真夜中の同窓会

雪麻呂

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此処に居てはいけない

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3.





「竹内、お前マジで見たのかよ?」
「……ような気がするってだけだから……」

 懐中電灯の明かりが、白々しく、腐食した床をなぞる。

「うーん、顔には見えないっス」

 本田の命令で這い蹲り、舐めるように床板を確かめていた中井が、立ち上がって腕を組んだ。その口元には、皮肉混じりの嘲笑が浮かんでいる。とどめが、山本の一言。

「竹内君て、ほんと、怖がりなのよねぇ~」

 ……非常に良くあるパターンだった。
 床板の顔に驚いた俺が悲鳴を上げ、本田や中井が懐中電灯で照らすと、其処にはもう、なにもなかったというオチである。
 正確に述べれば、腐った床板に、半円形に近い窪みだけが残っていた。でもそれは中井の言う通り、どう頑張っても顔には見えない。誰かが重い物でも落として、うっかり上から踏ん付けたといった感じの、ただの痕跡に過ぎなかったのだ。
 見間違いだったんだろうか。
 山本に指摘されるまでもなく、俺は怖がりである。
 だから、錯覚したんだろうか。
 足元の感触まで……?

「あーあーくだらねぇ。もういいや、次だ、次」

 本田が俺の頭を叩き、これにて、顔の話は打ち切りとなった。





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 七不思議その四。トイレの花子さん。
 言わずと知れた、学校の七不思議・ザ・日本代表。
 二階の女子トイレ、奥から二番目のドアを三度ノック。
 「花子さん遊びましょ」と言うと、出現する。
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 俺達は、二階の女子トイレにやってきた。
 埃とカビの匂いが、一層強く鼻を突いた。長く使われていないためか、イメージしていたようなアンモニア臭はない。向かって右に五つ、個室が並んでいる。全面タイル張りのせいか、心なし空気が冷えて、涼しかった。

「女子トイレ入るなんて嫌だな……」
「お前もう呪われてるもんな!」
「ははははっ」
「えんがちょー!」

 俺は倫理的な意味で気が進まないと言ったのだが、本田と中井には、また臆病者と笑われた。背徳感に加えて、理不尽な揶揄。極めて遺憾だ。
 個室は、入るときにドアを引いて、出るときに押す形式である。だが中身は立派な和式。把手は丸いドアノブで、鍵は抓みのサムターンだ。戦後に増設されたもので、辛うじて水洗だった。男子便所がそうだったから、女子の方もそうだろう。

 一人一つずつ、個室を確かめてゆくことになった。
 まず本田が、いちばん手前の個室を開けた。中には和式の便器があるだけで、これといった汚れも破損もない。もしこれがクラシカルスタイルだったら、中から手が出るとか言って脅かされたんだろうな。
 次、中井。異常なし。
 三番目は俺。
 なにも……ない。至って普通のトイレだ。
 少し間を溜めて、山本が、いちばん奥の個室を開けた。
 あーあ、と落胆の声が上がる。

「なんにもないわね。つまんなぁい」
「じゃ、残るは本命のみか」
「そっスね」

 三人は、顔を見合わせて、ニヤリと笑った。
 本日、何度目かの嫌な予感がした。

「おい竹内、やってみろ。三回ノック」

 ……ほらきた。
 俺は一応、渋ってみせた。しかし三対一、この状況では、拒否権などないも同然だ。そもそも、ここでキッパリ断れるような性分なら、俺は今頃、こんなところにいないのだ。
 俺は仕方なく、問題のトイレの前に立った。
 ドアをノックする。
 こん、こん、こん……。

「花子さん……遊びましょう」

 しばしの沈黙が過ぎた。
 返事はない。
 当然だ。あっていいはずがない。俺はホッとした。

「なにも起こらないよ」
「そっか。んじゃ、中入れ」
「…………」
「はーやーくぅ」

 わかったよ。入ればいいんだろ、入れば。
 渋々、俺は把手を回す。女子トイレの個室に入るなんて、これが人生最初にして最後になってほしい。
 キィイイ。これまた嫌な音を立てて、ドアが開いた。

「!」

 汚い。
 俺は思わず顔を顰める。他の個室とは違い、此処だけが、やたらに汚れていた。
 空き缶、空き瓶、駄菓子の袋。ちびった鉛筆に、破れた靴下。拳大の石ころまで転がっている。ゴミ箱か此処は。水浸しのタイルに濡れて、それらは余計に悪質性を増している。すぐ足元には、半分グズグズに溶けたトイレットペーパーの芯が、念入りに踏み潰されていた。
 しかも、臭い。
 湿った空気と共に漂うこの臭い。紛れもないアンモニア臭じゃないか。
 もしかして、この水……?
 そのとき、ドン、と強く背中を突き飛ばされた。

「わぁっ!」

 倒れないよう、咄嗟に踏ん張った脚は、既に個室の奥に踏み込んでいた。べちゃり、と靴がゴミを潰し、スラックスの裾に水滴が跳ねる。
 慌てて踵を返す。
 ほとんど同時に、ドアが勢い良く閉まった。

「ちょっと! なにすんだよ!」

 俺はドアに飛び付き、把手を掴んだ。ガチャガチャガチャ、回らない。誰かが、凄い力で抑え付けているみたいだ。

「やめろよ!」

 叫んで、ドアを滅茶苦茶に叩いた。返事はない。俺の声とドアを叩く音だけが、僅かな木霊を引いて、トイレに反響した。
 そして、俺は気付いた。
 自分の叩いているドア、目線より少し下。
 其処に、何本もの引っ掻き傷があった。
 それこそ、今の俺と同じ状態で、必死に助けを求めて掻き毟ったような。五本の小さな傷が縦横無尽に、彼方此方に、狂ったような軌跡を描いて、刻み付けられている。

 ドウシテ……

 震えた声が、確かに聞こえた。
 後ろから、聞こえた。
 駄目だ。これは、見たら駄目なやつだ。
 わかってはいたのだ。でも、どうしてだろう。俺は振り返ってしまった。

「…………ッ!」

 子供だった。
 汚れやシミに混じって、壁に、子供の顔が浮き上がっていた。
 物凄い顔だった。土気色なんてものじゃない。紫と赤の混じった、なんの生き物だかわからないような、皮膚の色。それも原型を留めないほどに歪み、頬といわず鼻といわず、ボコボコに腫れ上がって膨らんでいる。
 その瞼に押し潰された瞳がギョロリと動き、倍になった唇が、薄く開いた。

 ド、ウ、シ、テ……

「うわぁああぁぁあッ!!」

 俺は絶叫し、死に物狂いでドアを叩き、蹴る。開かない。開かない!

「開けろ! 開けてくれ! 頼むから出して!」

 返事の代わりに、頭上から大量の水が降ってきた。
 見上げれば二つずつ、両隣の個室へバケツが引っ込んでゆくところだった。

「ひ……」

 ずぶ濡れになった全身から、ポタポタと水滴が落ちてゆく。
 ……こうなったら。
 ドアをブチ破ろう。
 木製の古いドアだ。成人男性が体当たりをかませば、何度目かには、破壊できるはず。もう不法侵入だとか、器物破損だとか、知るか。此処から出ないことには、俺は本当に、どうなるかわかったもんじゃない。手段を選んでいる場合ではないのだ。
 俺は、意を決して、肩からドアに突進した。
 ところが、それを待っていたかのように、突然、ドアが開いた。

 あっと思ったときには遅い。此方は渾身の力を込めていた。受け止められる場所を失った俺の身体は、勢い余って前にのめり、そのままタイルに転がった。

「ぎゃはははは!」
「あははは!」
「ひゃっはっはっは!」

 頭上から、三人の馬鹿笑いが降ってきた。

「見ろよコイツ! マジでビビってやんの! だせぇー!」
「もう、本田君ってばクスクス……可哀想じゃないのぉ」
「ガチ泣きしてるッスよ! ひひひっ!」

 強か打った肘と顎の痛みに、しばし悶絶していた俺だが、数秒して、状況を理解した。
 ……お前等の仕業か!
 コイツ等、やりやがった。俺を突き飛ばして個室に閉じ込めた後、たぶん本田と中井で把手を固め、ドアを押さえていたのだろう。初めから、俺を怖がらせて楽しむつもりで。それだけではなく、上からバケツで水まで掛けるなんて。悪戯にしても、度を超している。
 これはちょっと、やりすぎだろう!

「なにするんだよ! こんなの、洒落にならないだろう!」

 俺は頭にきて怒鳴った。三人は更に爆笑する。

「笑い事じゃないよ! スーツどうしてくれるんだ! ずぶ濡れじゃな……っ」

 思わず掴んだシャツの感触に、俺は、はたと言葉を切った。
 濡れて……いない。
 恐る恐る、個室の中へと視線を遣った。
 水など、一滴も零れていない。さっき見たはずのゴミや、シミや、汚れもない。他の個室と同じく綺麗に掃除されていて、あるのは便器と、年月の匂いだけ。ましてや、子供の顔なんて。影も形も、何処にもない。
 頭から、一気に血の気が引いた。

 あのとき見上げたバケツの数。
 ……四つ……?

「だいたい、大袈裟なんス。このくらいでギャーギャー騒いじゃって」
「見てよこれぇ? ドアの内側、すっごい引っ掻き傷! そんな怖かったぁ?」
「ほら、いつまでコケてんだ。さっさと立てって。次行くぜ」

 人の気も知らないで、三人は、無慈悲な台詞を投げ付けてくる。
 冗談じゃない!
 こんな奴等に付き合っていられるか!

「帰る! 俺……帰るから!」

 俺は立ち上がり、そう吐き捨てて、三人に背を向けた。
 如何にも、俺は怖がりだ。そこは否定しない。階段の件も、今経験したことも、恐怖が生んだ幻かもしれない。幻覚、幻聴、或いは精神疾患。科学的な説明も成り立つだろう。でも、だからって、それがなんだ。俺は此処にいてはいけないのだ。強く、そう感じた。
 霊感なんかじゃないけれど。
 嫌な予感がする。
 ソワソワする。頭の隅で、警報が鳴る。

 行くな。見るな、聞くな、進むな。帰れ。此処にいてはいけない。
 絶対に。これ以上は、
 ――思い出してはいけない。

「どーぞ、お好きにッス」
「好きにしろよ」

 足早にトイレを出た瞬間、しまった、と気付いた。
 目の前には、暗い廊下が伸びている。
 そうだった。頭に血が上って、すっかり失念していた。
 懐中電灯を持っているのは、本田と中井だ。あの様子からして、土下座して頼んだって、貸してはくれまい。ということは、俺は、この暗い廊下を一人で歩いて帰らなければならない。

「…………」

 踏めばギシギシと鳴る床。幼稚な落書きの残る壁。ポツンと置き忘れられた傘。歩けるだろうか。淡い月光の射す、この廊下を。不可解な出来事を体験したばかりの、この夜の廃校舎を。一人で。明かりもなく。
 俺は迷った。どっちだ。どっちがマシなんだ。一人で帰るのと、三人に同行して七不思議検証を続けるのと。
 ……どっちにしても怖いのなら、いっそ一人でも、今すぐ帰った方が……。

「でも、こういうのってさぁ~」

 そのとき、トイレの中から、山本の間延びした声が聞こえた。

「映画とかゲームなんかだとぉ~」

 なんて空気を読まない奴だ。これだから女は。
 などと彼女を軽蔑した俺だったが、しかし、甘かったのは俺の方。
 山本は、空気を読んでいた。バッチリ読んだからこその、この発言だった。
 きっと、計算尽くだったに違いない。結果として、コイツの次の一言で、俺の心は決したのだから。

「一人で帰った人が襲われるっての、デフォなんだよねぇ」



                  †



「えっと、これで幾つだっけ?」
「五つ目ッス」
「ちょっと竹内君ってばぁ。まだ拗ねてんのぉ?」

 山本が、侮蔑の眼差しを向けてくる。放っといてくれ。どうせ俺は怖がりだ。
 葛藤の末、俺が採択したのは、四人で七不思議検証という名の肝試しを続行するという、アホな行動だった。
 あれだけ怖い目に遭っておいて、ほとほと自分でも意志薄弱だと思う。だけど、山本があんなことを言うから。一人になんて、なれるわけがない。コイツの言う通り、今までに観たホラー映画は、全部そうだったじゃないか。

 「俺は帰るぞ、こんなところに以下略」は、鉄板の死亡フラグである。
 そういうわけで、俺は今、三人の後ろをトボトボと歩いている。突き当たりまで行けば、其処が美術室だ。相も変わらず床はギシギシと鳴り、踏み出す足は、益々以て重かった。

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 七不思議その五。泣く石膏像。
 美術室の石膏像の中には、一つだけ、人間の生首が混じっている。
 それは夜な夜な、失った身体を求めて涙を流すという。
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 建付の悪い扉を開けると、おぉ、と三人が感嘆した。

「すっげ。こりゃホラーだな」
「今まででいちばんの絵面ッスね」
「うわぁ……」

 俺もゴクリと唾を飲む。七不思議にはお馴染み、定番の舞台とはいえ、実際に足を踏み入れてみると、夜の美術室は、軽く異世界だった。
 黒ずんだ大きな机は、大勢の児童で使う作業台だ。その上には、糸鋸や錐といった不穏な木工道具が、ケースにも入れられず、あちこち裸で放置されている。壁には、芸術的すぎて凡人には理解不能な絵が、所狭しと飾られ、窓際の水道には、誰かの使った絵筆が、錆を葺いて朽ちていた。

 目的の物は、探すまでもなく目に入った。
 奥のスペースに設けられた陳列台。其処に、胸から上だけの石膏像達がずらり、笠地蔵宜しく並んで、こっちを見ている。胸像、とかいうのだっけ。

「お、これこれ」

 つるんとした白い顔に、懐中電動の光が当てられた。
 全員、それなりに整った顔立ちをしている。しかし、やはり像は像だ。美術3の俺に評論家は務まらないだろうが、アートというよりは、デパートのマネキンである。誰か偉い人の作品なのか、児童の置き土産なのか、ちょっとわからなかった。男も女もある。全員ハゲというのもシュールな図だ。
 そういえば、この三人と一緒に、コイツ等に落書きしたことがあったっけ。後で先生にバレて、みっちり叱られてしまった。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。明かりが移動する。
 そのときの落書きは、既にない。俺と中井で、綺麗に消した。
 よっつ、いつつ。
 物言わぬ彼等は、それ故に、却ってなにかを訴えているように見える。
 むっつ。
 尤も、訴えられたところで、俺にはなにもできないだろうが……。
 ななつ。
 懐中電灯の明かりが、次で、ピタリと止まった。

「…………」

 八つ目の石膏像は、なんとも奇妙な作品だった。
 これだけ、やたらと良く出来ている。
 目鼻立ちといい、骨格といい、頬や顎の凹凸といい、妙にリアルで生々しい。俺は石膏像の作り方など知らないが、こんな精巧な奴は初めて見た。まるで、本物の頭蓋骨に薄く石膏を塗り、短時間で固めたような。たまに刑事ドラマなんかでやってる、遺骨の復元を彷彿とさせる完成度だ。
 他の物と比べて、サイズが明らかに小さい。モデルは子供、なのだろう。
 それにしても……。

「なにこれ、キモい……」
「趣味……悪いッスね」
「つーか」

 グロいな。珍しく、本田が神妙な面持ちで呟いた。
 そうなのだ。この像、なんというか……
 物凄い表情をしている。
 硬く閉じた両眼。絞られた眉。眉間と鼻の頭には、きつい皺が幾重にも刻まれ、限界まで引き結ばれた唇は、端が裂けて、中から食い縛った歯を覗かせていた。それも数本が折れている。よくよく見れば、輪郭は数カ所でボコボコと腫れており、額の部分には、擦れたような傷も付いていた。
 いったい、どんな目に遭えば、こんな形相が出来るんだろう。
 先程までのテンションは何処へやら、三人は黙り込み、それぞれ、なにか考えているようだった。
 俺も考えていた。
 この像……いや、この顔。
 知っている誰かのような気がした。

 というか、ごくごく最近、会ったばかりじゃないだろうか。
 認めたくはなかった。けれど、それはたぶん、正解だ。
 俺が階段とトイレで見た、あの子供の……。

「……なぁ、俺さぁ」

 本田が呟き、懐中電灯を握り締めて、一歩前に出た。
 至近距離まで歩み寄り、間近で像を凝視する。

「そこまで詳しく憶えてねーんだけど……」

 嫌な、予感がした。

「これって、八つもあったっ」

 語尾は、誰かの、ヒッと息を呑む音に取って代わった。

 俺の心臓が、ずきんと跳ね上がった。
 全身から血の気が引いて、氷塊を押し付けられたような悪寒が、爪先から背中を駆け上る。腕も脚も総毛立ち、そのくせ、嫌な汗が滝になって額を伝った。冷えた頭の片隅で、うわんうわん。警報音が、けたたましく鳴り響く。
 そう。もう予感ではないのだ。
 確信だった。
 それを見てはいけない。
 行くな。見るな、聞くな、進むな。帰れ。此処にいてはいけない。
 絶対に。これ以上は、

 ――あぁ、でも、もう遅い!

「きゃあっ!」

 山本が悲鳴を上げた。

「ひえぇえっ」

 中井が懐中電灯を取り落とした。

「―――!」

 本田は硬直している。

 子供の石膏像が、泣いていた。
 ぽろぽろと零れる涙が、腫れた頬を伝って、作業台に落ちる。その唇が、空気を求める魚のように弱々しく動く。食い縛った歯から、カチカチと小刻みな振動音が溢れ始める。
 カチカチカチカチ……次第に大きくなってゆく音に合わせて、閉じられていた瞼が、睫を持ち上げる。俺達の誰一人として、石膏像から目を離す者はいなかった。
 中井が手放した懐中電灯が、有らぬ方向を照らして転がってゆく。
 次の瞬間、像はカッと眼を見開いて、震える声で、言った。

 ドウシテ。

「ぎゃああああああッ!!」

 四人同時に絶叫し、俺達は、美術室を飛び出した。





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