セイレーンII

門松一里

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8.〝Noblesse oblige〟

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8.〝Noblesse oblige〟

 仲間と連絡が取れなくなった場合はどうするか。
 一つは、そのまま業務が継続していると考えて、こちらもその段取で動く方法がある。単純に考えても、賢い選択とは言えない。なくしたピースがあればジグソーパズルは完成しない。欠けても届くだけのことをしていれば別だが、誰もがサモトラケのニケをつくれるわけじゃあない。依頼人(クライアント)は納得しないだろう。困ったことにまだ契約は継続している。代理人(エージェント)にもプライドがある。
 もう一つは、思考の枝葉を捨て落とし、現状のまま兵站(へいたん)を整えて、行動する方法だ。こちらのほうがまだ幾分か生き残る確率は高い。非情だがそれが仕事だ。ルール通り、私は長藻を除外することにした。あとで拾えばいい。
 規定の地点に時間通りにいなければ、捨てられる。仲間がいて、そこに見えているとしても、捨てられる。それがルールだ。たった一人の友を助けるために、救助ヘリに乗る全員の生命を危険にさらすことはできない。現場の指揮官はある意味、神だ。誰を生かして誰を生かさないかの。
 独裁者夫人と避難ヘリコプターのジョークは簡単だ。過重量の独裁者夫人を助けるか、それとも他の三人を助けるかだ。ヘリの機長に裁量権などない。問答無用で避難民を射殺して独裁者夫人を助けるだろう。脂肪は水より軽い。血は水より濃い。死は天使の羽根より軽い。
 あとでヘリの増援を願えばいい。独裁者夫人の権限で。イメージアップのために独裁者は喜んで送るだろう。もはや誰もいなくても。
 アントワーヌ翁の長男アンリ・ルネは、見捨てることができなかった。だから死んだ。ヘリの人員九名を巻き添えに。しょせん総帥の器じゃあなかったという事だ。
 どうしてそんな金持ちの子息が戦争に行くのか。それにはノブレス・オブリージュ(Noblesse oblige)という考え方がある。「高貴なればこそ義務を要す」だ。「貴族や金持ちどもよ、特権が欲しければ、最前線で働け」というありがたいお言葉である。
 次男のアルベール・ギは軍でも事務方(じむかた)だったそうだ。今の時代そろばんの方が財閥の当主には必要だということだ。何人死のうが、それは数字の積み重ねでしかない。そして血脈は絶えることなく続く。
 私は、芦屋から神戸に戻る車内で考えていた。
 スマートフォンの情報では、事故現場は、山むこうの中国自動車道らしい。
 事務所のセキュリティを確認した。長藻にも内緒で、セキュリティの穴に〝見えない〟通信プログラムを仕掛けていた。誰も信用するなというのがこの世界のルールだ。
 分割された画像に見入る。廊下には誰もいない。長藻はずっと眠っていた。
 不要な画像をスキップさせる。速い。機械はこうでなくっちゃ。
 スーツの男が事務所にやってくる。ノックをするが、中の長藻は眠ったままだった。なにやってんだか……。私が早く起こしたせいなのだが、仕事なので無視する。
 そこに、半ズボンの金髪の少年がきて、男に挨拶をして、ドアをすんなり開けた。
 連動して、事務所のセキュリティが解除されている。
 ……どうやったんだ? こいつ……。
 男を、長藻の眠るソファーの前に座らせたあと、少年は、長藻のPCケースの中のブリーフケースからゴムを出して、遊び始めた。ヲヰヲヰ……。
 さすがに車内で、その音を出すわけにはいかなかったので、最初に巻き戻してイヤホンで音を聞いた。
『お待たせして申し訳ありません。どうぞ』
『こちらであっているのか?』
『はい、長藻秋詠(ながもときなが)の事務所です』
 正確には、私の事務所でもあるが。
『ゆっくりなさってください。お茶ならキッチンにありますのでどうぞご自由に。ボクは仕事がありますので』
 男の表情が恍惚としているのが粗い画像からでも分かった。ゲイ(同性愛者)だな。うんゲイだ。それを見ている私にはそんな趣味はなかったが、ないにしろ絶妙な口技にうっとりしていた。美少年……。
 何か視線を感じて、顔をあげると、ゴスロリ(ゴシック・アンド・ロリータ)の女性がいた。目があった。コミケ(コミックマーケット)で薄い本を同時に手にしたような感覚だった。腐女子……。ジャパン・クオリティ……。
 いそいで、画像を止めた。
「チッ!」
 あきらかに女は気分を害していた。いやしかし誰が悪いんだ? ……私か……いや長藻だろう。長藻だ。
 到着。阪急電車をおりて、山側の緑が丘に向かった。
 ここは病院に向かうべきだな。私は、さきに由子との契約を解除させたかった。不要な金をいつまでも預かっているのは、好きじゃあなかった。
 歩きながら、画像を早送りして〈記憶〉した。見おえた後で、音声だけを再生させた。画像は脳内で補完できる。
 長藻はちょっとした仕事をしたらしい。透視(クリアボヤンス―― clairvoyance)の一種だ。私にそんな能力はなかったが、みえる人には〝みえる〟らしい。もっとも長藻もそれほど優れているとはいえないが、それ以上の付加価値――六里周の依頼した丹棟澪の件でいうと、東京を使えというような――があったから、ちょっとした収入になった。
 今からむかう茶泉記念病院の闇か……。代議士の裏方が出張(でば)ってくるんだ。静かにしておこう。
 西川衞か……あまり良い評判は聞かないが、代議士なんてそんなものだろう。
 到着。長藻は、南々子さんに連れられて病院に来ているはず。とするとS2000がどこかに……。
 そこにそれがいた。
 金髪碧眼の美少年だ。追いかけようとしたその瞬間だった。
 グッ!
 ふいにレバーブローを打たれて沈み込んだ。気配も感じさせず、きれいにヒットされた。プロだ……。
 いっ息が……。
 私はうずくまった。周囲の人には、急に気分が悪くなったようにしか見えないだろう。私の姿に影が重なった。
 金髪の美女だった。……忘れるものか! 友を見殺しにしろと命令した女だ。とすると……。
 私の両腕をかかえて、双子が起こした。一卵性双生児のジャンとミシェル。美しくもかわいらしい顔をしているが、眉一つ動かさずに無抵抗な子供でも平気で殺(あや)める殺戮マシーンだ。味方なら心強いが、いまは敵らしい。困った。勝てる気がしない。
 腰にFNハースタルのFive-seveN――5.7x28mm――フルメタルジャケットでも防御するボディアーマーを軽く貫通させる銃を携行している。金髪の魔女の子飼いの部下だ。容赦ない。
 ぬかれた財布のIDは情けない顔をしているに違いない。
《連行しろ》
 フランス語だ。
 この後か? 尋問に決まっているだろう。SM愛好家にはお楽しみの時間だ。

 連れていかれたのは、病院の旧館だった。神戸という都会の喧噪から時間を切り離した昭和の薫風(テイスト)がする。丸い卓袱台(ちゃぶだい)ではなく、軍靴の音だ。裏口から入り、薄暗い通路を歩いていく。
 後ろ手に、親指をタイラップで結束されていた。目立たないやり方だ。スマート。
 逃げを考えなくはないが、膝を撃たれるだろう。生き残るにしてもとても不便な老後が待っている。それに殺すなら躊躇なくしている。それがルールだ。
 終点は、古いナースセンターだった。椅子に座らされた。タイラップで固定される。粉塵がそこいらに落ちている。移転して何年だ?
〈何をしている? 〝ミシェル・コンティナンタル曹長〟〉
 フランボワーズが英語で聞いた。他にも聞いている人員がいるということか。女王様の部隊が三人で行動するなんてありえない。
 私の本名だけをフランス語風に言った理由は、なんだ?
「退役しています。いまは一市民です。大尉」
 あえて日本語で私は答えた。フランボワーズは日本で諜報活動をしていた。ペラペラだ。今もか……。
〈英語で言え〉
 ジャンだ。どっちだ? ジャンにしておこう。自分と同じ名前だとややこしい。
〈傷痍(しょうい)軍人です。いまは市民の一人です。大尉〉
 私の返答に、ジャンとは別のミシェル(あるいはジャンかも)が、両脇にかかえたときに抜いた財布を、私の胸ポケットに入れながら言った。
〈よく考えろ、〝元〟曹長。一度目はめったにないこと――〉
〈――二度目は偶然。三度目は故意――〉
 軍隊の不文律だ。後ろから撃たれてもこれだけは守るものだ。
 どうするかの考えはまとまっていた。まずは……。
〈関係者の安全の確保を請う〉
〈甘いな〉
 フランボワーズが唇をなめ、私に熱いフレンチキスをして、椅子を壁に向けてよせた。ジャンが電気スタンドを一つだけつけて出て行く。たぶん長藻を襲うのだろう。フランボワーズは、色情症(ニンフォマニア―― Nymphomania)だ。長藻は殺されるにしても天国を味わえる。May God bless you.
 長藻はいまどこだ? ふいに疑問が浮かび上がった。あのフランボワーズの調子からいうと長藻はまだ無事だろう。いやあるいは、そうしたことを考えさせる作戦なのかもしれない。
 放置プレイだ。緊張と緩和。口の中がまだ熱い。
 実はこうした一人の時間のほうが人間には効く。人間は動物だ。動物は群れる習性がある。
 どうにか逃げられないかと、身体をひねってはみたものの、動けなかった。倒れて取る方法もあるが、この埃の中を虫のように這(は)いずるのは遠慮したかったし、第一それで取れるようにはなっていない。考案したのは拷問のプロだ。
 一番効果的な拷問の方法は何か知っているだろうか。苦痛を深める方法だ。
 体力の消費なら、両手から吊り下げ、足の親指がかかるかかからないところで止める方法がある。
 無闇矢鱈に殴るよりも、ロシアンルーレットがスリリングだ。
 条件さえ与えれば、囚人は同胞をいたぶることに快感を覚えるようになる。
 そんなことを本気で考えているマゾヒストのバカがいた――死んだが。
 そのバカな友人いわく一番は、手の爪の裏に針を通すことだそうだ。足の爪では反射がよくないらしい。必ず手で、最強は利き手の人差指の爪らしい。痛みを心地好く感じるそいつでさえ耐えられず止めたぐらいだ。
 私の日本での一番の苦痛とはいえばタンスの角に小指をぶつけることだった。ある種、呪いだ。外国人にはエキセントリックな世界だ。
 ところで今は、口の中がパニックだった。フランボワーズのフレンチキスが熱い。イコール痛い。
 舌の方向を上手に変えるが、うまくいかずに頬の内側を切ってしまう。口内炎のオンパレードだ。こんなことなら長藻にキスの方法を教えてもらうんだった。その趣味はないが。その趣味はないが。
 私は屈んで、フランボワーズからもらった剃刀を壁に刺した。歯で打ちつけるが、滑って歯肉を削ってしまう……。
〝Un ange passe.〟天使が通りすぎた。
 時の女神が振り向くと、真っ赤な血を口穴から滴(したた)らせていた。
 ……しばらくは何も食えないな。たぶんいま自分を見たら食屍鬼(グール)だ。
 血泡で口中がいっぱいになった。椅子を回転させ、タイラップを切る。多少皮膚も削っているが口の痛みで気にならない。
 長藻の骨折といい、今の私といい、今日はなんて日だまったく。
 ふっと昨朝の長藻の言葉を思い出した。
『明日は半夏生(はんげしょう)です』
 たぶん二度とこの日は忘れない。いや忘れたい。忘れさせてくれ。
 やっと指を切り離した。次は腕や足だが、壁の剃刀は打ちつけたせいで、もう取れそうもない。おまけに血で滑る。
 こういう時はまず冷静に深呼吸だ。
 口をくぱぁとひろげた。古(いにしえ)の神の降臨だ。血糊の刻印(マーキング)。
 得物は! ここは病院だぞ。メスぐらいはあるだろう。
 音を立てずに、キャスターの椅子で移動して、ナースセンターの机上を鼻であさった。血でぬめる。
 ない!
 机の中を探す。あった! カッターの替刃ケースだ。ラッキー! ステンレスだ。錆びてはいるが切れるだろう。
 やっと自由になった私は、替刃ケースをポケットに入れると、静かに廊下に出た。
 暗い。そして気配はなし。
 血が止まらない。
 切れた舌で確認するときれいに削いでいた。縫わなくても大丈夫だが、問題は止血だ。
 新館の救急処置室に向かった。
 薬剤を持って走るナースを止めた。ベトナム人の看護師だ。長藻には聞いているが、初対面だ。名前はたしか……阮美麗(グェン・ミーレイ)。
「止血を!」
《私は医師だ。トラネキサム酸を一単位くれ》
 早口のフランス語で止血剤を要求した。こういう時には軍隊時代の知識が役に立つ。
《イプシロン―アミノカプロン酸なら》
 簡易の注射器と薬剤を抜いた。
《感謝する》
 処置室のとなりで、服をハサミで切り、ゴムでしめて注射した。手慣れたものだ。もう二度と自分でするとは思わなかったが。
 やりとりをミーレイに聞いていた巨乳のナースがセーラー服の少女の足に湿布をしたあと、口にガーゼをほうりこんでくれた。ありがたい。茶泉記念病院の巨乳率は高い……。それだけで商売できるんじゃあないか? いやしているのか……。
〈診察する。白衣はどこだ? このままだと患者(クランケ)を怯えさせる〉
 手に止血パッドを貼りながら、英語で聞いた。通じるだろう。
〈医務局――Bブロックにあります。取ってきます!〉
〈いや、自分で行く。君は自分の仕事をしろ。決して諦(あきら)めるな!〉
〈はい!〉
 若いって好いね。
 Bブロックに向かった。服が血だらけだ。これじゃあ表を歩けない。医局では簡単に白衣を手に入れた。ミーレイが連絡してくれていたらしい。どれだけ優秀なんだ、この病院は? セキュリティは抜きにして。
 病院で医師は目立たない。逃げ出してからずっと索敵していたが、変わった様子はなかった。
 ふぅ……。やっと見つけた。
 女神を。
 小山田由子だった。
 イイ女ってのは、どんな状況でもやっぱり輝いてやがる。

 ――一枚の本当の絵にはオーラがある。ところがこれを複製にした場合、オーラは消える――
 ヴァルター・ベンヤミンが、光り輝くオーラ(アウラ)について、そんなような事を言っていたっけ。
 だが今の時代、ほとんどが複製(コピー)なのだ。女優にしたところで、映画すら複製品でしかない。
 ほんとうに魅力的な人間は実際にいる。小山田由子もその一人だった。べつにバッチリメイクをしているわけでも、着飾っているわけでもない。ただそこにいるだけで花になるのだ。これがオリジナルとコピーの差だった。もう一度『複製技術時代の芸術』を読むか……。
 もっともコピーがオリジナルをこえることもできる。一番簡単な方法は道具を使うことだ。きらびやかにすれば魅力的に見える。女優の素顔を知るものは少ない。
 私が由子に声をかけたのは、Bブロック手前のCブロックの角だった。隣の三十過ぎの女性が社長だろう。デボラ・カーに似ている。長藻が好きそうなタイプだった。
「小山田さん」
 男ってのは、身内がなくなった女にどう言うんだ? 私には経験がなかった。
 由子は、社長にことわり、私のほうにやってきた。
 こういう時って、何も言えないな。案外それが正解なのか。
「あの件は忘れてください」
 由子から先に声を出した。蜘蛛の糸のような声だった。やるせない。
 忘れる? 脅迫があったのか?
「まだなにもしていません。ご返金しようと思います……」
 由子は手に持ったハンカチで瞳を隠した。三角草(みすみそう)の色が濃くなる。
〈自信〉〈信頼〉……。弘行は〝なに〟を言いたかったんだ? そしてお前はいまどこにいる? 女泣かすなよ。
「……それでは私は何もしなかったことになります」
 私は心の中で溜息をついた。深い後悔がある。人間が後悔するのはしなかったことだ。した事については反省するしかない。多くの人は忘れているが。
「すこしお話ができませんか?」
 私の申し出に、黙っていた女社長がしゃしゃり出た。
「あなたこんな時に失礼でしょう!? 医者なんでしょ? 他に助ける命はあるでしょう!!」
「こんな時だからです」
 私は感情をころして言った。別に長藻の齟齬(そご)はうつっていない。ありのままの状況判断だった。
 論理的でなく感情で動く動物。子宮でモノを考えてくれるな。あいにく私は長藻とちがって、フェミニストではなかった。
 民間人のこうした女は苦手だった。フランボワーズを見習え。
「ふざけないで! 由子行きましょう!」
 手を引く社長だが、由子が止めた。
「社長、こちらのかたとお話があります」
「なに言ってんのよ!!」
 由子の真剣な表情に、社長も根負けしたようだ。女は危機に強い。両方女か……。こわい。
「まぁあなたが言うなら仕方ないわね……」
 私はそう言わせた由子の目を見ていた。瞳に写っていたのは、銃を持った男たちだった。
 女を突き飛ばす。
「なにすんのよ!」
 銃声。
 私は二人を引っ張ってCブロックに移動した。走りながらでは銃はまず当たらない。
 左の二の腕にヒット。たまには当たる。さっき着替えたってのに!!
〈止まれ!〉
 英語だった。そして撃っているのも外人だった。撃たれた私も外人だが。
「なに? なんなの!?」
「走れ。死にたくなければ」
 三人が一斉に駆け出している。さすがに由子が速い。私も追う。問題は社長だった。あきらかに運動不足だった。お茶目に腹をつねりたい気分だったが、今はやめておこう。長藻と同じになってしまう。
 ポケットの中のカッターの替刃を投げた。
 かわされた。
 何でも武器になる。というか病院の機材は人を生かすためのものだ。逆にいえばどれでも簡単に殺せる武器になる。
 逃げながら転がるようにトラップ(罠)を仕掛ける。医療用テープは強い。すぐに転んだ。下には点滴の注射……。
 肺に刺さったな。しばらく動けないだろう。
 躊躇して止まったもう一人の男の手首と喉をつかんだ。私服なのがよくなかったな、お前。膝を蹴落とし、頸動脈を押さえて続けて意識を落とした。さすがに病院で殺すと厄介だった。正当防衛にもならないだろう。二人の武装を解除した。得物はH&K USP .45ACPが二丁。予備の弾倉もいただく。こんなバカでかい口径を使うヤツらと言えば……。
 考えのまとまらない間に、追撃だ。
 ふぅ……まったく。女二人と逃避行なんてしゃれにならない。
「こっちだ!」
 建物の内部の地図は、医局で覚えている。
「きゃーーー」
 社長が無意識に外に、走り出た。
 むかしの私なら後ろから撃っていた。
「しゃあねぇなぁ……」
 追う。続く由子。
 おいおい、そっち旧館なんだけど……。

 単純に言えば、社長を指標(インジケータ)にしていた。悪気はない。自分から走って行ったんだ文句はないだろう。
 旧館の救急処置室に続く回廊の一室に、社長が入ると戸を閉めてしまった。おい!
「開けろ!」
 たぶん中で、うずくまってガタガタふるえている。頭の中がいっぱいいっぱいなんだろう。こちらは手いっぱいだというのにまったく。
 私は由子の手を引いて、隣の部屋に入った。
 ……なんだここは……。
 暗がりに目がなれると、見えてきたのは臓器だった。心臓・肝臓・腎臓・肺臓・膵臓……それらの移植フローチャートだった。プログラムを組んだヤツなら誰でも知っている流れ図だ。皮膚から角膜までチャートに載っている。これは……。
 追撃者は二名だった。足音が近づく。
 廊下の明かりがドアの隙間から、追手の影を浮かび上がらせた。
 悲鳴。
 隣の社長だ。長藻に聞いた話だが、悲鳴とあのときの声は同じだそうだ。ラヴ。
 影が消え、ドアを蹴破る音がした。由子の口を手で押さえた。唇がやわらかい。
 消火器の音がして、白い煙が床を這(は)って、室内にまで流れ込んできた。吸うのは毒だ。
 銃声が一発。二発とつづく。計七発。金風鈴の残響。どういうことだ?
 静寂。
 とたんに静かになった。
〝Un ange passe.〟天使が通りすぎた。
 ただし、今度の天使はふつうに人を殺す。
 三分数えて、由子を起こしてドアをゆっくりと開けた。気配はない。
 追手の二人はきっちり死んでいた。心臓に二発ずつ。頭、それも脳幹の位置に一発。最初の一発を外したらしいが、優秀だ。それに極めて冷静。慣れてやがる。
 誰だ?
 ジャンやミシェルが撃っても一・二発だ。とまればいい。弾を節約したがるのは貧乏なベルギー軍では当り前だった。フランボワーズは指揮官だ。自分では撃たない。指揮官が撃つ時は……。
 女社長が、私を見て人殺しと叫んだのは言うまでもない。勝手に飛び出すほうが人殺しだぞ、お前。
 由子のとりなしで話ができた。はざま企画の社長さんは松風なおみというらしい。松風というより嵐だ。年齢は教えてくれなかったが、ハズレてはいないだろう。微妙なお年頃だ。
 なおみは、私の腕に止血パッドをはる由子に、必死に謝っていた。私には?
 新館に戻ることにした。ここは危険だ。途中、救急処置室を覗いた。あれは……ついこの間まで使っていた感がある。
 家でも道具でもそうだが、使っている時とそうでない時では、かなり差がある。使う動線の数だけなめらかになる。特に道具は使っていなければかなりガタがくる。すり切れるぐらいまで使っているほうがまだ使えるものだ。そこには道具の生命――運命のようなものを感じる。魂があれば、だが。
 長藻が透視(クリアボヤンス―― clairvoyance)で見たらどんなだったろうと考えた。考えるまでもなく、しばらく食事は遠慮したい気分だった。すくなくとも肉食は。
 新館の裏口近くで警官の姿が見えた。二人をかえし、私は旧館に戻ることにした。このままでは、逮捕されるだけだったし、左腕の痛みが残っている。借りは返す性分だ。
 何も言うなと二人に告げて、索敵しながら進んだ。一人で戦争かよ、まったく。
「由子あの人なんなの?」
 なおみが安堵からやっと、見送る私のことを聞いていた。
「代理人(エージェント)です。私の」
 由子が健気(けなげ)に、それでも言い放った。契約はまだ続いている。

 私はゆっくりと進んだ。倒れている二人はそのままだった。
 9x19mmパラベラム弾の薬莢。
 出る前に確認したが、倒した人間は、私と同じように予備の弾倉まで抜いていた。消火器で不意をついたのだろう。あれはキツイからな。
 困ったことにそいつが味方なのかは分からない。敵の敵(九パラ)が味方だという保証はない。さてはて。
 一つヒントがあった。匂いだ。消火剤で最初わからなかった。
 香水の香り――最近かいだな……。
 思い出した。南々子さんがつけていた。強烈に。長藻は昼間っから品がないと言っていた。……〝Vol de nuit〟だ。たしかに昼間にはおかしいな。フランボワーズの香水は知らないが、それではない。
 見ず知らずの女性が〈夜間飛行〉とは。頭が痛い。
〈止まれ〉
 まただ。上には上がいる。カンが鈍っているわけじゃあない。言い訳じゃあなく、ヤツらのほうが現役で研磨されているんだ。ゆっくりと銃を床におろした。
 十分に気配を感じた上で、翻(ひるがえ)って相手の銃を上にしてケリを入れた――。
 まではよかった。もう一人いた。二人組(ツーマンセル)が基本だ。
〈……殺すな。尋問の途中だ〉
 拷問の間違いだろう?
 もう一人の男の銃口がこちらを向いていた。
〈セイレーン〉
 一瞬、黒い影が銃にかかった。
 そのわずかな時間があれば十分だった。掌底で後ろを打ち、そいつの銃でもう一人とそいつを撃った。残心。
 倒れる男の後ろにいたのは、由子だった。
「どうして!」
 そう言った私には、由子の複雑な表情を読み取ることができなかった。どうして私は日本人じゃあないんだ。
「でも間に合った」
「ありがとう。でも帰れ」
「でも一人じゃ前に進めないわ」
 確かに正論だ。しかし……。
「知りたいの」
 赤い目の奥に生命の炎がある。
「何を?」
「答えを」
 ……もうまったく……。モンティ・パイソンをうらむぜ。
 どのみち深く進みすぎた。一番近い出口は、戻るより先に行くほうが近かった。
 ――血の河もここまでくれば同じこと、行くも戻るもできぬなら、渡り切るしかないではないか――マクベスっぽくいうと、こうだな。
 カンは何もささやかなかった。
 由子に銃は渡さなかった。USP .45ACPだぞ。無理に決まっている。反動で倒れるのがオチだ。
 正直に言うと、由子に人を傷つけてほしくない。それだけだった。おセンチだな。うん。がぜん勇気が湧いてきた時点で、出口近くの部屋を覗いた。
 覗くんじゃなかった。こちらが本当の処置室らしい。第二手術室。
「これはいったい……」
 由子が驚くのも無理はない。一大実験場だった。
 次の瞬間、ホワイトアウトした。
 閃光弾だ。由子をかばい、死角に逃げる。どうやら引き金をひいたらしい。
 銃声と共に、金風鈴の音(ね)。容赦ない。
 うかがうと、倒れている全員の心臓に二発、頭に一発、ブリット(弾丸)が叩き込まれていた。
 正確に心臓にヒットさせている。Nice!
 この香りは……〝Vol de nuit〟だ。
 正体は、両手にブルガリのバングルをつけている美女だった。フェラガモのジョッキーブーツにFNハースタルのBrowning GP(ブローニング・ハイパワー)。
 知っているぞ、この女……。
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