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第一章 争乱勃発

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   第一章  争乱勃発

     一

 草原が心地よさげに揺れている。夏の名残の太陽がじりじりと照りつける中、秋の訪れを仄かに感じさせる爽やかな涼風が辺り一面に吹き渡る。
 慶長五年(一六〇〇)七月二十四日、下野国小山宿。
 周囲の長閑な風景とはまったく裏腹な重苦しい緊張感に包まれた一団が、そこにいた。会津百二十万石の大名にして、豊臣家五大老にも名を連ねる武将上杉景勝を討滅すべく北へ向かう総勢三万余の大軍である。
 率いているのは、同じく豊臣家五大老のひとり徳川家康。こちらも関八州に二百五十万石を超える領封を持つ当代屈指の有力武将だ。これに本多忠勝・本多正信・井伊直政ら譜代の重臣たちと、福島正則・黒田長政・細川忠興ら豊臣恩顧の大小名が各々の手勢を連れて付き従う。そのさまは、まさしく壮観のひとことに尽きた。

 これより二年前の慶長三年(一五九八)八月十八日、太閤豊臣秀吉がこの世を去った。享年六十三。
卑賤の生まれでありながら、おのれの才覚ひとつで身を立て、出世街道を驀進して、ついには天下人にまで上り詰めた一代の英傑も、寄る年波には勝てなかった。死因は腎虚とも労咳とも伝えられるが、要するに長年の過労が祟っての衰弱死である。
 最期が目前に迫ったある日、秀吉は病床に徳川家康と前田利家の両名を呼び、
 ――秀頼のこと、くれぐれも頼み申す。
 と、涙ながらに懇請した。
 秀頼は、秀吉が晩年になってようやくもうけた一粒種である。文禄二年(一五九三)生まれだから、この年わずかに六歳。秀吉には他に実子がなく、万一のことがあれば、このいたいけな少年に後事を託さざるをえない。
老いたる秀吉にとって、愛息秀頼の行く末こそは何よりも大きな関心事であり、そう遠くはないであろうみずからの臨終に際して、ほとんど唯一といっていい心残りだった。

 時をさらに遡ること三年――すなわち文禄四年(一五九五)七月十五日。
 秀吉は甥の関白秀次に謀叛の疑いをかけ、蟄居先の高野山で自害させた。ひとえに秀頼の将来に禍根を残さぬための処置であったが、器量人といわれた異父弟秀長既に亡く(天正十九年に病死)、今また秀次までが鬼籍に入ったことによって、秀吉には頼るべき血縁者が誰ひとりいなくなった。
死を間近に控えた時、秀吉は、もとより稀少な血族をおのが手で消し去ってしまった愚を今さらながら悟ったが、すべては後の祭りであった。
 秀吉は焦慮した。なんとかして現有の駒の中から秀頼の「庇護者」を探し出さねばならない。
 ――なんとしても天下の権を無事、秀頼の手に握らせなければ。
 末期に直面した秀吉の心は、もっぱらその一事のみに向けられた。せっかく苦労して手に入れた政権の座、天下人の地位を、赤の他人の手に委ねたくはない。
 ――断じて委ねるものか。
 その思いの凄まじさは、ほとんど妄執に近かった。
 ――そのためには誰を恃むべきか。
 悩み抜いた末、秀吉は徳川家康と前田利家の両名を秀頼の後見役に指名した。ともに豊臣政権きっての実力者である。
 加賀に百万石の大封を有する前田利家は、秀吉とは四十年来の付き合いであった。秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗って織田家で足軽勤めをしていたころ、尾張の豪族出身だった利家は既に主君信長の目に止まり、将来を嘱望される若手将校のひとりに数えられていたが、元来気性のさっぱりした拘りのない男だけに、取るに足らぬ身分の秀吉とも隔意なく交わり、やがて深い友情を結ぶに至った。
 ふたりの交友はその後、秀吉の異例ともいえる出世によって織田家中での互いの序列が逆転しても、さらに信長が本能寺に横死して秀吉が天下人にのし上がり、利家がその家臣となっても、変わることがなかった。利家の鷹揚な性格と、そんな利家を決して粗略に扱わなかった秀吉の度量、生来の相性のよさ、加えて妻同士も親しい間柄だったことなどが、乱世にあってはまことに稀有なこの両者の友情を永続せしめた要因といえるだろう。
 その利家とともに秀吉が頼みとした、徳川家康という男。
 かつて織田信長と同盟関係を結び、共同戦線を張っていた百戦錬磨のこの武将は「農夫の如し」といわれた篤実な性格と、人当たりのよいやわらかな物腰で、世の人々から、
 ――天下一の律義者
 との称号を与えられていた。
 たしかに家康は、ここまで六十年近くにわたって「律義」としか表現しようのない人生を送ってきた。
 家康は、三河の小豪族松平家の跡取りとして天文十一年(一五四二)に生まれた。
 当時の松平家は東の今川、西の織田という二大強国に挟まれており、きわめて難しい情勢下で懸命に生き延びるすべを模索する、憐れな小国に過ぎなかった。家康の父である松平広忠は思案の末、より勢力が強いと見られた今川家に従属する道を選び、その代償として、嫡男の竹千代を人質に差し出した。この竹千代こそ後の徳川家康である。
竹千代は今川家の庇護を受けながら育ち、やがて元服して松平元康と名乗った。いうまでもなく元康の「元」の字は今川義元から賜ったものである。
 かくて今川麾下の部将となり、たびたび目覚しい武功を立てて、その将来を嘱望された元康であったが、やがて義元が桶狭間の合戦において織田信長に敗れ、あえなく命を落とすと、ただちに松平家の居城だった岡崎城(義元在世中は今川家に接収されていた)へ戻り、そこで独立して大名となった。
その後、元康は義元から下賜された名を捨てて徳川家康と名乗りを改め、敵対していた織田信長と盟約を結ぶ。
こうした一連の動きだけを眺めると、この家康という男、いかにも表裏定まらぬ喰わせ者のような印象を与えかねないが、むろん彼には彼なりの言い分がある。
 義元の死後、家康は後嗣の今川氏真に対して再三にわたり、
 ――ただちに父上の仇討ちをなさいませ。及ばずながら、それがしもお力添えいたしまするぞ。
 と、強く勧めていた。
 家康にしてみれば、義元はみずからの生家たる松平家を、強大な武力をちらつかせることによって有無を言わせず服属させ、あまつさえおのれを人質に取った憎き相手である。ふつうに考えれば、とうてい愛着を持つべき相手ではないであろう。
 ところが、家康は義元を憎まなかった。それどころか彼は義元を慕い、本気で仇を討ちたいと考えていたふしさえある。
 家康の意識の中で、今川義元という人物は、若く経験の乏しい自分に武将のいろはを教えてくれた、いわば大恩人であった。その遺児である氏真を奉じて信長に復仇戦を挑むのは、生前の恩義に報いるための当然の道と考えていた。
 ところが、今川氏真は「海道一の弓取り」とまで称えられた父義元とは似ても似つかぬ庸人だった。彼は武張ったことを極端に嫌い、ひたすら文弱に流れて蹴鞠や連歌に明け暮れ、家政を疎かにした。しぜん人心は離れ、近隣諸国に並ぶ者なき強勢を誇った今川家は、見る影もなく弱体化していった。
 このような状況から、家康はやむなく今川家を離れ、織田家に鞍替えした。大恩ある義元を滅ぼした怨敵信長と手を結んだにもかかわらず、彼がいっさい世人から非難の声を浴びせられなかったのは、こうした経緯があったからに他ならない。むしろ渋る氏真に対して強硬に仇討ちを主張したという風聞が広まるにつれて、
 ――徳川家康という御仁は、この乱世には稀なほど律義なお人柄らしい。
 という評判さえ立つようになった。
 そんな彼の評判をいっそう堅固なものにする事件が、天正七年(一五七九)八月に起きている。
 当時、敵対していた甲斐武田氏への内通の嫌疑により、信長は家康に正室築山殿と長男信康を成敗するよう命じた。
 家康は妻子にかけられた疑いがまったくの濡れ衣であることを承知していた。承知していながら、あえて信長の意に従い、両者に死を与えた。信康は慫慂と切腹し、どうしても自害を受け入れなかった築山殿は、家康の放った刺客によって斬殺された。
 それから三年後、信長は嫡男信忠に大軍を与え、甲斐を攻撃させた。
 家康は信忠の援軍要請に応じて駿河口から武田領に攻め入り、大いに軍功を挙げた。
 ――理不尽な言いがかりで妻子を殺されておきながら、三河殿(家康)はそれでも信長公への忠義を貫徹しようとなされるのか。まこと、天下一の律義者とは彼の仁のことでござろうな。
 そんな声が、特に織田家の部将たちの間で湧き上がった。彼等の言葉の裏には驚嘆、侮蔑、感動、疑問、揶揄など種々雑多な感情が含まれていたが、家康はまるで意に介さず、その後も黙々と、ただひたすら信長の意を汲んで、馬車馬の如く働きつづけた。
 ある意味、過剰なまでな卑屈さをも感じさせる家康の生きざまはしかし、当の本人に言わせれば、苦渋の決断以外の何物でもなかったであろう。
 織田家の部将たちが端なくも口にしたとおり、家康は盟友であるはずの信長に対して徹頭徹尾「忠義」を貫徹しなければならぬ立場に置かれていた。両者の関係は決して対等ではなく、明らかに信長が「主」であり、家康が「従」であった。
 この力関係は、当時の両家の軍事力を比較すれば、やむを得ぬことといえたであろう。三河・遠江・駿河の三ヶ国を領有するだけの家康と、天下の権を半ば以上手中にしている信長とでは、あまりにも格が違い過ぎた。
 事実、家康は同盟締結から信長の死に至るまでの約二十年間、さながら忠犬の如く信長に尽くしつづけている。その間、妻子を死に追いやられただけでなく、度重なる過大な援兵要求など、さまざまな圧迫を受けたにもかかわらずである。
 どのような無理難題を押しつけられようとも、家康は最後まで信長に逆らわなかった。その律儀さ、従順さは、もはや人々の常識を超えていたといっていい。
 この長い忍従の日々は、家康の後半生において大いに生かされた。多くの犠牲と引き換えに得た、
 ――天下一の律義者
 という評価。そのおかげで、彼は信長の後を受けて天下人の座に着いた秀吉からも一目置かれ、関東に二百五十万石を超える大封を与えられたばかりか、五大老筆頭格の地位までも手にすることができたのである。そんな家康だからこそ、秀吉は利家とともにかわいい秀頼の行く末を託そうと考えたのだ。
 ――秀頼のこと、くれぐれも頼み申す。
 人目を憚らずぼろぼろと涙を流し、咽びながら懇願する老雄に向かって、家康は轟然と言い放った。
「お任せくださりませ。秀頼君は、この家康が身命を賭してお守り申し上げまするぞ」
 丸々と太った福相を綻ばせて、にっこりと笑いかける。それを見た秀吉は、かさついた肌に痩せこけた頬をだらしなく緩ませながら、満足げに頷き返した。
「頼みましたぞ、頼みましたぞ」
 同じ言葉をくどいほど繰り返して眠りについた秀吉は、それからひと月も経たぬうちにこの世を去った。

     二

 秀吉が死ぬと、家康は恰もその時を待っていたかのように態度を豹変させ、腹黒い策謀家としての一面を露骨に示し始めた。
 事実、彼は二十年もの長きにわたって、この時を待っていた。
 もともと織田家の同盟者だった家康の地位は、信長存命中、織田家の一部将に過ぎぬ秀吉よりもはるかに上位であった。天正十年(一五八二)六月、信長と嫡男信忠は宿将・明智光秀の謀叛によって討たれたが、その段階で彼の手にしていた天下の権を継承する第一候補者は、秀吉でもなければ柴田勝家でもなく、ましてや器量に乏しい次男信雄や三男信孝などでもなく、他ならぬ家康その人だったはずなのだ。
 ところが、家康は不運にもこのとき信長の招きを受け、わずかな供回りのみを連れて泉州堺に遊んでいた。逆臣光秀を追討することよりも、彼はまず風前の灯となったおのれの身を守るすべから考えなければならなかった。
結局、彼は飛躍の機会を逃した。身の危険を避けるため、いったん三河へ逃げ戻った家康のもとへ秀吉からの使者がやってきて、光秀討滅の事実を告げたのは、それから半月ほど後のことだった。家康は歯噛みして悔しがったが、どうすることもできなかった。
 二年後の天正十二年(一五八四)、家康は秀吉の専横を憎む信長の遺児信雄と盟約を結び、秀吉に戦いを挑んだ。世にいう小牧・長久手の合戦である。
 この戦いで家康は秀吉方の池田勝入斎(恒興)・森長可らを討ち取り、秀吉の心胆を大いに寒からしめた。ところが肝腎の信雄が秀吉に篭絡され、独断で和睦に応じるという信じがたい愚挙を犯したため、九分通り勝ちをおさめながら結局は手を引かざるを得なかった。
 この停戦の後、家康は秀吉に臣従を誓った。彼はひとまず天下取りの機会が去ったことを察し、しばし忍従のときを過ごす覚悟を決めたのである。
 以降十五年間にわたって、家康は秀吉の忠実な家臣でありつづけた。信長在世中と同じように「律義者」の仮面を被りつづけたのだ。
 そんな家康にとって、秀吉の死はようやく訪れた天下取りの機会――生涯で二度目の絶好機であった。
前に秀吉の傘下に入った時は家康も四十代の半ばと若く、次の機会の到来を信じて隠忍自重の道を選ぶことができた。ところが、その家康も既に五十七歳。人生五十年といわれた時代のことゆえ決して若くはない。むしろ老境に差し掛かっているといってよかった。
 今回を逃せばもう次はない――家康はそう確信していた。宿願達成のためにはいかなる卑劣な手段も厭うまいと、彼は肚を括った。
 まず手始めに、秀吉が遺言として残した、
 ――大名同士が私的に縁組を行うことを禁ずる。
 という命令を無視して、伊達政宗・福島正則・蜂須賀至鎮ら有力諸侯とたてつづけに縁組を行った。これら諸侯を味方に取り込むことはもちろん、それ以上に豊臣家の威を貶めることが目的であった。
 この背信に豊臣家中から非難の声が湧き起こった。中でも不快感を露わにしたのが石田三成を中心とする、いわゆる五奉行の面々であった。
 家康ら五大老(家康の他に前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)がみな大国の領主であり、秀吉の政務諮問役ともいうべき職掌を担っていたのに対して、三成ら五奉行(三成の他に浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家)は秀吉子飼いの官僚集団であった。いずれも身代が小さく、権威という点においては五大老よりはるかに見劣りしたが、秀吉ならびに豊臣政権への忠誠心にかけては、五大老の面々とは比較にならぬほど強いものを持っていた。
 とりわけ強硬に家康に反発したのが、五人のうち最年少の石田三成である。この年、三十九歳。五十七歳の家康より二十歳近くも若かった。それだけに純粋で、やや書生じみたところがあり、老獪な現実家である家康の悪辣きわまりないやりかたを看過することができなかった。
 ――家康は危険な男だ。今のうちに排除しておかなければ、秀頼君の御為にならぬ。
 そう唱える三成と平素から親しく交わりを結んでいたのが、上杉家の家老直江兼続である。兼続は優れた知略と豪胆な性格を亡き秀吉に認められ、陪臣の身でありながら出羽国米沢に三十万石という大名並みの領封を分け与えられていた。
 この兼続と三成が密かに連絡を取り合い、東西から家康を挟撃する計画を練っているとの報せが、家康の耳に届いた。
 ――それは、たまらぬ。
 さすがの家康も、これには身の縮む思いがしたが、すぐに衝撃から立ち直り、逆にこの風評を利用してやろうと思い立ったあたりは、やはり只者ではなかった。
 家康は手飼いの忍びに命じて上杉家の動静を探らせ、景勝・兼続主従がさかんに浪人者を雇い入れているという情報を掴むと、
 ――上杉家は秀頼君が幼弱であることに付け込んで、謀叛を企んでいるのではないか。
 との噂を広めさせた。その上で、彼は景勝に釈明のための西上を促す使者を送った。世情を惑わせている謀叛の風評につき、直接大坂へやってきて弁解せよというのである。
 景勝はしかし、きっぱりとこれを拒絶した。
 上杉景勝は、かの高名な上杉謙信の甥に当たる人物である。実子のない謙信に乞われて養子に入り、謙信死後、もうひとりの養子である三郎景虎(北条氏康の八男)を滅ぼして家督を継承した男だ。養父譲りの清廉な性格で、家康の狡猾な詐術にはかねてより苦々しい思いを抱いていた。力を失ったものが滅び、新たに力を得たものがそれに取って代わるという乱世の構図を理解していないわけではなかったが、
 ――もう少し美しくやれぬものか。
 と内心、強い義憤を感じていた。
 景勝は兼続に命じて、軍備の増強を急がせた。
 時に慶長五年(一六〇〇)三月。秀吉の死から一年半あまりが過ぎていた。
 既に前年の閏三月三日、前田利家が六十二歳でこの世を去り、家康の暴走と、それに伴う豊臣家中の混乱に歯止めをかけられる者は誰ひとりいなくなっていた。
 上杉家中においては、そうした時勢を冷静に見極め、いたずらに家康を刺激するのは得策でないと唱える声も、わずかながらあった。そうした中のひとり、藤田信吉という部将が突然会津を出奔し、家康のもとへ駆け込んで、
 ――景勝に謀叛の兆しあり。
 と密告したのは、この三月の半ばごろのことである。
 信吉の真意が何辺にあったのか今もって定かではないが、おそらく主戦論者らの圧迫に耐えかねての行動だったのであろう。このような場合、往々にして慎重派は臆病者と決めつけられ、結果として身の危険にさらされることも珍しくないのである。
 いずれにせよ彼は関東へ奔り、主家を売った。

 江戸からの急使により上杉家の軍備増強という事実を知らされた家康は、ほくそ笑んだ。
 彼は、ただちに上杉家へ問責の使者を送った。景勝の非法を八ヶ条にわたって列挙し、弁訴のため西上せよと命じたのである。
 家康はこの命令を、あくまでも秀頼の意志によるものとした。だが、当年八歳の秀頼にそのような判断が下せるはずはなく、これは明らかに家康の専断であった。
 景勝は重大な決断を迫られた。家康の一存と承知しながら、あえて命に従って上洛し、その風下に立つことで身の保全を図るか。あるいは、断固拒絶して一戦交えるか。
 逡巡の後、景勝は後者の道を選択した。養父謙信以来、つねに「義」を最優先としてきた上杉家の当主として、卑劣な簒奪者家康に与することは絶対にできなかった。
 彼は兼続に家康への返書作成を命じた。
 数日後、兼続が持参した返書の草案を一読するや、景勝は破顔した。彼は平素、滅多に感情を表に出さぬことで有名な人物だったが、この時ばかりは手を叩いて兼続を褒め、
「よくぞ書いた、兼続。この書状には儂の言いたいことがすべて凝縮されておる。そなたはまさしく儂の分身じゃ。さっそく内府(家康)に、これを送りつけてやろうぞ」
 興奮を隠さず言った。
 兼続は口辺に不敵な笑みを浮かべて「はっ」と頷く。
 この返書こそが後に「直江状」として有名になったものである。その文面はまことに痛快無比。実質上の天下人に対して、これほどまで激烈な文句を並べ立てた挑戦状は古今に類を見ない。その文意を要約すれば、
 ――我等に謀叛の意志ありなどとは言いがかりも甚だしい。まったくのでたらめである。もとより釈明に赴くつもりはないし、そちらの脅しに屈するつもりもさらさらない。戦を望むのであれば、いつでも相手になるから遠慮なくかかってこい。
 といったところである。
 書状は四月十四日付けで作成され、ただちに家康のもとへ届けられた。
 家康は激昂した。
「儂はこれまで、かように無礼な書状を一度として見たことがない」
 喚き散らしながら書状を引き裂き、苛立たしげに破り捨てる。しかし、そうしているうちにも、彼の頭脳は冷徹に回転していた。
 ――これで上杉を討つ口実ができた。
 そう考え、胸の内でニヤリと笑った徳川家康という男は、やはりどこまでも恐ろしい策謀家であった。
彼は諸大名に出陣の触れを出し、みずからは本拠地のある江戸へ東下した。出陣の名目は逆臣上杉家の討伐。むろん、これも秀頼名義で発せられた軍令である。
 諸侯はみなこのことを家康の独断と知りながら、各々軍勢を率いて江戸へ馳せ参じた。家康には秀頼を奉じているという大義名分があったし、仮にそれがなかったとしても、今や家康の権勢は豊臣家をはるかに凌駕しており、誰も逆らうことなどできなかった。
 かくして、家康のもとへ七万を超える大軍が集結した。

     三

 七月八日に榊原康政の率いる先鋒隊を、次いで三男秀忠を総大将とする三万七千余の軍勢を送り出した家康は、みずからも諸将の集まり具合を待って二十一日に出陣、三万一千余人を率いて一路会津へと向かった。付き従うのは福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興など、いずれも秀吉によって大名に取り立てられた武将たちである。
三日後、彼等は下野国小山に到着した。
 ――どれ、ここらでひと息入れるといたそうか。
 朝晩はだいぶ涼しくなったとはいえ、未だ日中は盛夏の名残があり、かなりの蒸し暑さを感じる。高齢に加えて、このところ肥満が著しい家康はさすがに疲労しており、全軍に休憩の指示を出そうとした。
 伏見からの急使が驚天動地の報せをもたらしたのは、まさにその時であった。
 上方で石田三成が打倒家康の兵を挙げたというのである。
「詳しく説明いたせ」
 急き立てる家康に、急使は息も絶え絶えといった調子で告げた。
「されば、我等の留守を狙って三成が挙兵したのは、去る六月十九日のことでございました。その前日、三成方に与した毛利輝元さまより伏見城の守将鳥居元忠さまのもとへ使者が訪れ、降伏開城を促しましたが、元忠さまはこれを断固拒絶し、使者を追い返されました。翌朝から始まった敵方の攻撃に対して、元忠さまはじめ城兵らは現在、必死の防戦を試みております」
 鳥居元忠は徳川家譜代の猛将である。今回、江戸へ東下するに際して、家康は彼を京に残し、要衝伏見城の留守を預けていた。
「三成方に与しておるのは、誰と誰じゃ」
「まずは毛利輝元さまと、御一門の吉川広家さま、小早川秀秋さま、御家中の安国寺恵瓊さま、さらに宇喜多秀家さま、小西行長さま、島津惟新入道さま、長宗我部盛親さま――」
 急使が名を挙げて行くにつれ、家康の顔色が蒼白に変わってきた。
 家康とて百戦錬磨の古強者である。自分が上方を留守にすることによって三成らがなんらかの動きを見せるかもしれぬと、ある程度までは予測していた。最悪、挙兵もありえる――そう思って、伏見城に信頼の置ける鳥居元忠を残してきたのだった。
 しかし、三成に味方する者がこれほどまで多いとは考えてもみなかった。
 三成は年齢も若く、過去にこれといった武功も挙げていない。おまけに性格が狷介で、諸将の人気がなかった。その三成が毛利や島津・長宗我部などといった大大名を味方に取り込むなどとは、まったくの計算外であった。
 伏見城に残してきた手勢は決して多くはない。いかに猛将元忠といえども、そう長くは持ち応えられないだろう。
 伏見城を攻略すれば三成方は勢いに乗る。大坂にいる秀頼を奉じて家康を「逆臣」と決めつけてくるかもしれない。そうなれば、今は家康に従っている豊臣恩顧の大名たちも、どちらへ転ぶかわからない。
 家康は激しく爪を噛みはじめた。焦った時、困った時の昔からの癖である。
 ――どうすればよい……。
 状況はにわかに切迫してきている。きわめて重要な決断を、彼は迫られていた。
 しばらく考え込んだ後、家康はようやく覚悟を決めた。彼は傍らに侍していた重臣本多忠勝に向かって言った。
「これより緊急の評定を催す。ただちに諸将を本陣へ集めよ」
「はっ」
 忠勝は弾かれたように駆け出した。
 本多忠勝といえば、世人から「徳川四天王」のひとりに数え上げられるほどの猛者である。その忠勝でさえ、にわかに押し寄せる緊張感が重く背中に圧し掛かり、無性に咽喉の渇きを覚えた。
 今まさに徳川家の命運を決する時がやってきた――長年、戦場に身を置くことで培ってきた動物的ともいうべき直観力で、このとき忠勝はそう確信していた。

 一刻(約二時間)ほど後、家康本陣に諸将が集結した。
 福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・堀尾吉晴・山内一豊――。
 いずれ劣らぬ智将・勇将揃いである。その彼等を前にして、家康は肥満した人物にありがちなくぐもった、やや聞き取りづらい声で、一世一代の大演説をぶった。
「上方で、石田三成が兵を挙げ申した」
 開口一番、家康は諸将にそのことを告げた。
「急使のもたらした報せによれば、敵は現在、伏見城を攻撃しておるとのこと。伏見城にはわが家臣鳥居元忠が詰めておるが、兵の数とて少なく、落城は時間の問題でござろう。しかも、三成らは開戦に先立ち、卑劣にも京・大坂にて諸侯の屋敷を襲い、妻子を人質に取っておるとの報せが先程、入って参った」
 衝撃的な事実を知らされた諸将の間に動揺が広がる。
 ざわついた空気の中、本多忠勝が大名らを睨めつけた。その射抜くような眼差しを恐れてか、みな口を閉ざし、ふたたび家康を注視する。
「各々の中にも京・大坂の屋敷に妻子を置いておる方がおられよう。儂はこれよりただちに西へ取って返し、逆臣三成に鉄槌を下してやる所存じゃが、妻子を人質に取られた方々にまで同道してくれとは申さぬ。それらの方は儂に遠慮することなく、すぐに陣を引き払って上方へ戻り、三成のもとへ馳せ参じて妻子の安全を確保なさるがよろしかろう」 
 一同、固唾を呑んで耳を傾けている。家康はさらに声を大きくして、まさしく声涙ともに下るような大熱弁を振るった。
「儂は昔、故右府さま(織田信長)の命を受けて、なんの罪もない妻と子を死なせたことがある。あれからもう二十年以上経つが、その悲しみは未だ癒えることがない。それだけに妻子の大切さ、家族のありがたみは誰よりもよくわかっておるつもりじゃ。もし妻子を助けるために儂のもとを離れるというのならば、儂はそれを恨みには思わぬ。妻子とは、それほどに尊いものなのじゃ。男にとって、妻子を守ることより重い使命などこの世にはない。少なくとも、儂はそう確信しておる」
「お待ちくだされ、内府殿」
 たまりかねたように、福島正則が叫んだ。
「妻子恋しさに、ここを離れてもよいなどと……。どうか、そのように情けないことを仰せあるな。我等はどこまでも内府殿について参りますぞ」
 激情家の正則の声は、震えていた。
「我等は誇り高き武士でござる。我等の留守を狙って兵を挙げ、あまつさえ妻子を人質に取るような卑劣漢に従うことなど、どうしてできましょうや。そもそも我等は故太閤殿下の、ひいてはそのお世継ぎである秀頼君の家臣でござる。五大老筆頭格の内府殿を差し置いて、三成ごとき青瓢箪の指図を受けるいわれはござらぬ」
「よう申した、正則」
 すかさず口を挟んだのは池田輝政である。正則同様、亡き秀吉に可愛がられた男だが、一方では家康の娘を妻に迎え、縁戚関係を結んでいる。
「即刻、上方へ取って返し、憎き三成めを我等の手で討ち滅ぼしましょうぞ」
「しかし、それでは、そこもとらの妻子の身が危うくなろう」
 なおも逡巡してみせる家康に、
「ご懸念は無用でござる」
 ひときわ甲高い声を発したのは、細川忠興である。
「我等同様、妻子もまた誇り高き武士の妻、武士の子でござる。いざとなれば、見苦しからざる振舞いをいたす覚悟はできておるはず。ご心配には及びませぬ」
 忠興は淀みなく言い切った。事実、彼の妻玉子(ガラシア)は大坂玉造の屋敷を三成勢に急襲されたとき、人質となることを拒んで壮烈な最期を遂げていたが、この時点では忠興は、まだその悲報を知らない。
 家康は無言のまま腕を組んだ。
 正則らの言い分に対して、かすかな不満が残ったのはたしかである。彼等がみな妻子の身を案ずるよりも武士としての誇りを貫き通すことを優先させ、そのために妻子が悲惨な運命に直面することを避けようとしないのは、家康に言わせれば、実際に妻子を失ったことがないからこそ生まれる、きわめて無知で傲慢な態度だった。だが、その無知さ、傲慢さゆえに味方の兵を減らすことなく三成に立ち向かうことができるのは、僥倖というべきであろう。今は青臭い理想論を捨て、そのことに喜びを見出すべきなのだと、彼はみずからに言い聞かせた。
「みなの気持ちは、ようわかった」
 重々しい口振りで、家康は言った。
「それでは、これよりただちに西へ向かい、奸賊三成を討滅いたそうぞ」
 高らかに宣言すると、諸将の間から「おおっ」というどよめきの声が上がり、狂的なまでの高揚感がたちまちその場を支配した。

     四

 諸将が各々の陣へ引き上げた後、みずからも陣払いの支度を急いでいた家康は、
 ――ああ。
不意に呟きとも溜息ともつかぬ声を洩らした。聞き咎めた本多忠勝が訊ねる。
「いかがなされました」
「儂としたことが、大切なことを忘れておったわい」
「はて、何事でございますか」
「うむ」
 家康は頷いたが、それ以上の答えを返そうとはせず、腕組みをして、しばし考え込んだ。
 忠勝は無言のまま、家康の考えがまとまるのを待った。
本多忠勝は、未だ十代の少年のころから実に四十年以上もの間、家康に仕えつづけている。今まさにこの瞬間、家康がどのようなことを考え、何をしようとしているのか。そして、そのとき自分はどのように振る舞えばよいか。忠勝には、そうした機微が手に取るようにわかっていた。この場合、彼はただ黙って家康が次の言葉を発するのを待っていればよかった。
「平八郎」
 ずいぶん長いこと考えてから、家康は忠勝に呼びかけた。
「ただちにここへ呼び戻して欲しい男が、ふたりおる。頼まれてくれるか」
「承知いたしました。して、そのふたりとは?」
「ひとりは、分部光嘉じゃ」
「分部光嘉……。たしか、伊勢上野一万石の領主でございましたな」
「そうじゃ、その光嘉じゃ」
「わかりました。して、もうひとりは」
「うむ。もうひとりは――」
 そう言って、ここで家康が告げたもうひとりの人物の名――それは、忠勝にとって実に意外なものであった。
「なぜでございますか」
 忠勝は思わずそう聞き返した。平素、主君の智謀を信じきっている彼にはおよそ珍しい行為といってよかった。
 家康は答えず、ただ鋭い一瞥だけをくれた。
 ――余計なことを聞くな。
 強い光を帯びた目は、そう語っていた。忠勝は身の竦むような思いで、
「申し訳ございませぬ」
 即座に詫びを入れた。
 彼はこの主君を心底から慕い、尊敬していたが、それと同じぐらい恐れてもいた。家康という男は日々の言動が緩やかで、どちらかといえば田舎の農夫然とした、一見締まりのない雰囲気を持っており、それでいながら、なんとも愛嬌のある憎めない顔立ちをしていたが、さすがに百戦錬磨の強者だけあって、どこかにそうした侵しがたい威厳をも兼ね備えていたのである。
「さっそく呼び戻して参ります」
 叫ぶなり、忠勝は脱兎のごとく駆け出して行った。この年、五十三歳になるとは思えぬほど敏捷な身のこなしである。
 肥満した家康は、羨ましげな眼差しでその後ろ姿を見送った。

 忠勝が去った後、ひとり本陣に残った家康は床机に腰を下ろし、また軽く爪を噛んだ。
 ――さて、ここからが正念場じゃ。
 彼は、みずからにそう言い聞かせていた。
 断腸の思いで天下取りの野望を捨て、秀吉に臣従してからはや十六年。忍従の時は、もう若くはない家康にとって、あまりにも長かった。
 三成が毛利・島津・長宗我部などといった有力諸侯を味方に取り込むとは予想外だった。しかし、逆にいえば、大いなる好機到来と捉えることもできる。この戦に勝利すれば、三成ら奉行衆だけでなく、島津・毛利・長宗我部・宇喜多・小西ら家康の天下簒奪を阻もうとする抵抗勢力を根こそぎ葬り去ることも夢ではなくなったのだ。
 そのためには、是が非でもこの戦に勝利を――それも、できるかぎり完璧な「大勝」をおさめなければならない。 家康はそう考え、いち早く勝利への布石を打ち始めた。その第一歩が、忠勝に命じてこの本陣へふたりの武将を呼び戻させることだった。
 家康は、ふたりの武将の到着を今や遅しと待ち侘びた。
 それは、時間にすればほんの半刻(約一時間)程度のことだったであろう。しかし、家康にはその時間が、ほとんど永遠にも等しい長さに感じられた。
 ――何をしておる。早う参らぬか。
 湧き上がる苛立ちを、どうにも抑えることができない。
 はじめは軽くくわえる程度だったものが、いつしか強く噛んでしまっていた、その爪先からは、血が滴り落ちている。家康はしかし、そのことにまったく気づいていないらしく、なおも激しく噛むことをやめようとしない。そのため、歯や唇にまで血が付着して、かなり凄壮な、鬼気迫る様相を呈している。
――ええい、まだか。
家康は、ひたすら爪を噛みつづける。そんな家康の焦りを嘲笑うかのように、やわらかな風はそよぎ、ふくよかな彼の頬をそっと撫でて行くのだった。
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