東雲色のロマンス

海子

文字の大きさ
38 / 74
9.You take my breath away

しおりを挟む
 その後、ホイットマン製造会社の従業員たちは、そのまま、全員、留置所へ放り込まれ、一夜を明かした。 
このあと、自分たちが一体どうなるのか、誰にも、想像がつかなかった。
もし、誰かが、逮捕されるなどということがあれば、会社は、蒸気機関車は、一体どうなってしまうのか。 
この事件が、鉄道会社に知られて、ホイットマン製造会社の、蒸気機関車の採用が取り消しなどということになったら・・。 
最高の一日が、最悪の日に変わった。 
みな、どん底の気分で、一夜を明かした。
ところが、朝、警察での、厳しい取り調べを覚悟していた、ホイットマン製造会社の者たちは、突然、釈放された。
その一同の下へ、すぐさま、ジェフリーからの呼び出しが来た。 
ジェフリーは、カンカンに怒り狂っていた。 
マクファーレン商会の、ジェフリーの執務室で、ホイットマン製造会社の全員が、一列に並ばされ、額に青筋を立てて激怒するジェフリーの説教を、たっぷり三時間、立ったままで、聞かされる羽目になった。 
「あなたがたは、自分たちの成功を、自分たちの手で握りつぶす気か!」 
ステッキを、どんと、床につき、一列に並んだ一同の前を、行ったり来たりしながら、ジェフリーはおよそ三時間、その怒りをぶちまけた。 
特に、責任者たるエドガーと、こういった事態を恐れて、事前に忠告していたにもかかわらず、事件を引き起こす発端となった、リックに対しての怒りは、相当なものだった。
当初、自分たちは被害者なのだと、弁明を考えていたリックだったが、鬼気迫るジェフリーに、一切の釈明を諦めた。 
これ以上、ジェフリーを怒らせるようなことになれば、俺は、ハロルド河に沈められる、そう思ったからだった。 
そのリックの判断は、正しかった。 
三時間に及ぶ、ジェフリーの厳しい説教を受けた後は、ともかく各自、帰宅を許されたからだった。 
昨夜の乱闘で、酷い目に会い、留置所で、ほとんど寝ずに過ごし、とどめにジェフリーの長く、きつい説教を受け、這々の体で、帰って行った。 
ただ、リックは、ジェフリーの怒りは、もっともなものだとも思った。 
万一、蒸気機関車の採用が、取り消しなどということになれば、これまでホイットマン製造会社に、多額の投資をしてきたマクファーレン商会は、大きな損害を被ることになった。
そして、昨日の乱闘で、めちゃめちゃに破壊されたクレセントの修繕費、店の営業が中止の間の損害、それらが全て、ジェフリーの肩にかかってくるのだと思えば、リックは、ジェフリーに、頭が上がらなかった。
ジェフリーに帰宅を許され、それにしても、と、リックは、首を傾げた。 
あれだけの乱闘事件を起こして、一晩、留置所に放り込まれただけで、警察に解放されるのは、妙だと思った。
普通なら、もっと厳しく取り調べを受けることになっただろうし、逮捕されても仕方がないほどの、大きな乱闘だった。
裏で、何かある、と思った、リックの想像は正しかった。
これは、リックが、後日、ジェフリーの秘書、スチュアート・ヘインズに教えてもらったことだったが、簡単に言えば、ジェフリーが、事件をもみ消したのだった。
事件の後すぐ、ジェフリーは、女のところに転がり込んでいたデニスを探し出し、連れて来させた。
そして、今回の一件は、仲間同士の、他愛無いケンカの延長上のものだったことにするよう、迫った。
酒が入っていたから、少々羽目を外したのだと。 
スチュアートの把握する限り、一番酷い怪我は、折れたデニスの鼻だった。
それは、リックの仕業に違いなかったのだが、ジェフリーは、それを打撲だと一方的に、決めつけた。
そして、何としても、それを、デニスが、骨折だと言い張り、殴った相手に処罰を求めるというのなら、御者の仕事を取り上げ、二度と、ブリストンでは、仕事につけないようにすると、言い放った。
逆に、ジェフリーの提案を、全て飲むというのなら、鼻の具合が、完全に良くなるまでの休暇と、治療費を保証し、鼻が治癒すれば、また御者として働かせてやると、・・・つまりは、脅したのだ。
その条件を、デニスが呑まないわけはなかった。 
ジェフリーの条件を飲みさえすれば、これから数週間、治療費という名目の酒代、つまりは、口止め料が支払われるのである。
逆に、条件をのまなければ、ブリストンにいられなくなるということは、考えの浅いデニスといえども、よくわかった。
デニスは、あっさり、ジェフリーの条件を呑んだ。
デニスの懐柔に加えて、あれほどの事件だったのに、他には、重傷者がひとりもいなかったことも、事件が穏便に済んだ一因だったが、何より、ブリストンの警察の幹部に、ジェフリーの知り合いがふたりもいたことが、大きかった。 
しかも、ただの知り合いではない。 
ジェフリーは、ふたりに、多額の金を貸していた。 
ひとりには、女への手切れ金、もうひとりには、公にはできない、博打の借金の肩代わり。 
バッカスでの事件を、なかったことにしたい。 
ジェフリーが、そう言いさえすれば、それで、ことは済んだ。 
後日、スチュアート・ヘインズから、その話を聞いたとき、俺は、一生、ジェフリーを敵には回さない、そう固く誓ったリックだった。 



 ジェフリーのきつい説教を受けた後、リックは、大乱闘の現場、バッカスにある自分の部屋へ戻った。
前夜、あんな騒ぎを起こした場所に戻るのは、かなり覚悟のいることだったが、さりとて、他に帰る場所もなかった。 
だから、できるだけ、誰とも顔を合わせないよう、こっそりと自分の部屋へ戻り、そのままベッドに倒れ込んだ。 
ようやく自分のベッドへ戻ってほっとすると、それまで気が張っていてあまり感じなかった、相手の拳がカウンターで入って、ひどく腫れた右頬と、思いきり蹴られた背中の痛みが、じんじんと襲ってきて、疲れているはずなのに、中々、眠りには落ちなかった。 
痛みに顔をしかめながら、目をつむっていると、昨夜の、レティシアが思い出された。 
何故、レティシアがあんな恰好で、あの場所へ現れたのかは、全くわからなかったが、レティシアの身体が放つ薔薇の香り、すがりつくしなやかな腕、何より、胸に寄せられた、乳房の柔らかな感触に、浸った。
そして、浸りかけると、背中と右頬の痛みに襲われる。
痛みを紛らわせるために、浸る。 
という、中々落ち着かない状況を、繰り返し行き来するうちに、いつしか眠りに落ちていた。
そして、目覚めたのは、すっかり深夜で、今度こそレティシアに会いに行くつもりだったのが、結局、再び伸びてしまうことになったのだった。 
そして、月曜日の今朝、ホイットマン製造会社へ出勤する前に、フランクの家のドアに、レティシアが、昼食を持ってきてくれることを期待して、紐を結び付けておいたのだったが、昼食を持って現れたのは、ケイティだった。 



 「レティシアが、落ち込んでる?」 
バッカスの酒場での乱闘から二日が経ち、五月になったばかりの昼前、リックは、ホイットマン製造会社で、いつものように昼食を受け取った。 
いつもなら、昼食を届けに来るのは、レティシアだった。
ところが、昼、ホイットマン製造会社に昼飯を持って来たのは、ケイティだった。
少し話があるんだけど、と、ケイティは、リックを事務所の外へ誘い出し、おとといの一件の顛末を話した。 
「あんなことになってしまって、私も、ローズも、ジミーも、本当に責任を感じているわ」 
「話はわかったが、レティシアは、何故そんなに落ち込んでいるんだ?」 
「それは、そうよ。あんな恰好で、ミルフェアストリートを駆けて、みんなが見ている前で、あなたに、抱き着いたんでしょう?」 
レティシアが駆けだし、ジミーは、急いでその後を追ったのだが、レティシアの方が、一足早くバッカスに駆け込んでしまった。
バッカスから、半泣きで駆け戻ったレティシアは、屋根裏に閉じこもったままで、ケイティは、バッカスでの出来事を、ジミーから知らされたのだった。
「それほど、ひどい恰好だとは思わなかったけどな。確かにいつもより、薄着だったが」 
「問題は、あなたがどう思おうが、本人が、半裸だったと思いこんでいることよ」 
あまり、深刻には受け止めてなかったリックだったが、ケイティの顔が険しいままなので、問題は、そう簡単ではないことがわかって来た。 
「落ち込んでいるって言うのは、つまり、寝込んでいるのか?」 
「そういうわけじゃないけれど、キッチンから、一歩も出ようとしないの」 
「キッチンから?」 
「ええ、そう。キッチンの仕事だけを黙ってこなして、二階にも上がってこないし、子供たちとも、話さないわ。というより、話せないみたいね。少し話すと、泣いてしまうみたいで。だから、今、私がここへ来ている間は、モリーとデボラが、子供たちをみてくれているわ。このサンドイッチを作ったのは、レティシアよ。でも、自分は、持っていけないから、届けてくれって、泣き声で言うの。用事がない時は、キッチンの椅子に座って、ずっと、下を向いているわ」 
「重症だな」 
「私も、ローズも、ジミーも、まさかこんなことになるなんて、思っていなくて。ジミーも、あんな風に言えば、きっと、心配したレティシアが、バッカスまで様子を見に来るだろうから、あなたが喜ぶと思ったんですって。みんな、彼女に謝ったんだけど、小さく首を振って、みんなは悪くない、いけないのは私だからって、涙ぐむの。見ている私たちの方が、辛くなってしまって・・・」 
「わかった。今夜、そっちへ行くって、レティシアに伝えてくれ」 
「とんでもない、そんなことを言ったら、彼女、家出をしてしまうわよ」 
ケイティは、慌てて、首を振った。 
「家出?なぜ?」 
「彼女、多分、あなたには、一番逢いたくないと思っているはずよ。自分の行動を、恥じているんですもの。でも・・・、結局、解決できるのは、あなただけだと思うわ」 
「わかった、じゃあ、レティシアには、黙っててくれ。七時には、行けると思う」 
そう約束をして、ケイティは、少しは気が楽になったのか、来た時より幾分和らいだ表情で帰って行った。



 土曜日の乱闘の後、ホイットマン製造会社の従業員は、留置所で一夜を明かし、日曜日は、ジェフリーの長い説教を受けた後、そのまま帰宅し、今朝からは、通常通りに仕事が始まった。 
ホイットマン製造会社の、社長及び従業員七名は、程度の差はあれど、顔が腫れ、身体の痛みに顔をしかめてはいたが、誰一人休むことなく、出勤してきた。
それで、少し、ほっとしたリックだった。 
騒ぎの発端は、自分だと責任を感じていたリックは、始業時、社長のエドガーに謝罪に行ったのだが、
「お前だけのせいじゃない。みんな、いい大人なんだ。責任は、ひとりひとりにある。社長として、止められなかった俺も、悪い。とにかく、やってしまったことは仕方ない。あとのことは、ジェフリーさんに任せて、俺たちは、仕事に集中しよう」
と、エドガーはみなを集めて、言った。
それで、みな、気持ちを切り替えて、仕事に集中しようとしたのだったが、それぞれ、身体のどこかしらに、痛みがあるらしく、今日ばかりは、中々それも難しかった。 
昼、ケイティが帰ったあと、リックが机に向かって、鉄道会社への提出書類に目を通しながら、ベーコンと卵のサンドイッチを頬張っていると、
「今日は、女神じゃなかったみたいだね」
と、これから、外出するブラッドが、書類を鞄に詰めながら、笑って言った。
ブラッドは、時折、右わき腹の痛みに顔をしかめていたものの、顔は、あまり殴られなかったと見えて、目立った腫れは、見られなかった。
「女神は、機嫌を損ねたみたいです」 
「へえ、めずらしい。君の身を、あれほど案じていたのに」 
「俺を?」
「そうだよ、クレセントで、君のことを、ずっと祈っていた」 
クレセントで、レティシアは、リックに縋り付いて何事かを祈っていたが、ユースティティアの言葉だったせいで、リックには、レティシアが何を祈っていたのか、わからなかった。 
あの場所にいた者の中で、ユースティティアの言葉を理解したのは、おそらく、学歴のあるブラッドだけに、違いなかった。 
それで、リックは、あの時のレティシアの祈りの言葉を、ブラッドに尋ねてみた。 
ブラッドは、笑って、
「彼女は、君が、殴られて亡くなってしまうと、勘違いをしていたみたいだね」 
と、レティシアの祈りを、フォルティスの言葉に変えた。


ああ、一体誰が、こんなひどいことを・・・。 
お願いよ・・・、目を覚まして。
ああ、神様、お願いです。 
どうか、この方の命を、お助けくださいませ。 
私、この方のためでしたら、どのようにでもいたします。 
ですから、私の愛する人を、どうか・・・、どうか、お助けくださいませ。 


 「レティシアが、そんなことを・・・」 
「いい彼女だね。大切にしないといけないよ」 
ブラッドは、リックの肩をぽんと叩くと、そう言い残して、事務所を出て行った。
リックは、食べかけのサンドイッチの断面を、見つめた。 
美しいヘーゼルの瞳が、脳裏をよぎった。 
なぜだか、胸が、しめつけられるような気がした。 

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

愛のかたち

凛子
恋愛
プライドが邪魔をして素直になれない夫(白藤翔)。しかし夫の気持ちはちゃんと妻(彩華)に伝わっていた。そんな夫婦に訪れた突然の別れ。 ある人物の粋な計らいによって再会を果たした二人は…… 情けない男の不器用な愛。

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

処理中です...