真っ先に女に訊ねた。いや、やはりと言うべきか――明るい部屋の中で見る限り、立派な喉仏が見える「女だと思っていた」男に。
(おかしいとは思ったんだ――つかんだ腕の感じが、エリシアと違いすぎたもんな)
男は、扉の前に直立したままであった。自分に話の矛先が向けられ、びくりと身体を震わせる。両手を胸の前で祈るように組むと、「あの」と小さな声で呟き始めた。
「えっと、その」
「もじもじすんな。さっさと簡潔に喋れ」
見える範囲では、薄暗い酒場で騒がれていた通り美形に違いなかったが、やはり男であることが確定したうえでこうもなよなよされると、妙に神経を逆撫でる。苛々と注文をつけるリュースに、だが男は余計に身体を強張らせ、頭から深々と被った布の端をぎゅっと握った。
「リュース、意地悪しないでよ。弱い者いじめなんて、カッコ悪いわ」
ベッドに腰かけているエリシアが、口を尖らせ、人差し指を振るう。
リュースは溜め息をつき、「おい弱い者」と、もう一度雑に男へ呼びかけた。
「つか、男なら男ってさっさとあそこで言えば良かっただろが。そしたら、あのタコ共もさっさと引き下がったろうに」
「で、でも。言い出す、タイミングがなくて……」
ぼそぼそとではあるが、男が返事をする。
「男だってバレたら……今度はカツアゲとかされるんじゃないかって……あの人、顔おっかなかったですし……」
確かに酒場でも思ったが、男の身なりはかなり良かった。衣服の布も麻や綿ではなく、上質な光沢がある。
くすりと笑ったのは、向かいの椅子に腰かけているアーティエだった。男がびくりと身体を震わせ、おそるおそるとそちらに顔を向ける。
「失礼。――まぁ確かに、リュースがあそこで止めに入らず、貴方が男だとバレていたら、そうならなかった保証はないよね」
「は、はい。えっと……あなたは、何とお呼びすれば」
おずおずと訊ねる男に追随するように、エリシアが勢いよく手を上げた。
「あたしも気になる。そもそも、リュースにお友だちがいること自体、知らなかったし。それに、あなたのことも何て呼んだら良いものかしらって」
言いながら、その視線は男に向けられた。男が布をぎゅっとつかむ。
リュースは溜め息をつき、「仕方ねぇなぁ」と呟いた。
「それぞれ自己紹介……ってのも、なんか間抜けだけどよ」
主に男へ視線を向けながら、リュースが自分の胸に触れる。
「俺は、リュース・ディソルダー。冒険者で……カテゴリーは勇者だ。んで、こっちが」
ちらっと目線を向けると、心得たとばかりにアーティエが頷いた。
「アーティエ――姓はないよ。吟遊詩人として、あちこち巡ってるんだ」
「前に、仕事の関係で知り合ってな」
リュースが付け加えると、エリシアは納得したように頷いた。アーティエに顔を向けると、「アーティエさん」と覚えたての名を呼ぶ。
「リュースって、口も目つきも悪いし、手が出るのも早くて、誤解されやすいけど根は真面目な良い子なの。仲良くしてあげてね」
「おまえは俺を持ち上げたいのか貶したいのかどっちなんだ」
リュースがじとりと見遣るが、エリシアは全く意に介した様子もなく、にこにこと微笑んでいる。
「さっきも思ったのだけれど。エリシアさんは、リュースのお姉さんなのかな?」
アーティエの問いに、エリシアが少しばかり頬を赤くし、首を引っ込めた。
「あたしは――そう思ってるけど」
「エリシア・ガーランド。19歳独身、彼氏は一年前、二ヶ月半付き合った花屋のティルボから誕生日に『本当は大人しくて優しい女の子がタイプなんだ』と振られて以来なし。付け加えることは?」
「二ヶ月半じゃなくて三ヶ月! あと一週間で、三ヶ月記念日だったんだから」
そう、エリシアがリュースを怒鳴る。リュースはそれを無視したが、代わりに「ガーランド……」と小さく呟く男の声が聞こえた。訊くに訊けないのだろう。リュースは肩をすくめてみせた。
「別に、本当の姉弟じゃないってだけだ。歳も同じだしな」
「でも、あたしの方が半年早いもの」
そこは譲れないらしい。エリシアがきっぱりと言いきる。
それには答えず、リュースはもう一度肩をすくめて壁際に移動した。通りに面した窓からは、先ほどまでいた酒場が見える。騒ぎはすっかり収まったのだろうか。様子を伺いながら、少しばかり窓を開けると、気持ちの良い空気が流れ込んできた。
「それで、あなたは?」
エリシアに水を向けられた男は、びくりと身体を強張らせると、「えっと」とうつむき、ぼそぼそ口を開いた。
「アレフィオス……です。アレフ、と呼ばれることが多いです」
言いながら、また布をきつく握りだした。
「わたし……は」
その時だった。
窓から吹き込む風が急に強くなり、室内を煽った。同時に、アレフィオスの布もまくれ上がり、その顔が露になった。
整った顔立ちだろうと、予想はしていた。それこそ、美女と間違えるほどに、布から見える鼻や唇、輪郭は美しかった。
だが、それ以上に印象的なのは、露になったその眼だった。ほんのり垂れた目尻は、本人の性格を反映しているかのようだ。そして、長い睫毛に縁取られたその瞳は、非常に珍しい金色をしている。
なによりも。眼と同時に表れた耳は、人間のそれよりも少々長く。そして先が尖っていた。
「わたしは」
アレフィオスが言う。おどおどと、弱々しい口調で。しかし、はっきりと。その金色の瞳は、伏しがちながらもリュースを捉えていた。
「わたし、は……その。魔王、なんです」
その声を、ぼんやりとする頭で聞きながら。リュースはふと、あの騒ぎの中、例の手紙はどうしたのだったかと。そう、どうでも良いことを思い浮かべた。
リュースが睨んだのはスキンヘッドではなく、隣にいるエリシアだった。全く悪びれた様子もなく、飄々とした顔でスキンヘッドの様子を覗き込もうとしているのを、リュースは蹴って押し退ける。
とまれ、この程度で収まる幸運に、感謝はすべきだろう。スキンヘッドの戦意が、徐々に薄れていくのを感じながら、リュースはそっと胸を撫で下ろした。
観客も、これで白けるはずだ。そうなれば、この場はお開きだ。元来、酔っぱらいの喧嘩とは、たかだかその程度のものだ。
だが。
「アニキを放せ!」
収束しかけたその場を乱したのは、スキンヘッドの連れだった。と言っても、スキンヘッドのように、見るからに柄が悪いわけでもない。むしろ顔にやや幼さが残るいわゆる童顔で、額に巻いたオレンジ色のバンダナが、唯一目立つ特徴なくらいだ。しかしその手がつかんでいるのは、先程絡まれていた女の腕だった。
男は広いわけでもない肩を精一杯いからせ、ぐいっと女を引き寄せる。バランスを崩した女はそのまま倒れ込むようにして、男の足下にひざまずいた。黒髪が灯りに反射し、緑がかって煌めく。
「あんた、ディソルダーっスよねぇ……一匹狼で、金になることならなんでもやるっていう、あの」
「あの、っつーのがどこらへんを指してんだかは知らねぇが、まぁそうだ」
リュースが頷くと、男は顔を引きつらせ、もう一度「アニキを放せっ」と怒鳴った。
「アニキは確かに酒を飲まなきゃ女の人にも声かけられないようなシャイなあんちくしょうっスけど! 前にキレて暴れたのだって、声かけた相手が実はつつもたせで、純情を弄ばれた上にふっかけられたからであって、巻き添えくった店長さんには申し訳なかったってあとでちゃんと菓子折り持ってお詫びしたしっ! 普段は、重い荷物を持つばあちゃんを手伝ったり、雨に濡れる捨て犬を保護したりするようなナイスガイなんスっ!」
「……へー」
特に感嘆を込めずに呟き、リュースはちらりと足下を見た。顔は見えないが、スキンヘッドの赤さは増しているような気がする。
「アニキは人相こそ悪くても、泣く子からも金を巻き上げるって噂のクソ野郎に、そんなふうに足蹴にされて良い人じゃないっス!」
「るせぇ! 黙って聞いてりゃベタなことばかり言いやがって。腹も膨れねぇ優しさなんかよりも、世の中は金と腕力がものを言うんだよ。今みてぇになぁ」
「どう聞いても、リュースの方が悪人ぽいねぇ」
のんびりとした言葉が聞こえ、見ればアーティエが野次馬の最前列に、素知らぬ顔で立っていた。
「てめぇ、今ごろ」
「今ごろもなにも、君が説明もせずに一人で席を離れたんじゃないか」
悪びれた様子もなく言われれば、確かにそうだと納得するしかない。リュースは言い返すことなく、代わりにスキンヘッドの関節を極める手に力を込めた。みしりという音と、くぐもった悲鳴とが耳に届く。
リュースはちらりと周囲を見た。これ以上、ここで騒ぐのは得策ではないだろう。もし野次馬を巻き込めば、そのまま乱闘にもつれ込むのは目に見えている。そうなれば、エリシアも危険だ。
正直、リュースは捕まっている女になど興味はなかった。金にならないのであれば、わざわざナンパから助けてやる義理もない。
だが――半分諦めを含めて、思う。そうなれば、エリシアが黙っていない。彼女か暴走すれば、面倒ごとは倍面倒になる。
「今からで許すから、なんとかしろ」
「随分と買ってくれたものだね」
皮肉げに応酬しながらも、アーティエは微笑みを浮かべていた。やり取りを聞いていたバンダナがぎくりと身動ぎする。
「おかしなことしたら、この女だって……えぇっと、危ないっスよっ!」
脅し文句なのだろうが、今一つはっきりしないその言葉に、アーティエがくすりとした。
「ご心配なく。危ないことなどしないから」
答えるなり、アーティエの口が小さく動き始めた。
(呪法か)
呪法――もしくは精霊術とも言う。文字通り、呪により精霊の力を借り、本来人間が行使できる以上の力を奮うための術法だ。精霊と契約した者のみが使用できる、極めて有用な能力と言える。
「そは百の貌を持ちて、万変す。極めて粒々たるは、白き闇となりて彼の眼を虜にせよ――舞うはそなた。惑うは彼奴也!」
口早に唱えられるそれを、リュースが全て聞き取れたわけではないが、なにをしようとしているかは分かった。アーティエを中心に白い濃霧が発生し、狭い店内にいる全ての者の視界を塞ぐ。
「なんだっ!?」
バンダナを含め、店内にいる多くがざわめく。落ち着き払っている者もいるようだが、おそらくそれは場数を踏んだ冒険者なのだろう。こちらの邪魔をしてこなければ、特に問題はない。
リュースはまず足元にいるスキンヘッドの後頭部を強く引く打ち、力が抜けたのを確認すると、閉ざされた視界の中で迷いなく足を踏み出した。大きく二歩――そして手を伸ばし、床に伏していた女の手を取る。
「あっ」
声がしたがそれは無視し、代わりに反対の腕を握っている手めがけて、手刀をくわえた。
「いだっ」
不意討ちをくらったバンダナの悲鳴と同時に、女の腕を強く引く。自由の身となった彼女を連れたまま、元いた方向へとまた二歩進み、「エリシア」と鋭く囁く。
「リュース」
近くから、思いのほか落ち着いた声が返ってきた。声の方に手を伸ばし、手応えを覚える。
(ん……?)
少々の違和感。だが、躊躇している時間はない。そのまま、霧がかる前に確認しておいた出口へと走る。
店を出ると、視界が一気に晴れた。清々しい夜の空気に呼吸を整え周囲を確認すると、先に脱出していたらしいアーティエが手招きしているのが見えた。
「こっちへ」
アーティエがいたのは、二軒先にある宿屋の軒先だった。二人の腕をつかんだままリュースが向かうと、アーティエは「取り敢えず、中へ」とそそくさと入っていく。
連れてきた二人を先に行かせるため、リュースようやくそこで振り返った。――ほんの少々の、疑惑を胸に。
そこにいたのは、間違いなくエリシアと、例の女だった。店内で座っているときには気がつかなかったものの、女は立つとやけに背が高かった。平均程度の身長はあるリュースでさえ、見上げるほどに。エリシアとは、頭一つ分も違う。
女はリュースに見られていることに気がつくと、恥じらうように布で顔を覆った。
リュースは二人の手を放し、二人に中に入るよう促した。その間に、アーティエは部屋をとっていたらしい。受付から鍵を二つ借り受け、「上の階だって」と三人を先導する。
宿はいたって平均的な作りをしていた。木造の二階建てで、中央の階段を昇ると左右に三つずつ部屋がある。アーティエがとった部屋は、階段を上がってすぐ右側にある部屋と、右側最奥の部屋の二室だった。
作りは、奥の部屋が少し広めになっているらしい。先ずはそこに入ると、全員ようやく力が抜けたように各々荷物を置いて腰を落ち着かせだした。
「まぁ、なんとかなったが……そんで、あんたは?」
二人掛けソファーの中央に陣取ったリュースが、クッションの固さに眉をしかめつつ、真っ先に女に訊ねた。いや、やはりと言うべきか――明るい部屋の中で見る限り、立派な喉仏が見える「女だと思っていた」男に。
(おかしいとは思ったんだ――つかんだ腕の感じが、エリシアと違いすぎたもんな)
男は、扉の前に直立したままであった。自分に話の矛先が向けられ、びくりと身体を震わせる。両手を胸の前で祈るように組むと、「あの」と小さな声で呟き始めた。
「えっと、その」
「もじもじすんな。さっさと簡潔に喋れ」
見える範囲では、薄暗い酒場で騒がれていた通り美形に違いなかったが、やはり男であることが確定したうえでこうもなよなよされると、妙に神経を逆撫でる。苛々と注文をつけるリュースに、だが男は余計に身体を強張らせ、頭から深々と被った布の端をぎゅっと握った。
「リュース、意地悪しないでよ。弱い者いじめなんて、カッコ悪いわ」
ベッドに腰かけているエリシアが、口を尖らせ、人差し指を振るう。
リュースは溜め息をつき、「おい弱い者」と、もう一度雑に男へ呼びかけた。
「つか、男なら男ってさっさとあそこで言えば良かっただろが。そしたら、あのタコ共もさっさと引き下がったろうに」
「で、でも。言い出す、タイミングがなくて……」
ぼそぼそとではあるが、男が返事をする。
「男だってバレたら……今度はカツアゲとかされるんじゃないかって……あの人、顔おっかなかったですし……」
確かに酒場でも思ったが、男の身なりはかなり良かった。衣服の布も麻や綿ではなく、上質な光沢がある。
くすりと笑ったのは、向かいの椅子に腰かけているアーティエだった。男がびくりと身体を震わせ、おそるおそるとそちらに顔を向ける。
「失礼。――まぁ確かに、リュースがあそこで止めに入らず、貴方が男だとバレていたら、そうならなかった保証はないよね」
「は、はい。えっと……あなたは、何とお呼びすれば」
おずおずと訊ねる男に追随するように、エリシアが勢いよく手を上げた。
「あたしも気になる。そもそも、リュースにお友だちがいること自体、知らなかったし。それに、あなたのことも何て呼んだら良いものかしらって」
言いながら、その視線は男に向けられた。男が布をぎゅっとつかむ。
リュースは溜め息をつき、「仕方ねぇなぁ」と呟いた。
「それぞれ自己紹介……ってのも、なんか間抜けだけどよ」
主に男へ視線を向けながら、リュースが自分の胸に触れる。
「俺は、リュース・ディソルダー。冒険者で……カテゴリーは勇者だ。んで、こっちが」
ちらっと目線を向けると、心得たとばかりにアーティエが頷いた。
「アーティエ――姓はないよ。吟遊詩人として、あちこち巡ってるんだ」
「前に、仕事の関係で知り合ってな」
リュースが付け加えると、エリシアは納得したように頷いた。アーティエに顔を向けると、「アーティエさん」と覚えたての名を呼ぶ。
「リュースって、口も目つきも悪いし、手が出るのも早くて、誤解されやすいけど根は真面目な良い子なの。仲良くしてあげてね」
「おまえは俺を持ち上げたいのか貶したいのかどっちなんだ」
リュースがじとりと見遣るが、エリシアは全く意に介した様子もなく、にこにこと微笑んでいる。
「さっきも思ったのだけれど。エリシアさんは、リュースのお姉さんなのかな?」
アーティエの問いに、エリシアが少しばかり頬を赤くし、首を引っ込めた。
「あたしは――そう思ってるけど」
「エリシア・ガーランド。19歳独身、彼氏は一年前、二ヶ月半付き合った花屋のティルボから誕生日に『本当は大人しくて優しい女の子がタイプなんだ』と振られて以来なし。付け加えることは?」
「二ヶ月半じゃなくて三ヶ月! あと一週間で、三ヶ月記念日だったんだから」
そう、エリシアがリュースを怒鳴る。リュースはそれを無視したが、代わりに「ガーランド……」と小さく呟く男の声が聞こえた。訊くに訊けないのだろう。リュースは肩をすくめてみせた。
「別に、本当の姉弟じゃないってだけだ。歳も同じだしな」
「でも、あたしの方が半年早いもの」
そこは譲れないらしい。エリシアがきっぱりと言いきる。
それには答えず、リュースはもう一度肩をすくめて壁際に移動した。通りに面した窓からは、先ほどまでいた酒場が見える。騒ぎはすっかり収まったのだろうか。様子を伺いながら、少しばかり窓を開けると、気持ちの良い空気が流れ込んできた。
「それで、あなたは?」
エリシアに水を向けられた男は、びくりと身体を強張らせると、「えっと」とうつむき、ぼそぼそ口を開いた。
「アレフィオス……です。アレフ、と呼ばれることが多いです」
言いながら、また布をきつく握りだした。
「わたし……は」
その時だった。
窓から吹き込む風が急に強くなり、室内を煽った。同時に、アレフィオスの布もまくれ上がり、その顔が露になった。
整った顔立ちだろうと、予想はしていた。それこそ、美女と間違えるほどに、布から見える鼻や唇、輪郭は美しかった。
だが、それ以上に印象的なのは、露になったその眼だった。ほんのり垂れた目尻は、本人の性格を反映しているかのようだ。そして、長い睫毛に縁取られたその瞳は、非常に珍しい金色をしている。
なによりも。眼と同時に表れた耳は、人間のそれよりも少々長く。そして先が尖っていた。
「わたしは」
アレフィオスが言う。おどおどと、弱々しい口調で。しかし、はっきりと。その金色の瞳は、伏しがちながらもリュースを捉えていた。
「わたし、は……その。魔王、なんです」
その声を、ぼんやりとする頭で聞きながら。リュースはふと、あの騒ぎの中、例の手紙はどうしたのだったかと。そう、どうでも良いことを思い浮かべた。
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