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第八章 花武者、見参

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   第八章  花武者、見参

     一

 城へ逃げ戻った信高は、つきしたがう伊藤仁左衛門らわずかな手勢とともに城門の前で踏み止まり、押し寄せる敵勢を追い払いながらも、深い絶望感に捉われていた。
 城方はいよいよ劣勢だった。彼は潰走してくる味方の兵たちを城内へ迎え入れては、
――みな、よく戦ってくれた。
――まだまだ望みはある。最後まで力のかぎり戦うのだ。
 そんなふうに言葉をかけつづけた。とはいえ、かける声の響きも、心なしか虚ろだった。声をかけられるほうの兵たちも放心したような顔で、半ばそれを聞き流している。
 彼等は無謀な戦を仕掛け、自分たちを危地へ追いやった不甲斐ない主君を内心ひどく恨み、責めている――信高には、そう感じられた。
 予想されたこととはいえ、あまりにも一方的な敗戦であった。
 ――やはり戦うべきではなかったか……。
 信高は、激しい後悔の念に押し潰されそうだった。
 勝ち目のない戦であることはわかっていた。それなのに闇雲に戦おうとした自分を愚かと詰ってみても、今さら後の祭りである。光嘉の言うとおり、自分たちには巧く負ける努力こそが必要だったのだ。それなのに、俺は……。 
「武門の意地、か」
 ひとりごちて、自嘲するような笑みを浮かべる。おのれを誤った方向へと導いた、あまりにもつまらぬ拘りに、なんとも形容しがたい憎悪にも似た気持ちを覚えた。
 こんなことを考えている間にも、戦局はどうしようもない泥沼に陥ってしまっている。中途半端な決着はもはや許されないだろう。
 ――こうなった以上は……。
 信高は悲壮な覚悟を決めた。
 ――華々しく戦って、潔く死ぬまでだ。
 もう破れかぶれだった。彼は愛馬に鞭をくれ、凄まじい勢いでふたたび城外の戦場へと駆け出して行った。

 半刻ほど後、信高は修羅場の只中でただ一騎、呆然と立ち尽くしていた。
 西軍の怒涛の如き攻勢にさらされて、味方はひたすら押しまくられ、怯えた顔の兵たちがなすすべもないままに討ち取られて行く。そのさまは合戦というよりも、ほとんど一方的な虐殺に近かった。
 正視するに耐えない無惨な光景に、信高は改めておのれの軽挙を恥じた。
「みな戦いをやめよ」
 泣き喚き、逃げ惑う自軍の兵たちに向かって、
「いいから、城へ戻るんだ」
 信高は懸命に呼びかけた。
「もう誰も死ぬことはない。死ぬことはないんだ」
 叫びは悲痛に震えていた。それに呼応するかのように、味方の逃げ足が一気に速くなる。
 ――そうだ、早く逃げろ。
 信高はただひたすら念じた。
 ――もうこれ以上、誰も死んでくれるな。死ぬのは俺ひとりでじゅうぶんだ。
 足がもつれ、逃げ遅れそうになる味方の兵。追いすがる敵の前へ信高は進み出て、
「西軍の兵たちよッ!」
 ひとりを斬り伏せざま、甲高く絶叫した。
「俺は富田信濃守信高、この城の主だ。手柄を立てたければ、この俺を討てッ!」
「殿―ッ!」
 背後から野太い声が降ってくる。
 振り返ったところへ、富田主殿が泣きそうな顔で駆けつけてきた。
「殿、抜け駆けとは卑怯でございますぞ」
 荒い呼吸を整えながら、詰るように言う。
「なぜ我等に声をかけてくださらぬのです」
「主殿、すまぬ。おまえが息子を人質に差し出してまで守ってくれた多くの家臣たちを、俺はむざむざ討死させてしまった。その上、あれだけ大見得を切って飛び出してきた結果が、このざまだ。つくづく俺はつまらぬ男だとわかった。せめて潔くここで死なせてくれ」
「私とて武将の端くれ。ここでひとり逃げては、質に取られている息子に笑われましょう。ともに戦いまする」
「主殿……」
「一緒に死なせてくださいませ」
 主殿の真摯な眼差しを真正面から受け止めて、
「そうか」
 信高は莞爾と笑い、頷いた。
「主殿、昨日はくだらぬ愚痴を聞かせてしまって、すまなかった。おまえと一緒ならば、無様な死に様をさらさずに済むだろう」
「殿……」
「これ」
 側にいた近習のひとりに、
「すまぬが、城へ戻ってお虎に伝えてほしい」
 信高は言った。
「今、この瞬間をもっと、俺はそなたを離縁いたす。我等が討死したとの報せを受けたら、ただちに城を開け渡して降伏せよ。宇喜多秀家さまを頼れば、決して粗略には扱われぬでろうゆえ、そのようにいたせ、とな」
「殿、それは――」
「反論は許さぬ。急げ」
「はっ」
 鋭く一喝されて、近習は駆け出した。その後ろ姿を見送りながら、
「これでよかったのだ。そうだな、主殿」
 信高はひどく寂しそうに――それでいながら、どこか安堵したような口振りで言った。
「はい」
 主殿は力強く頷く。
「殿のお気持ちは、必ずやお方さまにも伝わることでござりましょう」
「後顧の憂いもなくなった。この上は精一杯戦って、花のごとく散ろうぞ」
「はいッ!」
 主殿の声が響く。わだかまりは、もう跡形もなく消え去っていた。
 追いついてきた伊藤仁左衛門もまた、嬉しげな笑顔を見せる。
「いざ、まいりましょうぞ」
「おう」
 掛け声も高らかに、三人の若者は風となって疾駆した。

 戦場に鬼神が降臨した――そうとしか形容できぬほど凄絶な戦いぶりを、三人は見せた。
 主殿と仁左衛門の両名はともかくとして、信高に関していえば、決して武技に秀でているわけではなかった。それが、この日ばかりは人が変わったかのような腕の冴えを見せた。
 ――まるで何かに取り憑かれているようだ。
 と、誰もが思った。
 実際、彼等の前にいるのは、あのほうけ者の信高とは、まったくの別人だった。そこには紛れもなく乱世に生を受け、戦場でこそ輝きを放つひとりの武将の姿があった。
「殿に遅れを取ってなるものか」
「おうッ!」
 声の限りに叫びながら敵兵を薙ぎ倒す主殿と仁左衛門もまた、いにしえの関羽・張飛もかくやと思わせるような豪傑ぶりを見せつけている。
 三人の獅子奮迅の働きに、それまで押され放しだった富田勢が、にわかに勢いを盛り返し始めた。
 ひとり、ふたり……。恐怖に顔を引きつらせ、我先に戦場から離脱しようとしていたはずの兵たちが、次々に戦場へ駆け戻ってくる。
 その一団の中に、ひときわ痩せて老いさらばえた、ひとりの男が混ざっていた。男はふらふらと定まらぬ足取りながらも、不思議なほど巧妙に敵の刃を掻い潜り、右手に持った長刀で、的確に相手の息の根を止める一撃を喰らわせて行く。
 厄介者と疎まれ、皮肉屋と蔑まれるかつての名将神戸友盛の見違えるような姿が、そこにあった。あるいは、久方ぶりの戦場が彼の武将としての血を――本能を呼び覚ませたのかもしれなかった。
 よく見ると、彼は何人か斬るごとに苦しげに咳き込み、口から血を吐き出している。おそらく斬られたのではあるまいから、胸を病んでいるのであろう。それでも彼は倒れず、懸命に敵に立ち向かいつづける。すべては生きるため。半ば無意識の神通力のようなものに、彼は突き動かされているのだ。
 ――凄い。
 心を打たれたのは、信高も主殿も仁左衛門も、そしてまた、彼等の周りで友盛の戦ぶりを眺めていた兵たちも同じだった。  
「友盛さまを討たせるな」
 高揚した彼等は、気圧される西軍の兵たちに果敢に挑みかかって行く。数にしてわずか数十名ながら、その一団が放つ圧倒的な闘気は、敵を完全に圧倒していた。
 おのれの拙い武技も、疲れた躰も、彼等は忘れ去っていた。
ほとんど魂だけで、彼等は戦っていたのだ。
 その一団の中に、人並み外れて凄まじい働きを見せる、ひとりの若武者がいた。

     二

 ――凄い奴がいる。
 信高は、若武者の戦ぶりに見惚れた。
 絢爛な緋縅の鎧を身にまとったその若武者は、さながら流麗な舞を舞うような優美さを漂わせながら、押し寄せる敵兵をことごとく斬り伏せて行く。
 凄絶な強さ。それでいて、えもいわれぬ優雅さがある。
 ――花のようなる若武者ぶりよ。
 そんな形容が、ふと信高の脳裏に浮かんだ。
「主殿、あれは誰だ」
 主殿に問いかける。
「さて」
 と、主殿。傍らでは、仁左衛門も同じように首を傾げている。
「分部殿のご家来であろうか」
「かもしれませぬな。あるいは古田殿のご家中か。いずれにせよ、わが家中の者ではありますまい」
「そうだな、あれほどの剛の者、これまでずっと知らずにいたはずがない」
 三人が言い合っているところへ、
「いやあ、お見事、お見事」
 悠然たる声とともに、近づいてきた人物がいる。
「光嘉殿」
 主殿と同じように気まずい決裂をしたはずの分部光嘉が、いつもどおり屈託のない笑顔を浮かべて、そこに立っていた。
「貴殿らの戦ぶり、とくと見せていただいた。いやはや、実に見事。それがし、ほとほと感服いたしましたぞ」
「ありがとうございます」
 信高は照れくさそうにはにかんでみせた。
「昨夜は失礼なことを申し上げました。どうかお許しください。なにぶん私も取り乱しておりましたゆえ」
「いやいや、気になさることはない」
 光嘉は笑って手を振る。
「信高殿にとってははじめての大戦。気負い込まれるのも無理からぬことと存ずる。むしろ武将たるもの、それぐらいでのうてはな」
「恐れ入ります」
「それにしても、信高殿」
 光嘉は眼差しを前方へ向け、
「あの者の働きは凄まじいのひとことじゃな」
 心底から感じ入ったように言った。
「ええ、我々も驚いていたところです」
「まさか信高殿が、あれほどの勇者を抱えておったとはのう」
「えっ」
「儂も負けてはおられぬ」
 言うが早いか、光嘉は愛馬に鞭をくれ、驚く信高を尻目に駆け出して行った。
「儂はもうひと暴れしてから城へ戻る。信高殿、そなたはもうじゅうぶんに戦った。ひと足先に戻られよッ!」
 叫ぶ光嘉の背中は、敵軍の波に呑み込まれて、すぐに見えなくなった。

 信高の頭は混乱していた。
 目の前で奮闘している若武者は、いったい誰なのか。
 光嘉の言葉を頭の中で反芻し、
 ――分部殿のご家来ではなかったのか。
 と、意外な思いを抱く。
 ならばわが家中の者であろうか。しかし、
「あのような者、私は存じませぬぞ」
 主殿は明言する。
「ああ、俺も知らぬ」
「私も存じませぬ」
 信高も、仁左衛門も同じだ。
「では、城へ入った町人か」
「町人が、あのような立派な鎧を身に着けておるとは考えられませぬ。それに、あの漂う気品をご覧なされ。とうてい町人のなせる業にあらず」
「それも、そうだな」
「分部殿の勘違いではございませぬか」
「いや、それはあるまい」
 分部光嘉ともあろう男が、家中にあれだけの勇者を抱えておきながら、その存在を知らぬということはあるまい。まさかとぼけているわけではあるまいから……。
「やはり、わが家中の者なのであろう」
 結局、そう考えざるをえない。
 それにしても――と、改めて若武者の姿をじっと見つめる。
 どこか女性的とも思えるような優美な所作でありながらも、その強さはまさしく圧巻のひとことに尽きた。
「まことに花のようなる天晴れな若武者ぶり」
 奇しくも主殿が、信高と同じ感想を述べた。
 三人が考えることも忘れ、しばし呆然とその若武者に視線を送りつづけていると、
「そこな若僧」
 不意に地鳴りのような叫び声が聞こえた。
「なかなかの腕前ではないか」
 胴間声を上げながら、ひとりの騎馬武者が若武者のほうへゆっくりと近づいてくる。
 巨漢である。おそらく六尺はゆうに越えているであろう。
「富田の兵は弱すぎて――」
 その巨漢は、揶揄するような調子でつづけた。
「些か拍子抜けしておったところじゃ。ちょうどよい。おぬし、俺の相手になれ」
 言うなり巨漢は、手にした長槍を大きく振り上げた。
 凄まじい迫力。遠巻きに見ている信高らでさえ思わず竦み上がったほどだ。
 だが、若武者は臆する様子もない。ただじっと巨漢のほうを見据えている。
「俺の名は中川清右衛門。冥土の土産に聞かせておいてやる。そのほうの名は」
 若武者の悠然たる振舞いに、やや焦れた感のある巨漢――中川清右衛門の問いかけに、若武者は答えようとない。それどころか、無言のまま刀を構えることさえしないのである。
「まあ、よい」
 清右衛門はかすかに笑って、槍を突き出した。
「今さら名など聞いたとて詮なきこと。おぬしはここで屍と化すのだからな」
 若武者、依然無言。
「まいるぞッ!」
 雄叫ぶなり、清右衛門は猛然と若武者に襲い掛かった。その瞬間、
 ――やられる。
 信高も主殿も、仁左衛門もそう思い、反射的に目を閉じた。
 甲高い金属音が響き渡る。
 そして、鈍い呻き声。
 その声は、意外なほど低かった。艶麗といっていい若武者の姿には、どう考えても似つかわしくない。
 ――まさか……。
 恐る恐る目を開けた三人の前に、驚くべき光景があった。
 清右衛門が、いない。
 彼が乗っていた馬だけが、所在なさげに突っ立っている。
 清右衛門はどうしたのだ。
 信高は咄嗟にその巨体を捜して、次の瞬間、我が目を疑った。
 馬から落ちた清右衛門は、仰向けに倒れたまま動くことをやめていた。その様子を若武者が馬上から肩で息をしつつ眺めている。
 若武者が勝ったのだ。あの豪傑然とした中川清右衛門なる武将を一太刀で倒したのだ。
「おおっ!」
 思わず上がった驚嘆の声。それによって、若武者ははじめて自分を見ている三人の存在に気づいたらしかった。
 こちらへ向きを変える。
 その拍子に兜がゆっくりと肩を滑り、地に落ちた。どうやら清右衛門の繰り出した槍の穂先で、締め尾の部分を切られたようであった。
 長く艶やかな髪が、そよかな風に靡く。それは、どう見ても男のものではなかった。
 ――あっ。
 次の瞬間、三人はほとんど同時に、声にならぬ叫びを上げていた。
 そこにいたのは紛れもなく女だった。それも、三人のよく見知った女――。
 信高も、主殿も仁左衛門も、完全に言葉を失っている。
 そんな三人のほうへ、若武者がゆっくりと歩み寄ってくる。
 凄絶なまでに、それでいて可憐な花のごとく美麗な微笑みを浮かべながら、
「助けに来ましたよ」
 その若武者――お虎はいつものように冷めた口振りで言ったのだった。

     三

 信高とお虎は、近くにあった大木の根元に並んで腰を下ろした。
「見事なお働きでしたね。正直なところ、ちょっと意外でした」
 嬉しそうに笑いながら、お虎が言う。信高はそれには応えず、
「こんなところで何をしている」
 逆に問い返した。
「何って、戦ですよ。ご覧になっていたのでしょう」
「危ないではないかッ!」
 度を失った信高が、叫んだ。
「このようなところへ出てきて……、もしそなたの身に万が一のことがあったら、俺はどうすればよいのだッ!」
 声が震えている。真っ赤に充血した双眸は、はっきりとわかるほど潤んでいた。
「……申し訳ありませぬ」
 お虎は笑みを消し、しおらしく詫びを入れた。
「でも、居ても立ってもいられなかったのです」
「気持ちはありがたい。だが、ここは戦場だ。ままごとの如き生易しい場所ではない」
「わかっていますよ」
 不服げに口を尖らせて、
「けれど、自信はあったのです。生半可な相手には決して引けを取らぬと」
 お虎は訴える。
「現にこうして敵の侍大将を討ち果たしてみせたでしょう」
「……まあ、たしかにな」
 これには信高も同意せざるをえない。何しろ、つい今しがた、鮮やかすぎる戦いぶりを見せつけられたばかりなのだ。
「とはいえ、だな……」
「お嫌ですか」
「何がだ」
「女子に守られるのは」
「いや、別にそういうわけではないが……」
 信高はしばし口籠った後、
「やはり……、俺も一応、男だしなあ」
 少し寂しげに呟いた。
「叶うことなら、俺がそなたを守ってやりたかったとは思うよ」
「守ってくださったではありませぬか」
「俺が、そなたをか?」
「はい」
「いつ」
「離縁せずにいてくださいました」
「えっ」
「知らなかったとお思いですか。この戦が始まってから、私を離縁すべきだという声が上がっていたこと」
「いや、それは――」
「怒っているのではありません。実家の惣領が敵の大将をつとめているのですから、そう言われるのはあたりまえのことです」
「主殿とて、悪気があって言ったわけではないのだ。むしろ、そなたの身を案じて――」
「わかっています。誰のことも悪く思ってはいません。しかし――」
 お虎は面映ゆげに俯いて、
「結局、殿は私にそのことをお告げにはならなかった。却下してくださったのですよね、私を離縁することを」
「……ああ」
 信高は唇を噛み締めながら頷く。
「そなたを失いたくななかったからな」
「ほら」
 お虎はにっこりと笑って、
「殿は私を守ってくださいました」
「……そうか」
 信高は、どこかほっとしたように溜息を洩らして、妻の横顔を眺める。
 端正な面上にかすかに含羞の色を含ませながら、お虎はつづけた。
「ここへ嫁いできた頃、家中のみながどこか腫物のように感じながら接していることに、私は気づいていました。それも無理はなかったと思います。何しろ私は今を時めく宇喜多家の出。失礼ながら、五万石の新興大名である富田家とは、格が違いましたから」
「ずいぶんはっきり言ってくれるな」
 言いにくいことを、と信高は悪戯っぽく笑う。
「事実ですから」
 つられたように微笑して、お虎はつづける。
「そんな中で、ひとり殿だけがこだわりなく接してくださいました。まるで、私が宇喜多家の出であることを知らぬかのように。あるいは、忘れておられるかのように」
「……そうだったか?」
「嫁いでくる前から、殿の噂は聞き知っていました」
「どんな噂だ」
「ほうけ者、だと」
 信高、また苦笑。
「なるほど、こういうことなのかと思いました。そして、そのほうけぶりに私は救われたのです。この方ならば、私に余計なこだわりを持たずに接してくださる。私は肩肘を張らずにいられるに違いないと」
「……」
「たしかに物足らないと思うこともありました。何しろ殿のほうけぶりときたら、私の想像をはるかに超えていましたから」
「悪かったな」
「でも、主殿や仁左衛門がそんな殿のほうけぶりを、さも愉しそうにからかっている様子を見て、私はこの富田家の居心地のよさは殿がほうけておられるからこそなのだと確信するようになりました。些か頼りなく思うところはありますが、これほど幸せな場を与えていただいたのです。ですから、殿には感謝しかありませぬ」
「それはどうも」
 何やら背中のあたりがむず痒くなって、中途半端な返事をする。
「だから私は決意したのです。幸い私は武芸には自信があります。もしも万が一、殿の身に危険が及ぶようなことがあれば、その時は私が殿をお守りしようと。世間の夫婦とはん役回りが逆かもしれませぬが、それはそれでかまわないのではないかと」
 そう語るお虎の表情は晴れやかで、切れ長の目は爛然と眩いほどの輝きを放っている。
「そのことを家中のみなにも認めてもらいたくて、あんな形で武芸大会に飛び入りなどしたのです。もっとも、主殿には申し訳ないことをしましたが」
「……」
「此度の戦は、そんな私の決意を示す絶好の機会でした。だから、こうして出てこないわけにはいかなかったのです」
「……そうか」
 信高は、改めておのれの妻の美しさを思い知ったかのように溜息を吐き、
「ありがとう」
「えっ」
「戦場で妻に守られる武将というのもなかなかいないだろうが、そなたがそれでよいのなら、俺はいっこうにかまわないよ」
 透き通るような微笑を浮かべて言った。
「たとえそなたが将軍家のご息女であったとしても、今のそなたはこの俺――富田信濃守信高の妻だ。互いを守り合い、支え合う。どのような局面でどちらが前へ出るかなど、予め決めておく必要はない。そういうことで、いいだろう」
「よいと思います」
「では、離縁の話は今後もなしでよいな」
「もちろんです」
 互いの顔を見合わせながら、ふたりは微笑み合った。
 苛烈な戦場の只中で、この瞬間、ここだけは時間の流れが止まっているかのような、そんな静かな温かさの中に、ふたりはしばしたゆとうていた。

 帰路、城へ向かうふたりの背中から、
「待たれよ」
 呼ぶ声がした。
 振り返ると、色鮮やかな甲冑を身にまとった若武者がゆっくりと騎馬でこちららへ近づいてくる。思わず身構えた信高の傍らで、
「八郎殿!」
 お虎が嬉しげな声を上げた。
「久しぶりだな、お虎」
 八郎と呼ばれた若武者は、そのまま真っ直ぐ信高の前まで来ると、丁寧に一礼し、
「何度かお会いしたことはありましたが、こうして言葉を交わし合うのは初めてのことですな、富田信高殿」
「お目にかかれて光栄にござりまする、宇喜多秀家さま」
 信高の声が、かすかに震える。その胸には、さまざまな思いが去来していた。
 そんな信高の顔をじっと見据えながら、
「先程、家臣から噂を聞きましてな」
 秀家は端正な――よく見るとお虎にどことなく似ている顔を真っ直ぐ信高に向けて、
「敵軍の中に、ひどく強い女武者がいると。毛利家でも名のある武将が一騎打ちを挑んで、手もなくひねられたと聞くに及び、ああ、これはきっとお虎が出て来たのに違いないと思いましてな。にわかに懐かしさが募り、こうして会いにまいった次第」
「はあ」
「それがしとお虎とはいわば幼馴染なのですが、昔から手のつけられぬ悍馬のような女子でしてな。このようなことではたして嫁の貰い手があろうかと心配しておったところへ、信高殿との縁談が舞い込んできたのでござる。みなずいぶんと気を揉んで送り出したのですが、どうやら仲ようやっておられるご様子。安堵いたしました」
「八郎殿、余計なことをべらべら喋らないでください」
「おや、これは失礼。しかし、どうであろう。そなたが救いようのないじゃじゃ馬であることぐらい、既に信高殿は――」
「さよう、言われずとも承知しておりまするよ」
 殊更に強い口振りで、信高は切り返した。
「お虎は私の妻ですから」
「なるほど」
 秀家は頷き、
「幼馴染のそれがしですら知っているのですから、夫である信高殿ならば、なおのことよくご存知でござろうな」
「はい」
「さぞ苦労なさっておられよう」
「それはもう、なかなかに」
「同情いたす」
「ちょっと、ふたりとも。変なところで勝手に意気投合するのはやめてもらえませぬか」
 頬を膨らませるお虎に、ふたりの男が顔を見合わせながら笑った。ひとしきり笑った後、
「信高殿」
 秀家が不意に口調を改めた。
「折り入ってお願いしたいことがござる」
「なんでしょう」
「貴殿は先程、このお虎に守られた。今度は貴殿がお虎を守ってやってほしい」
「と、申されますと――」
「降伏開城していただきたい」
 単刀直入に言った。
「その気がおありなら、それがしがよきお方を紹介させていただく。決して粗略にはいたさぬゆえ、信じて委ねていただけまいか」
「降伏と申されましたか」
「いかにも。貴殿にもおわかりのこととは思うが、この戦、そちらに勝ち目はござらぬ」
「なんですって」
 噛み付いたのは信高ではなく、お虎のほうである。
「八郎殿、いくら八郎殿とて、それはあまりな――」
「宇喜多さま」
 信高の鋭い声が、お虎の言葉を遮る。
「そのお話、信じてよろしゅうございますか」
「よろしいとも」
 秀家は声に力を込める。
「この宇喜多秀家、まがりなりにも亡き太閤殿下の猶子として、秀頼公をお支えする立場にある者。断じて嘘偽りは申さぬ」
「……わかりました」
 信高は大きく頷いた。
「実はそれがしも同じことを考えておりました。それがしが妻や家臣たちを守り抜く方法はただひとつ。これ以上の犠牲者を出す前に、この戦を終わらせることです。そのためには、宇喜多さまのようにお力を持った方の助けが必要です」
 その態度は毅然として潔く、平素のほうけ者の面影は微塵も感じられなかった。
「宇喜多さま、お願いいたします。それがしにこの城を――ここまで付いてきてくれたみなを、助けさせてください。この妻を、守らせてください」
「よくぞ申された、信高殿」
 秀家は感極まったように叫び、
「では、さっそく手配いたそう。明日にもしかるべき使者を城へ向かわせるゆえ、よしなに頼みましたぞ」
「承知いたしました」
 信高も笑顔で応じる。
「今宵はもう攻撃はいたさぬゆえ、ゆるりと疲れをお取りなされ」
 爽やかに言い残して去って行く秀家。その背中を見送りながら、
「俺もああいう男だったら、よかったのだろうなあ」
 ぽつりと信高は言った。
「厭ですよ、あんな守りがいのない男は」
 お虎はにべもなく切り返す。
「なるほど、私には守りがいがあるのか」
 信高は苦笑したが、お虎は大真面目な顔で、
「ありますとも」
 と、即答した。
「殿ほど守りがいのある男子は、そうはいないでしょうね」
「そうか」
 複雑な面持ちで頷きながら、彼は朝鮮で亡くなった五郎衛門のことを思い出していた。
 ――そういえば、あいつもそのようなことを言っていたな。
 そう思うと、疲れた体の奥底から不思議な力が湧き出てくるようだった。
「しかし、ひとつだけ――」
 何かを言いかけて、しばし考えた後、
「いや、やはりやめておこう」
 信高は言葉のつづきを呑み込んだ。
「なんです」
「いいのだ、なんでもない」
「気になるではありませんか」
「いやいや、本当に気にするようなことではないのだよ」
 ひらひらと手を振ってみせる信高。
 お虎は怪訝そうな顔をしている。
 その視線を少し面映ゆく受け止めながら、信高は胸の内で密かに思うのだった。
 ――どうにも心外なのだよなあ。言うに事欠いて、俺だけがお虎の出自や家柄にこだわりを見せず、自然に接してくれていたとは……。俺がどれだけそなたという妻に気を使い、引け目を感じていたと思っているのだ。あの緊張すら傍目に見えぬほど、俺はほうけているのか……。
 そう考えると、腹も立たなかった。むしろ、無性に可笑しみを覚えて、頬が緩んだ。
「どうしたのです。ニヤニヤと気持ちの悪い」
 呆れたような顔をしているお虎に向かって、
「帰ろうか、俺たちの城へ」
 清々しい表情で、信高が呼び掛ける。
「ええ、帰りましょう、私たちの城へ」
 晴れやかな笑顔のお虎が、やわらかく頷いた。

     四

 高野山の応其上人といえば、別名を木食上人、興山上人などともいい、当代きっての名僧として名高い。その応其上人が和睦の使者として安濃津城へ姿を現したのは翌日――すなわち八月二十五日の夕刻のことであった。
 応其上人はこの年、六十四歳。当時としてはそうとうな老齢だが、肌の色艶はよく、その外貌は実年齢よりもはるかに若々しく見えた。もとは武士であったが、彼の仕えた近江六角氏、大和越智氏は相次いで敵対勢力に攻め滅ぼされた。そのことで世の儚さを痛感した応其は三十七歳で高野山に入り、出家したと伝えられている。
 天正十三年(一五八五)、羽柴秀吉は亡き主君織田信長の比叡山焼き討ちの顰に倣い、高野山に攻撃を仕掛けようとした。このとき高野山側の代表者として秀吉に面会し、堂々たる論陣を張って攻撃を思い止まらせたのが、当時四十九歳の応其上人であった。秀吉は応其の智略と勇気を大いに愛し、後になって彼に一万石の領封と食邑千石を下賜している。
 信高らの部屋へ通された応其上人は、その人柄が滲み出るような柔和な口振りで、
「見事なお働きでござった」
 と、その奮戦ぶりを褒め称えた。
 武家出身の応其上人は戦というものの難しさを知悉し、戦局を見極める眼力を備えていた。この戦が富田軍にとって圧倒的に不利なものであり、たった二日間とはいえ持ち応えたこと自体がほとんど奇跡に近いことを、彼はよく理解していた。その見事な戦を演出した当事者である信高らへの敬意を、応其上人はやわらかな口調と表情とで表していた。
「痛み入ります」
 そうした応其の思いは、信高の心にもしっかりと伝わった。
「上人ほどのお方にそう言っていただければ、我等も戦った甲斐があるというものでございます」
彼は丁重に頭を下げ、その言葉に報いた。応其は莞爾と微笑み、
「さて、さっそく本題でござるが」
 と、切り出した。
「これだけの戦ぶりを見せたのじゃから、貴殿の面目はじゅうぶんに保たれたと見てよいであろう。この上、無駄に兵を死なせる必要はござるまいと存ずるが、いかがかな」
 信高は神妙な面持ちで頷く。
「宇喜多殿は、降伏して城を開け渡せば決して悪いようにはせぬと申されておる。律儀な宇喜多殿のことじゃ。その言葉に偽りはないはず。間違っても切腹などという沙汰は下るまい。悪くて流罪、軽く済めば閉門蟄居というとこではなかろうかの」
「さようでございますか」
「よもやとは思うが、信高殿……。城を明け渡した後、ひとり責めを負って腹を切ろうなどと考えてはおるまいの」
 気遣わしげな応其の言葉に、信高は笑顔を見せる。
「なるほど、並の武将であれば、そういうことを考えるものなのかもしれませぬ」
「……」
「しかしながら、それがし、家中の者たちからほうけ者と仇名される男でござりますれば」
「ほう、ほうけ者とな」
「はい。ほうけ者はみずから腹を切って責めを負うなどという大それたことは決して考えませぬ」
「なるほど、そうかもしれぬな」
 応其は膝を叩いて呵々大笑した。
「それでよいのじゃ、信高殿。そうか、そうか。貴殿はほうけ者であったか」
「お恥ずかしゅうございます」
「なんの、恥じることはない。かような乱世をほうけて生きられたならば、貴殿はもしかすると生きることの達人になれるやもしれぬぞ」
「生きることの達人、ですか」
 面映ゆげに笑いながら、信高はその言葉を呟くように反芻した。
「ときに、信高殿。奥方は息災かな」
「妻でございますか」
 信高は虚を突かれたような恰好になる。
「息災でございますが」
「いや、何」
 応其はからからと笑って、
「ちと噂を耳にしたものでな」
「噂、でございますか」
「さよう。安濃津城下に颯爽と現れた花のようなる若武者が、毛利家きっての猛将を一刀のもとに斬って捨て、夫の窮地を救ったのだとか。まこと源平合戦の巴御前もかくやと思わせる烈女。しかも、その烈女はこれまた巴御前も顔負けの見目麗しさというではござらぬか。いやはや、ぜひともご尊顔を拝したいものでござるが、いかがじゃな」
「お褒めの言葉、痛み入ります。しかし、あいにくながら――」
 信高は、さも申し訳なさそうに頭を掻きながら、
「妻は疲れたと言うて、ずっと眠りこけております。実は、私も今朝から一度も顔を見ておらぬのです」
「なんと」
 それを聞いた応碁はいよいよ愉快そうに笑って、
「いよいよもって天晴れなる女傑ぶりかな。かまわぬ、かまわぬ。思う存分、寝かせておやりなされ」
「申し訳ありませぬ」
「いやいや、それぐらいでこその烈女。まさしく今巴御前と呼ぶに相応しい女性でござる。おおかた愛する夫どのを必死の思いでお助けして、どっと疲れが出たのじゃろう。ゆるりと寝かせてやってくだされよ」
「まこと、私には過ぎた妻でございます」
「なんの、なんの。ほうけ者の夫に花のようなる女傑の妻。これほどお似合いの組み合わせは、またとはござるまいて。大事になされるがよろしいぞ」
 応碁の言葉に、
「はい」
 信高は破顔して頷いた。

 翌日、両軍の和議が成立した。
 信高は恭順の意を示すため、城を開け渡して高野山で蟄居することとなった。むろん、これは高野山の住持たる応碁の計らいである。
 同日、人質となっていた主殿の息子平七が城へ戻された。主殿はその小さな体をきつく抱き締めて、人目を憚ることなく号泣した。
 数日後、信高はお虎と連れ立って高野山へ向かった。
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