陰陽絵巻お伽草子

松本きねか

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すれ違う心は黄泉比良坂へ

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忠保があやめを室として迎えてから半年がたった。
同時に自分の学生として自邸で時間を作っては学問を教える毎日が続いていた。

あやめは仮名文字すら書けないので書を読むことも書くことも出来ない。
なので忠保が子供の頃に使っていた手習い帖を譲り受けて勉学に励んでいた。
最近は筆の書き心地が気になるようになってきて、手習い帖と一緒に渡された筆では満足出来なくなってしまっていた。
そして忠保の文箱に入っていた筆をこっそり試し書きして一番使いやすい筆を見つけた。
その筆は軸の真ん中を補強してあって二色の組紐が結ばれてあるもの。
恐らく真っ二つに折ったものを修理したのであろう。

『勝手に使ったので見つかったら怒られるかもしれないな』

あやめはそれでも、その筆の書き心地が素晴らしくて毎日のように文箱を開けては使わせてもらっていた。
本当は忠保も薄々気が付いているようだった。
それでも何も言わずに使わせていた。


忠保はその日遅くなってから帰宅した。
あやめは部屋にいくつかの巻物を広げて何か睨めっこしていた。
薄暗がりの中、見ると文机には書きかけの仮名文字と広げた手習い帖がある。
恐らく、練習中にその巻物が気になって読み始めたのだろう。
灯台の灯りの下でうずくまるようにして真剣に見つめていて忠保に気が付いていない様子だった。

「ただいま帰りました」

パチリと扇を鳴らすと、
ハッとした顔であやめが振り向いた。

「お、おかえりなさいませ」

「何をそんなに集中して眺めていたのですか?」

部屋に入ってから巻物を覗き込んでみると、文字の少ない絵物語のようだった。

「忠保様質問してもいいでしょうか?」

あやめが止まって見ている場面、よくよく見ると今流行りの恋物語の絵巻のようだった。

「なんですか?」

「このお伽話に出てくる『のこりが』の事で…」

あやめは袖を口元に持っていき思い悩んでいる様子を見せた。

「これです、この場面で…」

忠保はあやめの隣に座して絵巻物を一緒に指でなぞらえた。

「香ですね」

「ああ、香りのことですか」

「調香した中で最後に残る香原料のことですよ」

「そういえば、忠保様、甘松というのがほんのりと甘美になりますよね」

眉間のしわが消えて、明るい顔つきになってあやめは答えた。

「よくご存じですね」

あやめは巻物に視線を向けたまま続ける。

「なんていうか、こう…最後まで奥深い香りでしょうか。最初それだけでは臭い香りですけど、ちょっとドキッとするような香りになりますよね…」

巻物に集中したままで一生懸命な妻の姿に忠保はドキッとした。

「た、確かに残りますね…」

「それと、この重ね色目の季節はいつでしょうか?」

「それは春ですね」

じーっと巻物を睨みつけていたあやめが急に目を見開いた。

「あーっそっか、だから桜萌黄なのですね、もえ、ですね~、春は草木が萌え出ずる」

巻物を見ながらしきりに頷いているあやめの様子に忠保は、もしかして…と考える。

「私の萌えも受け止めてもらってもいいでしょうか?」

灯台の炎がゆらりと揺らめく。



さらに季節は巡り、桜の花は散り、藤も終わりを告げ雨が降る日が多くなってきた頃。
陰陽寮で忠保は光忠に話しかけられた。

「父上、雪明殿最近変な輩とつるんでいるよ」

忠保は反射的に雪明の方にちらりと視線を向けた。
何やら見知らぬ僧侶に声をかけられて出て行く所だった。
光忠はなおも続ける。

「やたらに生活も派手だし、目をつけられているみたいで…」

「……」

「羽振りもいいし、正室娶ってから何だかおかしいよね」

忠保はある事を思い出し険しい表情をした。
どうも最近、あやめが雪明に会っているようなのだ。
式神同士のやり取りは目を瞑っていたが、実際に会うのは別問題だ。
あやめとて邸から外に出れば在御門家の人間には気づかれてしまう。
その事を承知で動いているようだった。
それなのにあやめは何も言わない、素振りすら見せない。
忠保はそれが気に入らなかった。

忠保は不機嫌そうな顔をして残りの仕事を片付けると、帰路に着いた。
荒々しい足取りで自室に向かう。
部屋ではあやめがいつものように巻物を広げていた。
忠保はあやめの目の前にずかずかと歩いて行って、動けないように、そのままあやめを押し倒してしまった。

「誰と会っているのですか?」

怖い形相で詰問する。
あやめは上目遣いで忠保を見やると、

「言えません」

とだけ答えた。

雪明に会っているのを認めているくせに言わないつもりなのだ。
それがまた憎らしくなった。

「ねぇ誰とお会いしているの?」

畳みかけるように問いかける。

「言えません」

「なんで言えないの? 私はあなたとの約束を守っているのに、どうして約束を違えるの?」

「……」

言葉を絞るように最後に問いかけた。

「一体誰と会っているのですか?」

「言えません」

あやめはフイッと横を向いた。
その瞬間、忠保は頭がカーっと熱くなるのを感じた。
自分が抑えられない位、理性が吹っ飛び、懐から小刀を取り出す。
あやめの目はそれを見ても一向に動じなかった。

忠保は、あやめの右足を押さえつけ、そしてかかとの腱を切ってしまった。
一瞬の出来事だったが、あやめの右足首に血が滴る。
右足首に激痛が走ってもあやめは何も言わなかった、目を固く瞑りひたすら耐えている様子だった。
これであやめが自分の元から逃げることは叶わないだろう。
こういう気概のある所は葵にそっくりだった。
どうして泣き叫んだり、許しを請うたりしないのか…。
忠保はあやめの足首を自らで手当てしながらも心の中に燃えたぎる嫉妬の炎がくすぶり続けているのを感じていた。

「私の気持ち、分かっているのでしょう?」

契りきな…

「…はい…」

返事をしながらあやめはうつむいた。


翌日出仕をする際、忠保はあやめに念を押すように言った。

「今日は部屋でゆっくりと過ごしていてください。では行ってくる」

あやめは深々と礼をして見送った。

「行ってらっしゃいませ」


今日、忠保は大切な仕事があるので、束帯といういで立ちである。
あやめのことは気がかりだが、仕事に集中しなければならない。
それでも気にかかってふと考える。
あやめが雪明に会っているのは分かっているのだ…
私の本心も分かっているはずなのに…何故隠し通す?

筆でさらさらと記述しながらなおも考える。
最近、お金が減っていると思っていたし…何のために持ち出しているのだろうな?


忠保が帰宅すると、なにやら部屋の中が静かだった。
灯りだけがぼんやりとして薄暗い。

「?」

『変だな…』

忠保は心がざわつくのを感じた。

「…あやめ?」

呼びかけても返事が無い。
今日は邸から出て行く気配は無かったのに、姿かたちも無い。
まるでこの場から瞬時に消えてしまったかのような感じだった。
ふと文机に置いてある紙に目が留まった。

「漢文? あやめはかな文字しか書けないはず…ただ、この御蹟は本人のものだな…」

あやめの置手紙を机に戻して、気になる事があって確認してみた。
唐櫃の箱の蓋が開いていたのだ。

「私の狩衣が一具なくなっている…」

それは忠保が普段着としていつも着用している狩衣だった。
代わりにあやめが身に着けていた衣が綺麗に畳まれて入っていた。

「とりあえず式神に探させるか…」

忠保は集中して自分の式神にあやめを探すように命じた。
人型の紙は黒い鳥の姿に変わり、忠保の目となり外に向かっていった。

「おかしい…都にいる気配が、ない…? どういう事だ?」



式神に都中探させたが一向にあやめの気配を見つけることができなかった。

「先程の漢文といい…」

『必ず帰ってくる』

「雪明と一緒だとは思うが…どうか、無事でいてくれよ…」


時は少し前に遡る。

夕暮れ時、あやめは自らの心に従って動いていた。

まるで式神だった頃のように体の重さも右足の痛みも感じなかった。
身体も意識ですらも、自分の中にある何かの存在に動かされているような感覚だった。
そこは光に包まれた場所で、あやめはその光の中を駆け抜けていく

「天つ國――!」

片手を天に伸ばした時、一刀の刀があやめの手元に現れた。

「…ら…ゆきあきらー!!」

徐々に視界の中に雪明の姿が現れて、景色が色づいて、夕闇の橋の上に立っていた。

薄暗がりの橋の上では雪明が数人の男に囲まれていた。
しゃがみ込んで腕の中には年老いた男を抱きかかえて、涙を流している。
中には姿が僧の者もいる。
驚いていたのは男達の方だった。
いきなり雷が橋の上に落ちたと思ったらその光の中から人が現れたのだ。

あやめは間髪おかず手の中の刀、天つ國を振るい始めた。
あまりに驚いて体が固まっている男達に向かって、
切りつける事無く体ギリギリの所で手首をクルッっと返した。

シャラーンッ

刀に付いた二つの鈴が共鳴する。
天つ國を振るうたびに鈴の音で、怪しげな僧都達を痺れさせて眠らせていく。
恐らく目覚めた頃には記憶も失っている事だろう。
全ての男達を眠らせたあやめを見上げて、雪明は話しかけた。



「あやめ…父上が…」

あやめは雪明をチラリと見てから、空間に向かって刀を左から右へ水平に斬った。

「時空間一文字!!」

一文字に刀で斬られた空間は歪んでいて異空間へ続く入口になっていた。
そして雪明の手を取るとその不思議な空間に招いた。

「誰でも心の闇にはつけ込まれるものです。取り返しに参りましょう」

雪明は父を担ぐとあやめと共にその空間に入り込んだ。
入口が閉じると目の前にあの龍が姿を現した。

『雪明久しぶりだね、二人共振り落とされないように…しっかりとつかまっていてね』

気が付くと龍の背中に乗せられている。
雪明がここはどこだろうと思った時、

「黄泉比良坂…」

あやめが答えた。
龍は広い空間をものすごい速さで飛んでいた。
下を見下ろすと大きな川が見える。

『あれはまさか三途の川…』

雪明が見下ろすと、大きな川にかかる大きな橋の上を一人の年老いた男がゆっくりと歩いていた。

『そこなもの…待たれよ…』

龍が語りかけるとその男は金縛りにあったかのように固まって動かなくなった。

『おや…赤山大明神様』

ふと横を見ると橋のたもとには大釜があって、老婆が佇んでいた。

『おババ…そのものの御霊を戻すよ…そのかわり…1000年間この娘御が罪を償う』

「……」

あやめは無言で頷いた。
おババは薄く開いた目をあやめに向けた。

『おや、真一殿の御霊ですね…分かりました、これから輪廻転生、しっかりと請け負いましょう』

『さぁ、今生に戻るよ…』

今まで驚いていた雪明はその言葉にハッとして龍に話しかけた。

「龍様…あやめが罪を償うとは? 私は、どうしたら…」

『雪明…あなたは生まれ変わることすらできないの…わかるね?』

「……」

『辛いよね…これから先…死を迎えた後…あなたはずっとあやめの御霊を見送り続けなければならないの…1000年の間あやめの御霊が迷わないように…この黄泉比良坂で!』

「!!」


あやめと雪明が龍の背に乗って黄泉比良坂に行っているとも知らずに、忠保は部屋の中をウロウロと落ち着かない様子で歩いて、独りで思い悩んでいた。

「やはり、全然都にいる気配すら感じない…あやめは遠くには行けないはずだ…夜盗に殺され? いや、雪明と一緒のはずだ…雪明と心中? まさか…入水、か? いや、あの漢文の内容は…」

その時、突然の閃光…まるでその空間から浮き上がったかのように、いきなり忠保の目の前に現れたのは、雪明、雪明の父、あやめの三人。
あやめはその場で倒れてしまった。
雪明は自分の父親を担いで俯いている。
忠保はただただ驚いて、やっとのことで言葉を紡いだ。

「い、一体…」

「忠保様…」

雪明は泣きそうな表情をしていた。

「と、とりあえず…何があったのか話してもらえないか」

忠保は倒れたあやめに衣をかけて、雪明を促した。
今あった信じられないことで困惑気味の雪明も頭の中で色々と整理していく。

「何からお話すればいいのやら…」


いつの間にか外では静かに雨が降り始めていた。
忠保と雪明は向き合って座り、二人の横ではあやめと雪明の父が静かに寝息をたてていた。

「北の方があの僧都に? 光忠から不穏な輩の話は聞いていたが…目的は、秘伝の書だった…か」

「結局、唐の秘伝に興味があったようで…お恥ずかしながら室が惑わかされました、金銭を借用するほどまでに…」

「贅沢好きな女だと聞いていたから、気にはなっていたが…それにしてもあの僧都…なんとも謎だな」

「父上が離縁しろと言った矢先でした、あやめもいろいろと気を遣ってくれて…」

「……」

忠保は口をつぐんだ。

「忠保様…どうしてあのようなご無体なことを…ひどすぎます…あやめは、もう…普通に歩くことができない」

忠保は下を向いて目を閉じた。

「…本当は…苦しかったんだ、あやめの中には、いつもお前の影があったから…どうしても消したくて…私の想いを受け入れると言ったくせに…どうして約束を違えるのか…お前と内密に会っていれば、不義密通だと誰だって思うだろ?」

「話せなかったのです…赤山大明神様から口止めされておりましたから…」

「命にかかわること、だから…?」

「はい、それと…」

雪明は先程あった不思議な出来事を事細かに話し切った。

「…1000年間の因縁切り?」

「はい、それまで私は生まれ変わることすら出来ないのだそうです」

「あやめ一人で?」

「もともとあやめの御霊には、葛白真一様がいるのです。刀を持つと思いだすのでしょう…葛白真一様の時に讒訴されたあの時を…だからご一緒に命の償いをされるのだそうです」

「葛白、真一殿…だと…あの、先の怨霊騒動を起こした…」

「はい、ずっとあなたのお父上が挑んでこられて…そして、私も百鬼夜行で遭遇したあの方です」

「そんな…」

「これからお話することは、赤山大明神様から言付かったことです、きっと憲忠様にも光忠殿にも伝わっているはずです、あやめもね…分かっておりましたよ…子供みたいにみえてね…ちゃんと世の理が分かっている…そんなおなごです」


雪明から一通り話を聞き終わってから忠保は疑問に思っていたことを口に出した。

「なんであんな女を正室にしたの?」

「そ、それは…あなたに言われたくありません、どんな女人を前にしていても、ウリやナスに見えてしまうのです」

「……」

「だから、見目良い女人を選んだのですが、毎日恨みごとを言われてばかりで…だんだん相手をするのが疎ましくなってしまって…式神を相手にしていたほうがマシで…」

「ヤバイだろ…あんなの選んでいちゃ」

「えぇ…私だってあなたに恨みごとの一つでも言いたい、あやめが人になることを望んでいたのは、私とて同じ…ずっと憧れていた想いは、あなたと同じなのです!」

「……」

「私はあやめの心が動くことが心配でした…いつしか私のことなど忘れてしまうほどに…忠保様の想いを受けとめるたびに、響くのです…どうしたらいいのかわからないって…あやめの心の声が」

あやめは忠保のお約束通りに『愛しくて仕方ない』想いを受け入れるたびに、ため息をついていたのだ。
『私はね女の子が欲しいのです、とか、あと二人くらい男の子も、とか向けられてもな…困ったなぁ…』って…。

忠保はあやめが脇息にもたれかかって物想いにふけている様子がたまらなく好きだった。
まさか赤山大明神様の御霊のことすらすっ飛んでしまうほどまでになってしまうとは、自分でも想像がつかなかったけれど。

『人の情というものはわからないものだ』

と雪明は心の中で思った。

「だから、だから…昨夜、あなたがしたことが、私は許せなかった、ただ…二人の切なさが伝わっていた分、私も自暴自棄になっていたのでしょうね…先程、葛白真一様に諭されてやっと決心がつきました」

一瞬、決心を固めた雪明の目が輝いたように見えた。

「雪明…?」

「だから…忠保様もちゃんと受けとめてください、これから先、起こるべき命のさだめ、を!」

忠保はフッと苦笑した。

「これから女人を選ぶときには、外見だけでなくて御霊にある光を見ていけよ、もう、わかるだろ? 女など信用できるものじゃない、正室を失ってから私は…女を泣かせてばかりいたな、利用価値のある女は利用するだけして…今は女の元に通ってもおまえと同じで、野菜にしか見えないのだよ、
何もせず帰るものだから、逆に恨みごとが飛んでしまって、困ってしまってね、馴染みの女は、それでも分かってくれているよ」

忠保の自嘲も込めた物言いに雪明はただ頷いた。

「あちらの対屋が空いている、お前が居た場所だから分かるよな…父君が目を覚ましたら、人目につく前に屋敷に戻るように…何事も無かったように振る舞え! 正室の女はほっておけ」

「分かりました…」

言いながら雪明は心配そうにあやめをチラリと見やる。

「これから私はあやめと赤山大明神様に向き合う、大丈夫だから、もうあのようなことはやらないよ、二度とね、約束をする」

「……」

それでも気にかかるのか、雪明は動こうとしない。

「お前ね…空気を読めよ」

忠保は雪明を見ずにあやめの方にだけ向いて苦笑しながら呟いた。
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