よろず怪事相談所

衣更月

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 大通り沿いのバス停から徒歩10分。
 如何わしい風俗店案内所とホテルの間の道を奥へ進む。
 準備中の札を下げた飲食店に、にんにく注射の看板を掲げたクリニック。客が疎らなコンビニを通過し、精力剤のチラシを貼り付けた漢方薬局の隣。スナックの看板を連ねた5階建ての雑居ビルに、僕の事務所がある。
 昼間は寂れた印象の街だが、夜には息を吹き返したように喧しい。
 ひと昔前は、昼間でも夜の余韻を引き摺って衛生面が欠如していた。ゴミは散乱し、酒の臭いをさせた男女がふらふらとホテルに入って行く。電柱や公衆電話にはピンクチラシが魚の鱗のように張られて、たちの悪そうな男たちが屯っていた。
 今でこそ昼間の街は清潔感が出てきたが、夜の喧騒は変わらない。
 サイレンが聞こえない日はないし、酔っ払いの叫び声は珍しくもない。ビルとビルの間に酔っ払いが寝ていることも日常の一コマだ。
 そんな雑多な風景の中に建つ雑居ビルは、1階と地下1階に居酒屋とスナックが入居しているだけで、上階は全てレンタルオフィスと健全だ。一階の床に染み付いた酒と残飯の臭いを無視すれば、安価な優良物件ではないだろうか。
 饐えた臭いがこもるエレベーターで4階に上がり、薄暗い廊下の奥の奥。鉄製のドアを開けば、狭小で日照権を放棄した事務所に到着する。
 立花リサーチ社。
 大手のような広告も看板もない。簡素なホームページは社名と連絡先、料金表くらいしか載せていない。無作為なネット検索でヒットするような個人事務所だ。
 そんな事務所に、一人で訪れる女性は少ない。
 ビルに入るのすら勇気がいるはずなのに、彼女はアポイントメントもなくやって来た。
 僕から見れば小柄。それでも、女性の平均身長くらいはあるだろうか。
 ボリュームのあるシャツに黒いパンツ。黒髪をポニーテールに纏めた、女子大生といった風体だ。そうなると、益々こんな場所に似つかわしくない。保険の飛び込み営業と言われた方が納得がいく。
 彼女はドアを開いた後、外に貼られた事務所名を再確認して、緊張の面持ちで「あの」と声を上げた。
「よろず相談所はここで合ってますか?」
「ええ、合ってますよ」
 一つ頷いて、デスクから立ち上がる。
 彼女の不安げな表情の理由は、社名プレートに相談所の記載がないことなのだろう。
 正式名称は立花リサーチ社。よろず相談所というのは、依頼人たちが勝手につけて広まった通称だ。なので、彼女の聞いた社名と相違が生じている。
 社名が違うだけでも胡散臭いのに、事務所の狭さが不安に拍車をかけるのだろう。
 兎に角、うちの事務所は安価なだけあって狭い。ドアを入って正面に仕切りの為に棚が置かれているが、仕切りといえるほどの高さはない。真っすぐに事務所内を覗き込めば、僕と目が合ってしまうのだ。
 窓を背に僕のデスクがあり、その正面に草臥れた3人掛けソファ。僕から見て右手に本棚と2ドア冷蔵庫。左手に簡易パーテーションで仕切られた事務用デスクを置いた仕事場と機材置き場があるだけだ。
 僕一人しかいないのだから十分でもあるが、彼女から見れば十分に怪しく入り辛い。
 窓の外に見えるのが、隣のビルの壁というのも閉塞感があって拒絶反応が出ているのかもしれない。
 ドアに手を当てたまま、一歩が出ずに立ち止まっている。
「ご依頼ですか?」
 歩み寄ると、彼女は驚いた顔で僕を見上げる。
「大きいですね」とは言われ慣れている。肩を軽く上げ、「要件は?」と再度尋ねる。
 彼女は意を決したようにドアを閉め、頭を下げた。
「あの、ここは心霊現象の相談に乗ってくれるって聞いて来たんです」
 彼女は言って、緊張に唇をきつく結んだ。
「ええ、してますよ。こちらにどうぞ」
 ソファを薦め、デスクに戻る。
 彼女はきょろきょろと事務所内を見渡し、怖々と歩いてくる。まるで落とし穴がないかを確認しながら歩いているようだ。
 このビルは古いが、床が抜けるようなことはない。
 とはいえ、彼女の心境は理解できる。
 僕が彼女の立場でも同じように緊張するし、詐欺師の根城でないことを確認する意味でも、隅々に視線を走らせるだろう。
 一頻り見渡した後、彼女は拍子抜けと言わんばかりの顔で首を傾げた。
 山積みの数珠やお札、水晶があるとでも思ったのだろうか。
 残念ながら、うちは普通の事務所だ。家探ししても数珠の一つすら出てこない。怪異を取り扱う事務所というには逆に胡散臭くもあるが、不要なものを取り揃えるほどの費用は持ち合わせていないのだ。
「すみません。ここには応接室がないんです」
 来客はソファに座り、デスクにつく僕を見上げる形になる。
 なんだか僕が偉そうに見えるが、応接室がないのだから仕方ない。そのソファも、依頼人が座った回数より、僕が昼寝に寝転んだ回数の方が多いくらいだ。
 つまり、この事務所は来客を想定していないということだ。
 依頼人と会う時は、常に外だ。依頼人の家や近くの喫茶店といった具合だ。彼女のように事務所に来た依頼人は、数える程度しかいない。
「立花宗一郎です」
 名刺を差し出すと、彼女は慌てて両手で丁寧に名刺を受け取る。
「私は及川真希です。よろしくお願いします!」
 及川真希は頬を赤らめて、元気いっぱいに頭を下げた。
「座って下さい」
 改めて彼女にソファを薦め、僕もデスクにつく。
 彼女はソファに座ると、トートバッグを膝に置き、背筋を伸ばして僕を見上げた。
「この事務所はどなたかの紹介ですか?」
「はい。芳田さんの紹介です」
 芳田と聞いて、ああ、と暗い気持ちになる。
 何日か前に、掛け軸の絵を台無しにしてしまったことを思い出す。
 芳田克嗣は少女の絵が気に入って掛け軸を購入し、怪異を招き入れてしまった。それを祓うように依頼された僕は、掛け軸に囚われた少女の魂を成仏させ、同時に少女の絵も浄化させてしまったのだ。
 少女が消えた掛け軸を見た時、芳田克嗣は鷹揚に笑っていたが、目は怒っていた。
「えっと…芳田克嗣さんのご紹介でしょうか?」
「いえ。そのお孫さんです。依頼と言うのが、私の姉のことなんです。苗字は違うのですが、鈴原さんというのが芳田さんの孫で、姉の彼氏になります。なので、正確には鈴原さんの紹介です」
「なるほど」と頷く。
「鈴原さんのおじいさんが、心霊現象に悩まされていたらしくて。それを解決したのがこちらだと聞きました」
 詳細は聞いていないようだ。
 聞いていたら、ここには来なかったかもしれない。
「では、お姉さんの代理ということですか?」
 訊けば、彼女は頬に手を当てて小首を傾げた。
「あ、いえ、そうでもないかも…」と、曖昧な返答だ。
「詳細を教えてもらえますか?」
「はい」と、彼女は頷く。
「3ヵ月くらい前に、姉から電話があったんです。呪いの人形をどうしたらいいのか分からないって」
 呪いの人形というフレーズに、思わず眉間に皺が寄る。
 好みの問題かもしれないが、僕は人形が好きになれない。
 人形というのは人の形をしているからか、念が籠りやすい。持ち主の念か、人形を作った職人の念か。どちらの念にしても愛情だったはずなのに、籠る念は怨念が多いのだ。
「呪いの人形というからには、何かしら実害があったのですか?」
「声が聞こえるそうです。最初は気にしていなかったと言ってました。声が小さくて、何を言っているのか聞き取れないし、どこから聞こえてくるのかも分からなかったって。姉が住んでいるマンションは家族での入居が多くて、近隣から声が聞こえてくるのは珍しくないんです。防音の壁でもないので、子供の泣き声とか、走り回っている音とか、テレビの音が聞こえることもあります。とにかく一日中聞こえてくるような部屋です。なので、その声も隣近所から漏れてきてるんだろうって無視してたそうなんですが、鈴原さんが人形からじゃないかって気づいたんです」
「お姉さんの彼氏が気づいた?」
「最初に声がすると気づいたのは鈴原さんです。あ、姉とは同棲してるんです」
 そう言って、彼女はトートバッグからスマートフォンを取り出した。スマートフォンに指を滑らせて、「人形です」と僕に画面を向ける。
 日本人形やフランス人形のようなリアルな人形をイメージしていたが、スマートフォンの中の人形は予想に反した可愛らしい作りだった。
 フェルト地だろうか、少し毛羽立っている。
 黒い帽子に亜麻色の髪、目は丸で、口は曲線。鼻はない。白い服と黒いブーツを履いた人形からは、何ひとつ悪いものを感じない。
「その人形から声が?」
「姉も最初は半信半疑だったみたいですが、確かに喋ってたのは人形だったみたいです。それ以外にも、色々と怖いことが起こっていると…」
「怖いこととは?」
 彼女は「確か」と首を傾げ、スマートフォンをトートバッグに置く。
「テレビを見ていたら急に消えたり点いたりとか…ドアがノックされるとか…引っ掻く音がするとか…夜眠れない、金縛りに合うとか」
 彼女は困惑の表情で、姉の周囲に起きた怪異を指折り数える。
「信じていないという顔ですね」
「気を悪くしないで下さいね。私、オカルト的なことはあまり信じてないんです。見たこともないし、感じたこともないし。人形が喋っているところも見てないんです。姉を心配して家に行っても、そんな現象は起きなかったし…」
 すみません、と首を竦める及川真希に、僕は苦笑した。
「ここに来るのは勇気がいったでしょう?」
「ええ…まぁ。心霊相談するところって、高額請求や宗教の勧誘のイメージが強くて。でも、ここは鈴原さんのおじいさんが助けられたと聞いたので勇気を出して来ました。どんな事務所だろうって思ったけど………オカルト要素がなくて逆に驚いてます。もっと胡散臭い事務所をイメージしてました」
 そこまで言って、彼女は頬を赤らめ、バツが悪そうに口元に手を当てた。
 僕としては見え透いたお世辞を言われるよりも好感が持てる。
「ここは高額請求も宗教の勧誘もしません。まずはお話を聞きますが、30分以内であれば相談料も頂いていません。契約書に目を通して頂き、料金などに納得を頂いた上でサインをもらっての契約成立としています。契約は他所も回った上で決めたいという方もいます」
 彼女は胸に手を当て、ほっと息をついた。
「30分以内なら相談無料なんですね。正直、相談だけでもお金がかかるのかと身構えてました」
「殆どの方が、相談だけでは終わらないんですよ」
 相談だけで解決する怪異なら、そもそもうちのような事務所には来ない。
 神社仏閣を巡って解決している。
「それに、僕の手に負えるのか、負えないのかという判断材料が必要なので、無料相談は必要枠だと考えています」
「手に負えないと判断したら?」
「お断りしています」
「え!」と彼女が目を丸める。
「見捨てるんですか?」
「僕が万能に見えますか?」
 今度はこっちが驚いてみせる。
 彼女は恥ずかし気に身じろぎ、「ごめんなさい」と俯いた。
「見捨てるなんて言葉は適切ではありませんでした」
「気にしていませんよ」
 ゆるりと頭を振る。
「手に負えないケースってどんなのもか聞いてもいいですか?」
「それを判断するための無料相談なんですが……そうですねぇ」
 腕を組み、過去に断った事案を思い出してみる。
「神格、もしくはそれに準ずる祟りはお断りしていますし、依頼内容に関係なく横柄な依頼人にも帰ってもらいます」
「しんかく?」
「簡単に言えば、神様相手に罰当たりをして祟られたという依頼です。お社を破壊したとか、神社のしめ縄を燃やしたとか、お地蔵さんを崖下に落としたとか。そういう手合いの祟りは自業自得ですし、僕の手には負えません」
 実際、過去にあったのだ。
 肝試しで調子に乗ってお社を蹴り壊したとか、ドライブ先で見つけた神社のしめ縄を面白半分で燃やしたとか、峠の走り屋がお地蔵さんの位置が微妙に邪魔だからと崖下に突き落としたとか、自分が無敵だと勘違いしている輩は多い。
「そんなことする人いるんですね」と、彼女は身震いする。
「横柄な依頼人もいるんですか?こういう所は、藁にもすがる思いで来ている人ばかりかと」
「金を払うから、さっさと悪霊を祓え、と怒鳴る人もいますよ」
 その手は追い払うのも一苦労なのだ。
 思い出しただけで胃がキリキリする。
 僕は腕組みを解き、机上で手を組んだ。
「それで、依頼内容に戻りますが、及川さんはお姉さんの気のし過ぎだと思いますか?」
 問えば、彼女は苦笑した。
「正直、証拠がないので。本当に心霊現象なのか分かりません。私から見ても、姉も鈴原さんも神経質になっているように見えるんです。それでも不安を取り除いてあげたくて来たのですが、これもお断り案件ですか?」
 それが気になって、僕が断ったケースを訊いたのか。
 姉のために勇気を出して相談所を探すくらいだ。よほど姉妹仲が良いのだろう。
「別に心霊現象に限定して、それ以外の調査を断っているわけではありません。あくまでリサーチ社なんです」
「あ…そうか」
 彼女はぎこちなく微笑む。
「では、もう少し質問してもよろしいですか?」
「はい」と、彼女が居住まいを正して僕を見る。
「証拠がないとおっしゃいましたが、人形が喋っている動画を撮っていると聞いたこともありませんか?」
「ありません。姉がスマホに記録するのも気持ち悪いって嫌がったんです。鈴原さんも同じです」
 その心理は分からなくもない。
 SNSに上げるためにスマートフォンやカメラで怪異を記録したものの、やっぱり怖くなったので処分の仕方を教えてほしい、と相談を受けることがある。ひと昔前の心霊番組では、フィルムをお焚き上げしたり、写真を川に流して清めるようなことをしていたが、今はデジタルだ。スマートフォンごと処分しようかと悩んでいた依頼人もいたが、馬鹿らしいの一言に尽きる。
 結論から言えば、データを消去すればいい。
 簡単だ。
 スマートフォンを捨てる必要も、カメラのSDカードを川に流す必要もない。
 だが、そんな簡単なことを恐れてしまう人が意外と多いのだ。
「人形はお姉さんが作ったのですか?それとも買った?」
「友人からのプレゼントだそうです。その…正確には、亡くなった友人の形見になります。人形作家だったらしいんですが、半年ほど前に病気で亡くなったと聞きました。遺品整理で出てきたのが、その人形です。姉にプレゼントするはずだったみたいで、わざわざお母さんが届けてくれたんだと言ってました」
 思わず額に手を当てる。
 形見の人形を想像するだけで気が重くなる。
「えっと…それで、最初の質問で、お姉さんの代理というわけでもない、と答えていた気がするのですが。あなたにも何か気になることがあるのですか?」
「いえ。私の周囲に奇妙なことは起きていません。ただ、その人形、2週間ほど前から私が預かっているんです」
「え?」と、間の抜けた声が出た。
「姉に気味が悪いから預かっててほしいと頼まれたので」
 頼まれたからと言って、よく預かったものだ。
 しばらく豪胆な彼女に関心していたが、ふと疑問が過ぎる。
 彼女は人形の影響下にあるのではないだろうか。
「2週間も預かって、何も起こっていないんですか?」
 訊けば、「はい」と頷く。
「その後、お姉さんの方は?」
「怖いことが収まっていると聞いています」
 呪いの人形を預かり、彼女の回りでは異変がない。姉の方も怪異が収まっているというのなら、僕は必要ないのではないか。
 そもそも怪異であったのかさえ疑問だ。
「それで、僕には何を依頼したいんですか?お話を聞く限り、あなたが持っていれば問題ないように思えますが」
「姉は人形を怖がっていますが、形見なので手許に置いておきたいそうなんです。心霊現象さえ止んでくれたらと、人形をお寺や神社に持って行ってお祓いをしてもらったそうなんですが、効果はなかったと落ち込んでいました」
 そう言って、彼女はため息を吐く。
「何をしても心霊現象は止まなくて、精神的に参っていました。それで私が預かることにしたんです。お寺や神社がダメなら、そういうのに詳しそうな所に頼ってみようって調べてたんです。そうしたら、鈴原さんからここのことを聞いたんです」
「ここが初めてですか?」
「はい」
 当然です、と言いたげな表情だ。
 調べれば調べるほど、怪しい情報ばかりが目につき、一歩が踏み出せずにいたのだろう。この手の相談所というのは胡散臭いものだ。費用は曖昧で、なぜか高価な数珠や水晶が悪霊退散に効くと売り出されている。それを祓ってくれと頼んでいるのに、なぜ商品を紹介するのかが分からない。僕から見たら、お祓い技術が未熟なので数珠も買って自衛してくれと言っているようなものである。
 相談所を調べるだけで疲弊したに違いない。
「やっぱりダメですか?」
 何度も確認するのは、彼女が卑屈というより、真相を知るのが怖いという心理が働いている気がする。
 怪異が本物であれば、神社仏閣でも姉を救うことができなかったのにと恐れることになる。逆に、怪異ではなかった場合は、姉を精神科に連れていかなければならない。
 どこかで依頼を断ってほしいと思っているんじゃないだろうか。
 そんな心情が、彼女の瞳に見え隠れする。
 どちらにしろ、契約を結ぶかどうかを決めるのは彼女だ。
「大丈夫ですよ」
 僕の答えに、彼女の視線が不安げに泳いだ。
 抽斗から契約書を取り出し、席を立つ。ペンと一緒に、彼女の前のローテーブルに置く。僕が傍に腰を下ろすと、及川真希が緊張したように身じろぎ、少し離れた。
 地味に傷つく。
「えっと…料金は基本料金プラス諸経費です。前金に1万円。残りは依頼の完了後に請求書を郵送します」
 デスクに手を伸ばし、クリアファイルに入った料金表を手繰り寄せる。
 テーブルに料金表を置けば、彼女が前のめりになって「ペットの迷子探し?」と混乱した顔をする。
「それは知人に頼まれて始めた案件なんです。よろず相談所の所以です。そもそもうちは怪異専門でもありません。早々に起きる事象でもないですからね。基本収入源は、ペットの迷子探しと失くし物探しです」
「だからなんですね。他所は社名の上とか下に、心霊や宗教が付くものばかりでしたけど、ここは違和感があったんです」
 彼女は口角を上げて、料金表を手に取った。
「初めてのお客さんは基本料金が1日計算で、リピーターが1時間計算?」
 彼女が言っているのは、ペットの迷子探しのことだ。
「脱走癖がある子がいるんです。そういう子は、基本的に逃走ルートや行動範囲が決まっているので時間制。初めての子は性格も含めて分からないことばかりだから、1日計算」
「へぇ」と彼女は声を上げて、真っすぐに僕を見る。
「経費は契約書にサインしてすぐに発生するんですか?」
「いえ、調査開始日からです。ただ、心霊現象と言われるものは、常に発生しているものばかりではありません。ある一定の条件下で発生するものもあるんです。その場合は、調査を一旦引き上げることもあります。費用は調査を行っていない日数分を引いて計算します」
 彼女は何度も頷く。
「私の依頼の料金は、怪異というところを見れば良いんですか?」
「そうです」
 心霊現象のパターンは多種多様だ。
 同じ悪夢を見続けるという精神的なものから、ポルターガイストという有名な現象、気配がするというような曖昧なものまで多岐に渡る。それらを選り分けて料金設定するのは面倒なので、怪異として一律の料金設定にしてあるのだ。
 ちなみに、精神的なものは病院を勧めるし、明らかに人間か絡む気配は警察へ行くように説得する。
「諸経費とは、遠方であれば交通費や宿泊費のことです。場合によっては危険手当も請求させてもらいますが、それは明記しているだけで、実際に請求したことはありません。危険手当が発生する条件は、僕が怪我をした場合に限ります。犬に噛まれて病院で治療したり、ポルターガイストで頭を殴られて病院へ、といった感じです。治療費と言い換えても差し支えないかもしれません。それからお札やお守りは売っていないので、必要だと思ったら自分で調達して下さい」
「その他諸経費というのはなんですか?」
 彼女は料金表をテーブルに置き、その他諸経費を指さす。 
 金額の記載はない。
「それは依頼内容によって発生する諸経費で、依頼によって必要なものが変わるので明記していません。費用が発生した時に依頼人に確認して、経費として加算する仕組みです。例えば、ペットの迷子探しの場合は、チラシの有無がそれに当たります。今回のような場合も、機材を搬入して怪異を記録したいのであれば、費用を計上します」
「なるほど」
 ぽん、と手を叩いて、納得の表情で頷く。
「勝手に経費を上乗せすることはないので安心して下さい」
「立花さんは信頼できると思うので、そんな心配はしていません」
 にこりと笑って、契約書を手に取ると内容を大して確認せずにサインを走らせる。
「信頼してくれるのは嬉しいですが、契約書は読んだ方がいい」
「構いません。どちらにしても立花さんに頼まないと前に進めないんです。ここで契約するか、悩み続けて他所の心霊なんちゃら社に頼むか。だったら私は立花さんに頼みます」
 不安を吹っ切るように笑って、躊躇いなく契約書を僕に差し出す。
「分かりました。契約成立です」
 契約書を受け取る。
「日程はどうしますか?」
「もし、今から私の家に来て下さいと言ったら大丈夫ですか?」
「構いませんが、調査開始となりますよ?」
 料金が発生するということだ。
 腕時計に目を落とすと、15時を回っている。
「大丈夫です。早く解決したいですし」
 彼女はトートバッグから財布を取り出し、前金の1万円札をテーブルに置いた。
「では、本日から怪異の解決に努めます」
 1万円札と契約書を手に立ち上がる。
 デスクにつき、抽斗から領収書を取り出し、ペンを走らせる。1万円札は領収書とクリップで留め、契約書ともどもクリアファイルに入れて抽斗に仕舞った。
 控えは及川真希に渡す。
 出かける用意は簡単だ。腕まくりしたシャツを整えてジャケットを羽織り、財布とスマートフォンをジャケットのポケットに突っ込む。
 それで終わりだ。
「行きましょうか」
 そう言えば、彼女は目を丸めた。
「用意とか…荷物はないんですか?」
「ありません」
 事務所のカギと車のカギは、常時ジャケットのポケットだ。
 他に必要なものは思い当たらない。
「もっとこう…お祓いしますって感じなのかと…」
 少しの落胆を落として、彼女は立ち上がった。
「着物を着て、数珠とか経文とか…そういった格好を想像しました」
「よく言われます」
 軽く肩を上げて、事務所の電気を消した。


 及川真希の家は、車で30分ほど行った郊外に位置する。
 一昔前はベッドタウンとしてお洒落な家が並んでいたそうだが、今やお洒落さも過去のものだという。何よりも不満が募るのが通学で、市内の大学へ通うには紙面上は片道40分。実際は電車の待ち時間などがあるので50分近くはかかると、彼女は唇を尖らせる。
「コンビニが駅の近くにしかないんですよ」
 頬を膨らませ、助手席のシートに深く凭れる。
「あと昼も夜も人通りが少なくって。私も市内にマンションを借りたいくらいなんです」
 でもバイトの給料じゃ、と彼女の口は閉まらない。
 事務所に来た時とは別人のようだ。人懐っこく、明朗快活。姉のことからバイト先の愚痴まで、あれやこれやと口が止まらない。
 緊張を和らげようとしているのかもしれない。
 やはり初めて会った男の車に乗るのは嫌なのだろう。
「立花さんっていくつですか?」
「35」
「15コ上かぁ」
 しみじみとした口調だ。
 若いですね、とも老けてますね、とも言わない。見た目通りの中年ですね、ということなのだろう。
「背、高いですよね。スポーツとかしてたんですか?バスケとかバレーとか」
「スポーツは苦手なんだ」
「へぇ…」
 それから沈黙。
 会話が続かないのは仕方ない。そもそも僕は会話を楽しむタイプじゃない。
 もし緊張を解したかったのなら悪いことをしたとも思うが、僕の会話の抽斗は少ない。相手が20代の女の子となれば尚更、会話の糸口なんて見つかるはずがない。
 助手席を見ると、居心地が悪そうに身じろいでいる。
 彼女がほっと頬を緩めたのは、カーナビゲーションが目的地周辺を知らせた時だ。
「あそこです」
 彼女が指差した先に、車二台分の車庫を有した洋館風の二階建てが見える。
 煉瓦調の壁に褐色の屋根。クラシカルな雰囲気の家に合わせて、表札もOIKAWAと流れるような筆記体だ。
 駐車場にはピンク色の軽自動車が一台停まっている。
 門の前に車を停め、覗き込むように隅々に視線を馳せても嫌な気配は感じられない。
 呪いの人形があるような家は、大抵、家に入る前から分かるのに、この家にはそれがない。
 思わず首を傾げる。
「本当に人形を持ってますか?」
「はい。部屋にあります」
 彼女はしっかりと頷く。
「あ、駐車場、使って下さい」
 言われるままに、駐車場へ車を入れた。
 車を下りて家を見上げても、やはり首を傾げることしかできない。
「ご家族にはどう説明を?」
 いきなり見知らぬ男が来ても困るだろう。
 しかも胡散臭いリサーチ社の人間と知れば、怒鳴り散らされるかも知れない。
「今は私1人なんです。父の転勤に母が付いて行って、姉は彼氏と同棲。兄が社員寮で、週末に戻ってくる程度です」
「そうか。でも、そういうことはあまり言わない方が良い」
「立花さんを警戒して?」
 及川真希が声を上げて笑う。
「そういうことじゃなく…」
「分かってますよ」と、指差した先には、セキュリティ会社のステッカーが貼ってある。
 よく見れば、玄関ポーチの上には監視カメラがある。
 なるほど。セキュリティは万全なのかと納得する。
「それに私、これでも空手黒帯なんですよ」
 そう言って、彼女は「どうぞ」と玄関ドアを開いた。
 確かに一人暮らしの雰囲気だ。
 家の中は薄暗く、静けさが染み込んでいる。家と言うのは住んでいる人の数によって雰囲気が変わるものだ。大家族だと、例え他の家族が留守でも騒々しさが残っている。一人欠ければ、欠けた分の寂しさが漂うのだ。
 この家は一人暮らしの侘しさがある。
「お邪魔します」
 揃えられたスリッパに履き替えて、玄関の向かいにある階段を見上げる。次いで、一階の閉じられたドアへ順に目を向ける。
 何も感じられない。
「どうぞ」と、彼女がリビングのドアを開けた。
 フローリングの部屋だ。琥珀色のラグマットの上に、ソファとテーブル。木目調のテレビボードの上には、50インチの大型テレビだ。
 木製の引き戸を境に、ダイニングキッチンが続いている。
 ソファに座ると、彼女は荷物を床に置いてキッチンへと駆け込んだ。
 音だけでお茶の用意をしてくれているのが分かる。
「人形はどこに置いてあるんですか?」
「私の部屋です」
 怪異を信じていないというだけはある。
 仮にも呪いの人形を部屋に置くなど、普通は出来ない。
 なんとなく天井を見上げる。
 何も感じない。そもそも、この家が奇妙なのだ。家と言うのは、大なり小なり何かしらの気配があるものだ。なのに、ここでは何ひとつ感じない。まるで、僕の唯一の取り柄が突如として失われてしまったようですらある。
 居心地の良さの中に、しこりのように不安が芽生える。
 思わず胸を軽く叩くと、首筋に冷たいものが這った。
 それにほっとする。
「市販の烏龍茶ですみません」
 そう言って、目の前にグラスに注いだ烏龍茶が置かれた。
 見れば、丸いお盆にを手した及川真希がいる。
 全く気が付かなかった。
「お構いなく」と言っても、彼女の顔は申し訳なさそうだ。
「人形、持って来ますね」
 お盆をテーブルに置いて、ぱたぱたとスリッパを鳴らしてリビングを出て行く姿はハムスターを彷彿とさせる。
 忙しないのだ。
 足音だけで、廊下や階段、更には自室に入ったことが分かる。
 その自室は、リビングの真上らしい。
 再び天井を見上げる。
 何かしら感じないだろうかと神経を研ぎ澄ましていると、「あ!」と悲鳴ともつかない叫び声が聞こえた。
 何かが起こったらしい。
 考える間もなく立ち上がり、急いで二階へと駆け上がる。
「及川さん」
 ドアの開いた部屋へ入ると、彼女は空っぽの箱を手に呆然と佇んでいた。
「どうしました?」
 声をかけると、彼女はぱちくりと瞬きした後、僕を見上げた。手にした箱を僕に向け、「ありません」と声を絞り出す。
「この中に入れていたんです」
 箱には男性用のスニーカーが入っていたのだろう。メンズのシールと有名メーカーのロゴが付いている。これに入れていたとなると、人形は想像より大きいのかも知れない。
「これに人形を入れていたのは確かですか?」
「姉が箱に入れて持って来たんです」
「入っていたのは確認しましたか?」
「はい」と、彼女は力強く頷いた。
「あの写真は、私が箱から出して撮ったんです。それから箱に戻して、姉がしていたように紐で結びました」
 ベッドの傍に落ちた白い紐がそれだろう。
 部屋には変わった様子はない。
 壁側にクマのぬいぐるみが寝転ぶベッド。窓際には子供の頃から使っているのだろう学習机。本棚には小説や参考書、写真立てが飾られている。
 シンプルで、整理のされた部屋は、少し見ただけで人形がないと分かる。
「人形が勝手に箱から出たってことですか?それとも…」
 強張った声は、「誰かが入って…」と不審者を危惧する。
 僕は学習机に歩み寄り、窓の施錠を確かめる。外を覗いても、屋根に靴跡はない。
 次に廊下に出て、隣の部屋のドアを開く。
 埃除けのシーツをかけられた家具が置かれた部屋だ。物置になっているのか、部屋の隅には彼女の兄姉の名前が記された段ボールが積まれている。開けっ放しのクローゼットは空だ。人の気配はない。窓の鍵を調べても、しっかりと施錠されているし、屋根に不審な点は見当たらない。
「わ、私は下を見てきます!」
 彼女が慌てて階段を駆け下りて行く。
 ばたばたと騒々しい音を立てるのは、彼女なりの安心感を得る為だろう。怪異が起こると大声で歌って恐怖心を和らげようとする人と同じ心理だ。
 ひと通り施錠の確認をし終えた彼女は、「鍵は掛かってました」と表情を曇らせた。
「セキュリティー会社からも連絡はきてないから、侵入者じゃないのかも…不具合が起こってなければですけど」
 そうなると理由は一つだ。
 人形が箱から抜け出したのだ。
「人形を探しましょう」
「人形が勝手に移動したと思うんですか?チャッキーみたいに?」
「変質者が潜んでいるのと、どちらが良いですか?」
 訝しげに僕を見る彼女に、もう1つの選択肢を与えると、彼女は不貞腐れたように黙った。
 空手有段者でも、不審者は嫌なのだ。
「どこを探せばいいのか見当もつきません」
「クローゼットやベッドの下はどうでしょう?」
「はい」
 彼女は頷き、小走りでクローゼットへ向かう。
 僕も彼女の後に続き、彼女の部屋に戻った。
 彼女がクローゼットを開くと、なんとも女性らしい柔らかな色合いの服が並んでいる。一瞬、収納棚の上に下着が見えて、慌てて背を向けた。
 クローゼットは彼女に任せ、僕は床に這い蹲ってベッドの下を確認する。
 奥の方に綿埃が見えたくらいで、他は何もない。
 同じように隣の部屋も隈なく探してみたが、人形は出てこなかった。
 クローゼットも成果がなかったらしい。 
「ありません…」
 肩を落とし、「どこ行ったのぉ」と眉を八の字にしている。
「どうすればいいんですか?」
 人形が動く事象はポルターガイストだが、マジックのように消えることはない。
「見つけるしかない」
 眉間に皺を刻み、頭を掻く。 
「あ、あの」
 声に視線を落とすと、名案が浮かんだとばかりに及川真希は僕の手を握りしめた。真っ直ぐに見上げてくる目が、なぜか輝いて見える。
「あの料金表に、失せ物探しってありましたよね?その契約書には後でサインするので、依頼を追加して下さい!」
 できますか、できますよね、と早口で捲し立ててくる。
 僕はと言えば、勢いに呑まれて言葉に詰まる。
「いや…あの…」と、しどろもどろで眉尻を下げる。
「それは…今回は無理です」
 なんとか絞り出すと、彼女は力なく僕を解放してくれた。
「人形に関することは依頼内容に含まれているので、人形の捜索に追加の契約や料金は必要ありません。ただ、この家からは何も感じないので、僕は役に立たないと思います」
「人形がいないということですか?」
「それが分からないんです。感覚の問題なので説明が難しいですが、この家と僕の相性が良くないのかもしれません」
「よくあることなんですか?」
 小首を傾げる彼女に、僕は肩を竦める。
「初めてです。なので、僕自身困惑しています」
「そうですか…」
「今回は調査にならなかったので、料金は発生しません」
「え、でも…」
「契約も保留にしましょう。人形が見つからないことには、僕も動けないので」
「そんな!せっかく立花さんに来てもらったのに」
 彼女は声を上げ、僕の腕を掴むと急いでリビングに戻る。
 為されるがままにソファに座らされ、テレビのリモコンを握らされる。
「テレビでも見てて下さい。他の部屋も探してきます」
 有無を言わせぬ迫力がある。
「待ってて下さい!」
 パタパタと騒々しい足音が二階へ戻って行き、自室を再捜索する音が聞こえてきた。
 僕は手にしたリモコンをテーブルに置き、ソファの背凭れに体重を預ける。
 必死なのは、消えた人形に対する恐怖よりも、僕に対してのもののように感じる。
「気を使うことはないのにな」
 ぽつりと呟き、天井を仰ぐ。
「探してくれるかい?」
 問いかけに、ひやりと冷たくも滑らかなものが首筋を撫でた。
 ゆっくりと僕の首に巻き付くように現れたのは、体調1メートルほどの白蛇だ。金色の双眸に、二股に分かれた赤い舌。白銀に煌めく鱗が美しい30年来の友人だ。
 名前はハク。
 ハクは僕の耳に口を近づけた。舌がチロチロと微かな音を立てる。
「僕には感じることができないんだ」
 情けなく肩を落とす。
 ハクの顎をひと撫でして、ハクの声に耳を傾ける。
「ありがとう」
 微笑むと、ハクは器用に僕の体を伝って床に降り、姿を消した。
 この家の中にいれば、ハクが直に見つけてくるだろうが、外に出られたのでは難しいだろう。
 人形はどこに行ったのだろうか。誰かが持ち出したか、自らの意思で消えたのか、それすらも分からない。不審者ではない。彼女の姉か兄が持ち出すにも、その理由が分からない。自らの意思で消えたのなら、どこへ行ったのだろうか。
 もし、人形に亡くなった友人の魂が宿っているなら、未練のある場所になる。
 そもそも、人形はいついなくなったのだろうか。
 あれやこれやと思考を巡らせている間に、とぼとぼとした足音が近づいて来た。振り返れば、しょんぼり、という言葉が相応しい顔の及川真希が戻って来た。
 彼女の足元をすり抜けて、ハクも戻って来た。
 成果はなかったのだろう。僕の足首に巻き付くと消えた。
「すみません。見つからなくて…」
 そう言って、彼女は壁掛け時計に目を向ける。
 いつの間にか19時になる。
「わざわざ来て頂いた上に、長い時間引き留めてしまって申し訳ないです」
「気にしないで下さい」
 僕は立ち上がり、彼女に向き直る。
「僕の名刺とペンを貸してくれますか?」
「はい」と、彼女は床に置いたトートバッグから名刺とペンを取り出した。
 名刺とペンを受け取り、そこに携帯番号を書く。
「事務所が空いていない時間に何かあれば、携帯に電話しても構いません」
「時間外でも良いんですか?」
「大丈夫ですよ」
 名刺とペンを彼女に戻して、この日は及川家を辞することにした。
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