7 / 20
台所の肉塊
しおりを挟む
昨晩台所で見つけたのは大きな肉塊だった。
その晩私は夜の中に閉じ込められているような心地がしていた。
夜、という透明なゼリー状の膜の中で息が出来ないことにハッと気がついた私の体はひどく重たかった。緩慢な動作で布団の外へ足を投げ出すと、その膜は案外脆い事が分かった。安心した私は、膜を一網打尽にしてしまおうと手を振り回しながら立ち上がった。細かくなったゼラチン質の塊がそこら中を漂っているような気がして居心地が悪い。私は軽く頭を振って部屋から出た。
部屋を出ると階段まで真っ直ぐに続く廊下があるが、その廊下は砂糖をまき散らしたかのように胡散臭い明るさに満ちている。階下まで続く巨大な窓が月明かりを取り込んでいるのだ。息を吸うと心臓が砂糖衣を纏ってしまうんじゃないか。そんな妄
想に駆られて、私は息を止めて階段へ走る。
階下へ降りて、居間へ足早に向かう。居間には台所が隣接している。
ホットミルクに蜂蜜でも入れて飲もうか。
そんな事を思った。
幼い頃、眠れない夜には母がよくホットミルクを入れてくれた。
夜の光というものを知らない幼い子供にとって、夜というのは一つの暴力であった。明るい世界は奪い去られ、陰鬱な漆黒が問答無用で迫ってくるのだ。だから、目を閉じて全てが終わるのを待っている。けれど睡魔が襲ってこないのなら、子供は夜に対抗する唯一の武器を失う。
私は寝つきの悪い子供だった。夜に布団の中で一人で目を瞑りジッとしているのは苦痛であった。どうしても睡眠の世界へ飛び込めない時、私は夜の世界へ身を投じ、震えながら母のいる階下へ降りていく。さながら、海の底へ救いを求める氷河の下の子クジラである。息が出来ないのなら、母親と寄り添う事を望むだろう。
青白い顔をする私を見た母は、いつも柔和な笑みを浮かべて私の頭を撫でた。
「眠れないのね?」
私が小さく頷くと、母は私の手を取って台所の前に立った。
冷蔵庫から牛乳を取り出してマグカップに注ぐと、今度は大切そうに蜂蜜の瓶を取り出す。決まって母は、もったいぶりながら蜂蜜をスプーンで掬う。乳白色の液体の中に、黄金色の液体がゆっくりと落ちていく。
この世で最も美しい動物がいるとすれば、その羊水の色はこんな感じだろうか。
牛乳と蜂蜜が混じり合う直前の色。わずかに透けているその向こう側から聞こえる小さな鼓動。甘い羊水に包まれた小さな赤ん坊が息をしている。液体がすっかり混ざり合ってしまうと、途端にその幻影は消え失せ、母はマグカップを電子レンジに入れた。きっかり2分。電子レンジは唸り声を上げながら暖色の光を漏らし始める。
子供を産む母親の唸り声だろうか。
電子レンジは苦しんでいるように見えた。汗をかいているように見えた。苦しんで苦しんで、さっき見た赤ん坊を産もうとしている。
チン、と、苦痛に見合わないほど間抜けな音を立てて光が突然消える。寂しい瞬間のように思う。母は電子レンジの蓋を開けて、暖まったマグカップを取り出す。
「はい、どうぞ」
私はマグカップを受け取り、中身を覗き込んだ。
溶けてしまった、死んでしまった赤ん坊。
私のホットミルクへのイメージはいつだってどす黒い赤だった。乳白色の底に真紅の臓器が溶け出している。赤ん坊の皮膚がカップの内側にべっとりと張り付いている。血液の味がするだろうか、乳臭い子供の味がするだろうか。そう思って、私は恐る恐るホットミルクを口に含む。けれどその味は優しい甘さで、私は安心して眠ることができる。
そうだ、ホットミルクを飲もう。夜に台所に立つというのは案外骨の折れる作業だと思う。私は二度目の決意でようやく台所に入った。
入ってすぐ、私は立ち止まった。
大きな肉塊が落ちている。
それは妙な液体に絡めとられていて、異臭を放っていた。
その奇妙さに怯えながら、私は肉塊に近づいた。
台所の窓が、あの胡散臭い光を取り込んでいる。
肉塊に手を伸ばす。指先の震えが全身に伝わった時、肉塊に手が触れた。
粘土をパラフィン紙で包んだような、気色の悪い触り心地だった。指先には蜂蜜色の液体がべっとりと張り付いた。
私はガクガクと震えながら冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出した。今すぐにでもホットミルクを飲まなければという気がした。
牛乳の賞味期限はとっくにきれてしまっているが、構わずマグカップを取り出した。マグカップの底には汚らしく茶渋がこびりついている。蜂蜜の瓶を探すと、大量に積まれたレシピ本の横で埃を被っていた。スプーンを突っ込むと、ところどころ固形になってしまっていて、瓶には黴が生えている。
全て混ぜ合わせると、濁った色の液体が出来上がった。濁った液体同士が混ざり合う時に、胎児の姿は見えなかった。どうしようもなく胸が痛くなった。私は胸に手を当てながら、電子レンジにマグカップを入れた。
きっかり2分。電子レンジは弱々強い光を漏らしながら、苦痛の叫び声をあげた。
マグカップを取り出して、中身を覗き込む。薄汚い色をしていて、気色の悪いダマが私を睨みつけている。
恐怖のあまり、マグカップを放り投げた。ホットミルクは肉塊にかかった。
私は震えながら、肉塊を口に含んだ。それは幼い頃に感じた、溶けた胎児の味がした。血液と乳臭さが混ざり合い混沌としている。
私は泣き叫びながら肉塊を食べ続けた。食べ続けているうちに、私の体は汗と肉塊の汚れでどろどろになっていく。羊水に包まれた大きな赤ん坊のようだった。この世で生きていかねばと大きな産声を上げるのに、胡散臭い光の砂糖が私の肺を砂糖まみれにしてしまう。
全てが煩わしい。煩わしい。
生まれたばかりの無力な私は、天井にぶら下がるちぎれた荒縄を見つめることしかできない。それは子供用のモービルのようにひとりでに揺れていた。
その晩私は夜の中に閉じ込められているような心地がしていた。
夜、という透明なゼリー状の膜の中で息が出来ないことにハッと気がついた私の体はひどく重たかった。緩慢な動作で布団の外へ足を投げ出すと、その膜は案外脆い事が分かった。安心した私は、膜を一網打尽にしてしまおうと手を振り回しながら立ち上がった。細かくなったゼラチン質の塊がそこら中を漂っているような気がして居心地が悪い。私は軽く頭を振って部屋から出た。
部屋を出ると階段まで真っ直ぐに続く廊下があるが、その廊下は砂糖をまき散らしたかのように胡散臭い明るさに満ちている。階下まで続く巨大な窓が月明かりを取り込んでいるのだ。息を吸うと心臓が砂糖衣を纏ってしまうんじゃないか。そんな妄
想に駆られて、私は息を止めて階段へ走る。
階下へ降りて、居間へ足早に向かう。居間には台所が隣接している。
ホットミルクに蜂蜜でも入れて飲もうか。
そんな事を思った。
幼い頃、眠れない夜には母がよくホットミルクを入れてくれた。
夜の光というものを知らない幼い子供にとって、夜というのは一つの暴力であった。明るい世界は奪い去られ、陰鬱な漆黒が問答無用で迫ってくるのだ。だから、目を閉じて全てが終わるのを待っている。けれど睡魔が襲ってこないのなら、子供は夜に対抗する唯一の武器を失う。
私は寝つきの悪い子供だった。夜に布団の中で一人で目を瞑りジッとしているのは苦痛であった。どうしても睡眠の世界へ飛び込めない時、私は夜の世界へ身を投じ、震えながら母のいる階下へ降りていく。さながら、海の底へ救いを求める氷河の下の子クジラである。息が出来ないのなら、母親と寄り添う事を望むだろう。
青白い顔をする私を見た母は、いつも柔和な笑みを浮かべて私の頭を撫でた。
「眠れないのね?」
私が小さく頷くと、母は私の手を取って台所の前に立った。
冷蔵庫から牛乳を取り出してマグカップに注ぐと、今度は大切そうに蜂蜜の瓶を取り出す。決まって母は、もったいぶりながら蜂蜜をスプーンで掬う。乳白色の液体の中に、黄金色の液体がゆっくりと落ちていく。
この世で最も美しい動物がいるとすれば、その羊水の色はこんな感じだろうか。
牛乳と蜂蜜が混じり合う直前の色。わずかに透けているその向こう側から聞こえる小さな鼓動。甘い羊水に包まれた小さな赤ん坊が息をしている。液体がすっかり混ざり合ってしまうと、途端にその幻影は消え失せ、母はマグカップを電子レンジに入れた。きっかり2分。電子レンジは唸り声を上げながら暖色の光を漏らし始める。
子供を産む母親の唸り声だろうか。
電子レンジは苦しんでいるように見えた。汗をかいているように見えた。苦しんで苦しんで、さっき見た赤ん坊を産もうとしている。
チン、と、苦痛に見合わないほど間抜けな音を立てて光が突然消える。寂しい瞬間のように思う。母は電子レンジの蓋を開けて、暖まったマグカップを取り出す。
「はい、どうぞ」
私はマグカップを受け取り、中身を覗き込んだ。
溶けてしまった、死んでしまった赤ん坊。
私のホットミルクへのイメージはいつだってどす黒い赤だった。乳白色の底に真紅の臓器が溶け出している。赤ん坊の皮膚がカップの内側にべっとりと張り付いている。血液の味がするだろうか、乳臭い子供の味がするだろうか。そう思って、私は恐る恐るホットミルクを口に含む。けれどその味は優しい甘さで、私は安心して眠ることができる。
そうだ、ホットミルクを飲もう。夜に台所に立つというのは案外骨の折れる作業だと思う。私は二度目の決意でようやく台所に入った。
入ってすぐ、私は立ち止まった。
大きな肉塊が落ちている。
それは妙な液体に絡めとられていて、異臭を放っていた。
その奇妙さに怯えながら、私は肉塊に近づいた。
台所の窓が、あの胡散臭い光を取り込んでいる。
肉塊に手を伸ばす。指先の震えが全身に伝わった時、肉塊に手が触れた。
粘土をパラフィン紙で包んだような、気色の悪い触り心地だった。指先には蜂蜜色の液体がべっとりと張り付いた。
私はガクガクと震えながら冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出した。今すぐにでもホットミルクを飲まなければという気がした。
牛乳の賞味期限はとっくにきれてしまっているが、構わずマグカップを取り出した。マグカップの底には汚らしく茶渋がこびりついている。蜂蜜の瓶を探すと、大量に積まれたレシピ本の横で埃を被っていた。スプーンを突っ込むと、ところどころ固形になってしまっていて、瓶には黴が生えている。
全て混ぜ合わせると、濁った色の液体が出来上がった。濁った液体同士が混ざり合う時に、胎児の姿は見えなかった。どうしようもなく胸が痛くなった。私は胸に手を当てながら、電子レンジにマグカップを入れた。
きっかり2分。電子レンジは弱々強い光を漏らしながら、苦痛の叫び声をあげた。
マグカップを取り出して、中身を覗き込む。薄汚い色をしていて、気色の悪いダマが私を睨みつけている。
恐怖のあまり、マグカップを放り投げた。ホットミルクは肉塊にかかった。
私は震えながら、肉塊を口に含んだ。それは幼い頃に感じた、溶けた胎児の味がした。血液と乳臭さが混ざり合い混沌としている。
私は泣き叫びながら肉塊を食べ続けた。食べ続けているうちに、私の体は汗と肉塊の汚れでどろどろになっていく。羊水に包まれた大きな赤ん坊のようだった。この世で生きていかねばと大きな産声を上げるのに、胡散臭い光の砂糖が私の肺を砂糖まみれにしてしまう。
全てが煩わしい。煩わしい。
生まれたばかりの無力な私は、天井にぶら下がるちぎれた荒縄を見つめることしかできない。それは子供用のモービルのようにひとりでに揺れていた。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
なお、スピンオフもございます。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる