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まれびとの社(二部)
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羽虫飛び交う草むらに一歩足を踏み入れたところで、「…い一花」と呼び止められた。
振り向く間もなく、体がすいっと浮く。
すぐに須久奈様に抱えられたのだと分かったけど、不意打ちは止めてほしい。心臓に悪い。
「えっと…須久奈様?」
「…人間は弱いからな…。些細なことで…し、死ぬんだろ?切り傷とか…虫?で」
確かに、テレビではマダニに噛まれた〇〇才の○○さんが亡くなりましたって年一で見る。
テレビを見ない須久奈様が知っていたことに驚くけど、神様には神様の情報網があるのかもしれない。
ちらり、と年神様に目を向ければ、年神様が苦笑していた。
「それに…い、一花は蛇が嫌いだろ?蛇、出るぞ」
「ヘビが苦手ってよく知ってますね」
「と、当然だ。一花のことなら…なんでも知ってる…」
頬を染め、ニチャアとした笑みで見下ろすのは止めてほしい。
怖いし、気持ち悪い。
「まぁ、須久奈の言うことは一理あるかな。人間の…それも鍛えていない女の子に、この斜面を登って行くのは無理がありそうだ。連日の雨で足元は滑りやすくなっているだろうしね」
年神様は言って、ゆるりと鬱蒼とした杉林を見上げた。
なだらかな斜面はほんの数メートル先で終わって、後はロープがなくては難しい傾斜となっている。単なる斜面ならまだしも、ここは山だ。何年か前に直撃した台風で倒れた木が放置されているし、鋭利な切り株も幾つか見える。
ぱっと見は乾いた地面も、枯葉の下は水分を多分に含んでいる。木陰に生えた苔も、ずるりと滑りそうな濃い緑色だ。
須久奈様の言うように、ヘビが潜んでいそうな雰囲気もある。
マムシに咬まれたら死んじゃうかも。
「望海ちゃんは私が。先頭だけどごめんね」
鬼頭さんの沈痛な面持ちに、日向さんは困惑しきりだ。
「えっと…何がどうなっているのか分からないのですが…一花ちゃんはどこに行ったんですか?」
須久奈様に抱えられた私はどうなっているのか。
その疑問が解決した。
浮遊マジックではなく瞬間消失マジックだったらしい。
須久奈様なりの配慮があるのだと知って、少しほっとした。
「一花ちゃんは須久奈様が抱えているよ。ここから先は、望海ちゃんたちには酷だからね」
「そうなんですね」
日向さんがほっと胸を撫でおろす。
「一花ちゃんが忽然と消えたから驚いてしまって」
「えっと…もしかして、私の声も聞こえてない感じですか?」
問いかけてみても、日向さんの反応はない。
年神様と鬼頭さんは困惑の表情で須久奈様を見た。
「日向さん。申し訳ないね。一花ちゃんの声は鬼頭くんには聞こえているから、彼が通訳するよ」
「はい」
日向さんが頷いて、鬼頭さんに「お願いします」と気恥ずかしそうに頭を下げた。「ちょっと重いですけ…」という恥じらいが可愛いと思う。
見習いたい。
鬼頭さんが日向さんを抱え上げると、「とりあえず上を目指します」と先頭を歩き始める。その足取りに躊躇はなく、先の尖った枯れ木や潜んでいるヘビにも物怖じしない。急角度の斜面もなんのその。ずかずかと進んでいる。
鬼頭さんの後ろに続くのは年神様だ。こちらは須久奈様と同様に、倒木や石の上を、軽やかに飛び渡りながら進む。音もなく、静かな着地には高貴なる品がある。
ぱっと見は休日のお父さんみたいな格好なのに。
私は抱えられているだけなので楽なものだ。町中と違って木々が日差しを遮り、ひんやりと涼しさがあるので無駄に汗を掻かずに済んでいる。
快適とまではいかないけど、安定の安心感だ。
「あ」
周囲を眺めていた私の小さな、小さな呟きに、須久奈様が急ブレーキをかけた。
すた、と倒木の上で止まり、「ど…どうした?」と首を傾げる。
「えっと…あそこ」
すっと指さしたのは、鬼頭さんたちが駆け登るの斜面から離れた場所だ。
ここ以上に急斜面の上に、大きな岩が絶妙なバランスで乗っかっている。
「見て下さい。おっきい岩です」
「…あの岩が…気になるのか?」
「はい」
こくこくと頷けば、須久奈様は理由も聞かず簡単に方向転換する。それに気づいて慌てるのは年神様と鬼頭さんだ。
非常に申し訳ない。
須久奈様は一切後ろを気にしない。足取りも軽やかだ。崖かと見紛うばかりの斜面も顔色を変えず、飛ぶように駆け登る。その後ろを、年神様が苦笑いで追いかけて来る。
最初は”大きな岩!”と単純な好奇心でしかなかったけど、漠然とした違和感は、大岩が近づくにつれて確信に変わる。
曖昧だった畏れの一端に触れた気がする。
まだ我慢できる。
それでも少しだけ、須久奈様の胸に身を寄せる。
神様パワーが守ってくれますように!
そうして到着した大岩の上は、想像以上の高さがあった。大岩の場所も悪い。猫の額ほどの平らな地面に、奇跡的に乗っかったという感じだ。次の豪雨で転がり落ちそうな、そんな微妙な位置にあるのだ。
こんなのが転がり落ちたら、車どころか家だってぺちゃんこになる。
「い、一花…降りるか?」
「降りません」
大岩の上に立つなんて無理!
ぎゅっと須久奈様にしがみつくと、須久奈様が嬉しそうに頬ずりしてくる。
抵抗する余裕なんてない。
恥ずかしさより、心身の安全さを望む。
ごくり、と息を呑みながら、崖と見紛う斜面を見下ろして震えてしまう。
「須久奈。一言声をかけてくれると嬉しいね」
年神様が静かに大岩に到着した。
遅れて、鬼頭さんもやって来た。
神様は音もなく軽やかだたのに対し、鬼頭さんの着地は少し騒々しい。日向さんを抱え、重力に四苦八苦しながらも人にはない飛躍力で、どすどすと駆けて来た感じだ。
「遅れました…」と恐縮の声で、日向さんを下ろす。じっとり汗ばんでいるのは、暑さや疲労とは別の要因なのだろう。
「うわぁ…高い…」
日向さんがペタンとしゃがみ込み、挙動不審に周囲に視線を走らせている。
不穏なものを感じているみたいだ。
鬼頭さんも、「すごく…嫌な感じがしますね」と目いっぱい眉尻を下げる。
「でも…なんというか、ぼんやりとした残滓のような感じかもしれません」
なんだかんだ言って、やっぱり鬼の鬼頭さんは人である私たちより耐性があるらしい。
これを”残滓”と言い切るんだから…。
「この場所を確認したいけど分かるかい?」
「お待ち下さい」
鬼頭さんは言って、スマホを取り出すとマップを開いて現在地を確認する。
須久奈様も気になるらしい。
すいっと覗き込む2柱に、鬼頭さんがびくりと体を震わせた。
「恐らくなのですが…川守村はこの辺りだと思います」
「思ったよりも離れているね。山峡を挟んでいるから嵐だけが移動手段ではないんだろう」
「……川守村にも…人間の手で持ち込まれたのなら、人間や獣を移動手段にしても不思議ではないだろ…」
不機嫌な口調だ。
引きこもりがマシになっただけで、生来インドア派っぽい須久奈様が、連日長時間の外出を余儀なくされているのだ。ふらりとした散歩ならいざ知らず、車に乗って山に来て、登山までさせられては機嫌が降下するのも無理はない。
基本、須久奈様は気が短い。
ここまで良く我慢していると思う。
とはいえ、成果ゼロで帰れるわけがない。何かしらの痕跡があればいいんだろうけど。
きょろきょろと周囲を探って、ふと、視界の隅が気になった。理由の分からない違和感。
なんだがお腹の奥がモヤモヤして気持ち悪くなるような不快感。
何かがあるけど何もない。
妖怪が隠れてこちらを伺っているとか、何かしらの動物がいるとか、そういうのは見当たらない。いや、見つけられない。
視力は悪くはないけど、抜群に良くもない。
メガネはなくても困らない程度の視力だ。
草が邪魔なのかもしれない。
「ん…?い、一花…?」
「須久奈様。この岩から降ろして下さい」
ほら早く、と軽く肩を叩けば、須久奈様は首を傾げながら大岩から飛び降りる。
僅かな逡巡の末、そっと下ろされた。
「す少し待て」
須久奈様は言って、軽く着物の裾を払うと腰を屈めた。
右手の人差し指を頭上に向け、くるくると、呪文らしきものを描く。
左手で右の袖を抑え、とん、と呪文を描いた人差し指が草を払って地面に触れた。瞬間、青々していた草花がかさかさに乾いて色を失っていく。葉の裏に隠れていた羽虫が一斉に飛び立ち、一面冬枯れへと変貌する。
しおしおと枯れた草が土に還っていく様は、除草剤のCMみたいだな…、と現実逃避の感想を抱かせる。
年神様が困ったように「あとで元に戻さないとね」と笑い、鬼頭さんと日向さんは神様の威光を目の当たりに口を噤んだ。
「こ…これで探し物は見つけやすくなっただろ?で…何を探してたんだ?もっと枯らすか?」
手を叩き、裾を正してこちらに向いた顔には既に神様の威厳はない。
挙動不審に「へへへ…」と笑う不審者だ。
「い、一花………ん」
頭を突き出し、「な、な…撫でていいぞ」と所望するから恐ろしい。
「ふっと思い出したんですけど、以前、こういうことは出来ないって言ってましたよね」
大した力はないから幽霊と変わらない、と卑屈にいじけていたはずだ。
「え…縁結びは出来ない…。が…出来ることも…ある。これも、俺の数少ない取り柄だ。か、神っぽいだろ?へへへっ…い、一花のために頑張った…」
「そうですか。凄いです。凄すぎて引きます。ていうか、撫でませんよ?」
「ケ、ケチかよ…」
須久奈様がぶつぶつ文句を言っているけど無視だ。
「それで、一花ちゃんは何を見つけたのかな?」
ひょいっと大岩を飛び降りた年神様が、興味津々と私を見てくる。
「何かを見つけたわけじゃないですよ。よく分からなくて…。それを確認したかっただけです」
やりすぎだ、と思いつつも、草がないだけで抜群に歩きやすい。
突き出た木の根や転がる石、凸凹とした地面に注意を払いながら、すいすいと歩を進める。須久奈様が後ろでそわそわしながら、「転がり落ちるなよ…」と声をかけてくるけど、私は小学生の頃から体育の成績は5だ。舐めないでほしい。
「い、一花…俺が抱えようか?」とか「そ…そこの石は不安定だぞ」とか…一歩踏み出す毎に飛んでくる過保護発言に辟易してしまう。
私たちの後ろには、年神様たちが何の疑問も口にせずについて来る。
「さすが一花ちゃん」
褒めてくれたのは年神様。
ただ、素直に喜べないのは、須久奈様が枯らしたものとは一線を画す禍々しい剥き出しの地面があったからだ。歪ながら座布団一枚分の黒ずんだ地面は、まるで墨汁をぶちまけたような色合いで、その中で多くの虫がひっくり返って死んでいる。
目に見えるほど近づいて初めて畏れの大きさが分かった。
「あぁ…ここは…」
鬼頭さんが両手で口を押えて後退する。日向さんも感じるものがあるのか、青い顔で胸を押さえた。
私が比較的平気なのは、須久奈様が手を握ってくれてるからだと思う。ぞわり、とお腹の底から込み上げる怖気はあるけど、踏み止まることは出来ている。
年神様は顎に手を当て、黒ずんだ地面の前に腰を落とした。
そして、躊躇なく地面に指をつけた。
「あとで直日に頼むしかないね」
年神様は嘆息して、ガタガタと震えている鬼頭さんに目を向けた。
まるで滝行でもした後みたいだ。
真っ青な顔で、汗で全身ずぶ濡れになっている。
「鬼頭くん。この位置を大神くんに知らせてくれるかな。あと、分かりやすいように周囲の写真を幾つか撮って、それも一緒に送ってほしい。直日に浄化するように、ともね」
鬼頭さんはかくかくと頷き、ポケットからスマホを取り出した。
手が震えすぎて、何度か落としそうになりながらも、何枚も写真を撮り始めた。
そんな鬼頭さんを一瞥しながら、須久奈様が「やっぱり…あの鬼は使えない」と愚痴を吐き捨てている。たぶん、鬼頭さんには聞こえているのだろう。しくしく泣きながら項垂れている。
耳が良いのも考えものだ。
「あ。ペットボトル」
「ぺ…ぺぺぺっと…ぼとる?」
「ほら、アレです。あの透明の」
須久奈様が草を枯らさなければ、きっと目につくこともなかったペットボトルが、少し斜面を下った先に引っかかっている。
「…鬼」と須久奈様がペットボトルを指させば、鬼頭さんが「はいっ!」と飛び跳ねた。
「い…一花が…気になってる。さっさと拾え」
むちゃくちゃだ。
鬼頭さんはスマホをポケットに押し込み、どさどさと斜面を下る。
人ならロープが欲しいところだけど、鬼頭さんにとっては平地と変わらないのかもしれない。慎重とは程遠い駆け足でペットボトルを拾った。それから、きょろきょろと周囲を探っている。
「どうしたのかな?」とは日向さん。
日向さんの目には、急にごみ拾いを始め、挙動不審に陥ったように見えているのかもしれない。
「ペットボトルを拾ってもらったんです」
「ペットボトル…?」
日向さんは言って、ぐるりと周囲に視線を巡らせる。
「こんな場所でポイ捨て…っていうのも変ですね」
林道どころか獣道もない。
斜面はロープが必要なくらい急で、草は茫々に生えている。
林業関係者はポイ捨てはしない。山菜採取の人たちはロープを持参してまで山の中に入らない。登山者が来るような山でも、遭難者が滑落するような場所でもない。
自然と、私たちの視線が黒ずんだ地面に集中する。
「鬼頭くん。ペットボトルは何時ぐらいのものか分かるかい?」
「賞味期限が2年後というくらいしか分かりませんが、新しいです」
ペットボトルについた土や枯葉を拭いながら、鬼頭さんが戻ってきた。
ペットボトル自体に経年劣化による変色や穴がない。水でゆすげば、綺麗になりそうなくらいには新しい。
「次の移動手段は人間を利用したのかもしれないね」
「年神様。それはないんじゃないですか?こんな場所まで来る人なんて殆どいませんよ。林業関係者としても、ポイ捨てはしないと思います」
かと言って、ペットボトルが何処から来たのかなんて答えられないのだけど…。
「こんな場所に来る人間はいるだろう?」
「え?」と、私と日向さんが年神様を見つめる。
須久奈様と鬼頭さんは、何かを察したように渋面を作った。
「中村と言ったかな。まれびとに執着する人間がいると、坊守が語っていたのだろう?」
年神様の言葉に、私たちの顔から血の気が引いた。
振り向く間もなく、体がすいっと浮く。
すぐに須久奈様に抱えられたのだと分かったけど、不意打ちは止めてほしい。心臓に悪い。
「えっと…須久奈様?」
「…人間は弱いからな…。些細なことで…し、死ぬんだろ?切り傷とか…虫?で」
確かに、テレビではマダニに噛まれた〇〇才の○○さんが亡くなりましたって年一で見る。
テレビを見ない須久奈様が知っていたことに驚くけど、神様には神様の情報網があるのかもしれない。
ちらり、と年神様に目を向ければ、年神様が苦笑していた。
「それに…い、一花は蛇が嫌いだろ?蛇、出るぞ」
「ヘビが苦手ってよく知ってますね」
「と、当然だ。一花のことなら…なんでも知ってる…」
頬を染め、ニチャアとした笑みで見下ろすのは止めてほしい。
怖いし、気持ち悪い。
「まぁ、須久奈の言うことは一理あるかな。人間の…それも鍛えていない女の子に、この斜面を登って行くのは無理がありそうだ。連日の雨で足元は滑りやすくなっているだろうしね」
年神様は言って、ゆるりと鬱蒼とした杉林を見上げた。
なだらかな斜面はほんの数メートル先で終わって、後はロープがなくては難しい傾斜となっている。単なる斜面ならまだしも、ここは山だ。何年か前に直撃した台風で倒れた木が放置されているし、鋭利な切り株も幾つか見える。
ぱっと見は乾いた地面も、枯葉の下は水分を多分に含んでいる。木陰に生えた苔も、ずるりと滑りそうな濃い緑色だ。
須久奈様の言うように、ヘビが潜んでいそうな雰囲気もある。
マムシに咬まれたら死んじゃうかも。
「望海ちゃんは私が。先頭だけどごめんね」
鬼頭さんの沈痛な面持ちに、日向さんは困惑しきりだ。
「えっと…何がどうなっているのか分からないのですが…一花ちゃんはどこに行ったんですか?」
須久奈様に抱えられた私はどうなっているのか。
その疑問が解決した。
浮遊マジックではなく瞬間消失マジックだったらしい。
須久奈様なりの配慮があるのだと知って、少しほっとした。
「一花ちゃんは須久奈様が抱えているよ。ここから先は、望海ちゃんたちには酷だからね」
「そうなんですね」
日向さんがほっと胸を撫でおろす。
「一花ちゃんが忽然と消えたから驚いてしまって」
「えっと…もしかして、私の声も聞こえてない感じですか?」
問いかけてみても、日向さんの反応はない。
年神様と鬼頭さんは困惑の表情で須久奈様を見た。
「日向さん。申し訳ないね。一花ちゃんの声は鬼頭くんには聞こえているから、彼が通訳するよ」
「はい」
日向さんが頷いて、鬼頭さんに「お願いします」と気恥ずかしそうに頭を下げた。「ちょっと重いですけ…」という恥じらいが可愛いと思う。
見習いたい。
鬼頭さんが日向さんを抱え上げると、「とりあえず上を目指します」と先頭を歩き始める。その足取りに躊躇はなく、先の尖った枯れ木や潜んでいるヘビにも物怖じしない。急角度の斜面もなんのその。ずかずかと進んでいる。
鬼頭さんの後ろに続くのは年神様だ。こちらは須久奈様と同様に、倒木や石の上を、軽やかに飛び渡りながら進む。音もなく、静かな着地には高貴なる品がある。
ぱっと見は休日のお父さんみたいな格好なのに。
私は抱えられているだけなので楽なものだ。町中と違って木々が日差しを遮り、ひんやりと涼しさがあるので無駄に汗を掻かずに済んでいる。
快適とまではいかないけど、安定の安心感だ。
「あ」
周囲を眺めていた私の小さな、小さな呟きに、須久奈様が急ブレーキをかけた。
すた、と倒木の上で止まり、「ど…どうした?」と首を傾げる。
「えっと…あそこ」
すっと指さしたのは、鬼頭さんたちが駆け登るの斜面から離れた場所だ。
ここ以上に急斜面の上に、大きな岩が絶妙なバランスで乗っかっている。
「見て下さい。おっきい岩です」
「…あの岩が…気になるのか?」
「はい」
こくこくと頷けば、須久奈様は理由も聞かず簡単に方向転換する。それに気づいて慌てるのは年神様と鬼頭さんだ。
非常に申し訳ない。
須久奈様は一切後ろを気にしない。足取りも軽やかだ。崖かと見紛うばかりの斜面も顔色を変えず、飛ぶように駆け登る。その後ろを、年神様が苦笑いで追いかけて来る。
最初は”大きな岩!”と単純な好奇心でしかなかったけど、漠然とした違和感は、大岩が近づくにつれて確信に変わる。
曖昧だった畏れの一端に触れた気がする。
まだ我慢できる。
それでも少しだけ、須久奈様の胸に身を寄せる。
神様パワーが守ってくれますように!
そうして到着した大岩の上は、想像以上の高さがあった。大岩の場所も悪い。猫の額ほどの平らな地面に、奇跡的に乗っかったという感じだ。次の豪雨で転がり落ちそうな、そんな微妙な位置にあるのだ。
こんなのが転がり落ちたら、車どころか家だってぺちゃんこになる。
「い、一花…降りるか?」
「降りません」
大岩の上に立つなんて無理!
ぎゅっと須久奈様にしがみつくと、須久奈様が嬉しそうに頬ずりしてくる。
抵抗する余裕なんてない。
恥ずかしさより、心身の安全さを望む。
ごくり、と息を呑みながら、崖と見紛う斜面を見下ろして震えてしまう。
「須久奈。一言声をかけてくれると嬉しいね」
年神様が静かに大岩に到着した。
遅れて、鬼頭さんもやって来た。
神様は音もなく軽やかだたのに対し、鬼頭さんの着地は少し騒々しい。日向さんを抱え、重力に四苦八苦しながらも人にはない飛躍力で、どすどすと駆けて来た感じだ。
「遅れました…」と恐縮の声で、日向さんを下ろす。じっとり汗ばんでいるのは、暑さや疲労とは別の要因なのだろう。
「うわぁ…高い…」
日向さんがペタンとしゃがみ込み、挙動不審に周囲に視線を走らせている。
不穏なものを感じているみたいだ。
鬼頭さんも、「すごく…嫌な感じがしますね」と目いっぱい眉尻を下げる。
「でも…なんというか、ぼんやりとした残滓のような感じかもしれません」
なんだかんだ言って、やっぱり鬼の鬼頭さんは人である私たちより耐性があるらしい。
これを”残滓”と言い切るんだから…。
「この場所を確認したいけど分かるかい?」
「お待ち下さい」
鬼頭さんは言って、スマホを取り出すとマップを開いて現在地を確認する。
須久奈様も気になるらしい。
すいっと覗き込む2柱に、鬼頭さんがびくりと体を震わせた。
「恐らくなのですが…川守村はこの辺りだと思います」
「思ったよりも離れているね。山峡を挟んでいるから嵐だけが移動手段ではないんだろう」
「……川守村にも…人間の手で持ち込まれたのなら、人間や獣を移動手段にしても不思議ではないだろ…」
不機嫌な口調だ。
引きこもりがマシになっただけで、生来インドア派っぽい須久奈様が、連日長時間の外出を余儀なくされているのだ。ふらりとした散歩ならいざ知らず、車に乗って山に来て、登山までさせられては機嫌が降下するのも無理はない。
基本、須久奈様は気が短い。
ここまで良く我慢していると思う。
とはいえ、成果ゼロで帰れるわけがない。何かしらの痕跡があればいいんだろうけど。
きょろきょろと周囲を探って、ふと、視界の隅が気になった。理由の分からない違和感。
なんだがお腹の奥がモヤモヤして気持ち悪くなるような不快感。
何かがあるけど何もない。
妖怪が隠れてこちらを伺っているとか、何かしらの動物がいるとか、そういうのは見当たらない。いや、見つけられない。
視力は悪くはないけど、抜群に良くもない。
メガネはなくても困らない程度の視力だ。
草が邪魔なのかもしれない。
「ん…?い、一花…?」
「須久奈様。この岩から降ろして下さい」
ほら早く、と軽く肩を叩けば、須久奈様は首を傾げながら大岩から飛び降りる。
僅かな逡巡の末、そっと下ろされた。
「す少し待て」
須久奈様は言って、軽く着物の裾を払うと腰を屈めた。
右手の人差し指を頭上に向け、くるくると、呪文らしきものを描く。
左手で右の袖を抑え、とん、と呪文を描いた人差し指が草を払って地面に触れた。瞬間、青々していた草花がかさかさに乾いて色を失っていく。葉の裏に隠れていた羽虫が一斉に飛び立ち、一面冬枯れへと変貌する。
しおしおと枯れた草が土に還っていく様は、除草剤のCMみたいだな…、と現実逃避の感想を抱かせる。
年神様が困ったように「あとで元に戻さないとね」と笑い、鬼頭さんと日向さんは神様の威光を目の当たりに口を噤んだ。
「こ…これで探し物は見つけやすくなっただろ?で…何を探してたんだ?もっと枯らすか?」
手を叩き、裾を正してこちらに向いた顔には既に神様の威厳はない。
挙動不審に「へへへ…」と笑う不審者だ。
「い、一花………ん」
頭を突き出し、「な、な…撫でていいぞ」と所望するから恐ろしい。
「ふっと思い出したんですけど、以前、こういうことは出来ないって言ってましたよね」
大した力はないから幽霊と変わらない、と卑屈にいじけていたはずだ。
「え…縁結びは出来ない…。が…出来ることも…ある。これも、俺の数少ない取り柄だ。か、神っぽいだろ?へへへっ…い、一花のために頑張った…」
「そうですか。凄いです。凄すぎて引きます。ていうか、撫でませんよ?」
「ケ、ケチかよ…」
須久奈様がぶつぶつ文句を言っているけど無視だ。
「それで、一花ちゃんは何を見つけたのかな?」
ひょいっと大岩を飛び降りた年神様が、興味津々と私を見てくる。
「何かを見つけたわけじゃないですよ。よく分からなくて…。それを確認したかっただけです」
やりすぎだ、と思いつつも、草がないだけで抜群に歩きやすい。
突き出た木の根や転がる石、凸凹とした地面に注意を払いながら、すいすいと歩を進める。須久奈様が後ろでそわそわしながら、「転がり落ちるなよ…」と声をかけてくるけど、私は小学生の頃から体育の成績は5だ。舐めないでほしい。
「い、一花…俺が抱えようか?」とか「そ…そこの石は不安定だぞ」とか…一歩踏み出す毎に飛んでくる過保護発言に辟易してしまう。
私たちの後ろには、年神様たちが何の疑問も口にせずについて来る。
「さすが一花ちゃん」
褒めてくれたのは年神様。
ただ、素直に喜べないのは、須久奈様が枯らしたものとは一線を画す禍々しい剥き出しの地面があったからだ。歪ながら座布団一枚分の黒ずんだ地面は、まるで墨汁をぶちまけたような色合いで、その中で多くの虫がひっくり返って死んでいる。
目に見えるほど近づいて初めて畏れの大きさが分かった。
「あぁ…ここは…」
鬼頭さんが両手で口を押えて後退する。日向さんも感じるものがあるのか、青い顔で胸を押さえた。
私が比較的平気なのは、須久奈様が手を握ってくれてるからだと思う。ぞわり、とお腹の底から込み上げる怖気はあるけど、踏み止まることは出来ている。
年神様は顎に手を当て、黒ずんだ地面の前に腰を落とした。
そして、躊躇なく地面に指をつけた。
「あとで直日に頼むしかないね」
年神様は嘆息して、ガタガタと震えている鬼頭さんに目を向けた。
まるで滝行でもした後みたいだ。
真っ青な顔で、汗で全身ずぶ濡れになっている。
「鬼頭くん。この位置を大神くんに知らせてくれるかな。あと、分かりやすいように周囲の写真を幾つか撮って、それも一緒に送ってほしい。直日に浄化するように、ともね」
鬼頭さんはかくかくと頷き、ポケットからスマホを取り出した。
手が震えすぎて、何度か落としそうになりながらも、何枚も写真を撮り始めた。
そんな鬼頭さんを一瞥しながら、須久奈様が「やっぱり…あの鬼は使えない」と愚痴を吐き捨てている。たぶん、鬼頭さんには聞こえているのだろう。しくしく泣きながら項垂れている。
耳が良いのも考えものだ。
「あ。ペットボトル」
「ぺ…ぺぺぺっと…ぼとる?」
「ほら、アレです。あの透明の」
須久奈様が草を枯らさなければ、きっと目につくこともなかったペットボトルが、少し斜面を下った先に引っかかっている。
「…鬼」と須久奈様がペットボトルを指させば、鬼頭さんが「はいっ!」と飛び跳ねた。
「い…一花が…気になってる。さっさと拾え」
むちゃくちゃだ。
鬼頭さんはスマホをポケットに押し込み、どさどさと斜面を下る。
人ならロープが欲しいところだけど、鬼頭さんにとっては平地と変わらないのかもしれない。慎重とは程遠い駆け足でペットボトルを拾った。それから、きょろきょろと周囲を探っている。
「どうしたのかな?」とは日向さん。
日向さんの目には、急にごみ拾いを始め、挙動不審に陥ったように見えているのかもしれない。
「ペットボトルを拾ってもらったんです」
「ペットボトル…?」
日向さんは言って、ぐるりと周囲に視線を巡らせる。
「こんな場所でポイ捨て…っていうのも変ですね」
林道どころか獣道もない。
斜面はロープが必要なくらい急で、草は茫々に生えている。
林業関係者はポイ捨てはしない。山菜採取の人たちはロープを持参してまで山の中に入らない。登山者が来るような山でも、遭難者が滑落するような場所でもない。
自然と、私たちの視線が黒ずんだ地面に集中する。
「鬼頭くん。ペットボトルは何時ぐらいのものか分かるかい?」
「賞味期限が2年後というくらいしか分かりませんが、新しいです」
ペットボトルについた土や枯葉を拭いながら、鬼頭さんが戻ってきた。
ペットボトル自体に経年劣化による変色や穴がない。水でゆすげば、綺麗になりそうなくらいには新しい。
「次の移動手段は人間を利用したのかもしれないね」
「年神様。それはないんじゃないですか?こんな場所まで来る人なんて殆どいませんよ。林業関係者としても、ポイ捨てはしないと思います」
かと言って、ペットボトルが何処から来たのかなんて答えられないのだけど…。
「こんな場所に来る人間はいるだろう?」
「え?」と、私と日向さんが年神様を見つめる。
須久奈様と鬼頭さんは、何かを察したように渋面を作った。
「中村と言ったかな。まれびとに執着する人間がいると、坊守が語っていたのだろう?」
年神様の言葉に、私たちの顔から血の気が引いた。
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