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8.Trial
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まだまだ、朝晩は風の冷たい、四月中旬の朝、レティシアは、牛乳屋から牛乳をついだ容器を受け取ると、硬貨を渡した。
「早く、暖かくなるといいのにな」
牛乳を売る初老の男は、冷たい風に、ぶるっと体を震わせた。
「牛乳屋さん、本当に、朝、早いから、寒い」
「寒さは、年寄りに応えるよ。それじゃ」
すっかり顔なじみになった牛乳屋は、二言三言、レティシアと言葉を交わすと、大きな牛乳の缶を乗せた荷馬車を、走らせていった。
家の中に戻ろうとして、レティシアは、ドアの取っ手に、リボンを結んだ包みが括り付けられていることに、気づいた。
包みには、小さな紙片が差し込まれていた。
吉報を待っていろ。
紙片には、そう記されてあった。
リックだわ。
その癖のある文字を見て、レティシアには、すぐわかった。
ホイットマン製造会社の者たちは、月末に行われるトライアルに参加するため、今朝早く、ブリストンを離れ、トライアルの地、ロングヒルに向かったはずだった。
包みは、朝、会社に向かう前、リックがドアの取っ手に、括り付けたに違いなかった。
レティシアは、包みを持って、屋根裏の自分の部屋へ戻った。
リボンをほどくと、包みの中には、五つほどのファッジが入っていた。
ファッジは、甘みが強く、しっとりとした食感の、噛めば口の中で溶けてなくなるほど、やわらかいお菓子だった。
レティシアは最初、アダムの作ったものかと思ったが、包みの端に、店の名前の書いた印が押してあったことから、ミルフェアストリートにある、有名な菓子店のファッジだということがわかった。
「こんなものを、一体、いつ・・・」
トライアルを目前にした忙しい身で、一体いつ、こんなお菓子を買う時間があったのだろう。
通りすがりに買ったものだとは思ったが、トライアルに向けての準備で、それどころではないことは百も承知で、リックのこういった心遣いは、嬉しく思うよりも、却って胸が痛んだ。
ホイットマン製造会社で、蒸気機関車を見せてもらったあの日から、この二カ月、朝、ドアに紐が括り付けられている日は、毎日、レティシアはリックに昼食を届けた。
それは、たとえ、昼になって、突如、天候が変わって、吹雪いたとしても、欠かされることはなかった。
羽織ったケープの肩に、背に、溶けずに残る無数の粉雪を付けたまま、息を弾ませて、白い息を吐くレティシアが差し出す昼食に、心配したリックの方が、こんな日は来なくていいと告げることもあったが、レティシアは、笑って首を横に振った。
辛いと思ったことは、なかった。
四人の子供たちの世話の合間を縫って、リックの昼食を準備する忙しさも、凍えるような冷たさも、辛いと思ったことは一度もなかった。
トライアルで、リックたちの蒸気機関車が勝ちますように。
家で手のかかる四人の子供が待っていると思えば、昼食を手に小走りになる道中、レティシアは、心のうちでずっとそう祈り続けていた。
レティシアは琥珀色のファッジをしばらく眺めたあと、もとどおりに包んでリボンを結んだ。
そうして、そのままチェストの中にしまった。
トライアルまで、あと十日・・・。
どうか、どうか、インスパイア号が、一番になりますように。
彼が、笑顔で、ブリストンに帰ってきますように。
レティシアはそう祈って、十字を切った。
四月末、ロングヒルトライアルの開始となるその日は、寒さが過ぎ去り、雲は多いものの、ようやく春の温かさが感じられる、穏やかな天候となった。
ロングヒルトライアルは、公開競争であったため、トライアルに参加する機関車全てが、見られるとあって、多くの観衆が詰めかけた。
トライアルに、参加する機関車は、全部で五台。
まず、一台目が、動力源が馬である、グロリアス号。
トライアルに参加する機関車で、グロリアス号のみ、動力源が蒸気ではなかった。
グロリアス号は、馬がベルトの上を歩いて、その運動力が車輪を駆動させた。
二台目のヴァンガード号は、中央にある大きな煙突が、特徴的だった。
三台目のインフィニティ号は、車体が、規定より大幅に重量オーバーしており、競争に参加させることへの賛否があったが、他が競争の条件を満たしていたため、審議の結果、かろうじてトライアルへの参加が認められた。
四台目が、ジェネシス号で、実のところ、ホイットマン製造会社の者たちは、その機関車を初めて目にしたとき、一瞬、どきりと、脈を打った。
技術者たちは、その車体を眼にすれば、おおよその性能に見当がついた。
馬が動力源のグロリアス号については、論外。
ヴァンガード号については、トライアルの地、ロングヒルについてから、配管に不具合が発生し、その修理に手間取っている姿を眼にしていたし、インフィニティ号については、その重量から、到底、片道二.八キロを十往復というトライアルの条件を、走り切れるとは思えなかった。
けれども、ジェネシス号には、構造上の問題が、どこにも見当たらなかった。
車体は軽量であったし、速やかな印象を与えた。
トライアルに集まった観衆たちの間でも、ジェネシス号の人気が、高かった。
トライアル前、有力視されていたのは、ホイットマン製造会社の蒸気機関車だった。
エドガーの、これまでの数々の実績と、ブラッドの理論が合わされば、敵うものはないだろうというのが、大方の予想であったし、ホイットマン製造会社の者たちも、そうであると、自信を持っていた。
けれども、ジェネシス号を見た時、その自信が、一瞬、揺らいだ。
そして、その一瞬よぎった悪い予感は、現実のものとなった。
トライアルの条件は、以下のようなものだった。
一. 機関車は、片道二.八キロの行程を、合計で十往復走る。
二. 平均速度が、時速十六キロを下回らないこと。
三. 毎回の行程の所要時間を計測して、記録する。
四.機関車が、十往復に必要となる燃料と水を搭載することができない場合、燃料と水を補給する時間も、所要時間として計測する。
五.車体の重量の三倍の負荷を、牽引することとする。
トライアルは、一日に二、三回の走行を行った。
最初に脱落したのは、大方の予想通りグロリアス号だった。
というより、グロリアス号が、トライアルに参加したと言えるのかどうかは、微妙だった。
何故なら、馬が、ベルトの上を歩くことを嫌がって、暴れ出した挙句、機関車の床を突き破って、失格となったからだった。
次に失格となったのがヴァンガード号で、トライアルの前日、ようやく機関車の修理が完了し、かろうじてトライアルに参加したものの、速度を維持することが出来ず、平均速度が、毎時十六キロを下回ってはならないという規定を、守ることができなかった。
トライアルに参加した機関車のうち、一日目で、早くも、グロリアス号と、ヴァンガード号が、脱落する事態となった。
トライアル三日目、三番目に脱落したのは、インフィニティ号だった。
六回目の行程を終えた時点で、シリンダーにひびが入り、走行不可能となった。
四回の行程を残した時点で、残ったのは、ホイットマン製造会社のインスパイア号と、最軽量のジェネシス号となった。
ジェネシス号は、トライアル初日、時速四十五キロに到達して、観衆を沸かせた。
三日目、七回目の行程を終えて、平均時速は二十キロを維持。
インスパイア号は、トライアル二日目にして、最高時速四十八キロに到達し、三日目、七回目の行程を終えて、平均時速十九キロの安定した走りを見せていた。
七回目の行程を終え、走行タイムは、インスパイア号が、およそ六分、ジェネシス号に後れを取っていた。
八回目の行程を、先に走ったのは、ジェネシス号で、これまでと同じく、軽快な走りを見せ、タイム差はじわじわと広がりを見せた。
ホイットマン製造会社の者たちの顔に、焦りの色が、浮かび始めた。
このままでは、ジェネシス号が、トライアルの勝者となる。
機関車の運転席には、二人が乗り込み、石炭の投入、機関車の運転を担ったが、インスパイア号は、エドガー、ブラッドのホイットマン親子と、エドガーの指名を受けたリックの三人が、交代でその役割を担った。
八回目の走行に臨むのは、ブラッドと、リックだった。
八回目の走行前、二人は、遅れを取り戻すため、これまでの走行テストの結果から、より綿密に、シリンダーに送り込まれる蒸気の量の調整を、検討していた。
ブラッドとリックの二人は、一分でも、早く走らせることに、執着を見せた。
待ったをかけたのは、二人の話を黙って聞いていた、エドガーだった。
エドガーは、これまでの走りを変える必要はない、と言った。
ブラッドも、リックも顔を見合わせた。
「でも、父さん、それだと、ジェネシス号とのタイム差は、縮まらない」
「それでいい」
「それでは、ジェネシス号には勝てない」
めずらしく、ブラッドがいら立っていた。
「ブラッド、これまでやってきた以上のことを、今、やるには、無理がある」
「父さん・・・」
蒸気の量を増やすということは、当然、配管に、これまで以上の、負荷がかかる。
エドガーが、心配したのは、破損だった。
「スピードは、大切だ。だけど、判断を誤って、無様な体をさらしてはいけない。ふたりとも、機関車の根本を忘れるな。このトライアルに勝つことは、とても重要なことだ。だが、機関車の役割は、人や物を、安全に運ぶことじゃないのか?」
ブラッドも、リックも、言葉がなかった。
「最後まで、走り抜こう。自分たちの仕事に、誇りを持つんだ。」
押し黙ったままのブラッドとリックに、エドガーが、毅然として、言った。
インスパイア号は、八回目のスタートに着いた。
三日目の、最後の行程だった。
リックは、シャベルで、石炭を力強くすくって、勢いよく炎が上がる火室に投入した。
機関車前方の煙突からは、真っ黒な煙が、もうもうと立ち上り、出発を控えて、一層その勢いを増していく。
その黒煙の後ろからは白煙が、こちらも勢いよく立ち上り、シューシューシューという、大きな蒸気の音が、響き渡った。
計器を確認し、発車準備万端の合図を、ブラッドが示した。
大勢の観客に見守られる中、インスパイア号前方の、風にたなびく白いフラッグが上がり、発車しろ、と、運転席に示唆した。
それに応えて、短く、二回の汽笛を鳴らした後、ブラッドが、レバーをゆっくりと横にスライドさせ、機関車は、ゆっくりと、動き始めた。
運転席斜め前方のシリンダーの中に送り込まれた蒸気が、その圧力でピストンを押し、すぐに勢いを増して、上下運動を始め、軸を通じて、その運動が、動輪に伝わっていく。
観客から、拍手が沸き上がった。
指笛と拍手の中、黒煙を吐き上げて、インスパイア号は出発した。
四日目、十回目の行程を先に終えたのは、インスパイア号だった。
十回の全行程を終え、平均時速十九キロを維持。
所要時間は、二時間五十七分。
トラブルなく、トライアルを終えた。
あとは、ジェネシス号の、十回目の走行を待つばかりとなった。
ジェネシス号、インスパイア号、両者とも、九回目の走行が終わった時点で、二時間三十一分と、二時間三十九分で、タイム差は八分。
計算では、ジェネシス号が十回目の行程を、時速十三キロ以上で走り切れば、ジェネシス号の勝利となった。
毎時十六キロを下回ってはならないというトライアルの条件があったため、ジェネシス号は、時速十六キロを維持し、二十一分以内に完走すればよかった。
十回目の行程で、ジェネシス号が、これまでどおりの走りを見せれば、文句なしに、勝利はジェネシス号のものとなった。
ジェネシス号の、十回目の行程に、トライアルに関わる誰もが、注視した。
そして、その場にいたほとんどの者が、ジェネシス号の勝利を予想していた。
ところが、ジェネシス号は、最後の走行のため、スタート地点についたものの、中々、発車の準備が整わなかった。
ジェネシス号の技術者たちが、真剣な表情で、機関車を取り囲んで、話し込み、作業を始めた。
もしかして・・・、機関車がトラブルを起こしたのかもしれない。
ホイットマン製造会社の者たちは、色めき立った。
もし、ジェネシス号が走行不能となれば、その時点で、インスパイア号の勝利となる。
その場に集う全ての者の関心が、ジェネシス号に向けられていた。
そして・・・、数時間の作業の後、黒煙を上げ、白い息を吹き上げながら、大観衆の声援を受けて、ジェネシス号は、ゆっくりと走り出した。
インスパイア号の技術者たちは、誰もが落ち着かなかった。
みな、何度も時計を確認した。
草原に、長く伸びるレールの先の木立を、食い入るような眼差しで見つめていた。
ジェネシス号が出発してから、十四分が経過していた。
往復五・六キロを、これまで通り時速二十キロで走ったならば、そろそろ戻ってくる時刻だった。
戻って来るな。
戻って来ないでくれ。
インスパイア号の技術者たちの願いも空しく、レールの先の木々の間から、立ち上る黒煙が眼に入った。
「帰って来たぞ!」
観衆のその声に、人々の眼が、一斉に、彼方に上がる黒煙へと向かい、拍手が起こった。
前方に、木々を抜けたジェネシス号の車体が、誰の眼にもはっきりと映った。
「早く、暖かくなるといいのにな」
牛乳を売る初老の男は、冷たい風に、ぶるっと体を震わせた。
「牛乳屋さん、本当に、朝、早いから、寒い」
「寒さは、年寄りに応えるよ。それじゃ」
すっかり顔なじみになった牛乳屋は、二言三言、レティシアと言葉を交わすと、大きな牛乳の缶を乗せた荷馬車を、走らせていった。
家の中に戻ろうとして、レティシアは、ドアの取っ手に、リボンを結んだ包みが括り付けられていることに、気づいた。
包みには、小さな紙片が差し込まれていた。
吉報を待っていろ。
紙片には、そう記されてあった。
リックだわ。
その癖のある文字を見て、レティシアには、すぐわかった。
ホイットマン製造会社の者たちは、月末に行われるトライアルに参加するため、今朝早く、ブリストンを離れ、トライアルの地、ロングヒルに向かったはずだった。
包みは、朝、会社に向かう前、リックがドアの取っ手に、括り付けたに違いなかった。
レティシアは、包みを持って、屋根裏の自分の部屋へ戻った。
リボンをほどくと、包みの中には、五つほどのファッジが入っていた。
ファッジは、甘みが強く、しっとりとした食感の、噛めば口の中で溶けてなくなるほど、やわらかいお菓子だった。
レティシアは最初、アダムの作ったものかと思ったが、包みの端に、店の名前の書いた印が押してあったことから、ミルフェアストリートにある、有名な菓子店のファッジだということがわかった。
「こんなものを、一体、いつ・・・」
トライアルを目前にした忙しい身で、一体いつ、こんなお菓子を買う時間があったのだろう。
通りすがりに買ったものだとは思ったが、トライアルに向けての準備で、それどころではないことは百も承知で、リックのこういった心遣いは、嬉しく思うよりも、却って胸が痛んだ。
ホイットマン製造会社で、蒸気機関車を見せてもらったあの日から、この二カ月、朝、ドアに紐が括り付けられている日は、毎日、レティシアはリックに昼食を届けた。
それは、たとえ、昼になって、突如、天候が変わって、吹雪いたとしても、欠かされることはなかった。
羽織ったケープの肩に、背に、溶けずに残る無数の粉雪を付けたまま、息を弾ませて、白い息を吐くレティシアが差し出す昼食に、心配したリックの方が、こんな日は来なくていいと告げることもあったが、レティシアは、笑って首を横に振った。
辛いと思ったことは、なかった。
四人の子供たちの世話の合間を縫って、リックの昼食を準備する忙しさも、凍えるような冷たさも、辛いと思ったことは一度もなかった。
トライアルで、リックたちの蒸気機関車が勝ちますように。
家で手のかかる四人の子供が待っていると思えば、昼食を手に小走りになる道中、レティシアは、心のうちでずっとそう祈り続けていた。
レティシアは琥珀色のファッジをしばらく眺めたあと、もとどおりに包んでリボンを結んだ。
そうして、そのままチェストの中にしまった。
トライアルまで、あと十日・・・。
どうか、どうか、インスパイア号が、一番になりますように。
彼が、笑顔で、ブリストンに帰ってきますように。
レティシアはそう祈って、十字を切った。
四月末、ロングヒルトライアルの開始となるその日は、寒さが過ぎ去り、雲は多いものの、ようやく春の温かさが感じられる、穏やかな天候となった。
ロングヒルトライアルは、公開競争であったため、トライアルに参加する機関車全てが、見られるとあって、多くの観衆が詰めかけた。
トライアルに、参加する機関車は、全部で五台。
まず、一台目が、動力源が馬である、グロリアス号。
トライアルに参加する機関車で、グロリアス号のみ、動力源が蒸気ではなかった。
グロリアス号は、馬がベルトの上を歩いて、その運動力が車輪を駆動させた。
二台目のヴァンガード号は、中央にある大きな煙突が、特徴的だった。
三台目のインフィニティ号は、車体が、規定より大幅に重量オーバーしており、競争に参加させることへの賛否があったが、他が競争の条件を満たしていたため、審議の結果、かろうじてトライアルへの参加が認められた。
四台目が、ジェネシス号で、実のところ、ホイットマン製造会社の者たちは、その機関車を初めて目にしたとき、一瞬、どきりと、脈を打った。
技術者たちは、その車体を眼にすれば、おおよその性能に見当がついた。
馬が動力源のグロリアス号については、論外。
ヴァンガード号については、トライアルの地、ロングヒルについてから、配管に不具合が発生し、その修理に手間取っている姿を眼にしていたし、インフィニティ号については、その重量から、到底、片道二.八キロを十往復というトライアルの条件を、走り切れるとは思えなかった。
けれども、ジェネシス号には、構造上の問題が、どこにも見当たらなかった。
車体は軽量であったし、速やかな印象を与えた。
トライアルに集まった観衆たちの間でも、ジェネシス号の人気が、高かった。
トライアル前、有力視されていたのは、ホイットマン製造会社の蒸気機関車だった。
エドガーの、これまでの数々の実績と、ブラッドの理論が合わされば、敵うものはないだろうというのが、大方の予想であったし、ホイットマン製造会社の者たちも、そうであると、自信を持っていた。
けれども、ジェネシス号を見た時、その自信が、一瞬、揺らいだ。
そして、その一瞬よぎった悪い予感は、現実のものとなった。
トライアルの条件は、以下のようなものだった。
一. 機関車は、片道二.八キロの行程を、合計で十往復走る。
二. 平均速度が、時速十六キロを下回らないこと。
三. 毎回の行程の所要時間を計測して、記録する。
四.機関車が、十往復に必要となる燃料と水を搭載することができない場合、燃料と水を補給する時間も、所要時間として計測する。
五.車体の重量の三倍の負荷を、牽引することとする。
トライアルは、一日に二、三回の走行を行った。
最初に脱落したのは、大方の予想通りグロリアス号だった。
というより、グロリアス号が、トライアルに参加したと言えるのかどうかは、微妙だった。
何故なら、馬が、ベルトの上を歩くことを嫌がって、暴れ出した挙句、機関車の床を突き破って、失格となったからだった。
次に失格となったのがヴァンガード号で、トライアルの前日、ようやく機関車の修理が完了し、かろうじてトライアルに参加したものの、速度を維持することが出来ず、平均速度が、毎時十六キロを下回ってはならないという規定を、守ることができなかった。
トライアルに参加した機関車のうち、一日目で、早くも、グロリアス号と、ヴァンガード号が、脱落する事態となった。
トライアル三日目、三番目に脱落したのは、インフィニティ号だった。
六回目の行程を終えた時点で、シリンダーにひびが入り、走行不可能となった。
四回の行程を残した時点で、残ったのは、ホイットマン製造会社のインスパイア号と、最軽量のジェネシス号となった。
ジェネシス号は、トライアル初日、時速四十五キロに到達して、観衆を沸かせた。
三日目、七回目の行程を終えて、平均時速は二十キロを維持。
インスパイア号は、トライアル二日目にして、最高時速四十八キロに到達し、三日目、七回目の行程を終えて、平均時速十九キロの安定した走りを見せていた。
七回目の行程を終え、走行タイムは、インスパイア号が、およそ六分、ジェネシス号に後れを取っていた。
八回目の行程を、先に走ったのは、ジェネシス号で、これまでと同じく、軽快な走りを見せ、タイム差はじわじわと広がりを見せた。
ホイットマン製造会社の者たちの顔に、焦りの色が、浮かび始めた。
このままでは、ジェネシス号が、トライアルの勝者となる。
機関車の運転席には、二人が乗り込み、石炭の投入、機関車の運転を担ったが、インスパイア号は、エドガー、ブラッドのホイットマン親子と、エドガーの指名を受けたリックの三人が、交代でその役割を担った。
八回目の走行に臨むのは、ブラッドと、リックだった。
八回目の走行前、二人は、遅れを取り戻すため、これまでの走行テストの結果から、より綿密に、シリンダーに送り込まれる蒸気の量の調整を、検討していた。
ブラッドとリックの二人は、一分でも、早く走らせることに、執着を見せた。
待ったをかけたのは、二人の話を黙って聞いていた、エドガーだった。
エドガーは、これまでの走りを変える必要はない、と言った。
ブラッドも、リックも顔を見合わせた。
「でも、父さん、それだと、ジェネシス号とのタイム差は、縮まらない」
「それでいい」
「それでは、ジェネシス号には勝てない」
めずらしく、ブラッドがいら立っていた。
「ブラッド、これまでやってきた以上のことを、今、やるには、無理がある」
「父さん・・・」
蒸気の量を増やすということは、当然、配管に、これまで以上の、負荷がかかる。
エドガーが、心配したのは、破損だった。
「スピードは、大切だ。だけど、判断を誤って、無様な体をさらしてはいけない。ふたりとも、機関車の根本を忘れるな。このトライアルに勝つことは、とても重要なことだ。だが、機関車の役割は、人や物を、安全に運ぶことじゃないのか?」
ブラッドも、リックも、言葉がなかった。
「最後まで、走り抜こう。自分たちの仕事に、誇りを持つんだ。」
押し黙ったままのブラッドとリックに、エドガーが、毅然として、言った。
インスパイア号は、八回目のスタートに着いた。
三日目の、最後の行程だった。
リックは、シャベルで、石炭を力強くすくって、勢いよく炎が上がる火室に投入した。
機関車前方の煙突からは、真っ黒な煙が、もうもうと立ち上り、出発を控えて、一層その勢いを増していく。
その黒煙の後ろからは白煙が、こちらも勢いよく立ち上り、シューシューシューという、大きな蒸気の音が、響き渡った。
計器を確認し、発車準備万端の合図を、ブラッドが示した。
大勢の観客に見守られる中、インスパイア号前方の、風にたなびく白いフラッグが上がり、発車しろ、と、運転席に示唆した。
それに応えて、短く、二回の汽笛を鳴らした後、ブラッドが、レバーをゆっくりと横にスライドさせ、機関車は、ゆっくりと、動き始めた。
運転席斜め前方のシリンダーの中に送り込まれた蒸気が、その圧力でピストンを押し、すぐに勢いを増して、上下運動を始め、軸を通じて、その運動が、動輪に伝わっていく。
観客から、拍手が沸き上がった。
指笛と拍手の中、黒煙を吐き上げて、インスパイア号は出発した。
四日目、十回目の行程を先に終えたのは、インスパイア号だった。
十回の全行程を終え、平均時速十九キロを維持。
所要時間は、二時間五十七分。
トラブルなく、トライアルを終えた。
あとは、ジェネシス号の、十回目の走行を待つばかりとなった。
ジェネシス号、インスパイア号、両者とも、九回目の走行が終わった時点で、二時間三十一分と、二時間三十九分で、タイム差は八分。
計算では、ジェネシス号が十回目の行程を、時速十三キロ以上で走り切れば、ジェネシス号の勝利となった。
毎時十六キロを下回ってはならないというトライアルの条件があったため、ジェネシス号は、時速十六キロを維持し、二十一分以内に完走すればよかった。
十回目の行程で、ジェネシス号が、これまでどおりの走りを見せれば、文句なしに、勝利はジェネシス号のものとなった。
ジェネシス号の、十回目の行程に、トライアルに関わる誰もが、注視した。
そして、その場にいたほとんどの者が、ジェネシス号の勝利を予想していた。
ところが、ジェネシス号は、最後の走行のため、スタート地点についたものの、中々、発車の準備が整わなかった。
ジェネシス号の技術者たちが、真剣な表情で、機関車を取り囲んで、話し込み、作業を始めた。
もしかして・・・、機関車がトラブルを起こしたのかもしれない。
ホイットマン製造会社の者たちは、色めき立った。
もし、ジェネシス号が走行不能となれば、その時点で、インスパイア号の勝利となる。
その場に集う全ての者の関心が、ジェネシス号に向けられていた。
そして・・・、数時間の作業の後、黒煙を上げ、白い息を吹き上げながら、大観衆の声援を受けて、ジェネシス号は、ゆっくりと走り出した。
インスパイア号の技術者たちは、誰もが落ち着かなかった。
みな、何度も時計を確認した。
草原に、長く伸びるレールの先の木立を、食い入るような眼差しで見つめていた。
ジェネシス号が出発してから、十四分が経過していた。
往復五・六キロを、これまで通り時速二十キロで走ったならば、そろそろ戻ってくる時刻だった。
戻って来るな。
戻って来ないでくれ。
インスパイア号の技術者たちの願いも空しく、レールの先の木々の間から、立ち上る黒煙が眼に入った。
「帰って来たぞ!」
観衆のその声に、人々の眼が、一斉に、彼方に上がる黒煙へと向かい、拍手が起こった。
前方に、木々を抜けたジェネシス号の車体が、誰の眼にもはっきりと映った。
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