神様の許嫁

衣更月

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まれびとの社(二部)

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 川守村を手っ取り早く調べるには、神社仏閣か、兼継さんへの聞き込みだ。
 兼継さんに訊きに行けば、まず小1時間は妖怪話に付き合わされる。
 この状況下のタイムロスは避けたいと言えば、母が兼継さんに話を聞いてくれることになった。
 ということで、私はバスと電車を乗り継ぎ、隣町の駕予かよ稲荷神社に足を延ばした。驚くことなかれ。須久奈様も一緒だ!
 ボディーガードらしい。
 頼もしくもあり、畏ろしくもある。
 幸運なことに、道中、高木神様と会うことも、変な妖怪と遭遇することもなかった。順調に駕予稲荷神社前で下車すると、赤い鳥居の前で一礼して、手水舎で手を洗う。そのまま真っすぐに参道を歩いて、拝殿で手を合わせる。
 須久奈様はきょろきょりしながら、土足で拝殿に上がり、社殿を隅々まで見て回っていた。
 ボディーガードの心得、神様ふしんしゃチェックなのだろう。
 そうして社務所を訪ねたのは、約束の時間5分前だ。
 駕予稲荷神社の神主は槙村家だ。
 宮司は槙村耿平こうへいさんで、紫色に白い紋の入った袴を履いている。
 年齢は七十代半ばだと思う。
 白髪をオールバックにした顔貌は精悍で、矍鑠とした人だ。
 あらかじめ母が連絡してくれていたので、スムーズに座敷に通された。要件も伝わっているのだろう。「川守村を調べているんだってね」と、座るや否や渋い表情だ。
 槙村家は代々、神籟町の神社のみならず久瀬酒造の神事にも赴いてくれる。古い付き合いなので、早くに祖父を亡くした私としては、おじいちゃんみたいな親しさがある。
「槙村さんは知ってるんですか?川守村」
「知っていると言っても、川守村は私が生まれる前に廃村になっているからね」
 言いながら、手ずからお茶を淹れてくれる。
 色合いと香りから、ほうじ茶だ。あつあつの湯気が、湯呑みから薄っすらと立ち昇る。冷房の効いた座敷だと、お冷やより熱いお茶が良い。茶請けの小さなお饅頭と一緒に出されて、私は「いただきます」と頭を下げた。
「ふぅふぅ」とほうじ茶の熱を冷ましながら、槙村さんの話に耳を傾ける。
「父に聞いた話だよ。変わった風習のある村があったとね。夏に田の神様に祈願する祭事を行っていたというんだが、どうも普通と違うというんだ」
「祭事って…御神輿かついで、わっしょいわっしょいのお祭りのことですよね?」
「そうそう。此ノ坂このさか稲荷神社は祭事というより神事だからね」
 此ノ坂稲荷神社というのは、神籟町の神社の社名だ。神社前の心臓破りの坂が此ノ坂。一帯を此ノ坂地区という。
「祭事というのは、神仏などに感謝を捧げる祭礼だね。今風に言えばイベントかな。神事は神様への奉仕で、神社主体となるんだ。此ノ坂稲荷神社は御神輿も出るが、祈祷と神楽が主体だからね」
「み、神輿が登場したのは…ここ百年の間だ…」と、須久奈様がぼそりと言葉を落とす。当然、槙村さんには聞こえないので、私は適当に相槌を打つに止める。
「川守村は御神輿が出て、一見して普通の祭事だったという」
「それが変なんですか?」
「父が言うには、村人は田の神様だと言っていたそうだが、どうにも独自の神様を祀ってるようだ…とね。祭りの時期も、田植えとも稲刈りともシーズンが違う。父は1度赴いてからは、川守村の仕事は請け負わなくなったと言っていた」
「槙村さんのお父さんが、単に宗教の違い…というか神様を区別する人だったとかじゃなくてですか?」
 私が言えば、槙村さんはからからと笑う。
「いやいや、そうじゃない。こう見えて、我が家は色々な宗教が入り混じってるよ。父が死んだ時は寺に世話になったし、息子が結婚した時はここで神前式をして、教会でも式を挙げたからね」
 槙村さんは言って、「道代さんがウェディングドレスを着たくてね」と笑った。
「クリスマスにはツリーを飾ってケーキも食べる。私が甘党だから、ブッシュドノエルを予約してね。あらゆる神仏を敬ってるんだ」
 はっちゃけてるな…。
 まぁ、それが日本の良いところでもある。
「それなのに、川守村の神様だけはNGなんですね」
「万一、川守村に関するお祓いの話が回って来たら注意するようにと、亡くなるまで言っていたよ。疾うに廃村になっていたのに…。それだけ、厄介な神様を祀っていたのだろう」
 槙村さんは言って、湯呑みを手にほうじ茶で喉を潤す。
「父はね、人に見えないモノが見える性質だったんだよ」
「え?」
 思わずぎょっと目を見開けば、槙村さんは「幽霊や妖怪が見えていたそうだ」と探るような目で私を見る。
「だからこそ、父の言葉は重いと感じる。川守村は関わるべきじゃないとね。一花ちゃんたちも父と同じだろう?」
 槙村さんの言葉に、ぎくり、と体が強張る。
 私たちの目は、別に秘匿中の秘匿というわけではない。証明できない事象な為に、口外していないだけだ。それが何代も続けば、暗黙の了解として口を噤むようになる。
 これが江戸時代なら、神様と対話できる巫女として重用されるのだろう。
 現代なら、下手すれば病院送りだ。
 私が唇を噛んで沈黙していると、槙村さんは苦笑した。
「責めてるわけではないんだ。先にも言ったが、父も見える人だったからね。それが羨ましくある」
「羨ましい…ですか?」
「私は終ぞ父と同じ風景を見ることが叶わなかった。まぁ、見えたら見えたで厄介ではあったそうだけどね」
 槙村さんは懐かしげに目を細め、「ああ、そうだ」と記憶を手繰る。
「思えば父は久瀬家と同じだ。父は余程のことがない限り、夜に外へ出ることはなかった。境内は常に清浄であるようにと、清掃を欠かさず、朝夕に祝詞を捧げ、札を用意して結界を張っていたよ。久瀬家もそうなのだろう?」
 曖昧に頷く私に、槙村さんは「いや」と自嘲しながら頭を振った。
「同じにしては失礼だね」
「失礼…ですか?」
「見えている者が違うのだろう?」
「え?」
 驚く私に苦笑し、槙村さんは「薫子さんから聞いたんだ」と優しく目を細める。
 薫子は祖母だ。
「私が子供の頃は、よく一緒に遊んだんだよ。うちと久瀬酒造の付き合いは古いだろう?年が近いこともあってね。それである時、薫子さんが”この神社で初めて神様を見たわ。でも御祭神様じゃないわね”って言ってね」
「おばあちゃんが…」
 くらり、と眩暈がする。
「神様が見えるなんて言うから、ちょっとした喧嘩になったんだよ。父ですら見えないのにって。まぁ、子供の喧嘩だね。そうしたら薫子さんは、”うちには神様がいるのよ。恥ずかしがり屋の神様だから人前には出て来ないけど、お酒造りの天才なの!”って。もう可笑しくてね」
 槙村さんは懐かしそうに笑い、そして沈痛な面持ちで目を伏せた。
「一花ちゃんが生まれて間もなく、秀男ひでおくんが事故で亡くなってね。間を置かずに薫子さんに癌が見つかったんだ。それでふと昔の喧嘩を思い出して訊いたんだよ。神様が家にいるなら、なぜ秀男くんや薫子さんを守ってくれないんだと。我ながら無茶苦茶だけどね。遣る瀬無かったんだ」
「おばあちゃんは何て言ったんですか?」
「”神様は人の生き死にに関与しないのよ。事故や病気は自然のままに。そうやって神様は何百年何千年と人の営みを見守って来てるの。冷たく感じるかもしれないけど、そうじゃない。人と一定の距離を保ってないと。だって、人は死ぬのよ?人と情を交わして、残された神様は可哀想じゃない。だから私の病気も、神様には内緒なのよ”とね。薫子さんは笑っていたよ」
 そっと須久奈様を窺えば、須久奈様は興味なさげに見える。
 人の死に慣れているのか、そういう感情自体が備わっていないのか。懐かしむことも、悲しむこともなく、平然とした表情をしている。
「そして梅雨の頃のアレで、父や薫子さんが畏敬の念を示していたものを知ったよ。この年になってようやくだ」
「町中が澱んでました…」
 そう言えば、槙村さんは重々しく頷く。
「あの時は、本当に焦った。神職なんて生業だが、神様の存在は曖昧で、掴みどころがない。その存在に疑心を抱くことも少なからずある。でも、あの時は違う。初めて神様の畏怖と威光を肌で感じたよ」
 槙村さんは顔を強張らせ、鳥肌を鎮めるように腕を摩る。
「川守村を調べているのは、ひと月前のことと繋がりがあるのかな?」
 じっと見つめる槙村さんに、慌てて頭を振る。
「それとは別件です。どうしてそう思うんですか?」
「ひと月前も、町内会主導でお祓いを頼まれてはいたけど、早百合さんの表情を見たら察することはあったんだよ。薫子さんは”久瀬家の女の子はみんな神様を見るの”と言っていたからね」
 槙村さんは嘆息し、乾いた喉を潤すようにほうじ茶を一気に飲み干した。
「一花ちゃんがわざわざ川守村のことに足を突っ込むとは思えないから、ひと月前のようなことが起きるのかと心配になってね…」
 それ以上の恐怖の大王たかみむすびのかみが降臨されたんですよ。
 そう言えたら楽だけど、槙村さんが知ったら卒倒しそうだ。
「もしかしたら、また槙村さんに依頼が回るかもしれません…」
「ひと月前と比べて厄介なのかどうか訊いてもいいかな?」
「厄介なことは起きませんよに、と神様に祈ってる最中です」
 思わず苦笑が零れる。
 大事に至るようなことになる前に、神様がどうにかしてくれると信じたい。
 あれだけ高位の神様が集まっていれば、たぶん大丈夫だろう。
 ちらりと高位の神様筆頭を見れば、私と目を合わせて「へへへ」と笑う。相変わらず笑い方が下手糞だなと思ったところで、廊下を歩んで来る音が聞こえて来た。
 誰かが襖越しに立ち止まり、「失礼します」と襖を開く。
「おじいちゃん。お客さんが見えたわよ」
 槙村家長女の優子さんだ。
 平日は信用金庫に勤め、休みの日に巫女として社務所や授与所に詰めている。今日は白衣に緋袴という巫女装束に、栗色の髪を首の後ろで一つに束ねた清楚な装いだ。
 ただ、メイクもネイルも隙が無い。
 相変わらず、キレイなお姉さんだ。
 優子さんは私と目が合うと、ぱちり、とウィンクする。
「客…?真典しんすけでは駄目なのか?」
「それが、郷土史を調べているらしくて。パパじゃ詳細が分からないって言うの」
 優子さんが言えば、槙村さんも「学生かな」と苦笑する。
「それじゃあ、私はそろそろお暇します」
 お茶を飲み干し、よたよたと立ち上がる。
 足がぴりぴりと痺れている。転ばないようにと須久奈様が支えてくれなければ、危うくつんのめっているところだ。
「槙村さん。貴重なお話ありがとうございました」
「あまり参考になるような情報がなくて申し訳なかったね。また遊びにおいで」
「はい」
 ぺこり、と頭を下げて、早々に社務所を後にする。
 玄関ですれ違った亜麻色の髪をした女性が、郷土史を調べに来た客なのだろう。
 社務所から参道に出て、拝殿に向き直る。来た時に参拝したので、帰りは離れた場所から一礼する。
 わしゃわしゃと騒々しい蝉時雨の中だというのに、境内には参拝者がちらほらといる。日傘を差した女性に、涼やかな浴衣を着たカップル。営業周りに立ち寄ったのか、ジャケットとカバンを小脇に挟んだサラリーマンもいる。共通しているのは、全員の手に扇子やハンディファンが握られていることだ。
 せっかく冷房で冷えた体も、あっという間に汗が噴き出す暑さだ。
「あまり情報は得られませんでしたね」
 無駄足だったと怒っていないだろうか。
 そっと須久奈様を見上げれば、すん、すん、と鼻を動かして周囲を探っている。まるで猟犬が獲物に勘付いたような仕草だ。
 ちょっと怖い。
「あ~…須久奈様?手、つなぎます?」
 そっと手を差し出したのに、須久奈様はぐるりと周囲に視線を巡らせたかと思えば、バス停のある表参道とは逆方向に視線を転じた。
 社殿に対して真っすぐに伸びる表参道に対し、須久奈様が見据えるのは社殿横から小径に入る南参道だ。謂わば裏口になる。南参道は第二駐車場に通じていたはずだ。社人――神社で働く人たちが利用するくらいで、神事や年末年始以外は閑散としていたと記憶する。
 なのに、須久奈様は瞬きすらなく、南参道の奥を凝視している。
 ちょっとどころか、かなり怖い!
 どうしよう…と戦々恐々とするのも束の間、突然、須久奈様が南参道に向けて駆けだした。
 何が何だか分からない。呼び止められれば楽だけど、人の目がある場所で須久奈様の名前を叫ぶのは躊躇する。仕方なしに私も駆けだせば、参拝者が胡乱な目を投げてくる。
 めちゃくちゃ恥ずかしい!
 恥ずかしいけど、足を止めるわけにはいかずに南参道に飛び込んだ。
 躑躅に囲まれた小径は、のんびり歩いていたら藪蚊に襲撃されそうだけど、今は羽虫の一匹もいない。あれほど鳴いていたセミすら、ぴたりと息を潜めている。
 この状況、少し前でも体験したな…。
 南参道の赤い鳥居が見えてきた。駐車場は鳥居を潜らない。手前の古びた手水舎の先を折れ、第二駐車場の矢印に沿って駆け抜ける。
 ようやく青磁色の着物を見つけた。
 しゃがみこんで何をしているのかと思えば、見知らぬおじさんに馬乗りになっているが見えてぞっとした。
 須久奈様と変わらない体躯のおじさんだ。
 そのおじさんの背中に跨り、右腕でおじさんの首をロックし、左手で顔面を鷲掴みしている。今にも首をへし折りそうな殺人シーンに、悲鳴をあげそうになった。
 それが私の思い過ごしでないのは、海老反りになったおじさんの「ごめんなさい」の連呼と、「殺さないで」の号泣が証明している。
 あんなの、おじさんにしてみればホラーだ。
「ちょ!何してるんですか!」
 慌てて駆け付け、須久奈様の右腕に飛びつく。
「ほら、離して下さい!」
 全体重をかけて腕を引き剥がそうとするのに、びくともしない。
 薄々分かってたけど、須久奈様は恐ろしく怪力だ。
「い…い、一花。じゃれつくな。こいつを殺すまで待ってろ」
 へへへ、と嬉しそうな表情と行動が合っていない。
 怖っ!!
 おじさんは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている。両手で必死にもがいているけど、全く歯が立っていない。顔は窒息寸前なのか真っ赤で、めいっぱい力んで額に血管が浮き出ている。
 これはヤバい。
 目の前で人が死ぬのはみたくない。
 それも加害者は神様だ。
 目撃者は「犯人は小柄な女子高生」と証言するに違いない。
 色んな意味でぞっとする。
「穢れを嫌うんじゃないんですか!?」
「だ…大丈夫。こいつらを殺すのは穢れじゃない…善行だ」
 めちゃくちゃな神様ルール!
「この人が何をしたんですか…。暴力反対です。須久奈様……怖いです」
 力で敵わないなら、と頑張って目を潤ませてみる。
 絆されて。お願いだから、力を緩めて!
 これがダメなら拝み倒すしかないけど、不意に須久奈様の力が緩んだ。鬱陶しい前髪の奥の目が、きょとんと私を見ている。
 少しだけ間抜けな表情が、徐に傾いだ。
「い、一花。な…何を言ってるんだ?これは鬼だ。見つけたら殺すだろ?」
 おに?
 すいっと視線がおじさんに向かうけど、大号泣の顔はお世辞にも鬼に見えない。鬼と言えば赤い肌や青い肌で、くるくる天然パーマにトラ柄パンツ。筋骨隆々の体躯に、しゃくれた口から牙が突き出ているイメージだ。
 あと金棒。
「ほ、本来なら…一発で頭を飛ばすけど、い、一花…そういうの嫌だろ?」
 意味が分からず、思わず首を傾げてしまった。
 泣き叫んでいたおじさんも、ぴたりと沈黙する。
「何かの比喩ですか?」
「いや…。こう…頭を掴んで、思いっきり腕を振れば…頭、もげるだろ?」
 血の気が引くというのは、こういうことなのか。
 すん、と頭から爪先までの体温が喪失したように冷たくなる。夏の暑さが消えて、冷凍庫に押し込められたみたいだ。
「そ…そんなことしたら…須久奈様のこと嫌いになります。というか…二度と須久奈様の顔を見られないくらいのトラウマです…」
「と、虎と馬?」
「精神的、心理的ダメージで二度と須久奈様と会えなくなるってことです。年神様が言ってたじゃないですか。人間はデリケートなんです。繊細」
「…………い、言ってた。人間はすぐ死ぬと」
 須久奈様は言って、しょんぼりと眉尻を下げる。
 ああ、一応、私の生死には関心を持ってくれているらしい。そのことに少しだけほっとする。
「だが…こいつは…鬼だぞ?」
 須久奈様は憮然としながら、おじさんのキャスケットを剥ぎ取った。
 涅色の癖っ毛から、2本の角が覗いている。
 某テーマパークみたいなネズミ耳のカチューシャのリアル角バージョンだろうか?
「須久奈様。帽子を被せて下さい。それはカチューシャですよ。そういう趣味嗜好を暴くのはダメです」
「か…かちゅうしゃ?それが何かは知らないが、こいつは鬼だ」
「じゃあ、百歩譲って鬼だとして、何かしたんですか?」
「……お俺を見て逃げた?」
 疑問形なの?
 ていうか、俺を見て?
「おじさん。須久奈様が見えるんですか?」
 えぐえぐと嗚咽を零すおじさんは、壊れた玩具みたいに何度も頷く。
「おじさん、鬼なんですか?えっと…妖怪?」
 これまた何度も頷いているけど、ネズミの妖怪と同様で信憑性に欠ける。
「鬼ってアフロヘアにトラ柄パンツで、しゃくれた顎に立派な牙ってイメージですけど違うんですね」
「…理想と違って…ず、ずみません…助げて下しゃい…」
 嗚咽混じりの声に、私は頷く。
「おじさん。悪い鬼ですか?えっと…人を襲っちゃうような?」
「襲わない!襲ったことないし……ずっと毒にも薬にもならない生き方をして来たんだ……うぅ…神様…」
「須久奈様。手を離しましょう。ね?悪いことしてないのに手荒なことはしないで下さい」
 宥めるように須久奈様の手を撫でると、須久奈様はおじさんを解放してくれた。その顔は不満げに歪んでいるし、目つきは殺し屋だけど、ゆっくりと腰を上げる。
 ここで油断してはならない。
 須久奈様は足癖が悪い。
 蹴り殺さないという保証はないので、先手を打って、須久奈様の乱れた裾は私が正してあげる。
「おじさんも起き上がって下さい」
 誰かに見られでもしたら、どんな修羅場かと思われてしまう。
 おじさんはキャスケットを被り直すと、ごしごしと乱暴に涙を拭う。洟を啜り上げ、「けほ」と咳き込み、嗚咽を噛みながら腰を上げた。
 立ち上がれば、須久奈様と同じくらいの背丈だけど、可哀想なくらいへっぴり腰だ。
「おじさん。神様が怖いのに神社に来たんですか?」
「か…神様は……隣町にいると…聞いてたから…。ここにはいないと…」
 それは申し訳ないことをした。
「それに、私は…境内に入らないようにしていたんだ」
「ここ、境内ですよ?」
「え!?」
 おじさんは飛び跳ね、目を丸めて周囲を見渡す。
 隣が神社に隣接する公園の無料駐車場なので分かり辛くはあるけど、ちゃんと色褪せた看板に駕予稲荷神社参拝者用第二駐車場とあるはずだ。ちゃんとフェンスで区切られてあるし、隅っこにある小径を進めば鳥居の前に出るので境内である。
 おじさんの蒼白な顔を見るに、公園の駐車場と間違えたのが分かる。
 可哀想にと思っていると、「鬼頭さん!どうしたんですか!?」と引き攣った悲鳴が飛んできた。
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