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第2章
幕28 困りました
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脇の下へ手を差し込まれ、空中にぶら下げられたティモは、逃げることもできず、固まっている。
ティモの紅の瞳を覗き込んでくるのは、主人の真剣な眼差し。
「困りました」
まったく困っていない態度で、能面の表情で、クロエは繰り返す。
「どうして、あんなに格好いいんでしょう。最高ですか? いえ、至高ですね」
ああ、語彙力の足りなさが恨めしい。
爛々と輝く双眸から、逃れることもできず、ティモは固まっていた。
ティモの主とはいえ、かつてない反応に、とうとう狂ったか、とすら思ってしまう。
彼女が言っているのは、さきほどこの場で起きたことではない。
ゼルキアン領でのことだ。
もっと正確に言うならば、オズヴァルト・ゼルキアンの話をしている。
ここで起きたことはまるで眼中にない様子だ。
どう反応すれば正解なのかまるでわからない。
無論、ティモとて、知っていた。
オズヴァルト・ゼルキアン―――――その存在は。
この人間が、女帝クロエにとって、特別な存在であることも。
いつだったか理由を聞いた時、クロエは確信をもって答えた。
―――――あの方が、わたしを救う唯一なのです。
それは、切実な響きを帯びていて。
本当に。
本当に、そんな存在が実在するのなら。
早く主を助け出してほしいと願ったこともあるが。
今までオズヴァルト・ゼルキアンに対して見せていた対応は、ひどくしょっぱかった。
あの男が婚約した時も、結婚した時も、子供ができた時も、特に何かを感じた様子はなく。
あれほどの男に対し、格好いい、などと言ったことは一度もない。
情けないですね、と辛辣な評価を下したことは多々あるが。
それなのに。
目の前にいる人形めいた主は、潤んだ眼をして熱い息を吐き、夢見心地に繰り返す。
―――――すてき。
まるで恋する乙女だ。冗談だろ。
態度がこうまで激変した理由が、ティモにはわからない。
迷子が、ようやく親の顔を見つけられた。
そんな反応。
だけ、というには、無垢どころか色々と歪な感情が混ざっているが、
(まさかこんな小娘みたいな反応…予測すらしてねえよ!)
クロエは座り込み、しばし意味不明の言葉を全力で紡ぎ続ける姿勢だ。
先ほどから、降り注ぐ先はティモの顔。
座り込んでいると言っても、そこは空中だった。『ある場所』の室内ではあるが。
そこが問題だった。
「ちょ、待っ、姉御! ここは異端の工房内! ゆっくり座り込んで話し込む時間なんてないし、危険だからっ」
ゼルキアン領をお暇したのは、つい先ほどだ。
あのへんな服から、いつもの格好に戻ったクロエは、転移するなり、室内にあったものを一瞬で殲滅した。
豪勢なほど華麗なうつくしさをまとう魔女の行いは、常にひどく苛烈だった。
この場所の後始末をしなければならないせいで、ゼルキアン領から早めに出なければならなかった、という八つ当たり気味の行動だということを、ティモはちゃんと承知している。
「い、一応さあ、毎日夕方にお茶するんだろ? 帰る間際に、約束したじゃねえか。毎日会えるんだろ?」
尻尾でべしべし腕を叩けば、
「それはそれとして」
ティモを見つめる眼差しに霜が降りる。
「わたしは今日あの方に会った余韻に、今、浸っていたいのですが」
言外の言葉―――――邪魔するな。
だめだこりゃ。
まさか毎日、余韻に浸ったりしないだろうな。
戦々恐々とした気持ちがティモの心を掠めた。
それにしても、本当に主人の心の中で、いったい今、何が起こっているのか。
(この数日間で、気のせいか、表情豊かになってきたような…)
彼女が抱える『とある事情』から、そんなわけがない、はずなのだが。
ぺしょ、と三角耳を寝かせ、覚悟を決めた『とある事情』の一部であるティモを見かねたわけでもないだろうが、
「遅れてきて、なんの話だい?」
薄暗い中、近くにあった椅子を引いた黒髪の女が、そこに腰かけながら興味深そうにクロエを見遣る。
「あんたがそんなに興奮してるなんて、珍しいねぇ、クロエ」
言いながら、沈黙に満ちた室内に視線を這わせた。
「ここも一瞬で片付けたみたいだし」
クロエは興味もなさそうに彼女を振り返る。表情が言っていた。
あ、いたの。
女が浮かべた微笑に、少し、イラっとしたものが走る。
うつくしいが、理知的と言える冷徹な顔立ちに、一瞬忙しない計算がよぎり、
「…あー、そっかそっか。あの方のとこに行ったんだね」
クロエの興味を最も引き出す話題を口にした。たちまち、クロエの視線が、きちっと女に固定される。
「変なカッコして、なんか、浮かれてたもんねえ? でもあれ、あんたの胸が大きすぎてちょっといやらしい感じもあったよ? もしかして、あの格好で、直前までゼルキアン領にいた感じかい?」
「賢者」
まったく感情のない無機質なクロエの声が、女を呼んだ。
だが女は怯まなかった。
クロエの反応を探るように見ながら、言葉を続ける。
「なに、紹介してくれるわけ? 天人だなんて、会えたらぜひとも研究に協力してほし」
「―――――賢者レイラ」
感情のこもらないはずのクロエの声に、刃じみた鋭さを感じ、レイラは口を閉ざした。
しかしその小さな唇に浮かぶ、相手をからかうような笑みは消えていない。
賢者レイラ。
もともと人間だったが、八百年ほど前、魔女となり、妙な縁があって、クロエと付き合いを続けている。
賢者レイラと言えば、人間たちの歴史に色々と貢献し、業績を残す存在だが、人々に積極的にかかわる姿勢は彼女にはない。
レイラの目的は一つだ。
今日の行動は、その一環。
乾いた女帝の声に、本気がにじんだ。
「あの方に指一本でも触れたら即存在を抹消します」
物騒だが、冗談ではなさそうだ。
天人を諦めるのは少し惜しい。
が、何が何でも執着するほどではなかった。
「じゃあ観察するよ」
肩を竦めて譲歩したのに、
「見るのもダメです」
すぐダメ出しが来た。
「心が狭いぞ?」
思わず立ち上がりかけ、レイラはクロエを見ながら目を細めた。
今見る限りでは、いつもの女帝だ。だが何か少し、浮ついている。
(まさかとは思うけどねえ)
レイラは冷静な顔で、少し失礼なことを考えた。
(色ボケとかないだろうね、この人に限って)
女帝、という存在は。
男や女とかいう以前に、もう人間や魔物という領域すら超えた超越した生き物に感じられる。
世間一般では、生きた歳月が千年を越えていると言われるが、正確には1200歳という驚異の存在だ。
要するに、八百年生きたレイラより、四百も年上なわけである。
まあ、ここまでくれば、年齢差などもうないに等しいけれど。
女帝には、年経た大木のような、うつくしい鉱物のような、無機質な雰囲気があった。
それが、オズヴァルト・ゼルキアンに関することとなると、変わるのだ。
以前から、女帝が彼に執心だったことは知っているが。
(あの男が結婚しても、子供ができても何も変わった様子はなかったのに)
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