トラに花々

野中

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日誌・163 礼儀知らずのでかい男

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―――――ダンッ!

誰かが、力任せに障子を開け放つ。跳ね返って、また閉じようとするそれをまた殴りつけるようにして、相手はずかずか室内に入り込んできた。
畳の上に転がった雪虎の身体に、その振動が直に伝わってくる。

「くそ…っ、なんだあの、礼儀知らずのでかい男は!!」

激高した、勢いある雰囲気だけで、すぐ察した。
諦めの気分で身構える。



(来るなぁ…)



雪虎が腹筋に力を入れるなり、





―――――ドカッ。





腹を蹴り上げられた。
押し上げられた肺から、空気が上がり、かは、と袋の中で息を吐きだす。
すぐ、奥歯を食いしばった。何かの拍子で、舌を噛むのはばからしい。
ただ、力具合は弱く、蹴る場所も、見当違い。
しばらくは耐えられるだろう。
ただ、これはよくない。

蹴り方から、暴力に不慣れな感じを覚えたからだ。

いや、自分だけは安全な場所にいて、一方的に暴力をふるうことには慣れている感じはある。
が、対等な喧嘩の経験がない、という雰囲気がはっきりしていた。

ましてや、玄人ではない。


典型的な、ボンボンだ。


繰り返し蹴りつけられながら、雪虎は内臓を守るように、身体をくの字に曲げた。

「この汚い生き物が、本当に、あんな奴に対する切り札になるんだろうなっ?」

こういう人間の方が、むしろ危険だ。
想像もしないことを仕出かす。
どういう態度に出ればいいものか、決めかねた雪虎に、

「いつまで寝てるつもりだ、起きろ!」

まさに見下したような命令が落ちてきた。

起きている。
だが、声を出せば、へなちょこなりの蹴りが内臓に抉りこまれそうで、できない。
ましてや、縛り上げられた状態で、起き上がることなど不可能だった。
屁理屈ではない、単なる事実だ。

「…死にたいのかっ?」

癇癪を起した態度で、脇腹を踏みつけられた、刹那。

先ほど感じた、体内で、何かが動くような感覚が、いきなり喉まで這いあがり―――――。





―――――すさまじい破裂音と衝撃に、雪虎は自分の身がすぐそばの壁に叩きつけられたのを感じた。





「く…っ」
強かに、背中を打ちつける。

息を詰まらせながら、それでも顔を上げた雪虎の目に。



―――――信じられない光景が映った。



いや、袋を頭に被せられていたのに、なぜ周りの光景が見えるのか、不思議には思ったが、今はそんなことより。
「なんだ…ど、うなって…」

目の前にいる、雪虎を蹴りつけていただろう相手の右足。





その、膝から下が、―――――消えていた。
文字通りだ。

ない。

血の一滴も流れていないのに。

相手はバランスを崩して、目の前で倒れるところだった。





すてん、と尻もちをついた相手の顔をその時始めて見た雪虎は、

(…あ、こいつ、駅で、見た…)



育ちのよさそうな、あの男だ。

改札口で、教授と呼ばれていた少女と、一緒にいた。



「クソ、いったい、なにが…」
育ちがよさそうに見える割に、口汚い。
彼は、自分の身に起こっていることを理解していない態度で、身体を起こそうと、して。


彼は、顔色を変えた。


「あ…? あっ?」


強情そうな視線が、なくなった右足の膝から下を映すなり。

情けなく歪んだ。




「おれ、おれの足、が…!」




幸か不幸か、痛みは感じていないようだ。
なのに、あるべきはずのものがあるべきところにないのだから、混乱も極まっている。

雪虎は横倒しの視界の中、他にも周囲に見えた幾つもの人影の合間に、






(―――――アレ、だ)

奇怪な四肢を持つ、ネズミのような、蜘蛛のような、漆黒の小動物を見つけた。

アレが、奇怪な現象を起こした元凶。






「おい!」
思わず、雪虎は声を張る。
その首元で、なぜか破れた布の袋がまといついているのが邪魔だったが、今は払いのけることもできない。





「それだ、ソレを捕まえろ! 逃がすなっ!!」

怒鳴る最中に、雪虎の中で、直感が叫んだ。







逃がしてはいけない。

解き放ってはいけない。


あれは、…アレは。












祟りの破片。












雪虎の中にあった、ソレが、外へ出てしまった。
解放された。

たった今。


なぜ。


思う端から、答えは胸の中から返る。




―――――誘われた。濃密な死の気配に。不幸の予兆に。

…目の前の、あの、男に。





雪虎は思わず、右の腿の上に両手を置き、蒼白になっている青年を見遣った。

死の気配。
この、迷惑なほど激しい暴力男に? とてもそうは見えない。


だが、雪虎の中からその確信が、消えてくれない。戸惑う合間に。


反射的に雪虎の命令に従い、なんらかの小動物に見える子犬ほどのソレを捕まえようとした男の腕が。
「―――――…え…」





何の前触れもなく、消失した。皆の、目の前で。





幾人かが、悲鳴とも怒号ともつかない声を上げた。その中で、細い女の声が飛ぶ。
「皆、ソレから離れて!」

瀬里奈だ。

誰もが一斉に、距離を取る中、ソレは。



漆黒の身を、大きく跳ね上げた。飛びつこうとした、先にいるのは。



「く、来るな…っ!」
雪虎を、蹴りつけていた、青年。

アレが、青年に飛びつけば、最後だ。

取り憑かれ、生命力を絞り上げられ、じわじわと死の恐怖を感じながら、彼は最期を迎える羽目になる。
月杜の祟り憑きなどと呼ばれる存在の雪虎ならばともかく。

彼は、ただびとに過ぎない。



ざまあみろ、とは思わなかった。

蹴りつけられたのは許せないが、死んでしまえ、とまでは思わない。
第一、死んでしまったら。





(俺が仕返し、できないだろ!)





邪魔するな、とばかりに、ソレを睨みつけ、雪虎は腹の底から声を張った。



「いい加減に、しろ!!」



刹那。





―――――ギャンッ。





冗談のように、漆黒のソレは、強かに蹴りつけられた犬めいた鳴き声を上げて。
光を浴びた影のように、…蒸発。




消失、した。




―――――室内に落ちる、薄ら寒い沈黙。

「………………は?」


そこに、雪虎が上げた間抜けな声が転がる。


(嘘だろ、まさか、今の一喝で、…長年俺の中にあった祟りが、―――――消えた?)
それこそ、まさか、だ。

信じがたいが、どうもそうとしか、思えない。

(なら俺はもう、祟り憑きじゃ、ない…?)

雪虎は呆然と思った。
ならば、あの体質も消えたのだろうか。
そう思っても、今更、嬉しさも昂揚もない。

あるのはただ、戸惑いだけだ。

混乱のただなかで、一時、思考を止めた雪虎を指さし、



「おい、きさま、きさまだな…!」



得体の知れない生き物が現れ、突如消失した、そのようなことよりも、自身の右足が消えたことにしか意識が向いていないのだろう、青年が喚いた。
何か得体の知れないことが起こった、それを雪虎の仕業と決めつけて。

それが直観か、八つ当たりかは分からないが。

指摘が正しい以上、雪虎に否定の言葉はない。
改めて青年の姿を見遣り…、雪虎は眉をひそめる。

(…どうなってる?)




いっとき、消えたはずの青年の右足が、―――――元通りになっていた。




アレが消えたせいだろうか? 

次いで雪虎は、視線だけで、ざっと周囲を見渡し、両手が消えた男を探す。
だが、誰かの両手が消えている様子もない。

「誰でもいい、ソイツを外へ引きずり出せ! 薄気味悪い…、おい、全員で殴り殺してしまえっ!」

無茶苦茶だ。
それでも、雪虎に手を伸ばす者がいた。

襟首を引っ掴まれる。

荷物のように、畳の上を引きずられた。

首が締まる。


息が詰まった。その時。


―――――何かが、潰れるような音が、して。
誰かが上げた、悲鳴じみた声が聴こえた。

刹那、何が起こったか、雪虎の身が放り出される。

後ろ手に縛られているのだ、外へ連れていかれようとしていた雪虎の身体は、縁側も飛び越え、顔から地面に落ちる、

衝撃を予想し、目を強く閉じるなり。



…鼻先に、軽い衝撃。

わずかに鼻が痛んだが、硬いものにぶつける比ではない。
そこを支えに、身体も転倒を堪えた。

どうやら、何か、柔らかいものに受け止められたよう、だが。





ふ、と鼻先を漂った、さわやかで清潔な香りに、雪虎は寝てもいないのに目覚めた気分で、ぱちっと目を開けた。






「…大丈夫か」

静かな声と共に、大きな掌が雪虎の頭を包み込んだ。

聞き慣れた声。

懐きたくなるような、ぬくもり。

頬には、上質な布の感触。


見上げなくても、誰だかわかった。



「か、いちょう…」



どうやら雪虎が投げ出され、顔を突っ込んだ先にあったのは。






―――――月杜秀の胸元。







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