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日誌・72 誓約
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はじめて聴いた話ではない。ない、…が。
雪虎が、伝承を、本当に自分自身と重ねたのは、今が初めてだ。
(あ、今なら、自分がどんな顔してるのか分かるぞ)
―――――正直なところを言えば。
迷惑な話だった。
きっと今、雪虎は迷惑そうに鼻白んでいるはず。
嬉しいとも思わないし、恐怖もないし、困惑もない。
ひたすら、―――――迷惑。
だいたい、それで恩恵を得られたわけでもなかった。真逆のことばかりの人生だ。
いや、得て、…いたのだろうか?
(先代が、俺を可愛がったのは)
月杜の先代が、最後の最後の段階では、雪虎の逃げ場になってくれたこと。
手を差し伸べ、助けてくれたこと。
あれらは、すべて。
…そして。
目の前にいるこの男が、雪虎に甘いようなのも、結局は。
そこに、着地するのだとしたら。
―――――雪虎の血の気が、さらに下がる。
思わず、低い声が出た。
「…伝承が、どうだか、知りませんが」
月杜家の当主たちの、雪虎に対する対応が、もし。
伝承、などと言った不確かなもののために決められたのなら。
そこに、彼ら自身の気持ちなど、あるのだろうか。
原因である伝承そのものが、雪虎から消えたら。
秀にとって、雪虎という存在は、あっという間に、価値がなくなるのではないだろうか。
ならば。
秀にとって、雪虎個人など、どうでもいいということになる。
彼にとって、大切なのは、雪虎個人ではない。
―――――雪虎の身に宿る、伝承だ。
これを、迷惑、と言わずして、何というのか。
雪虎は、きっぱりと告げた。
「俺は、そんなものに操られたくない」
祟りの顕れであるこの体質のせいで、雪虎はこれまでずっと振り回され続けている。
この上なお、面倒ごとや制約を押し付けられたくはない。
同時に。
振り回され続けた雪虎だからこそ、秀を、気の毒にも思う。
目の前にいる彼が、昔、雪虎を嫌っていたのは、もしかすると。
―――――抗う気持ちがあったからかもしれない。
伝承に、因習に従い、雪虎を守らなければならない、そんな役目から、逃げたかったからなのだとしたら。
「そうか」
雪虎の言葉に、秀は、ただ頷いた。…いつも通り。しずかに、受け容れる。
その態度に、雪虎の胸が痛んだ。
身勝手にも、傷つけられた気になった。
…秀が。
雪虎に対する言動を、雪虎の中の伝承の影だけを見て、決めているのかもしれない、その事実にも、真っ当な人間のようにショックを受けているけれど。
それ以上に。
―――――秀は、否応なく月杜の当主となった。
そのために、これほど優れた立派な男が、伝承などと言った不確かなものに振り回され、雪虎のようなロクデナシを尊重せざるを得ない状況が、雪虎には納得がいかないのだ。
(間違ってるだろう、こんなの)
思い返せば。
雪虎と関わらなければ、幼い頃のまま嫌っていれば、秀は。
なんの傷もない人生を、歩めていたのではないか。
「会長は」
いくら苦手でも。
目の前にいれば逃げ出したくなる相手だとしても。
秀は雪虎にとって、間違いなく、数少ない身内の一人で。
「逃げたくありませんか」
ふと、思い出す。
昔、離れにある池のほとりで。
幼馴染に似たようなことを言った。
―――――俺と逃げようか、と。
一緒に戦ってあげるよ、とは言いたくても言えなくて。
雪虎はそこが、自分自身のことながら、臆病で殴りたくなる。
本音のところ、雪虎は、身内に不幸にはなってほしくない。
だから、―――――雪虎が秀の近くにいるのは好ましくないのだ。知ってはいたが、骨の髄まで自覚したのは、今日が初めてだ。
悔しさに拳を握り締めた雪虎に、秀は、いつもと変わらない表情で言った。
「どこへ」
(だよ、な)
秀は、未だ逃げ続けている雪虎などとは違う。
最初から、秀は、逃げ場などない男だった。
なにより、自分に逃げることを許せない人間だった。
子供の頃から、秀が誰より努力して、今のようになったことを、雪虎は知っている。
それなのに。
…雪虎が、この男の足かせになっているのではないか。
(…愕然とするな)
一瞬、思考が止まった。
自己嫌悪で死にそうになる。
ふぅ、と小さく息を吐きだした。
…結局のところ。
互いに、その伝承とやらから解放されない限り、自由はない。ならば。
もう自身の体質を受け入れている雪虎なら、どうにもならなくても構わないが、せめて秀は解放してやらなくては、と思う。
共にいることで、恭也と雪虎が互いの特異な体質を打ち消し合うことができたように、秀と雪虎の間でも、できることが何かあるはずだ。
なにせ、秀の状況は、見方によっては、雪虎よりひどい。
秀は、雪虎という個人に奴隷のように縛られてしまっている、という状況だからだ。
ただ、月杜の当主というだけで。
秀自身の気持ちなど、無視されて。
酷い話だ。
と思ったところで。
何をどうやればいいのか、さっぱり分からないが。
「大変ですね、会長も。とんだ貧乏くじだ」
雪虎の体質を祟りというなら、秀のそれは―――――呪いだ。
つい、ボヤくように呟けば。
秀はゆっくりと首を横に振った。
「そう見えるのか。ならば付け加えるが、月杜家が受け継ぐこれは、強制ではない」
雪虎は、眉をひそめる。
秀が何を言おうとしているのか、分からない。
「教育でもなく」
秀の声は、淡々としたものだ。
「ましてや、洗脳でもない」
口調に、意気込みや緊張などと言ったものはひとつもない。
気軽に、子供に絵本でも読み聞かせるような雰囲気。
まるで、そんなものすら生易しいと言いたげだ。
「この身を流れる『血』そのものに、刻まれた誓約なのだ」
言い切った、表情に浮かぶのは、誇り。諦めでなく。
「成長のたび、理解は深まった」
そう告げた、秀の顔に浮かんだ表情は。
「トラが、『そう』なのだと」
―――――満足そうな、淡い微笑。
逃げきれないからこそ、諦念から受け入れた、そんな消極的な肯定ではなく。
…信じられないことに、秀は、現在の状況に、心底納得している。
雪虎は目を瞠る。
同時に心地よく受け入れた。
…完敗だ、と。
(ああ、これだから、…敵わないんだ)
雪虎が、伝承を、本当に自分自身と重ねたのは、今が初めてだ。
(あ、今なら、自分がどんな顔してるのか分かるぞ)
―――――正直なところを言えば。
迷惑な話だった。
きっと今、雪虎は迷惑そうに鼻白んでいるはず。
嬉しいとも思わないし、恐怖もないし、困惑もない。
ひたすら、―――――迷惑。
だいたい、それで恩恵を得られたわけでもなかった。真逆のことばかりの人生だ。
いや、得て、…いたのだろうか?
(先代が、俺を可愛がったのは)
月杜の先代が、最後の最後の段階では、雪虎の逃げ場になってくれたこと。
手を差し伸べ、助けてくれたこと。
あれらは、すべて。
…そして。
目の前にいるこの男が、雪虎に甘いようなのも、結局は。
そこに、着地するのだとしたら。
―――――雪虎の血の気が、さらに下がる。
思わず、低い声が出た。
「…伝承が、どうだか、知りませんが」
月杜家の当主たちの、雪虎に対する対応が、もし。
伝承、などと言った不確かなもののために決められたのなら。
そこに、彼ら自身の気持ちなど、あるのだろうか。
原因である伝承そのものが、雪虎から消えたら。
秀にとって、雪虎という存在は、あっという間に、価値がなくなるのではないだろうか。
ならば。
秀にとって、雪虎個人など、どうでもいいということになる。
彼にとって、大切なのは、雪虎個人ではない。
―――――雪虎の身に宿る、伝承だ。
これを、迷惑、と言わずして、何というのか。
雪虎は、きっぱりと告げた。
「俺は、そんなものに操られたくない」
祟りの顕れであるこの体質のせいで、雪虎はこれまでずっと振り回され続けている。
この上なお、面倒ごとや制約を押し付けられたくはない。
同時に。
振り回され続けた雪虎だからこそ、秀を、気の毒にも思う。
目の前にいる彼が、昔、雪虎を嫌っていたのは、もしかすると。
―――――抗う気持ちがあったからかもしれない。
伝承に、因習に従い、雪虎を守らなければならない、そんな役目から、逃げたかったからなのだとしたら。
「そうか」
雪虎の言葉に、秀は、ただ頷いた。…いつも通り。しずかに、受け容れる。
その態度に、雪虎の胸が痛んだ。
身勝手にも、傷つけられた気になった。
…秀が。
雪虎に対する言動を、雪虎の中の伝承の影だけを見て、決めているのかもしれない、その事実にも、真っ当な人間のようにショックを受けているけれど。
それ以上に。
―――――秀は、否応なく月杜の当主となった。
そのために、これほど優れた立派な男が、伝承などと言った不確かなものに振り回され、雪虎のようなロクデナシを尊重せざるを得ない状況が、雪虎には納得がいかないのだ。
(間違ってるだろう、こんなの)
思い返せば。
雪虎と関わらなければ、幼い頃のまま嫌っていれば、秀は。
なんの傷もない人生を、歩めていたのではないか。
「会長は」
いくら苦手でも。
目の前にいれば逃げ出したくなる相手だとしても。
秀は雪虎にとって、間違いなく、数少ない身内の一人で。
「逃げたくありませんか」
ふと、思い出す。
昔、離れにある池のほとりで。
幼馴染に似たようなことを言った。
―――――俺と逃げようか、と。
一緒に戦ってあげるよ、とは言いたくても言えなくて。
雪虎はそこが、自分自身のことながら、臆病で殴りたくなる。
本音のところ、雪虎は、身内に不幸にはなってほしくない。
だから、―――――雪虎が秀の近くにいるのは好ましくないのだ。知ってはいたが、骨の髄まで自覚したのは、今日が初めてだ。
悔しさに拳を握り締めた雪虎に、秀は、いつもと変わらない表情で言った。
「どこへ」
(だよ、な)
秀は、未だ逃げ続けている雪虎などとは違う。
最初から、秀は、逃げ場などない男だった。
なにより、自分に逃げることを許せない人間だった。
子供の頃から、秀が誰より努力して、今のようになったことを、雪虎は知っている。
それなのに。
…雪虎が、この男の足かせになっているのではないか。
(…愕然とするな)
一瞬、思考が止まった。
自己嫌悪で死にそうになる。
ふぅ、と小さく息を吐きだした。
…結局のところ。
互いに、その伝承とやらから解放されない限り、自由はない。ならば。
もう自身の体質を受け入れている雪虎なら、どうにもならなくても構わないが、せめて秀は解放してやらなくては、と思う。
共にいることで、恭也と雪虎が互いの特異な体質を打ち消し合うことができたように、秀と雪虎の間でも、できることが何かあるはずだ。
なにせ、秀の状況は、見方によっては、雪虎よりひどい。
秀は、雪虎という個人に奴隷のように縛られてしまっている、という状況だからだ。
ただ、月杜の当主というだけで。
秀自身の気持ちなど、無視されて。
酷い話だ。
と思ったところで。
何をどうやればいいのか、さっぱり分からないが。
「大変ですね、会長も。とんだ貧乏くじだ」
雪虎の体質を祟りというなら、秀のそれは―――――呪いだ。
つい、ボヤくように呟けば。
秀はゆっくりと首を横に振った。
「そう見えるのか。ならば付け加えるが、月杜家が受け継ぐこれは、強制ではない」
雪虎は、眉をひそめる。
秀が何を言おうとしているのか、分からない。
「教育でもなく」
秀の声は、淡々としたものだ。
「ましてや、洗脳でもない」
口調に、意気込みや緊張などと言ったものはひとつもない。
気軽に、子供に絵本でも読み聞かせるような雰囲気。
まるで、そんなものすら生易しいと言いたげだ。
「この身を流れる『血』そのものに、刻まれた誓約なのだ」
言い切った、表情に浮かぶのは、誇り。諦めでなく。
「成長のたび、理解は深まった」
そう告げた、秀の顔に浮かんだ表情は。
「トラが、『そう』なのだと」
―――――満足そうな、淡い微笑。
逃げきれないからこそ、諦念から受け入れた、そんな消極的な肯定ではなく。
…信じられないことに、秀は、現在の状況に、心底納得している。
雪虎は目を瞠る。
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