セイレーンII

門松一里

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A.存在理由(レゾンデートル―― Raison d'être)

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A.存在理由(レゾンデートル―― Raison d'être)

〝Lasciate ogne speranza, voi ch'entrate.〟
 地獄を見てまわってきたダンテ曰く、地獄の門には「汝らここに入るもの一切の希望を棄てよ」と銘されているそうだ。右肘を左膝に人は考える。
〝Arbeit macht frei.〟
 現実の地獄の門にはこうある。「勤労が自由をつくる」――冴えないジョークだと思うだろう。本当だ。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所にある。ちなみにアンネ・フランクはドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所で、チフスで亡くなっている。アーメン。
 知られている通り、収容所では人体実験がなされていた。ヨーゼフ・メンゲレの双子実験を筆頭に、ありとあらゆる実験が行われた。文字通り、地獄だった。「神曲」の地獄が氷の見せ物(アトラクション)に思える。
 そのなかの一つに「骨・筋肉・神経の再生実験および骨移植実験」がある。山中伸弥博士のiPS細胞(人工多能性幹細胞)の六十年以上も前の話だ。結果的には若い女性を無残に切り刻んだだけだった。アーメン。
 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)だけではない。同じ枢軸国の大日本帝国も実験をしていた。関東軍防疫給水部本部、秘匿名・満州第七三一部隊がそれだ。こちらの資料は今の日本には存在しない。
 ナチスの医師は敗戦直前に証拠隠滅をはかり戦後の裁判で処刑されたが、七三一部隊の医師は誰一人として裁かれていない。これは七三一部隊の創設者石井四郎中将がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と、人体実験の資料と戦犯免責とを取引をしたからだ。人道上そうした実験ができないアメリカ合衆国は、次の敵ソビエト社会主義共和国連邦に渡すことなく、人体実験の資料を手に入れた。安いものだったろう。
 七三一は生き残った。それは焦土になった日本の医療を支えた者のなかに、元軍医もいるということだ。薬害エイズ事件で消滅してしまったミドリ十字は、内藤良一中佐が戦後、日本ブラッドバンクとして設立したものだ。
 もうそのほとんどがお隠れになっているだろうが、いまだ生きている者もいる。その一人が茶泉王仁王(さいずみわにおう)医学博士だ。元少佐。軍籍では若くたいした評価がなかったが、これは敗戦処理を知っていたからと言われている。石井に連座して戦犯免責。茶泉の専門は再生医学、そのための病理学、補完する免疫学。実験では死人を生き返らせたと噂されている。天才だった。くわえて商才もあった。八犬豊訓(やいぬとよくに)の祖父八犬農訓(やいぬあつくに)の出資を受け、茶泉製薬を創業。同時に茶泉病院設立。長年の功績から神戸市から病院隣接区の永年貸与。隣接した記念病院は近代医療の粋をこらした施設だ。完全能力主義。ベトナムからの美人巨乳看護師がいるのはそのためだ。日本人と同じだけ給与があるのだ。喜んで働くはずだ。ちなみに病院・医療施設に勤める一族は全員小柄で、女性は貧乳だ。唯一の例外が米国にいる茶泉ひろみだろう。軽く六フィートある。巨乳だ。
 わたしは、美女の腰を抱きながら、そんなことを考えていた。
 一般には、王仁王が七三一部隊にいたことなど隠蔽されている。どうしてわたしが知っているかと言えば、簡単だ。調べていたのだ。吉田茂を。白洲次郎を。八犬農訓を。
 最近は坂本龍馬のように白洲次郎がブームらしい。安易にこの二人が好きだという人間には気を付けたほうがいい。距離をあけるべきだ。本質を見失う。「竜馬がゆく」の主人公の名は龍馬ではない。虚構と事実は乖離(かいり)すべきだ。幕末のテロリストだぞ。暗殺の理由も陸援隊隊長中岡慎太郎がメインだと考えられなくはない。歴史の女神クリオの巻物を繙(ひもと)くか。
 確かに白洲次郎はカッコいい。三宅一生のモデルだったぐらいだ。「次郎さんのお相伴をした」というのは水水しい妙齢のご婦人の自慢だったりする。
 だが、だ。
「従順ならざる唯一の日本人」の事実はちがう。
〝We've just been basking in the warmth of the atomic sunshine〟
 GHQホイットニー准将の言葉だ。「原子力の陽光」詳しくはwebで。
 白洲の貿易庁長官を辞してからの経歴は、電力・水産・宝飾・為替・土地・原発・マスコミ――エネルギー・捕鯨・バブル・土地転がし――戦後の不条理そのまま、陰謀論でもなんでもない、事実だ。正直これで笑わない人間がいたらどうかしているだろう?
 知られていないことだが、名門ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入るまえに、ロンドン大学に在籍している。余談だが、兄の尚蔵はオックスフォードを卒業後、ロンドンに住んでいたが、心を病んでしまった。場所は、貧民窟――イーストエンド・オブ・ロンドン――切り裂きジャックの舞台だ。
 吉田茂の側近(腰巾着)白洲次郎が何をしたのか。資料は、死ぬ前に白洲自身が燃やしている。
 わたしが調査を開始してすぐに呼び出しがあった。蒲沼励、通称レイ・クックマンからだった。その前から居酒屋でちょくちょく顔をあわせていたのだが、後で考えればそうしたことも考慮していたのかもしれない。人を食ったオヤジだ。あの夜の出来事は夢小説だ。〝Eyes Wide Shut〟あさきゆめみし。
 結果、長藻秋詠は、バチカンに侵入したハッカーと同じように勧誘された。文書〈ジローノート〉は〝存在〟しない。次郎もまさか自分が持っている資料から〈事実〉が導き出されるとは思っていなかったらしい。墨守。策士は守りに弱い。ハッカーも自宅のセキュリティは甘いものだ。
 わたしに提示された条件は、許された時間と報酬だった。で、たまに探偵をしている。因果なものだ。ドラゴンと闘うものはやがてドラゴンになる。倒すものはいずれ倒されるものになる定め。善悪の彼岸。深淵はいつだってこっちを見ている。
 そして――これが一番大事なことだが――このモーターサイクルを神業で運転する美女はそれを知っているということだ。もっと困ったことに、さっきの条件をクリアにできる立場にいて、行使した。結果、長藻秋詠は死んだ。美女の後席は、亡霊(ファントム)のパラダイスというわけさ。
 着いたのは、ランドマーク兵庫警備会社の一区画先だった。近い。LMを監視しているのか……。
 高いマンションだった。全高も価格も。
 地下駐車場でSHOEIを施錠すると、エレベータに向かった。フランボワーズがとかれた髪をすくった。眼鏡を正し、腰の得物に手をやる。これが自然な動きなんだろう。薔薇に棘。
 エレベータから出てきたのは、若く美しい女性だった。こぶりだが整ったバストが印象に残る。〝OSMANTHE YUNNAN〟エルメスだ。
「オスマンサス ユンナン」――オスマンサス(金木犀――キンモクセイ)と雲南(ユンナン)省のお茶の香り――を身にまとった女が、優雅に水平対向四気筒エンジンを奏でた。SUBARU BRZ。MT(マニュアルトランスミッション)……。
 フランボワーズの前を通り過ぎる。腰から手をはなしている。殺気を感じないのだろう。よくできている殺戮機械だ。
 軍人さんは足が速い。やや急ぎ追いつく。
 ドアが閉まる。四十三階。
「あれも関係者なのか?」
 わたしはたずねた。
「……可能性はある。確かめてはいない。手配しておく」
 拙速(せっそく)。すぐにiPhoneでメールした。こえーよ。
「理由は?」
 フランボワーズは右顔を箱に近づけている。右目のほうがレンズがやや厚い。それでオッドアイか。
「さぁ……感じるだけだ。理由はない。あっても君に説明できない。丹棟澪が白美央(パイ・メイヤン)だからか?」
「お前も抱いたら態度を変えるのか?」
 ……あんたが君になっている。
「妬いているのか?」
 質問に質問で返されたので質問だ。
 打ちおえたフランボワーズが、眼鏡を正した。エメラルドの眼光。
「死ぬまえにもう一度抱いてやる」
 妬いてんじゃねーか! てか腹上死か?
「次が地獄か?」
「煉獄(れんごく)だ」
 煉獄は「神曲」では地獄の手前にある。永遠に逃れられぬ地獄ではなく、贖罪の機会を与えられた者の行き場所だ。浄化されれば天国に導かれる。
 しかしその前には「七つの大罪」がある。
 傲慢(高慢――プライド)――Pride ―― superbia
 嫉妬(羨望――エンヴィー)―Envy ―― invidia
 憤怒(忿怒――ラース)―――Wrath ―― ira
 怠惰(怠慢――スロウス)――Sloth ―― acedia
 強欲(貪婪――グリード)――Greed ―― avaritia
 暴食(貪食――グラトニー)―Gluttony ―― gula
 色欲(愛欲――ラスト)―――Lust ―― luxuria
 ダンテは正直だ。死後はプライドにいくと知っている。
「ベアトリーチェか……」
 フランボワーズは答えなかった。天国へ誘う美女。どちらかと言えば、天空を駆けるワルキューレか。ロキ――トリックスター――がわたしだって? 勘弁してくれ。そんな柄じゃない。
 ダンテは「神曲」の中で、地獄をぬけ煉獄の山頂から、天国に向かう。天国の案内をしたのが、永遠の淑女ベアトリーチェだ。
 四十三階。ドアから死角になるようにして腰に手をやっている。自然とそうなるのにどれぐらい鍛えたんだろう……。美獣。
 北東の角部屋。3LDK。いくらするのか考えたくなかった。
 リビングをぬけ、キッチンの扉を開けた。銃火器。商売ができるぐらいある。失敬。商売(人殺し)をしているんだったな。
「どれがいい?」
 持たせてくれるらしい。ということは次は鉄火場だ。そこが地獄か……。ぐすん。
 当然だがFNハースタルが多い。Browning Hi-Power Mk.III――FN Five-seveN――SIG SAUER P230もある。
「SIG P210」
 言ってみた。当然、にらまれた。マニア垂涎のCz75のモデルになった名銃だ。軽四ぐらいはするのか?
「これでいい」
 結局ハイパワーにした。弾倉(マガジン)も同じにできる。予備をポケットにつっこむ。
「マガジンセイフティは?」
 初弾をセットして安全装置。弾倉(マガジン)を抜いて、装填して空いた一発をいれる。
「外してある」
 特殊部隊仕様か……。ハイパワーには特別な安全装置(セイフティ)がある。弾倉(マガジン)を抜くと引き金(トリガー)がロックされる。撃てない。敵を目の前にして薬室に残弾一発があったとしても。基本は暴発防止なのだが、特殊部隊はプロフェッショナルだ。不要な機構は省くに限る。オッカムの剃刀。
「選んだ理由は?」
「真似できる」
 わたしは〈画像記憶〉できるが、自分の身体にフィードバックもできる。使っている動作を見れば、できるのだ。一応は。フランボワーズはそんなことは知っているだろうに。
 フランボワーズが立ち上げていたノートPCにログインした。軍服がずらりと並ぶ。〈記憶〉する。
「裏切者を見つけろ」
 そんな簡単に言わないでくれ。クリックしてそれぞれの画像を閲覧する。数枚しかないからすぐにおわる。
 目立つのは目つきが異様なマスマイヤーと、双子のジャンとミシェルと、英国のヒゲのスマイルスだった。
 部下や関係者を疑うのはどうかしているが、これが戦争なのだ。どうやっても裏切者はゴミ蛆(うじ)のように湧き出る。指揮官がどれだけ有能だとしても。自覚のない健康保菌者(無症候性キャリア)は始末に困る。「チフスのメアリー」メアリー・マローンは料理が美味かったから問題になった。――詳しくは「孫子」を読め。スパイ本人より他のスパイからその報告がきたら〝皆死〟に限る。アーメン。
「順当に考えれば、ヒゲ(スマイルス)だろう」
 わたしはPCの向きを戻した。
「理由は?」
「英国人は自国の利益を守る」
 つまらん漫才だ。一度世界を征服したものが屈伏などするものか。敗北は根絶だ。チェス。
 フランボワーズがログオフして、iPhoneをつないだ。
「スマイルスはその点では裏切らない。優先順位がはっきりしている。……他は?」
 兵は皆プロフェッショナルだ。
「マスマイヤー。強い血黒な憎しみ……何か恨みでも買ったのか?」
「遅刻したから置き去りにした」
 思わず失笑した。ザジじゃあるまいしパリの地下鉄(メトロ)ではないことは確かだろう。
「危険じゃないのか?」
「近くのほうが管理しやすい」
 殺意が感じられる口調だった。唇をなめる。
「なぁる……。あとは双子。以上」
 銃を撃てるように同調したわたしも同じようにする。
「どちらだ?」
「どちらか。両方ではない。一番簡単な方法は、一人始末すればいい。確率は下がる」
「それができればお前を使わない」
 瞬間に、闇から黒い影が這いよるのが〝みえ〟た。
 わたしは、ハイパワーのスライドをなでた。見事な仕上がりだった。
「……首輪か?」
「リップヴァンウッド中将は?」
 指をとめた。
「まだ生きていたのか?」
 懐かしい名前だった。首を落とされたような衝撃がある。七三一部隊の資料の米国の管理責任者だ。
「ちょっと待て。今いくつだ? 生きていたとしてもとっくに退役して墓待ちだろう?」
「孫よ。アーヴィング・リップヴァンウッド三世中将」
 PCを閉じた。時間らしい。
「何をするんだ?」
「裏切者の排除。BJとそのスパイを殺せ」
 命令だった。おいおい。きれい好きだからって清掃係(クリーナー)にはなれないし、時間に正確だからって機械工(メカニック)にはなれない。
「適正ってもんがあるだろう」
「亡霊(ファントム)は、死を司るもの。お似合いだわ」
 フランボワーズが無表情に言いながら玄関に行く。
 今ここでこの女を殺したらどうなる?
 ダメだ。腰に手をやっている。自然なんだろうな。わたしが撃つより速い。
 わたしが人の状態を知るように、フランボワーズには高性能のレーダーがついているのだろう。まず当たらない。
 それに……まぁいい。後で解る。
 二人は並んで北上した。緑が丘の箱庭。茶泉記念病院はすぐだった。
 わたしは、右隣のフランボワーズにリンクして動きを真似た。抱いているだけに、身体がなじむ。同時に彼女が持つ戦闘の記憶まで再生した。
 フランボワーズがわたしを見る。
〝聞いていたけれど、妙な感覚ね。これが終わったら国で暮らさない?〟
 独白(モノローグ)だ。作戦中に言うのは死亡フラグだ。あるいはわたしの死を確定して言っているとか……。
 時間を切って、すこし前から再生される。つい三分前。記憶のタグ別に再生される。熱い抱擁。わたしの腹部に温かみが宿る。スキップ。赤木南々子の遺体。南々子がシャワーをする音。白手袋をした金髪碧眼の美少年が浴室から出た南々子に、掌で撃つ。即死だった。心臓が破れている。少年が長藻の精液をかける。その間フランボワーズはじっとしている。
 どうして助けない?
 ドアが開かれ、少年が出ていった。ゆっくり深呼吸をするフランボワーズ。息を止めていたのではなく、気配を消していたらしい。完全に消すと〝みえ〟ない。完全に環境になじんでしまう。
 忍者かお前は!
 録画していたiPhoneを止めた。……さっきのがそうか。
 急激な熱波が右から吹く――ちがうこれは……失神するほどの痛み……感電して動けない……。――そうか少年が……なぜ?
 疑問に答えるように、ホワイトアウトした閃光からあけ、月明かりにヘリコプターが一機。下に負傷兵が三名。マスマイヤーの支えている男が、対面に光るプレアデス(六連星)を指差した。手から血がしたたり落ちる。
 ヘリのセンサが機体を特定している。Mi-24V――無敵の攻撃ヘリ――ハインドが七機……。あいつに敵う装備は、ない。
 フランボワーズが何か言っているが、ヘリの爆音で聞こえない。コックピットの男が振り返った。
 地上ではマスマイヤーが拳を上げて叫んでいる。昴から流星群。もう間に合わない。
 光。やがて爆音。ヘリがゆれた。
 風がないで、朝露に草花がほほえんだ。緑の丘。ベルギーのワロンだ。美しい森や川。風光明媚とはこういうことを言うのだろう。豊かな自然。あたたかい食卓。確かにこんな何もないところで暮らすのも悪くない。むしろ願いたい。畳があれば。
 ロースクールに入るころのフランボワーズがスープを飲んでいる。カップに黒い影。見上げる。強い拒絶。
 硝煙。Browning Grande Puissanceの照準。髪をアップしたフランボワーズが撃っている。何発も何発も何発も。
 動作に慣れたころ、覚醒した。
 わたしは歩いていて、老婦人に当たりそうになった。よそから見たら変な人だ。
 白昼夢のような不思議な感覚。記憶の共有はしすぎると毒だ。
 仕事。現状確認。眼鏡の再生は止まっているとは言え、聞き慣れないフランス語が再生されていた。
《発見した。十時》
 十時の方角に、美少年BJがいた。〝敵〟だ。
「待て」
 フランボワーズが制止した。
 マイケル・コンチネンタルだった。BJを追いかけようとしている。……どうしてマイクがBJを追いかける?
 疑問より速くフランボワーズが音もなく駆けると、背後からマイクの右脇にレバーブロー。入った。肝臓直撃。あれでは動けない。すっとマイクを支えたのは双子だった。やはり護衛がいたか。指揮官が一人で動くはずがない。
 わたしは横目で見ながら、BJを追った。やや音はするが、フランボワーズを真似る。
《連行しろ》
 フランボワーズの声が眼鏡のマイクから聞こえる。
 双子の一人がわたしを見ていた。わたしは振り向かなかった。記憶を再生させる。
 無機物を見るような目だった。こいつが裏切者だ。確信したのはいいが、どっちだ?
 わたしはかまわずBJを追いかけた。
 尾行には最低三チーム七名が要る。二人一組(ツーマンセル)三方向で六名、司令塔兼連絡係兼予備が一名。通勤列車の二日目には隣人を覚えているのと同じで、どれだけ優秀だろうと同じ人間が尾行すればバレる。
 だから尾行する側も変装するわけだが、耳はすぐには変えることができない。それと靴。すぐに履き替えることはできないし、サイズがあわなければ致命傷になる。
 わたしは、フランボワーズから学んだように気配を消して後をつけた。完全に消すと、真空のような闇になってしまう。光学迷彩のように、空気を感じながら変化させて、動く。
 不思議と誰も気をとめない。振り返りもしない。背の高い美人が歩いているというのに。
 同時に殺気も消している。
 新館の二階に上がる。まるで幽霊だ。足音がしない。透明人間になったような感覚だった。これが殺し屋の――亡霊の身か……。
 旧館につづく回廊。長い。丸見えだった。誰もいない。見られたら困るが、聞こえてもかまわない。反響した銃の音なんて、日本人は知らない。知らないものはそれが銃声だと答えようがない。
 仕事。ポケットから銃を出した。抜きながら安全装置(セーフティ)は外してある。
 背後から狙う。
 Browning Hi-Power――天才ジョン・M・ブローニング匠の最後の作品。いったい何人殺してきたんだ? 刀の今が包丁なら、銃の今は何だ?
 どうも銃は好きになれない。前に米国で撃ったときもそうだった。構え・狙い・撃つ。三拍子かかる。ナイフなら一アクション。三倍の速度。冗談ではない。おまけに誤動作もない。さっきも上から弾を入れなかったのは、弾詰まり(ジャム)になりやすいからだ。そしてわたしは必ずそれを引く。パウリ効果だ。
 パウリ効果(パウリ・エフェクト―― Pauli effect)とは、ヴォルフガング・エルンスト・パウリ博士にまつわるジョークだ。ふつう「名前+効果」はその道の代表だが、これだけはちがう。そのままジョークだ。まともな方にパウリの排他原理がある。こちらでノーベル物理学賞を受賞した。ジョークが深いのもパウリならではだ。
 パウリは理論物理学者で、実験が不得手でよく機材を壊していた。彼が触れただけで故障したり、近づいた実験機材が動かなくなったりしたから、同僚の実験物理学者はパウリが近づくことを恐れていた。
 単純に考えれば、パウリがいようがいまいが実験は全く関係しない。そんなことで左右したら大変だ。「ヤツが来た」状態? 冗談ではない。同僚の物理学者が結果を正しく導き出せないことを、パウリの存在責任にするのは単なる感情論(ジョーク)だ。
 有名なのは、研究所近くの駅で停車していただけで実験中に爆発したとか(関係ないだろ!)、天文台に誘われたけれど望遠鏡の価格が気になって断ったのだが説得されて行ったらやっぱり壊れたとか(だから言ったじゃないの……)、パウリ効果を実演させようとシャンデリアを落とす仕掛けをつくったのにパウリ効果で逆に落ちなくなってしまったとか(汝試すなかれ)……。詳しくはwebで。
 実際には、パウリ自身この現象を楽しんでいたそうだ。心理学者カール・グスタフ・ユング博士の共時性(シンクロニシティ―― Synchronicity)を理解していたパウリにとってみれば、「現象が現れない方が不思議」だった事だろう。異質な二人は共著がある。別な話が都合よく、まとまっている。先入観なしに読めば、答えもあるだろう。
 パウリほどの人物は「秩序」を求める。実験の要素に失敗に結び付くモノがあれば、それを具現化させる。パウリが間接的にでも監修する事で、失敗する要素を減らし強引に速く結果的に成功させようと〈因果共時性〉が働くのだ。つまり、その実験物理学者(被害者?)だけでなく、世界にとって無駄な実験を繰り返す必要がないように、失敗する結果を優先的に出す。秩序を求めれば混沌(カオス)があらわれるのは必定だ。
 この場合の因果共時性の秩序は、結果的に「正・プラス」にさせようと、最初に「負・マイナス」を具現化させて混沌を減らそうとする。現実には、予想しなかった混沌が共時性であらわれることで、当事者はよけい混乱する事になるだろうが。パウリ曰く「神様の鞭(むち)」だ。
 こうした人物は間違いなく嫌われる。結果的に良くなるとしても、その時間は好かれない。あとあとの改悛まで遺憾に思う。それが日本人だ。意見と人格を見誤る。否定しているのは意見であって人格ではない。そもそも人格など自分で否定しない限り否定できない。
 蕎麦好きとうどん好きがいっしょに食べているようなものだ。蕎麦屋でうどんか、うどん屋で蕎麦か。関東・関西それぞれの味もある。そもそも両方にアレルギーがある。話し合いとは、それぞれが席につき、それぞれが楽しめばいいだけだ。相手の言い分を聞くことが解決につながる。絶対に相手のアレルギーを治そうなんて思わないことだ。かゆくなる。おいしくないラーメン屋はつぶせ。
 失敗を論理的に解決するには、因果共時性の秩序を意識的に抑圧または排除する必要がある。感情(ジョーク)ではなく、論理(金)で動く人間は、そうしたわたしのような使い方を知っている。好き嫌いではなく、金の動き・流れを感じている。
 物事の完璧さを求めるのではなく、事象の流れを意識すると、秩序と混沌はちょうど良いぐあいに双方譲り合い、道を開き通してくる。
 ある種の因果共時性の秩序を求める意識を高めると、こうした「パウリ効果」を意図的に出す事が可能になる。
 因果共時性では、パウリ効果を効率的に使うことで、不安要素を具現化させる「負のパウリ効果」が可能だし、また秩序に則った結果を意図的に結び付ける「正のパウリ効果」が可能になる。どちらも同一の因果共時性の片面ずつなのだが、理解されることは希だ。
 例えば、雨乞いの祈祷師(きとうし)の祈雨(きう)は、こうした正のパウリ効果を利用している。パウリ効果で必要な事象を具現化させるのだ。実際には、祈祷するというよりも、因果共時性の秩序と同化すると言ったほうが正しい。祈祷師は因果律と共時性をあわせた因果共時性の集合的意識と同化し、働きかけている。
 たとえ科学技術が進歩した今日、人工降雨技術を使うとしても、実際に雨が降る要素がなければ、雨は降らせることはできない。
 祈祷師は、因果共時性の集合的意識と同化し、働きかけ、待つ。すると集合的意識が自然現象を動かし、雨を降らせる。集合的意識も自然現象も同一のモノなので、逆に働かない方が不思議なのだ。
 これとは別に、雨男・雨女を代表とするある種の人物は、周囲の人間やモノの因果共時性による事象の緩衝材(クッション)になる。NG部分を吸収してくれる避雷針や洗濯機のゴミ取りネットだ。一本だけ「ハズレ」のクジ引きをすれば、その彼彼女が「ハズレ」を例外なく引く。「アタリ」のときは、引かないか、何らかの要因で引けない。そうした「ついていない人」「ツキに見放された人」は、自覚症状がない。だから、そのハズレを必ず引くことになる。
 一見、先程のパウリと同じように見えるが全く違う。「ついていない人」「ツキに見放された人」は自覚症状がなく、集合的意識の間(はざま)でクッションのように作用する。不用意に雨を降らせているのではない。日ごろの行いだ。未必の故意の結果だ。結果に結び付ける行動すなわち思考が、不用意にあまい場合に、本来、慈(いつく)しむべき雨が、不必要に降る。
 意識を変えれば雨男・雨女が、晴男・晴女になれる。そうした能力は人工で作り出すことが可能だ。言い換えれば、人工的に「死なない」ように作ることは可能だ。死神が逃げ出すほど、生存率の極めて高い人物は人工的に作り得る。その第一人者が茶泉王仁王博士だ。
 個人的意識は、集合的意識(因果共時性)に影響を及ぼす。パウリ効果を周囲に及ぼす時期には「不安要素は早く取り除くべきだ」という考え方が存在する。すると、因果共時性の秩序が働き、混沌が目覚めることになる。使う機器は初期不良を起こし、停止もしくは動作不良を引き起こす。これは論理的な観点から「存在するモノは百パーセントその能力を発揮べきである」という考え方が存在したからだ。問題は論理的に証明される事はないという事実だ。
 そうしたことを知っている人間は、新しい機械(技術)が導入されると、わたしを使う。何かあればすぐに誤動作するからだ。新しいプロジェクトにわたしが積極的優先的に参加させられているのも、こう言った事象がすぐに引き起こされることを自覚しているからだ。例外なく、興味あるプロジェクトでは、パウリ効果が発現する。結果そのプロジェクトは正解に導かれるわけだ。わたしが洗剤となって、失敗する要因を綺麗さっぱり洗い流すことで、プロジェクトが遅滞なく前進するのだ。
 ある時、とても興味あるプロジェクトがあったのだが、レイはわたしを担当させなかった。というのも、関連会社主体で行われる為に、どうしても失敗したくなかったからだった。内容も触(さわ)りすら教えてもらえなかった。わたしが参加しなかったので、パウリ効果は発現せずプロジェクトは進んだ。しかし、わたしはどうしても気になった。というのも、何か言いようがない良くない予感があったからだった。わたしの良くないカンは必ず当たっていたから、とても不安だった。パウリ効果があれば、その不安を具現化させ払拭できるからだ。
 わたしの良くないカンはそれまで必ず当たるのを知っていたレイも「今回はハズレたようだ」と言っていた。絶対ハズレたことがないわたしは正直驚いたが、実際ハズレて良かった。「何事も例外はあるものだ」と言うレイの意見を優先させた。経過をたずねてもレイは「いまは順調で、今回だけは問題なく成功させたいので経過も聞かないでくれ」との由(よし)。「完全に関わるな」だ。少しでも関わるとパウリ効果が作動する。レイなりの考えだった。わたしも了解して忘れることにした。
 その後、何年か過ぎたときに、何気ない会話で「良くない予感も一度だけハズレたことがある」とわたしが言うと、レイは「ハズレはない。全部当たった」と言った。わたしはもうすっかり忘れていたが、実はその後、プロジェクトは完成間際で、関連会社の責任で消えたのだった。
 レイが言うには「最初から参加させておけば良かった」だ。そうすればパウリ効果がすぐに発現し、それだけプロジェクトも早期に終えたはずだった。金にならない仕事をする必要がなかったのだ。
 それからと言うもの、新しいプロジェクトがあれば、まったく関係ない部署でも必ずわたしに意見を求めるようになった。パウリも似たようなことをして「パウリのご裁可を得る」と言われていた。話が速く、仕事も速くなるということだ。
 それとは別の「ついていない人」「ツキに見放された人」はいつも遅い。よく電車に乗り遅れる。目の前で電車が行ってしまったり、待ち時間が異様に長かったりする。タクシーで待てば、それまで順調に来ていたとしても前の人が乗った後は、長時間待たされることになる。
 何故(なぜ)か? 彼彼女たちは因果共時性の間(はざま)にいるのだ。つまり大道(秩序)が順調に働くためには、端数部分は一時停滞する必要がある。大きなパレードが中央大通を通過するとして、通過中は青信号にしなければならない。そうすると、それに交わる小道は、パレード通過中は全て赤信号で停める必要がある。信号のない場所では一旦停止しなければならない。その赤信号状態や一旦停止状態が「停滞」「運のなさ」となるわけだ。逆に彼彼女たちが停滞していない時は、何か異常があると言うことだ。「ついていない人」「ツキに見放された人」が調子が良いときは、周囲はかなり迷惑か、またはその後に大変な被害にあう。いずれにせよ、陸(ろく)でもない結果になる事は明白だ。そんな時は、自分の仕事を止めてでも休むべきだ。結果的に止めさせられるよりはマシだから。
 では、具体的にどうしたら良いのか? 簡単。「待たない」――そのままホームにいると、因果共時性によって辻褄(つじつま)を――強制的に――合わされる。本来、そこに存在してはならないのに存在しているわけだから、運も逃げるというものだ。次の電車には乗らず、次の次の電車に乗るか、または交通機関を変更する。ホームの外に出て散歩する必要があるのかもしれない。そうすると誰かに出会うかもしれないし、ふと見た看板に人生の答えが書いてあるのかもしれない。タクシーなら、その場で待たずに予約して近くの喫茶店でお茶をすれば良い。喫茶店の雑誌に答えが書いているかもしれない。とりあえず流れを変えることだ。
「ついていない人」「ツキに見放された人」は自分の「我」が強く、因果共時性の流れに逆らおうとする。だから安易に緩衝材(クッション)になりやすい。洗濯機のゴミ取りネットのように、壁にアタリながら周囲のNG部分を吸収してしまう。
 気を付けなければならないのは、そんな人物や事象は必要だということだ。不要だと思って削除排他することで、今度は削除排他した本人がその役目をする必要に駆(か)られる。
 たぶんそれが、あわれマスマイヤーなのだろう。
 目の前には美少年の後ろ姿。発光(発酵)してやがる。
 後ろから撃つのは反則だって? そういうことを言う人間は味方から撃たれる。そして息子もそうした卑怯者を仇とするんだろう。ゴミめ。ピンチはチャンス。チャンスをいかすことが出来なければ人をいかすこともできない。撃たれる。勝ってからモノを言え。宋襄(そうじょう)の仁。
 ファイア。異音。やはりジャム。正解。裏切らないな、わたし。安心した。いつもの調子だ。これだけの裏付けがあるんだ。ジャムしないほうが恐い。
 ヒット。血飛沫(ちしぶき)。美少年がスローモーションで倒れる。
 ケツカッチン。時間は守るほうだ。帳尻はあわせてなんぼ。目標をとらえたまま、詰まり(ジャム)を取りながら歩みよった。慣れた動作。フランボワーズの体感だ。
 まだ息がある。
 裏返す前に、心臓に二発。脳幹に一発。これで生きていれば奇跡だ。残心。
 まだ銃を構えながら、頸動脈に手をやった。停止している。
 クリア。
 BJ本人。左頬に抜けている。美しかっただけに無残だ。もう楽しめない。
 お約束の光りもの。手にナイフ。やっぱりな。予感はしていた。太く長い業務用。どこに携帯していたんだ? こいつもプロフェッショナルか……。
 不思議と罪悪感や違和感はなかった。フランボワーズの記憶といっしょになっているからだろうか。仕事をした。それだけだった。
 感傷的に考えるなら、殺す前に楽しんだからだろう。楽しんでから殺した。とある殺し屋の台詞(セリフ)だ。だれだった? webにはない。思い出すころには忘れているだろう。生きているかも、あやしい。
 わたしが無表情な顔を上げると、フランボワーズとゆかいな仲間たちが近づいていた。
 これからは「悪いことをしたことがあるの?」と聞かれても「殺し以外は」とは言えなくなったな。あぁわたしは人間様でもないのか……。
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