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🏥お医者さまの章🏥
17.樫の木と涙
しおりを挟むヒカリとカゲは、無言で歩いた。
互いに示し合わせるでもなく、二人の足は無人の公園に向いた。
鈍色の雲から、堪え切れなくなったように雨が落ちてくる。
大きな樫の木の下に辿り着いた頃には、既にヒカリの目からも雫がこぼれていた。
「最初っから、そうしとけば良かったんじゃねえか」
意地張らずにさ。
隣で、カゲがそう言った。
「そっか……そうだね」
声に出したら、“泣きそうなもう一人の自分”はいなくなった。
簡単なこと。
ヒカリは、ずっと泣きたかったのだ。
大人みたいに笑ったり、奥さんに張り合おうとしたり、先生の家に突撃したり。
そんなことせずに泣けばよかった。
叶わないって知ったときに。
「すごい遠回りしちゃった」
「だな」
雨も、涙も。
とめどなかった。
奥さんのことを嫌いになれなかった。
当然だ。彼女は真先生が選んだ人で、美亜ちゃんのママなんだもの。
むしろ、あんなに図々しいお願いができたのは。
リラックスして話せたのは。
(少し、ママに似てたな……)
ヒカリは奥さんの中に、母親を重ねていたのかもしれなかった。
買えば何でも手に入るのに、作る手間を惜しまない。
絶え間なく愛情を注いでくれるひと。
奇しくも、ヒカリが両親を喪ったのは美亜ちゃんと同じ年頃だ。
壊そうとするなんて。
手を振り上げるなんて。
できるはずがなかった。
いつしか、ヒカリは声を上げて泣いていた。
カゲは、ただ隣に立っていた。
ポケットに手を突っ込んで、雨を見つめながら。
小降りになってから公園を出た。
屋敷に着くと、橋倉の小言が待っていた。
濡れて帰ってきた、車を呼ばなかった、帰りが遅かった、護衛としてどうなのか──。
「違うの、橋倉。これには事情が」
「うっせーな」
ヒカリが説明しようとすると、カゲが前に出た。
「これくらいの距離で何が車だ、めんどくせー」
カゲが不貞腐れた態度を取れば、橋倉は顔を真っ赤にしてさらなる雷を落とす。
「外で立っとれ!」とどやされて、二つ返事で耳を掘りながら勝手口へ向かう彼と目が合った。
──いいから何も言うな。
と言われている気がした。
ぼんやりする時間。
泣く時間。
カゲは、時間が必要なことを黙って察してくれた。
だから車を呼ばなかったのだ。
ヒカリは、少しだけ彼に申し訳ないなと思った。
勝手口の狭いステップに腰掛けると、カゲは煙草を咥えた。
一旦小降りになった雨は再び勢いをぶり返し、雨よけのテラス屋根からひっきりなしに雫が滴っている。
(……くくく。遺産、遺産)
彼は、ゆっくりと煙を吐き出した。
例の話を、まだ本気にしている泥棒である。
令嬢が医者のことを諦めたので、遺産が一歩近づいたと思っている。
(バカ執事め。俺様をこき使えるのもあと少しだぞ)
いずれ莫大な遺産が手に入るなら、どやされるくらい何ほどのこともない。
遺産を手にした暁には、あのうるさい執事を馬車馬のように働かせてやる。
カゲはほくそ笑んだ。
彼がご機嫌な理由は他にもある。
(尿意を気にしない生活。快適……!)
特に雨の日は、足元から冷えるから大変だったのだ。
「くくく。あーはっはっは!」
「やかましい!」
すぐに橋倉の声が飛んできたが、彼はしばらく笑いが止まらなかった。
♡
風邪を引いて学校を休んだ。
原因は恐らく先日の雨だ。
ほんの数日前までは、何でもいいから体調を崩して通院したかった。
しかし、今となっては不本意である。
ヒカリは、カゲに伴われてクリニックに足を踏み入れた。
ぼんやりしたままソファにもたれる。
「なあ。俺、コーヒー飲んできてもいい?」
カゲがソワソワしながら言った。
体調が優れないヒカリは、「うーん」と適当な返しになる。
(飲み物くらい勝手に飲んでこればいいのに……っていうか何よ、あのウキウキした後ろ姿は)
頼りになるのかならないのか。
よく分からない男だ。
カゲの事情を知らないヒカリは呆れた。
彼は、尿意に悩まされなくなった今、後先気にせず飲み物を購入するという夢のような生活を堪能しているのだ!
「胡桃沢さまー」
ナースに呼ばれて中待合室に向かう。
「はあ? またヒカリですの?」
「げ。姫華」
彼女も風邪を引いたらしい。
顔が赤く、明らかに熱がありそうだ。
「アンタはどうして、いつも私の真似ばかりしてくるのよ」
「失礼ね。真似しているのはそっちじゃなくて?」
互いに体調が優れないためか、非難の応酬も続かない。
二人は押し黙ってソファに沈み込む。
姫華が先に呼ばれ、それぞれ診察を済ませた。
ヒカリは、誠先生に会ったらまた苦しくなるかもと思ったが、呆気ないくらい平気だった。
彼は、ヒカリにとって頼れるお医者さまになったのだった。
コーヒーを飲み終えたカゲは、クリニックに横付けされた業者の小型車を横目に院内に戻ってきた。
ヒカリは診察を終えたらしい。
業者がフラワーベースの花を入れ替えている。
白い壁に白い床。
至って普通の風景だ。しかし。
「ん? う、がああぁぁっ……!」
久々に、来た──。
“なぜ”の二文字と、さっき飲み干した缶コーヒーが、脳内でスロットのように回転する。
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