コットンブーケ

海子

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2.エマの縁談

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 それから三日ほど経った、五月中旬の水曜日、エマは、奴隷の一人に荷馬車の手綱を握らせて、ペンナの街へ買い出しに向かった。 
アンヌの農園の買い出しは、二週間に一度、天候さえ悪くなければ、水曜日に行くことが習慣になっていた。 
アンヌや、アンヌの農園で働く使用人、奴隷たちの暮らしに必要な食べ物や品物を、二週間分、まとめ買いするわけで、それは中々の品数にのぼり、大仕事だった。
買い忘れたからと言って、農園から馬車で二時間もかかるペンナの街まで来ることはできないので、エマは、購入しておかないといけないものを、いつも細かくチェックして、メモを取っていた。



 この日も、いつものように、エマは、まず行き慣れた食料品店の前で、馬車を止めさせた。 
そして、奴隷を待たせておいて、店に入ろうとした時だった。 
「ちょっと、ごめん」 
と、後ろから、急に呼び止められたかと思うと、半ば強引に、通りの端へと身体を寄せられた。
アンソニーだった。
「会えてよかった」 
アンソニーは、走って来たのか、息を切らせながらも、笑顔だった。 
「どうしてここに・・・」
「先月、ここで見かけたのが、水曜日のこの時間だったんだ。もしかしたら、ペンナの街に買い出しにやって来るのは、水曜日かもしれない、って思って。今、役所に来ているんだけど、理由をつけて、少しだけ抜け出してきた。だから、すぐに、戻らないといけないんだけど。・・・この前は、ごめんよ」 
アンソニーに謝られて、エマは驚いた。 
先日、ランドルフとアンソニーが、訪れた時、暗い面持ちで、話しかけられても、ほとんど口を利かずに、失礼な態度を取ったのは、エマの方だと言うのに。
「この前は、突然、押しかけてごめん。後で、ランドルフ様に聞いたんだけど、僕の事、何も知らされていなかった、って。随分、驚いただろう」
「いえ、私・・・」
正直、エマは、アンソニーと話す機会は、もう二度とないだろうと思っていた。 
先日の、自分の失礼な態度に、アンソニーはきっと、ひどく腹を立てたに違いないと思っていた。
けれども、目の前のアンソニーは、怒っているようには見えなかった。 
それどころか、エマに会えて、本当に嬉しそうな顔をしていた。
「この前、君に、渡しそびれたものがあって」 
と、アンソニーはポケットから、小さな包みを取り出して、エマに渡した。
エマが包みを開くと、赤と黄色の可愛い小花が刺繍してある、手触りのいいハンカチだった。
「私、こんなもの、貰えないから・・・」 
エマが、慌ててアンソニーに押し返そうとしたら、そのまま、手に押し返された。
「君に受け取ってほしいんだ。あの時、ひとつ駄目にしてしまっただろう」 
「あの時?」 



 アンソニーは、一カ月ほど前、仕事で、ペンナの街の役所に来ていた。
役所で用を済ませ、表に出たところで、馬車の行き交う通りの向こうに、五歳くらいの女の子が、泣いているのを見つけた。 
身なりから、あまり裕福な家の子供ではないように思われた。 
大人たちは、見て見ぬふりで、通り過ぎて行き、声をかける者は、ひとりもなかった。 
どうしようか、と、アンソニーは、一瞬ためらったが、放ってはおけないなと、通りを渡り、女の子に近寄ろうとした時、ひとりの女が、女の子の前で足を止めて、屈んだ。 
エマだった。
「どうかしたの?迷子?」 
女の子は、首を振って、
「足、痛いの」 
と、ずいぶんと着古したように見える、スカートの裾を少し持ち上げた。
膝から、血が出ていた。 
「ああ、転んだのね」 
そう言うと、エマはポケットから、ハンカチを出し、まだ少し出血の続く女の子の膝に巻いて、きゅっと、結んだ。 
「これでいいわ。血はすぐに止まるから、心配しないで」 
いつの間にか、女の子は泣き止んでいた。
「痛かったわね」 
エマは、そう言って、女の子の瞳を覗き込んだ。 
「家はどこ?ひとりで帰れる?」
「大丈夫」 
女の子は、そう言って、はにかんだように笑うと、エマに手を振って、背を向けた。 
女の子は最初、歩いていたが、すぐに駆けだした。 
それを眺めながら、エマは、ふふっと、頬を緩めた。 
そして、そのわずか五分ほどの、一部始終を目撃していたアンソニー・ヒューズのハートには、恋の矢が突き刺さった。



 「あの時の・・・」 
アンソニーの話を聞き終えて、エマは、一カ月前のその出来事を、思い出した。
アウラからやって来て、食料品店へ馬車を止めさせ、近くの生地屋に、歩いて立ち寄った後、再び食料品店へ戻ろうとしていた時の出来事だった。
「優しい人だなあって、思ったんだ」 
アンソニーは、そう言うと、照れたようにうつむいた。 
エマも、何だか恥ずかしいような気分になって、頬を赤くして、下を向いた。 
その時、これまでとは違う感情が、確かに、エマの中に芽吹いた。 
「ああ・・・、僕、もうそろそろ戻らないと。もっと、話をしていたいんだけど」 
アンソニーは、まだ仕事の途中のようで、時間を気にしていた。
「それじゃあ、私、これで」 
「エマさん!」 
アンソニーは、行きかけたエマを慌てて呼び止めると、
「また、僕と会ってくれる?」
真剣な眼差しで、言った。
「私・・・」
「明後日の金曜日の夜八時、この前一緒に歩いた木立まで、会いに行くよ。君が来てくれるのを、待ってる」 
「私、そんな約束は・・・」 
「君が来てくれるまで、僕は、ずっと待ってる」 
それだけ言い残すと、アンソニーは、もう駆けだして、土埃の舞う、馬車の行き交う通りを渡っていた。 
建物の向こうに、直ぐ、その姿は見えなくなった。 



 アンソニーが、とてもいい人なのだと言うことは、エマにもよくわかった。
自分の事を、好きでいてくれるということも。 
だからといって、これまでの生活をすべて捨てて、アンヌから離れ、嫁ぐなどと言うことは、到底考えられなかった。
エマは、手の中に残ったハンカチを見つめた。
そして、赤と黄色の可愛い小花の刺繍を、そっと指でなぞった。



 それから二日後の、金曜日の夜八時、包みを手にしたエマは、裏口から、屋敷をそっと抜け出し、灯りを手に、先日、アンソニーと一緒に歩いた木立に向かった。
本当に、あの人は、来るのかしら。 
わざわざ、私に、会いになんて・・・、来るのかしら。 
けれども、そのエマの疑いは不要だと、すぐにわかった。 
何故なら、アンソニーの乗ってきたと思われる馬の嘶きが耳に届き、木立に向かって歩く、エマの灯に気づいたアンソニーの方から、近づいて来たからだった。
アンソニーは、アンヌの農園の者に気づかれないように、灯りを落としていた。 
「来てくれて、本当に嬉しいよ」
エマの持つ、小さな灯りに照らされるアンソニーの表情と声は、喜びに溢れていた。
「私が・・・、今日ここへ来たのは、あなたに、ちゃんと、話さないといけないと思って・・・」
「聞くよ」 
「私のことを、想ってくれるのは、嬉しいけど・・・、私は、アンヌ様のお傍を離れるつもりはないの。だから、誰とも結婚するつもりも、ないの。せっかく、来てくれたのに・・・、あんな贈り物まで貰ったのに、ごめんなさい」
エマは、頭を下げた。
「君が、僕に、謝る必要なんてないよ。頭を上げて」
頭を下げるエマに、アンソニーは、慌ててそう言った。 
俯いたままのエマを、しばらく眺めていたアンソニーだったが、 
「僕のことは、嫌い?」 
そう尋ねた。 
「・・・そんなことないわ」
「よかった」 
アンソニーは、ほっとしたような笑顔を浮かべた。 
「あの、これ、今日、焼いたんだけど、よかったら、朝食にでも食べて」
「何?」 
エマが、差し出したのは、コーンブレッドが入った包みだった。 
コーンブレッドは、トウモロコシの粉を使って焼いたパンで、どこの家庭でも、日常的に食される味だった。
「あの綺麗なハンカチのお礼に何か、って思ったんだけど、私、こういうことしかできないから」 
「これ、僕に?ありがとう、エマさん。・・・今、食べていい?」 
「今?」 
エマがそう問い返すのと、アンソニーの腹の虫が鳴るのは同時だった。 
「夕飯は?」 
「実は食べてない」 
そういう間にも、アンソニーは、包みから、コーンブレッドを取り出し、口にし始めた。 
「君が来るかもしれないと思うと、夕食を食べる気分になれなくて。少しでも早く、ここへ来たかったんだ。美味しいよ、これ。エマさん、料理上手なんだね」 
「何時から、ここにいるの?」 
「仕事が終わって、直ぐに来たから、七時前かな」
「七時前?」 
「待ってる時間も、楽しかった。早く来ないかな、来てくれるかなって、ずっとお屋敷の方を見てたら、君が歩いてくるのが見えた。踊りだしたい気分だったよ、踊れないけど・・・」
と、アンソニーは、そこまで喋って、激しくせき込んだ。 
コーンブレッドが、のどにつかえたらしかった。
「私、お茶を持って来るわ」 
と、背中を向けたエマの腕を、
「待って、エマ!」 
慌てて、アンソニーは引き留めた。
始めて、互いに触れて、思わず、はっ、と見つめ合った。
「エマ・・・、エマって呼んでもいい?」 
エマは、小さく頷いた。
「お茶は、いいよ。もう、大丈夫。・・・少しでも、長く、こうやって話していたいんだ」
「あの・・・」
「何?」 
「ここに・・・、ついてる」 
アンソニーの顎に、コーンブレッドの欠片がついているのを、エマは自分の顎を指さして、示して見せた。
「ホントだ」 
それを手で払って、アンソニーは、笑った。 
エマも、微笑んだ。 
「さっきの話だけど・・・、結婚の話は、まだずっと先でいいんじゃないかな」 
アンソニーは、真顔に戻って、そう言った。
「もちろん、僕は、君と結婚して、ずっと一緒にいたいと思っているけど、君はまだ、そういうことを考えられないっていうんだろう?だったら、君が、そういう気持ちになるまで、結婚の話はおいておこうよ」 
「でも、そんな中途半端だと、あなたに悪いから・・・」 
「悪くなんてないよ。僕は楽しいよ。とても、楽しいよ」 
アンソニーは、いつもの笑顔になった。
「僕たちは、まだ、知り合ったばかりだろう?お互いのことを、もっとよく知ろうよ。今みたいに、楽しい時間をたくさん過ごそうよ、エマ」 
そういって、明るく笑うアンソニーを見た時、エマの心に、じわっと込み上げる温かな感情があった。 
私、この人のこと、好きかもしれない。
好きって・・・、こういうことなのかもしれない。 
エマの心臓が、とくん、と、脈打った。



 それからは、毎週金曜日の夜が、ふたりの逢瀬の時間になった。 
二度目の逢瀬の別れ際には、抱擁を、三度目は、はじめての口づけを交わした。 
そして、四度目は、会った瞬間から、別れの時間まで、抱擁と口づけだけの時間になった。
エマの心に初めてともった恋の焔は、野火のように、広がりゆくだけだった。 
  
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