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9話:花開く日に会いましょう
しおりを挟む開店から三十分くらい経った頃だろうか。
四十代前後の女性が来店したのは。
「いらっしゃいませ」
からんからん、とドアベルが鳴り、私と千秋さんは女性を迎えた。
長い髪をひとまとめにし、タイトスカートにブラウス姿の小奇麗な人だ。
「申し訳ありません!!」
入るなり、その女性は私たちに深く頭を下げて大声で謝った。
突然のことに二人して硬直し、頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。
ストーブの前で連れ添って寝ていたあけび様と虎鉄すら目が点だ。
「えっと、どうされましたか?」
明らかに慌て気味の千秋さんが女性に尋ねる。
「うちの子が、こちらのお店で立派な花束を作っていただいたようで……ほら、来なさい!」
女性は店の外を振り返り、誰かを呼ぶ。
すると現れたのは、ばつが悪そうに花束を持った拓斗だった。
「こんなに立派な花束をタダで息子にくださるなんて、本当にご迷惑をおかけし申し訳ありません……拓斗も、ちゃんと謝りなさい」
拓斗は無言のままぶうたれる。
あの花束はお姉ちゃんへのプレゼントなのに、なぜ彼女の手に渡っていないのだろう。
どうしてお母さんはここまで怒るんだろう。
「拓斗君のお母さまでいらしたんですね。初めまして。拓斗君、かれこれ三か月近く、ずっとうちの犬の散歩をしてくれていたんです。花束はれっきとしたアルバイトの対価ですよ」
「ですが、買ったら相当のお値段がするものですよね? 母親である私が代金を――」
「僕の気持ちです。結構ですよ」
「いいえ、お支払いさせてください!」
お母さんは一歩も譲らずハンドバッグから財布を取り出す。
私はただただ状況に困惑していた。
「和音さんはうちの常連でした。ですから花束は僕と拓斗君連名のプレゼントですよ。お受け取りいただけませんか?」
お母さんはぎゅっと口を結んだあと、掠れそうな声で話し出す。
「今日の朝、私がお墓に行ったらこの花束が置かれていたんです。きっと、学校のお友達が供えてくれたんだと思いました。でも、添えられていたバースデーカードには拓斗の字で『誕生日おめでとう!』と書かれていて……私、頭が真っ白になってしまって」
「お墓……?」
思わず声に出してしまった。
今、お母さんは確かにお墓に、と。
「何で生まれた日を祝っちゃいけないんだよ。死んだ日を祝うよりも、絶対姉ちゃんは喜ぶし、まともだろ!」
ぶすっとしたまま、拓斗が反論すると、お母さんは「黙ってなさい」と一蹴する。
「あの、千秋さん、和音さんって……」
私の問いに、千秋さんはひどく悲しそうな顔で振り返った。
「開店当初からずっと通ってくれた常連さんだよ。でもね、半年前に脳溢血で倒れて亡くなったんだ。東京でコンクールがあったすぐ後に、ね。まだ十五歳だった」
「そんな……」
やっぱ菊よりバラだよな!
拓斗が言った言葉の真の意味がようやく理解できた。
「母ちゃんは頭がおかしいんだよ! 姉ちゃんが死んだあと、姉ちゃんの大事にしてたサボテンぜーんぶ捨てたんだぜ? ロホホラだけは俺が救出したんだけどな、育て方がわからなくて茶色くなって。それでここの方が安全だから入院させたんだ。絶対に枯らしたくなかったし」
「黙ってなさい!」
「信じられねぇだろ!? 母ちゃんはバカだ! 姉ちゃんの宝物を捨てるなんて狂ってる!」
「うるさい!」
お母さんの目に焦燥の色が滲む。
「……辛かった、んですよね。遺品を目にするたび、思い出してしまうから。拓斗。お母さんはね、やりきれないんだよ」
「……そのサボテンも処分してくださってかまいません。お花代も支払いますので、もう二度と息子と関わらないでいただけませんか」
お母さんは俯いて「二度とこんな……」と声を震わせる。
「僕、和音さんと約束したんです」
対して千秋さんは朗らかに笑っていた。
「休日にはよくお菓子をくれて、うちの犬を可愛がってくれました。僕が負けてしまいそうなくらいサボテンにも詳しくて。共通の話題でお話しできて心から嬉しくて、楽しかったです。今でも和音さんには感謝しています」
千秋さんは横目でロホホラを窺いながら続ける。
「和音さんが亡くなった時、僕は何もしてあげられませんでした。ロホホラが担ぎ込まれてようやく、彼女がもうこの世にいないのだと知りました。あちら側に逝ってしまった彼女は、もう二度とピアノを弾くことが叶わない。コンクールで花束を渡されることもない。きっと、本人自身が一番悔しくて悲しいと思います」
「花束……バラの花束なんて、見たくありません……。あの子の好きなものを目に入れるのが辛いんです……忘れたいんです……」
「オレは忘れるのも悲しむのももうイヤだ。だって、誰かが覚えていないと姉ちゃんが生きていたことそのものが消えちゃうじゃんか。ピアノが上手だったのも、コンクールで一番だったのも全部なしにしたくねぇもん。じゃなきゃ、オレがピアノやってる意味もなしになるじゃんか」
花束を優しく抱いて、拓斗は目を伏せた。
お姉ちゃんが大好きな拓斗も、お母さんと同じくらい辛いはずだ。
「オレは将来ぜってーにピアニストになるんだ。そっくりそのまま姉ちゃんのくせを真似して、同じ表現で演奏するんだ。そしたら、姉ちゃんはオレと一緒に生きてることになるだろ? それに、誕生日をお祝いすんのは当たり前だ。母ちゃんだって去年まで毎年欠かさず花束とケーキプレゼントしてたし。母ちゃんがやらないんならオレがやる。それだけだ。オレ独りだけでもやり続けてやる」
俯いたままのお母さんを、精悍な眼差しが見つめる。
「供養って、お坊さんも言ってたけど、そうしないと、姉ちゃんは天国で泣いてそうだからな。忘れられるのは寂しいかんな」
「拓斗……」
お母さんは肩を震わせながら、大粒の涙をこぼしていた。
「もし、どうしても花束の代金を払いたいと仰るのなら、拓斗君が一人前になって、演奏で対価をもらえるようになってからにしませんか? 出世払いってやつです。きっと和音さんも、弟が自分を超えていくのを願っているはずですよ」
千秋さんから静かに「すみれちゃん、ロホホラは退院だ」と促され、私はロホホラの植わった鉢をお母さんへ手渡した。
「その子の育て方は、拓斗君に伝えてあります。調子を崩したらここに持ってきてください。僕が元気にしてお返しします。だから、絶対に枯らさないでください。サボテンは長生きです。拓斗君が立派になった頃には花もたくさん咲かせてくれるでしょう。この子の花はとても綺麗なんですよ? どうか、和音さんの大好きという気持ちを枯らさないであげてください」
「……でも」
「お願いします」
ぼろぼろぼろぼろと、悲しみの雫は流れ続ける。
「か、ずね……かずね……私は……!」
鉢を受けったお母さんはその場に蹲り、しゃくりあげながら何度も娘の名前を呼んだ。
何度も何度も「和音……和音……ごめんね……」と謝って、泣き続けた。
心の中で枯れかけいた何かに水を注ぐように、優しく激しく密やかに。
「ありがとうございます……」
私が背を摩り、心配した虎鉄までがお母さんのそばに寄り添う。
千秋さんは穏やかに微笑んで、拓斗はずっと恥ずかしそうにもじもじしていた。
*****
深く頭を下げ、お母さんと拓斗は帰って行った。
拓斗は花束を持ち、お母さんはロホホラを大切そうに両手で包んで。
私と千秋さんはその背中をそっと、見送る。
「のう、ぬか漬け娘」
二十メートルほど姿が遠ざかったところで、背後からあけび様に話しかけられた。
「どうしましたか?」
あけび様は人の形を取り、耳元で囁く。
「儂から一つ、愉快な話をしてやろう」
白い手のひらが私を目隠しし、ふふん、と笑う鼻息だけが聞こえた。
「あのよもぎ饅頭には儂がまじないをかけてやったのじゃ。花が咲く頃には、奇跡が起こるやもしれんぞ?」
そっと、手のひらが離れ、私の視界に映ったのは――
「……えっ?」
まるで夢のような光景だった。
長い髪を揺らし、ブレザーを身に纏った女の子が、お母さんと拓斗の肩を抱いていたのだ。
「弟とは似ても似つかぬべっぴんじゃろうて。ま、儂には劣るがな」
十代半ばの女の子は振り返って私たちに笑顔で手を振る。
そして、霞のように消えていった。
スピリチュアルなものへの信仰心はない。
だけど、こんなに素敵な不可思議なら。
誰も不幸にならない結末が待っているのなら。
それなら喜んで盲信しようと、強く強く祈った。
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